フランシスコ・フランコとフランコ政権|スペイン独裁者の生涯と秘密

フランシスコ・フランコについて、その生涯と秘密を見ていきます。長期政権となったフランコ政権時代のスペインで、独裁者として君臨した人物について解説していきます。

イザベル1世やフェルナンド2世、他にもガウディやパブロ・ピカソなど、スペインの歴史の中では世界的に名前が知られている人物が多く生まれてきました。

しかし、中には悪い意味で名前が知らている悪名高い人物もいます。

フランシスコ・フランコはその一人で、スペイン内戦でナショナリスト軍を指揮して勝利し、その後、36年にも及ぶフランコ政権による独裁時代の到来を告げました。

スペインの独裁者フランシスコ・フランコとはどのような人物だったのか?

その生涯と秘密を見ていきます。

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フランシスコ・フランコとは?

フランシスコ・フランコ(全名:フランシスコ・フランコ・バアモンデ, 1892〜1975)とは、スペインの軍人であり政治家だった人物。

1936年7月17日から1939年4月1日までスペイン国内で発生した「スペイン内戦」において、右派(ナショナリスト派)の反乱軍を指揮して、左派の人民戦線政府と対峙。

その過程で1936年10月1日には、反乱軍の総司令官に指名されただけでなく、一方的な国家元首に就任し、その後、右派側が内戦に勝利したため、スペイン内戦が終了した1939年から亡くなるまでのおよそ36年の間、「終身元首」として、スペインの正式な国家元首の座に居続けました

フランコ政権時代のスペインは、フランコが内戦中に組織したファランへ党の一党独裁となり、また、軍や憲兵隊を使って厳しい統制を行うなど、フランコは権力を掌握し続けたのです。

また、フランコ政権下では、報道の自由は抑圧され、多くの汚職が存在していたにも関わらず、そのほとんどは権力でもみ消されるといったことが日常的に起こっていました。

このようなことから、フランシスコ・フランコは、スペインの歴史上の人物の中でも独裁者として知られています。

フランシスコ・フランコの生涯と人生

生い立ち

フランシスコ・フランコ・バアモンデは1892年12月4日、スペイン北西部に位置する海岸沿いの小さな、造船と海軍基地で知られていた町フェロルに生まれました。

(出典:wikipedia

フランコの父親と祖父はともにスペイン海軍に従軍した経験があり、フランコも幼いころから海軍に入る夢を抱いていました(※家族は6代にわたって海軍将校を務めた)

しかし、米西戦争の後、スペインは海軍の大半を失って海軍士官学校を閉鎖。

他に選択肢のなかったフランコは、仕方なくスペイン陸軍に入隊してトレドの陸軍士官学校に入学します。

そして1910年、少尉として卒業しました。

初期のキャリア

19世紀後半、スペインとフランスはともにモロッコを植民地化し、スペインはその海岸線とサハラ地域の一部で実権を握りました。

これに対して、山間部であるリーフ地方のベルベル人達は、スペインの支配に抵抗して反乱を起こします。

そして、このことを聞いたフランコは反乱を鎮圧する部隊に志願し、そしてモロッコに派遣されました。

ベルベル人のゲリラ兵士が取った作戦は、無慈悲で容赦ないもので、戦いは非常に危険なものだったと言います。

実際、フランコも23歳の時に腹部を撃たれて瀕死の重傷を負っています。

(出典:wikipedia

しかし、フランコはスペインに戻って回復した後、再びアフリカに赴いて戦いを継続。

この功績が認められ、1926年にモロッコを去る頃にフランコは、33歳の若さで陸軍少佐に昇進していました。

右派として知られたフランコの新たな運命

王政打倒から始まったフランコの数奇な運命

1931年、スペインでは王政が打倒されて第二共和政が樹立し、国内は政治的・経済的な大混乱に陥ります

そして、フランコは長年王党派(右派)だったため、新しい左派政権によって降格されてしまいます。

しかし1934年、スペインの情勢は再度転換し、今度は右派が内閣を成立させて力を握り、これによってフランコは少将に昇進し、さらに翌年5月には陸軍参謀総長に任命されました。

スペインでの大混乱は続いて国内政治は二分された

その後も内政不安は続き、結果として2つの党派がスペイン国内に成立。

  • 保守的な右派の「ナショナリスト
  • 左派の「人民戦線(共和派)」

です。

そして1936年、人民戦線が統一選挙で勝利しますが、2つの党派の争いは続き、スペイン国内はほぼ無政府状態となり、国が二つに分断する危機が一層高まります

スペインの経済・政治体制が崩壊寸前であることを悟ったフランコは、今まで貫いていた中立と不干渉の姿勢を崩し、非常事態宣言を発することを人民戦線政府に懇願。

しかし、このフランコの要求が拒否されただけでなく、右派として知られていたフランコは参謀総長の任を解かれ、遠く離れたカナリア諸島に左遷されてしまったのです。

スペイン内戦の勃発

この孤立した地で、フランコは公式にナショナリスト派の一因となりました。

(出典:wikipedia

1936年の夏、人民戦線に対する軍事クーデターが本格的に始まります。

モロッコに戻ったフランコは、植民地における権力を握って現地の駐屯部隊の指導者となり、その直後、ナショナリスト派はドイツとイタリアの支援を受けてスペイン本土に攻撃を開始。

1936年10月1日、軍事的な才能を認められたフランコは、ヒトラーとムッソリーニの多大な支持を盾にしてナショナリスト派の正式な指導者に就任すると同時に、一方的に「国家元首」を宣言したのです。

権力を掌握していったフランコですが、激しい内戦はそれから約3年間も続き、その中では実権を握ろうと数多くの残虐行為が繰り返されました(左派側も同様に残虐行為を繰り返した)。

そして1939年、ようやく内戦が公式に終了。

スペインは勝利したナショナリスト派の下で統一され、フランコは正式な国家元首となったのです。

独裁者フランシスコ・フランコとその国家運営

分裂して荒廃したスペインの指導者となったフランコは、反対勢力を投獄したり処刑したりといったことを繰り返す暴力的な政治を開始します。

(出典:wikipedia

一方で、フランコが正式なスペインの国家元首となった直後、第二次世界大戦が勃発。

ここでヒトラーは、スペインの参戦を要求しました。

しかし、これに対してフランコは、正式にドイツが属する枢軸国側に加盟する前にヒトラーへ交渉を持ち掛け、見返りとしてスペインに対する経済的・軍事的な援助を求めます。

この要求に対してヒトラーが拒否したため、結果的にスペインは枢軸国側に加盟せず、第二次世界大戦中は中立を保つことが出来ました。

また、フランコは堅実なカトリック教徒で、現代において失われつつあった伝統的な価値観を再建しようと奔走したことでも知られます。

さらに、彼は非常に強い自信を持っていた人物で、国民からの支持が得られない時でも、決して自分の信念や価値観を曲げることはしませんでした。

フランシスコ・フランコの晩年

1950年代、そして1960年代になると、フランコは保守的な姿勢を若干緩め、年を取るにつれ少しずつ議会に権力を委譲するようになりました。

また、将来への備えとして、フランコは公爵フアン・カルロスを後継者に任命します。

そして長い闘病の末、フランコは1975年に亡くなったのです。

それからしばらくして、フアン・カルロスは民主的な立憲君主制を導入。これが現在のスペインの政治体制の始まりとなりました。

スペインの独裁者フランシスコ・フランコに関する知られざる6つの話

フランシスコ・フランコの生涯を見てきましたが、ここからは彼に関するあまり知られていない6つの話を紹介していきます。

時間を遅らせた

第二次世界大戦の最中、フランシスコ・フランコはナチスと結束して、スペインの時計を1時間遅らせました。

これは、ナチスドイツが属する中央ヨーロッパ時間に合わせるというのが目的です。

そして、これ以降、時間が元に戻されることはなく、現在でも変更された時間が採用されています。

本来ならスペインは、ロンドンやリスボンと同じグリニッジ標準時に属するはずですが、この歴史によって、実際とは違うタイムゾーンの時間が表示されているのです。

そのためスペインの朝は暗く、夜は明るくなり、これが、スペイン名物の遅い時間帯の食事習慣に寄与することとなったという見方もあります。

フランコ政権時代の後半では急速な経済成長が実現した

第二次世界大戦後のスペインでは、一国内での自給経済を目指す閉鎖経済の政策が採られていたため、1950年代までは経済的に困窮していました。

しかし、閉鎖経済の政策が廃止されると一転、1960年代にスペインは、「スペインの奇跡」と呼ばれる、日本に次いで世界で2番目に急速な経済成長を遂げたのです。

これは、事実上規制が存在しないこと、税金の低さ、労働賃金の安さ、そしてストライキを禁止していたことから、海外資本や企業がスペインに入ってきたというのが大きな理由です。

また、この経済発展は地方にも波及していき、1960年代には、それまで活気のなかった漁村のベニドルムが、近代的なパッケージツアーを提供し始めた初の場所となり、外国人観光客が集団で訪れるようになっていきました。

フランコの睾丸の秘密

フランシスコ・フランコにまつわる話しとして、彼の睾丸に関する話が残っています。

(出典:wikipedia

男性の睾丸は通常2つ付いているのに対して、フランシスコ・フランコの睾丸は1つしかなかったと言うのです。

これは、1916年にアフリカ大陸北部のスペイン領、セウタ近くのエル・ビウツでの戦いで下腹部を負傷した際、睾丸を1つ失ったというのが理由とされます。

フランコは自分には睾丸が1つしかないことを祖父に打ち明け、このことが生殖能力に影響するのではないかと心配していたらしいのです。

ただし、フランコと妻の間にはその後、マリア・デル・カルメンという娘が生まれています。

地方言語を禁止した

極右の国家主義、または全体主義的な政治思想であるファシズムに影響を受けていたとされるフランシス・フランコの政権下では、文化的な多様性は歓迎されませんでした

そして、この全体主義的な政治を推し進めるため、フランコ政権はほぼ全てのスペインにおける地方言語(少数言語)、例えば、バスク語、カタルーニャ語、そして、(自分の出身地方の言語であった)ガリシア語までをも厳しく制限したのです。

また、新生児に地方の名前を付けること、学校で地方言語を教えることを禁じ、公式な取引は全てスペイン語で行うよう規定しました。

闘牛とフランメンコ

全体主義的な思想を持つフランシスコ・フランコは、団結したスペイン国家の構想を強く促進したいと考えており、一つの武器として、スペインを象徴する2つの奨励していきました。

その2つの少々とは「闘牛」と「フラメンコ」。

中でもフラメンコは、実は非常に地方色の強いものでしたが、フラメンコという共通項を切り出していくことで地方もまとめ、一つの共通したスペインというナショナルアイデンティティを作っていこうとしたのです。

これら2つは、今日もスペインを象徴するシンボルとなっています。

フランシスコ・フランコが眠る場所の秘密

フランシスコ・フランコはスペイン内戦で亡くなった兵士を讃えるため、マドリード北部に「戦没者の谷」と呼ばれる慰霊施設を建設しました。

そして、フランコが亡くなると、彼の遺体もここに埋葬され、マドリッド北部の山腹に現れる巨大なバシリカ(大聖堂)と十字架は、フランコ自身のシンボルであるとして知られるようになったのです。

一方でこの場所は、フランコ支配時代の名残であるだけでなく、スペインが戦争と独裁政権に苦しんだ暗黒の日々を彷彿とさせるとして、論争が続いており、また不気味な象徴として現在も存在し続けています。

ちなみに、この戦没者の谷には、およそ4万人ほどの遺体が埋葬されておいると言われますが、唯一内戦で命を落としていないのは、フランコ一人だけだとされます。

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フランシスコ・フランコとフランコ政権|スペイン独裁者の生涯と秘密のまとめ

スペインの独裁者フランシスコ・フランコの生涯と秘密を見てきました。

指導者としてのフランシスコ・フランコをどう評価するかは、議論が大きく分かれるところです。

軍事クーデターと激しい内戦を経てフランコはスペインの指導権を握り、35年間にもわたって独裁政治を続けました。

また彼は、異なる意見を持つものを認めず、自らの権力を維持するために暴力をもいとわない抑圧的な姿勢を貫きました

一方で、実は第二次世界大戦中にユダヤ人をスペインを通して安全な地に逃げる手助けをするなど、人道的な側面も見せています。

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