エルナンコルテスの生涯|アステカ帝国滅亡を導いたコンキスタドール

エルナン・コルテスの生涯や人生について確認していきましょう。アステカ帝国の滅亡を導いた張本人とされるコンキスタドールです。

西暦15世紀頃、現在のメキシコ中央部に当たる土地にはかつて、アステカ帝国と呼ばれる国家が存在していました。

しかし、このアステカ帝国はスペインの侵略によって完膚なきまでに打ち砕かれ、滅亡してしまったのです。

このアステカ帝国の滅亡を引き起こした重宝人とも言えるのが、エルナン・コルテスと呼ばれるスペインのコンキスタドールで、良くも悪くもメキシコやスペインの歴史だけでなく、世界史に登場する有名人の一人となっています。

この記事では、そんなエルナン・コルテスの生涯や人生について詳しく見ていき、また後半ではアステカ帝国征服においてコルテスに起きた幸運についても触れていきます。

まずは、エルナン・コルテスの簡単なプロフィールを確認することから始めていきましょう。

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エルナン・コルテスとは?

エルナン・コルテス(1485~1547年12月2日)、全名エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサロは、スペイン出身のアメリカ大陸探検者であり征服者である「コンキスタドール」。

コルテスは1519年、メキシコ中部に位置していたアステカ帝国を暴力的に占領し、最終的に滅ぼした人物として知られています。

コルテス率いるたった600人のスペイン兵が、何十万人規模のアステカ戦士を打ち負かして巨大なアステカ帝国を支配したのです。

これは、コルテスの冷血さ、悪知恵、暴力、そして多少の運の良さがあったからでした。

このようにコルテスは良くも悪くも、その後の世界史を大きく塗り替えたことで知られ、祖国スペインでは、1,000ペセタ紙幣の表面に肖像画が描かれていたこともありましたが、現在では多くの原住民に対して大量虐殺を行った人物として批判される傾向にあります。

エルナン・コルテスの生涯と人生

生い立ち

エルナン・コルテスは、後にコンキスタドールとなる多くのスペイン人と同じく、カスティーリャ王国(注)のエストレマドゥーラ州の街メデジンで、マルティン・コルテス・デ・モンロイという名前の父と、ドーニャ・カタリーナ・ピサロ・アルタマリーノという名前の母の下に生まれました。

コルテスは権威ある軍人の家系の生まれでしたが、幼少期は非常に病弱だったとの記録が残っています。

  • 注釈1:カスティーリャ王国とは、中世ヨーロッパ、イベリア半島中央部にあった王国。キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国成立においては中核となった国。

大学を中退して「探検」にのめり込んでいく

大学への入学を迎える年齢になると、コルテスは法律家になるためにサラマンカ大学に入学しましたがすぐに中退。

その代わりに興味を持ったのが「探検」でした。

この頃、摩訶不思議な新世界(注)に関する噂がスペイン中に広がり、多くの若者を魅了しましたが、コルテスもそのような若者の一人だったのです。

結果としてコルテスは一獲千金を夢見て、18歳で西インド諸島(南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域にある群島)のイスパニョーラ島に渡りました。

  • 注釈:大航海時代に欧州人が新たに発見した土地に対する呼称

エルナン・コルテスの新大陸での人生が始まった

イスパニョーラ島

大学こそ中退したものの、当時の人々の中でコルテスは、比較的しっかりとした教育を受けており、また家族のコネもあったため、1504年にイスパニョーラ島に到着してすぐ、公証人としての仕事に就くことができました。

またイスパニョーラ土地の一部と、すでにそこで奴隷として扱われていた多くの原住民達があてがわれました。

さらに、成長して貧弱だった体質も治っていたことから、この頃同時にコルテスは、軍人になるための訓練を受け、その結果としてイスパニョーラ島全土を占領する作戦にも参加。

ここで彼は、

  • 才能あるリーダー
  • 頭の良い管理者
  • 恐れを知らぬ軍人

として名を馳せるようになります。

コルテスの噂は、クリストファー・コロンブスの船団の一員としてコンキスタドールの先陣を切っていたディエゴ・ベラスケスの耳にも届き、ベラスケスはキューバ遠征のお供としてコルテスを抜擢しました。

キューバ

ベラスケスは300人の兵士と3つの船でキューバ島占領に乗り出しました。

その中には若きコルテス、そして後にコンキスタドールの残虐性を暴き、スペインの植民地主義に反対することとなるバルトロメ・デ・ラス・カサスも含まれていました。

キューバ占領は非常に残虐なものだったと言います。

原住民の大量虐殺が行われ、また現地の酋長ハトゥエイは生きたまま焼かれたのです。

一方でコルテスは、スペイン側にとっては軍人そしてリーダーとして優れた功績を残し、スペイン植民地キューバの新しい首都サンティアーゴの市長に任命されたりと、その影響力を拡大していきました。

テノチティトラン

1517年と1518年にスペイン勢は、メキシコ本土を占領する作戦を2度展開しましたが共に失敗。

苛立ったコルテスは1519年、自らメキシコに向かうことを決意します。

そしてついにコルテスは、「16頭の馬と15台の大砲と共に600人の兵士を率いて、強大な軍隊を誇るアステカ帝国の占領する」という、歴史上もっとも大胆な作戦に出発したのです。

メキシコ本土に上陸したコルテスは、アステカの首都「テノチティトラン」に向かいます。

その途中で彼は、アステカ帝国の衛星国を打ち負かし、彼ら原住民の多くを自らの側につけて勢力を拡大していき、結局、戦闘も無しにテノチティトランを占領しました。

ベラスケスとコルテスの緊張から始まったアステカ帝国滅亡

この時、キューバの知事となっていたベラスケスは、占領したアステカの指導者としてパンフィロ・デ・ナルバエスという人物を任命して送り込みます。

実は、キューバ時代には同胞として一緒に戦ったベラスケスとコルテスでしたが、時が経つうちに二人の関係は緊張状態へと変化していたのです。

しかし、コルテスはナルバエスを打ち負かし、ナルバエスの軍をコルテス側に寝返らせることに成功。

そしてコルテスは自らの軍とナルバエスの部下達と一緒にテノチティトランへ戻りますが、そこは大混乱に陥っていました。

アルバラード達によって引き起こされた虐殺

ナルバエスと対峙するために遠征を決めたコルテスは、その不在中のテノチティトランの管理者として、ペドロ・デ・アルバラードという人物を任命していました。

しかし、コルテスの不在中、アルバラドは貴族を中心に祭典中のアステカ人達の虐殺を命じ、これによって大混乱が起きていたのです。

これに困ったコルテスは、アステカ皇帝のモクテスマ2世に頼んで国民の怒りを鎮めようとしましたが失敗。モクテスマ2世は殺されてしまいました。

さらに、怒りに燃えた国民は暴徒化してテノチティトランからスペイン勢を追い出し、この時にはスペイン側にも1000人を超える犠牲者が出たと言います。

また、この1920年6月に起きた出来事は後に、「ノーチェ・トリステ(悲しき夜)」と呼ばれるようになりました。

完膚なきまでにアステカを粉砕して滅亡させたコルテス

スペイン人が撤退してから、アステカの人々は新しい王「クイトラワック」を選出して一時は団結しましたが、それから3ヶ月もしない10月にクイトラワックは、スペイン人によってもたらされた天然痘によって死亡してしまいます。

そのため、クアウテモックという人物が新たに王として選ばれますが、天然痘の蔓延と疲弊したアステカ帝国にとっては焼け石に水でした。

1521年のはじめには大規模なスペイン軍(5万近いスペイン兵と原住民の連合軍)が、コルテスによって再編成され、4月後半にはテノチティトランは完全に包囲されてしまいます。

その後、3ヶ月近い攻防が続きましたが、8月にはテノチティトランが陥落し、コルテスは事実上のアステカの支配者となっていったのです。

また、この時を境にコルテスは、アステカ人が再び反乱しないようにアステカ文明を完膚なきまでに破壊していったと言われます。

総督の座に就いたエルナン・コルテス

1521年から1528年にかけて、コルテスはヌエバ・エスパーニャ(今日のメキシコ)の総督となりました。

スペイン政府は本土から役人や物資を送り、コルテスは都市の再建や本土の探索を指揮したのです。

しかしコルテスには政敵が多く、また彼はしばしば国王の命令に反することをしたため、スペインは次第にコルテスを嫌うようになりました。

そのようなこともあり1528年、コルテスはスペインに呼び戻されます(※スペインへ戻ることで、コルテス自身は自らの影響力をもっと拡大出来ると考えていたらしい)

しかし、本土の反応は彼の期待していたものではありませんでした。

コルテスは貴族の称号を与えられ、新世界で最も豊かな土地バジェ・デ・オアハカの侯爵になったものの、ヌエバ・エスパーニャ総督の地位は追われ、以降、新世界において巨大な権力を持つことは出来なくなってしまいました。

エルナン・コルテスの晩年

年をとってからも、コルテスは冒険の精神を忘れることはありませんでした。

莫大な富を築いていたこともあり、1530年代後半、彼は自費でカリフォルニア半島に旅し、1541年にはアルジェ遠征に参加。

それが失敗すると、コルテスはメキシコに戻って生活することを夢見るようになります。

しかし1547年12月2日、メキシコへ戻る夢を叶えることなく、スペインのセビーリャ近くのカスティリェハ・デ・ラ・クエスタにて胸膜炎で亡くなりました。

享年62歳でした。

エルナン・コルテスの生涯年表

  • 1485年
    • スペインのメデジンに生まれる
  • 1504年
    • 新世界へ旅する
  • 1511年
    • スペインのキューバ占領作戦に参加
    • キューバ知事ディエゴ・ベラスケスの秘書となる
  • 1518年
    • キューバの首都サンティアゴの市長となる
  • 1519年
    • コルテスはメキシコに向かい、アステカ帝国の占領を試みる
    • アステカ帝国に対抗するためにいくつかの小部族と同盟を組む
  • 1520年
    • 初めてアステカの首都テノチティトランに向かう
    • アステカの皇帝モクテスマを捕らえる
    • その後モクテスマは殺されてしまい、スペイン勢は反乱によってテノチティトランを追われる
  • 1521年
    • スペイン人がもたらした天然痘によって、アステカ人の多くが亡くなる
    • コルテスはテノチティトランを占領
    • その廃墟の上にメキシコシティを設立する
  • 1523年
    • ヌエバ・エスパーニャ総督に任命される
  • 1528年
    • スペイン国王によって左遷される
  • 1535年
    • カリフォルニアを発見する
  • 1541年
    • スペインに帰国する
  • 1547年
    • スペインのセビーリャで亡くなる

エルナン・コルテスがアステカ帝国を占領出来たのは運が良かったというのもある

エルナン・コルテスの生涯についてダイジェストで見てきましたが、最後に、コルテスによるアステカ帝国占領について見ていきたいと思います。

というのも、この歴史的な大事件はコルテスの実力によって引き起こされたかのように語られますが、実はかなりの部分で運が大きく影響したと言えるからです。

牧師ジェロニモ・デ・アギラールの存在

(アギラール)

まず、コルテスはたまたま、数年前に船が難破してメキシコで暮らしていたスペイン人の牧師ジェロニモ・デ・アギラールに出会いました。

アギラルはマヤ語を話すことが出来た、当時としては珍しい人物だったのです。

コルテスはアギラール、そして妾(めかけ)のマリンチェ(マヤ語とナワトル語を話すことができた)のおかげで、占領時に原住民とコミュニケーションを取ることが出来、彼らをスペイン軍側へ組み込ませる上で大いに役立ったのです。

嫌われていたアステカ帝国

また、アステカの衛星国においてもコルテスは幸運に恵まれました。

これらの国々は表面上はアステカ帝国に忠誠を誓っていましたが、内心ではアステカの支配を嫌っていたのです。

コルテスはこれにつけこみ、彼らの味方につけることが出来、アステカ軍に対峙するだけの戦力を得たのです。

指導者としては弱かったモクテスマ2世

モクテスマ2世, 出典:wikipedia

さらに、皇帝モクテスマ2世があまり強い指導者ではなかったことも、コルテスにとってはありがたいことでした。

特に、「モクテスマが常に占いに頼って決定を下していた」という点は、幸運の極まりだったと言えるでしょう。

占いに対して強い信仰心を持っていたモクテスマは、コルテスが神ケツァルコアトルの使者であると信じるようになり、対抗することもなく自ら帝国を譲り渡してしまったのです。

タイミングが良かったナルバエスの軍

そしてナルバエスの軍がちょうどよいタイミングで到着したことも、コルテスにとっては運のよいことでした。

ベラスケスはコルテスの力を弱め、キューバに呼び戻そうとしてナルバエスを送り込みましたが、コルテスはナルバエスを打ち負かし、彼の軍を自らの味方につけることが出来たのです。

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エルナンコルテスの生涯|アステカ帝国滅亡を導いたコンキスタドールのまとめ

アメリカ大陸にかつて存在したアステカ帝国を滅亡へ追いやり、現在につながる世界情勢構築の一旦を担ったエルナン・コルテスについて見てきました。

エルナン・コルテスの評価は立場によって分かれますが、世界史に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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