クメール人とはどのような人々なのでしょうか?主にカンボジアに暮らすクメール人達の特徴や概要から、世界史の中に刻まれる不運な出来事までを見ていきましょう。
東南アジアのインドシア半島南部に位置するカンボジア王国、通称「カンボジア」の人口の大多数はクメール人と呼ばれる人々です。
クメール人は1000年以上もの時間をかけてカンボジア文化を発展させてきた張本人達であり、カンボジアの歴史を語る上では欠かせません。
一方で、クメール人はまた、カンボジアの現代史において史上稀に見る最悪な出来事を経験してきました。
この記事では、クメール人についての理解を深めるために、彼らのいくつかの特徴を含めた概要を解説し、その後にカンボジアのクメール人に降りかかった、現代史における悲惨な出来事までを見ていこうと思います。
クメール人とは?
クメール人とは、カンボジア人口の大半となる90%以上を構成し、他にもタイの東南部、ラオス南部、およびベトナム南部のメコンデルタ地帯などにも住んでいる東南アジアの民族グループの1つ。
全世界にはおよそ1600〜1700万人のクメール人達がいるとされ、そのうちの1500万人強はカンボジアに住んでいます。
カンボジア人口の大多数派となるだけでなく、カンボジアに起源を持ち、かつて6世紀には後のクメール王朝(アンコール王朝)となる真臘(しんろう)を建設してカンボジア文化を築くなど、カンボジアでは非常に長い歴史を持ちます。
そして、彼らの大部分は米と魚を主食とする人口数百人の村に住むことから、クメール人は農耕民族として有名。
ただし、他の経済活動も歴史的に行ってきており、そこには織物、陶芸、金属加工等が含まれます。
クメール人の言語は「クメール語」
クメール人が話す言語は、「クメール語(カンボジア語)」。
これは、東南アジアからインド東部・バングラデシュに散在する言語の語族であるオーストロアジア語族のモン・クメール語派に属するクメール語で、カンボジアでは国語または公用語として制定され、また、他の地域に住むクメール人達の間でも日常的に使用されています。
そのためクメール語は、クメール人を特徴付ける要素の1つだと言えるかもしれません。
クメール人の宗教
かつて、クメール人達が築いたクメール王朝はインドの影響を受け、ヒンズー教と仏教を取り入れました(※同時に、クメールの芸術、文学および大衆的な科学的概念は、インド文化の影響を受けてきており、これらの表現に使用される語彙からも影響が垣間見れる)。
そのような背景に加えて、13世紀にはカンボジアが位置するインドシナ半島を上座部仏教が席巻したため、現在、クメール人の大半によって主に信仰される宗教は上座部仏教となっています。
クメール人の多くは、仏教寺院建立の支援、僧侶への供物の施し、僧院での学習などを通じて功徳を得られ、それに加えて涅槃への中道を目指すことで、人生における究極の平和を得られると考えているのです。
ただし、仏教以前に興った精霊信仰、邪悪な力を払うと信仰されている魔術、先祖崇拝など、土着の信仰も共存している点は、クメール人の宗教に関する1つの特徴でしょう。
カンボジアにおけるクメール人の辛い現代史と困難
クメール人の概要については大まかに理解出来たかと思いますが、ここからは、彼らの主な居住地であるカンボジアで起こってしまった辛い歴史と、それによって引き起こされた困難について触れておきたいと思います。
カンボジアのクメール人に関して知っておきたい歴史ダイジェスト
西暦6世紀に初期のクメール人王国「真臘(しんろう)」が建国されてから3世紀後の9世紀には、真臘の流れを受け継ぐクメール人の王国「クメール王朝(アンコール王朝)」が建国されました。
13世紀まで栄えたクメール王朝は、現在のラオス、タイ、カンボジア、およびベトナム南部に及ぶ地域に広がっており、この勢力は、タイ人およびベトナム人に征服されるまで続きました。
それから数百年が経ち20世紀に入ると、カンボジアはアメリカの爆撃とベトナム人の侵略に苦しみ、国は混乱に陥っていきました。
さらに、これらの出来事に加えて当時の政府と、ポルポト率いる反政府の共産主義政党「クメール・ルージュ」の間で内戦が勃発。
国は1975年までにクメール・ルージュの手に落ちた結果、ポルポトの独裁政権が誕生。
この政権が続いた1979年までのたった4年の間に、当時のカンボジア人口の1/5から1/4(最大で300万人)が殺害されたカンボジア虐殺が起ったのです。
この事件の中では、カンボジアの大多数派であるクメール人が多く殺害されました。
クメール・ルージュ支配下における悲惨な生活
完璧な農業社会を理想に掲げたクメールルージュは、都市部の人口を減らすという理由で、300万人もの人々に対して田園部での強制労働を強い、結果、飢餓のために100万を超える人々が死に追いやられました。
また、通貨、宗教、教育は廃止。
さらに医療も禁じられ、読み書きのできる人々は、しばしば僻地の社会改革の理想の名のもとに大虐殺の対象となりました。
クメール人は、文化、伝統、技術の担い手となる知識人を多く失い、社会に深い傷跡が刻まれ、極端な隔たりが生まれることとなったのです。
そんな中、多くの人々はタイのある北部へと逃亡し、社会主義国家であるラオスに向かって涙の道をたどった人もいました。
しかし不幸なことに、運良く大虐殺が行われていた地域から逃れることが叶った人々の多くは、そこでも、衣類や住居、医療、食料を手にするのに大変な苦労をしました。
一部のクメール人は永住先を見つけることができましたが、他の人々は混みあった難民キャンプでの避難所生活を余儀なくされたのです。
農耕民族クメール人にとっての辛い現実
かつて、カンボジア住民の大半は、国土の3分の1を占める2つの主要河川とその支流に沿ったエリアに住んでいました。
肥沃な土壌ではありませんでしたが、雨期の度に平地が冠水し、この洪水のおかげで魚が大量に獲れ、水が引いた後は肥えた堆積層が残り、農業で生計を立てることが比較的容易だったのです。
しかしながら、爆撃、内戦、ベトナムとの戦争などにより、かつて豊かであった農業経済は大打撃を受け、さらに、埋められた多くの地雷によって1970年代以降、農民にとって田畑での作業は安全なものではなくなってしまいました。
実際、主に中部に暮らすクメール人の中には、これま地雷による被害を受けてきた人も多くいます。
ただし、それでも農村部に暮らすクメール人のほとんどは、未だに水田で稲作を続けており、最近ではゴムもまた、彼らにとって経済的に重要な一端を担っています。
男女比の歪みが生じている
クメール・ルージュの支配下にあったカンボジアでは女性よりも男性の方が多く殺害され、その結果、カンボジアに暮らすクメール人の間には「歪んだ男女比」が生じることとなりました。
そのため、今日のクメール人社会では、かつては男性が行っていた仕事を、必要に迫られて女性が行うことがよくあります。
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クメール人とは?その特徴や世界史に残る不運な出来事までを確認のまとめ
カンボジアの大多数派であるクメール人達について見てきました。
東南アジアに暮らす民族の1つクメール人は、カンボジアの文化や歴史を築き上げてきた張本人達である一方、現代史の中では悲惨な大虐殺に直面した人々なのです。