キュリー夫人の生涯と功績にまつわる10の話を見ていきます。マリー・キュリーは、多くの困難にもめげずに数々の功績を打ち立てた、偉大な歴史的女性です。
現代社会でこそ、男女平等や女性の社会進出が唱えられていますが、男尊女卑が当たり前で、女性の活躍がまだ困難であった時代に、多くの困難を乗り越えて人類史上稀に見る功績を立てた女性がいます。
その名もマリー・キュリー。一般的に「キュリー夫人」と呼ばれる、ポーランド出身の偉大な科学者です。
キュリー夫人の生涯と功績は如何なるものだったのか?
彼女の生涯と功績にまつわる10の話を見ていきたいと思います。
まずは、キュリー夫人について理解するために、彼女の簡単な紹介から初めていきましょう。
キュリー夫人とは?
マリー・キュリー(ポーランド語による本名:マリア・スクウォドフスカ=キュリー)、通称「キュリー夫人」とは、1867年11月7日にワルシャワで生まれ、亡くなる1934年7月4日まで、数々の功績を残したポーランド出身の女性物理学者で化学者。
放射能研究のパイオニアであり続け、1903年にはノーベル物理学賞を、そして1911年にはノーベル化学賞を受賞したことで知られます。
また、キュリー夫人は今日、世界中で知られていますが、それはノーベル賞を受賞した数々の画期的な発見のためだけでなく、当時、まだ女性に対しては厳しい時代に生きたのにも関わらず、女性に対するいくつもの差別を打ち破ったためでもあります。
例えば、キュリー夫人は、
- フランスの大学で博士号を取得した最初の女性であるとともに、
- パリ大学の教授となった最初の女性でもあり、
- さらに、ノーベル賞を受賞した最初の女性であるだけでなく、
- 二つの科学分野でノーベル賞を受賞した最初の人(男女を問わず)
だったのです。
このような功績から、2018年には、イギリスの歴史専門誌「BBCヒストリー」によって発表された「世界を変えた女性100人」の中で、マリー・キュリーは見事一位に輝きました。
キュリー夫人の生涯と功績10の話
1867年、現在のポーランドで生を受けたマリー・キュリーは、最も功績を残した科学者の1人となり、それら多くの功績が彼女の影響力を物語っています。
そんなキュリー夫人について知るためにも、彼女の生涯と功績に関する10の話を見ていきましょう。
教師の父と母の下に生まれたマリー・キュリー
マリア・スクウォドフスカはポーランド人の父と母の下に、5人の子供の末っ子として1867年11月7日に生まれました。
(出典:wikipedia)
父ブワディスカは元々、ロシアのペテルブルク大学で数学と物理の教鞭を取っていたほどの優秀な人物で、また母ブロニスワバも女学校の校長を務めるなど、二人とも優秀な教育関係者でした。
そのため、マリアの両親は勉学に重きを置き、娘たちを含め、5人の子供達全員が家庭および学校で質の高い教育を受けるべきだと考えていました。
そのかいもあり、マリアは1883年にギムナジウム(中等教育機関)を、非常に優秀な成績で卒業しています。
女性だったことが理由で男性のように大学で学ぶことができなかった
マリアは姉ブロニアとともにワルシャワ大学で学びたいと考えていました。
しかし、ギムナジウムを優秀な成績で卒業したにも関わらず、彼女には進学の道は開かれていませんでした。
そのため2人は、女子学生の入学を認めていたポーランドの教育組織「さまよえる大学」と呼ばれるフライング大学(ワルシャワ移動大学)の門戸を叩きます。
当時、女性が高等教育を受けることは法律で禁じられていたため、その名前にあるようにこの大学は、当局の摘発を逃れるために常に場所を変えていました。
その後、1891年の秋、パリに住む姉を頼ってフランスに渡ったマリアは、ソルボンヌ大学に入学し、屋根裏での貧乏生活をしながら勉学を続けたのです。
ちなみに、この頃からフランス語風な「マリー」と言う名前を使うようになっていきました。
夫ピエールとの結婚
学士号を獲得して大学を卒業してからマリーは、1894年の春に、将来の夫となるピエール・キュリーに出会います。
そして、二人はお互いに惹かれ合い、ピエールの熱烈なプロポーズが功を奏して1895年7月26日に結婚することとなりました。
その後、二人はパリのグラシエール通りのアパートで新生活を始めていきます。
掘っ建て小屋での研究活動
夫ピエールとマリーのキュリー夫妻は、共同で研究や実験を行っていくようになりました。
そして、世紀の発見に至る研究や実験を行なっていたのが、まさに「掘っ建て小屋」と言える暖房さえない粗末なもの。
この場所を訪問したドイツの科学者ヴィルヘルム・オストヴァルトは、「馬小屋とジャガイモ倉庫を足して2で割ったもの」と例えています。
実際、初めて夫妻の実験室を見せられたオストヴァルトは、「悪い冗談」だと思ったそう。
また、後にノーベル賞を受賞することとなったこの「掘っ建て小屋」での研究は、長時間の肉体労働を必要とするものだったと言われます。
新しい元素を見つけたことを証明するために、キュリー夫妻は鉱石をそれぞれの化学成分単位まで割って、時には大釜を1日中かき回し続けて沢山のサンプルを作らなければならなかったのに加え、「掘っ建て小屋」は、夏にはサウナのように暑く、冬には隙間風が通り、ガラス張りの屋根からは雨漏りがしたからです。
そして、この肉体労働で毎日ヘトヘトになっている時期に、マリー・キュリーは博士号取得を検討するようになっていきました。
キュリー夫人は2つの異なる分野でノーベル賞を受賞した
掘っ建て小屋での研究を進めていく中で、キュリー夫妻は、
- 1896年にアンリ・ベクレルが発見したばかりのウランの放射現象を追っていた
- この放射現象がウラン特有なのかそうでないのかに疑問を持った
- 80以上の元素を調べた結果、トリウムにも同じ放射現象を確認した
- 研究を続けると1898年には新しい元素「ポロニウム」と「ラジウム」を発見した
- またこの時、ラジウムの放射能の研究からα線、β線、γ線を発見した
など、数多くの発見してしていきます。
また、この過程でキュリー夫人は、いくつかの元素から発せられる放射を「放射能」と名付け、また、そのような現象を起こす元素を「放射性元素」と名付けたことで、現在一般に使われるこれらの用語の名付けの親となりました。
そして、キュリー夫人は夫のピエールと、ウランの放射現象を発見したフランスの物理学者アンリ・ベクレルと共に、1903年に放射能の発見の功績を認められてノーベル物理学賞を受賞。
女性初のノーベル賞受賞者となります。
それからさらに8年後の1911年には、ラジウムとポロニウムの発見と、ラジウムの性質及び化合物の研究成果が評価されてノーベル化学賞を受賞したことで、キュリー夫人はノーベル賞を2度受賞した史上初の人物となったのです。
ちなみに、夫ピエールは1906年に事故死してしまったため、夫妻でのダブル受賞は実現しませんでした。
初めはノーベル賞選考委員会から無視されたらしい
1度目のノーベル物理学賞を受賞するまでの過程において、キュリー夫人が知らないところで彼女は、女性差別の対象となっていたようです。
というのも、当時のヨーロッパ社会では男女差別が普通であったために、当初、マリーの貢献についてはおろか、彼女の名前すら言及されなかったらしいのです。
しかし、ノーベル賞受賞者の選考委員で、ストックホルム大学の数学教授だったヨースタ・ミッタク=レフラーが同情し、マリーの名前が除外されていることをピエールに手紙で報告。
それを知ったピエールは委員会に対して、自分とマリーが「放射性物質の研究において一体である」ことを考慮するよう書いて送りました。
その結果、公式な推薦文の文言が修正され、その年の後半にマリーは、自分自身の功績と夫そしてミッタク=レフラー教授の努力によって、女性として初めてノーベル賞を受賞したのです。
博士号を取得したキュリー夫人
1903年はキュリー夫人にとって、大変充実した年だったと言えるでしょう。
1度目のノーベル賞を受賞しただけでなく、同年の6月にはパリ大学の理学博士(DSc)を取得したからです。
そして、この博士号の受賞によってキュリー夫人は、フランスで博士号を受賞した初めての女性となりました。
ちなみに、ノーベル物理学賞を受賞することとなったキュリー夫人による放射性物質の研究は、本来、この博士号取得を目的に始められたと言われます。
人生最悪の時期にアインシュタインから励まされた
相対性理論で有名なアルバート・アインシュタインとキュリー夫人は、1911年、ブリュッセルで開かれた権威あるソルベー会議で出会いました。
招待された科学者しか参加できないこの会議には、世界中で物理学を牽引する24人の科学者が集い、キュリー夫人はその中でただ一人の女性。
そのことに加えて、キュリー夫人の科学者としての見識に感銘を受けたアルバート・アインシュタインは、その年の後半にキュリー夫人がスキャンダルに巻き込まれてメディアからの攻撃にさらされた時、キュリー夫人を擁護します。
この頃、フランスでは、性差別、外国人排斥、反ユダヤ主義が頂点に達していました。
まず、キュリー夫人のフランス科学アカデミーへの推薦が拒否されました。
すると多くの人は、キュリー夫人が女性であること、そして元はポーランド生まれの外国人であることがその理由だと考えました。
さらに、夫ピエールが亡くなった後のキュリー夫人は、「元同僚で既婚者ではあるものの妻と疎遠になっていたポール・ランジュバンと恋愛関係にあった」ことが明るみに出ます。
その結果、キュリー夫人は売国奴で家庭を壊す女との烙印を押され、自分自身の能力で功績を上げたのではなく、亡き夫の名声に乗っているだけだと非難されたのです。
そしてこれにより、二度目のノーベル賞の受賞が発表された直後だったにもかかわらず、選考委員会はスキャンダルに巻き込まれないように、キュリー夫人へ授賞式に出席しないよう求めるまでになり、個人としても科学者としても生活をかき乱された彼女は、重いうつ状態になってしまいます。
そしてこの頃、キュリー夫人はアインシュタインから手紙を受け取ります。
その手紙の中でアインシュタインは、
あなたの知性、力強さ、そして正直さを私がどれほど敬愛しているかを書かずにはいられません。そしてあなたと知り合うことができて、自分がどれほど幸運だと思っていることか
とキュリー夫人に対する敬愛の気持ちを書き、また、
あんなくだらないものは読まずに、ああいった類いのものを喜ぶ、くだらない人達にくれてやればいいんですよ
と、彼女を激しく攻撃する新聞記事を批判しました。
このアインシュタインの優しさが大きな励みになったこともあり、キュリー夫人はその後、勇気を持ってストックホルムへ出向いて授賞式へ参加し、二度目のノーベル賞を自ら受賞したのです。
移動可能なレントゲン機を作って自らも医療活動を行った
1914年から第一次世界大戦が始まると、キュリー夫人はドイツ軍のパリ占領に備えて、研究とラジウム研究所の開設を中断し、代わりにフランスを助けたいという気持ちもあってか、レンントゲンに興味を持つようになります。
この新しい技術は戦地で戦う兵士達のために役立つのではないかと考え、キュリー夫人はフランス政府に自らを赤十字放射線部門の責任者に任命するよう掛け合い、裕福な人達からカンパを募って移動式のレントゲン機(レントゲン設備を乗せた車両)を開発。
このレントゲン機は「プチ・キュリー」と呼ばれて20台が作られ、彼女自身もその一台に乗り込んで、各地にある野戦病院を周り、このX線装置を使って負傷兵の体内にある榴散弾や銃弾の位置を確認しながら取り除く手術を補佐したのです。
ちなみに、この活動によって数多くの兵士の命が救われたため、後にフランス政府は最高の栄誉であるレジオンドヌール勲章を授けようとしましたが、マリーはそれを辞退しています。
キュリー夫人は放射能の危険について無自覚だった
キュリー夫妻がラジウムを発見してから1世紀以上たった今日では、放射性物質は被曝リスクがあり危険であると、多くの人が周知しています。
しかし、キュリー夫妻が放射能の研究を始めた頃から1940年代まで、放射能による長短期的な健康被害について正しくは理解されていませんでした。
例えば、夫のピエールは放射能物質のサンプルをポケットに入れ、興味を持った相手にはその輝きと熱を示すのを好み、他にもガラス瓶に入れたラジウムをむき出しの腕に10時間も縛り付け、皮膚が痛むことなく火傷するのを観察していました。
さらに、マリーの方も、光を放つ豆電球のようなサンプルを、自分のベッドの横に置いて灯火の代わりにしていました。
また、キュリー夫妻はほぼ毎日、周りには様々な放射性物質が散らばっていた実験室で過ごしていたのです。
その結果、二人の手は震えるようになり、指にはひび割れや傷跡がいっぱいになったと言います。
そして、ピエールは事故死する数年前から体調不良を訴え、亡くなる直前には恒常的な痛みと疲労感に苦しみ、マリーも同様の症状を訴えており、放射能が原因かは定かではありませんが、進行した再生不良性貧血によって1934年に倒れました。
キュリー夫人のノートや指紋からは放射能が検知される
当時の放射能被曝のレベルを物語る話として、以下のようなものがあります。
- キュリー夫人が使っていたノートは100年経った今も放射性がある
- 鉛の箱に入れられて保管されているそのノートは、今後1500年間は放射性があると考えられている
- 実験室に残されたマリーの指紋から放射線が検知される
- 夫妻が当時使っていた道具や持ち物の中には現在でも強い放射能を出すものがある
娘や娘婿もノーベル賞を受賞:家族で5つのノーベル賞を受賞した
キュリー夫妻の間には、イレーヌとエーヴという二人の子供がいました。
(出典:wikipedia)
長女のイレーヌはパリで理学部に進学し、両親と同じ科学者の道を進むことになります。
1925年には博士号を取得して、母マリーとともに放射能の研究に携わるようになり、それからさらに10年後には、夫のフレデリック・ジョリオとともに、「人工放射性元素の研究」によりノーベル化学賞を受賞したのです。
一方のエーヴは、芸術家や作家として活動し、その後アメリカへ移住。
1954年には、ヘンリー・リチャードソン・ラブイス・ジュニアと言う男性と結婚しました。
そして、夫のヘンリー・ラブイスが事務局長だった1965年には、UNICEFがノーベル平和賞を受賞。
これによって、キュリー夫人の家族は、4つの直接的なノーベル賞受賞に加えて、間接的に1つのノーベル賞を受賞することとなり、合わせて5つのノーベル賞を受賞するノーベル賞一家となったのです。
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キュリー夫人の生涯と功績|マリーキュリーの偉大さを物語る10の話のまとめ
女性でありながら、女性には厳しい当時の社会においてさえ偉大な功績を残してきたキュリー夫人について見てきました。
ちなみに、第1次世界大戦後、キュリー夫人はパリとワルシャワに、科学の研究を行う研究センターの設立に奔走しました。
そしてこれら二つの機関はその後、「キュリー研究所」と知られるようになり、多くの重要な役割を果たしています。