クーデターの一覧|チリやイランなど歴史的軍事クーデター16選!

クーデターの一覧として、歴史上で起こった16の事例をまとめていきます。チリやイランで起きたものを始め、世界各国で起きた軍事クーデターの例を見ていきましょう。

クーデターは一般的に、武力によって政権が突然転覆されることで、通常は軍のような国家組織に属する人物によって引き起こされます。

大抵は現状の政権に満足出来ない不満が引き金となって起こり、成功した場合、軍事クーデターを首謀した人物本人が権力のトップに就くこともあれば、別の人間がその座に就くこともあります。

一方で、クーデター後の状況は、必ずしも全ての人にとって以前より好転するわけではありません。

中には、クーデターによってその後、長期の独裁政権が生まれてしまうことだってあるのです。

この記事では、そんな軍事クーデターに関して、歴史の中で起こった16の事例を一覧にして紹介していこうと思います。

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歴史的軍事クーデター1:十月革命

1917年に起こったロシア革命の二段階目にあたる十月革命は、ロシア帝国崩壊後に暫定的に作られたロシア臨時政府を打倒するため、ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)へ、労働者や兵士たちとともに、ウラジーミル・レーニン率いるボルシェヴィキが集結したことから始まりました。

クーデターの発端は、10月24日にボルシェヴィキの赤軍が政府庁舎を占拠し、翌日に臨時政府の置かれていた冬の宮殿を奪取したことでした。

これにより、1917年からソビエト連邦が成立した1922年までの間、ロシア国内では内戦が続いていくことになります。

歴史的軍事クーデター2:1936年イラククーデター

バクル・シドキクーデター」とも呼ばれる1936年10月29日に起こったクーデターは、近代イラクにおける初めての軍事クーデターであり、また、アラブ諸国においても初めて発生したクーデターでした。

イラクの軍人であったバクル・シドキが、当時の首相ヤーシーン・アル=ハーシミーを失脚させてヒクマト・スライマーンを首相の座につけ、シドキ自身が実質の実権を握ることを目的としたものでした。

軍を掌握し、防衛大臣であったジャアファル・アル=アスカリーを暗殺し、バグダッドに兵が進駐する中、アル=ハーシミーをイスタンブールへ追放したのです。

歴史的軍事クーデター3:1948年のチェコスロバキア政変

チェコスロバキア共産党 (KSC)は影響力が衰退していたことを受け、5月に行われる予定だった選挙を待たず、1948年2月にクーデターを起こし、これが後に1948年のチェコスロバキア政変二月事件と呼ばれるようになりました。

(出典:wikipedia

狙いは軍部にいた反共産勢力を一掃し、共産党政権を再び成立するために権力を復活させ、政治的安定を図ることでした。

チェコスロバキアはこのクーデターによって、1989年のビロード革命まで共産党による独裁政権が続きます。

またこの政変は、東欧に残っていた数少ない民主主義国家が消えた事件で、冷戦と深く結びつく出来事として人々の記憶に残っています。

歴史的軍事クーデター4:1952年エジプト革命

1952年7月23日、ムハンマド・ナギーブと、ガマール・アブドゥン=ナーセル率いる「自由将校団」が、ファールーク一世の打倒を掲げて革命を起こしました。

彼らは他にも、エジプトとスーダンの立憲君主制と貴族社会を廃止して共和国家を作り、イギリスによる統治を終わらせることを目指していました。

この軍事クーデターの成功は、他のアラブ諸国やアフリカ国家の革命の後押しとなり、スエズ運河の国有化にもつながります。

そして、ムハンマド・ナギーブはエジプト共和国の初代大統領に就任しました。

歴史的軍事クーデター5:1953年イランのクーデター

1951年にモハマド・モサデクがイランの首相に就任すると、すぐに彼は石油会社の国有化へ動き出し、さらにソビエト連邦に接近したことで、パフラヴィー朝イランの第2代皇帝(シャー)モハンマド・レザー・パフラヴィーとの対立が生まれました。

(出典:wikipedia

そして、1953年8月19日、パフラヴィー国王の支持者たちが大規模な反政府デモを起こすと、そこにイラン陸軍も加わってクーデターが起こり、モサデクは追放されて再び国王が権力を回復することになります。

一方で、このクーデターに関してはその後、機密文書によってイギリスとアメリカが関与していたことが判明します。

当時のイランの石油会社はイギリス資本が独占していたにも関わらず国有化の動きが始まったこと、さらに、ソ連へ接近する動きが米英を警戒させたのです。

歴史的軍事クーデター6:キューバ革命

1953年に始まったキューバ革命は、フィデル・カストロやチェ・ゲバラが中心となって起こした武装解放闘争のことで、カストロが描いた計画によって、アメリカの影響下にあったバティスタ政権を倒すのが目的でした。

1953年7月26日、ろくな武装もしていなかった160人の人間を率いたチェ・ゲバラが、サンティアゴのモンカダ兵舎とバヤモにある兵舎を攻撃したことで、革命が始まったと言われてます。

そして、1959年1月1日にこの軍事クーデターに成功した後、アメリカとの関係回復が不可能となった結果、当時のもう一つの大国ソ連に歩み寄り、キューバは社会主義国家となっていきました。

歴史的軍事クーデター7:1958年パキスタンクーデター

1958年にパキスタンで起きた軍事クーデターは、イスカンダル・ミルザー大統領が憲法を廃止して戒厳令を宣言した10月7日から、アユーブ・ハーン軍総司令官がミルザーを追放した10月27日までの一連の出来事を指します。

これは、パキスタンの歴史上で成功した初めての軍事クーデターです。

ミルザー大統領は憲法を廃止し、パキスタンの国民議会を解散して政党も禁止。さらにアユーブ・ハーンを軍の司令官に任命し、首相に推薦しました。

しかし、ミルザーは10月27日に大統領の座を辞すことを余儀なくされ、その後ロンドンに追放された結果、アユーブ・ハーンが大統領となって独裁政権を敷き、1969年までその地位に留まったのです。

歴史的軍事クーデター8:1962年ミャンマー軍事クーデター

1962年3月2日にネ・ウィン将軍と社会主義の革命評議会が軍事クーデターを起こし、ビルマ(ミャンマー)が単一政党国家に変わるきっかけを作ります。

これによって、26年間もの長きに渡ってビルマ社会主義計画党が軍事独裁政権となってしまう状況が生まれました。

海外メディアは「無血」クーデターとしていますが、革命評議会の初代大統領「サオ・シュエ・タイク」とその支持者は逮捕され、他の人たちは「姿を消して」います。

また、機動隊がデモをする人たちに発砲し、各大学は2年間閉鎖となりました。

歴史的軍事クーデター9:チリ・クーデター

1973年9月11日、当時の大統領であったサルバドール・アジェンデを失脚させることに失敗したクーデターのわずか3か月後、後に「チリ・クーデター」と呼ばれる事件が発生しました。

チリ軍の武力によって大統領は失脚させられ、その後、秘密警察によって暗殺されます。

一方、アウグスト・ピノチェト軍総司令官は、その状況を利用して権力を掌握し、反社会主義的軍事独裁政権を樹立。17年間も継続させました。

また、このクーデター発生後には3ヶ月間、組織だった「政治的虐殺」が行われ、何千人もの左派が「行方不明」となりました。

歴史的軍事クーデター10:1978年アフガニスタンの4月革命

アフガニスタン人民民主党(PDPA)が1978年4月28日、 ムハンマド・ダーウード大統領に対して起こした社会主義的軍事クーデターは、ペルシャ暦に基づいて「4月革命」と呼ばれています。

クーデターが起こった日はイスラム教にとって礼拝の日で、ほとんどの軍事指導者や政府関係者が休みを取る金曜日の前日、木曜日(27日)に始まるように仕組まれていました。

PDPAのハルク派は、空軍の支援を受けてカブールの宮殿に押しかけ、 大統領警護者、ダーウード大統領、そしてその家族を殺害したのです。

歴史的軍事クーデター11:1979年赤道ギニアのクーデター

1979年8月3日、自分の兄を含めた家族や親類の殺害命令を出し、気が狂ったような叔父を恐れたテオドロ・オビアン・ンゲマは、当時独裁者といて君臨した叔父のフランシスコ・マシアス・ンゲマを軍事クーデターによって失脚させます。

数々の残虐行為に対して有罪が確定したフランシスコ・マシアスは、1979年9月29日に銃殺刑に処されました。

その後はテオドロ・オビアンが大統領に就任して軍事政権を敷き、現在(2019年2月現在)までその地位に就ているなど、独裁状態を続けています。

歴史的軍事クーデター12:1980年スリナムクーデター

アフリカのスリナムで起きたこの軍事クーデターは、ヨハン・フェリエ大統領を失脚させた事件で、1980年2月20日に陸軍曹長のデシ・ボーターセ率いる将校16人が暴動を起こし、別名「将校のクーデター」と呼ばれることがあります。

結果的に、1982年には民主化運動を主導したとして15人が処刑されるなど、スリナムの社会主義化が進むこととなりました。

また、ボーターセは形ばかりの大統領を置き、1991年まで事実上の指導者として統治する軍事独裁政治の始まりとなりました。

ボーターセの独裁政権下では、報道の自由に対する制限、政治腐敗、公正な裁判に基づかない処刑などが行われ続けたのです。

歴史的軍事クーデター13:1989年スーダンのクーデター

1989年6月30日、スーダン軍のオマル・アル=バシール准将は、サディク・アル=マフディ首相の不安定な政府に対してクーデターを起こします。

このクーデターは最終的に「無血クーデター」として成功し、アル=バシールが自ら国家元首となりました。

その後、バシールが統治した22年間は、軍の上層部の粛清や処刑、政党結成の禁止、独立系新聞の禁止、ジャーナリストや政治家の投獄、民間人に対する爆撃や殺害を行なったため、10万人もの人が国を脱出することになり、国内で激しい対立を引き起こします。

結果、2003年に彼は、30万人の虐殺、戦争犯罪、数百万ドルもの横領に対して、国際犯罪裁判所に有罪判決を言い渡されました。

歴史的軍事クーデター14:1991-1992年ジョージアのクーデター

ジョージア(グルジア)の当時の大統領ガムサフルディアの敷いた独裁政治に対して、国内で反発が起こったことで始まったグルジア内戦の中では、1991年12月22日から1992年から1月6日まで、激しい軍事クーデターも起きました。

1992年1月6日にガムサフルディア大統領がトビリシを脱出した結果、軍事評議会がグルジアを統治することになり、評議会議長に選ばれたシュワルナゼは、2003年まで最高権力者の地位に留まることとなりました。

このクーデターの中では、113人もの人命が奪われたと言われています。

歴史的軍事クーデター15:タイ軍事クーデター(2006)

タイは歴史の中で頻繁に軍事クーデターが起きてきた国として知られますが、2006年9月19日には、タイ王国軍がタクシン・チナワット首相に対するクーデターを起こしました。

これによってタクシン・チナワットはロンドンへ亡命し、15年ぶりの憲法に基づかない政権交代となります。

また、このクーデターによってそれまで大きな影響力を持っていたタクシン派も一掃されることとなりました。

一方で、黒幕として陸軍大将であるプレーム・ティンスーラーノンの名前が上がり、彼がこのクーデターを企て、将校たちにクーデターに参加するよう150万バーツの賄賂を渡したなどの疑惑が持ち上がりました。

これにより、軍部は予定されていた選挙を中止に加え、憲法を停止、メディアの検閲、あらゆる抗議運動を禁止、そして全国に戒厳令を敷くなどしています。

歴史的軍事クーデター16:マリ軍事クーデター(2012)

1960年に独立して以来、マリ共和国ではトゥアレグ族による反政府闘争が続いていました。

そして、2012年の1月から再びトゥアレグ族による反乱が起こますが、これに対するアマドゥ・トゥマニ・トゥーレ大統領の対応に不満を持ち、「民主主義制定のための全国委員会」を発足させたマリ兵士らが軍事クーデターを起こしたのです。

このクーデターは2012年3月21日に始まり、首都のバマコを攻撃。大統領府、兵舎、国営放送局などを襲いました。

最終的に3月22日早朝、トゥーレ大統領は政権の座を追われ、アマドゥ・サノゴ大尉が権力を掌握してクーデターは終了。

その後、実権は国会議長であったディオンクンダ・トラオレに移され、トゥーレは4月8日に正式に大統領を辞任し、その4日後の4月12日に、トラオレが暫定大統領に就任することで決着しました。

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クーデターの一覧|チリやイランなど歴史的軍事クーデター16選!のまとめ

世界の歴史上で起こった軍事クーデターの数々を見てきました。クーデターは主に、国内が不安定な国で起こってきました。

そして、今回紹介した成功事例だけでなく、未遂または失敗事例までを含めると、実はさらに多くのクーデターがこれまでに企てられてきたのです。

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