五賢帝時代は、古代ローマが比較的平和だったパックスロマーナの中でも、特に良いとされる時期。その五賢帝時代とそれぞれの五賢帝について詳しく紹介していきます。
五賢帝時代は古代ローマの中でも最も平穏や安定をもたらし、しかもその時期が非常に長く続いたとされる時代。
パックスロマーナ(ローマの平和)と呼ばれる時期の中でも特に平和であり、それ以前のローマと比べると非常に安定していたため、世界史上でも評価の高い時代です。
また、名前からも分かる通り、その時代は5人の優れた皇帝「五賢帝」によって統治されていました。
五賢帝時代と五賢帝それぞれについて、詳しく見ていきたいと思います。
五賢帝時代と五賢帝とは?
紀元前27年にアウグストゥス(オクタヴィアヌス)が皇帝になり、帝政ローマが始まってから西暦180年までの206年間、ローマでは歴史上稀にみる平和な時代が訪れます。
このローマの平和と呼ばれる時代は「パックスロマーナ」と呼ばれますが、パックスロマーナの時代の中でも特に「五賢帝時代(五賢帝一人目のネルウァが皇帝の座についた西暦96年から5人目のマルクス・アウレリウスが死没する西暦180年まで)」と呼ばれる時期は、最も平和、安定、繁栄が訪れた時代でした。
五賢帝とは?
五賢帝(養子皇帝)とはローマ帝国のネルウァ=アントニヌス朝(Nerva-Antonine dynasty)時代に生きた皇帝たちの中でも、アウレリウス帝の共同皇帝であったルキウス帝と、アウレリウスの息子コンモドゥス帝を除いた五人の皇帝(五代続いた)のこと。
(出典:mocosubmit.com)
五賢帝時代の皇帝の地位は、それ以前の帝政ローマと異なり、世襲ではなく養子皇帝とも呼ばれることから分かる通り、養子縁組によって継承されたのが特徴です(最初のネルウァと最後のコンモドゥス帝は除く)。
(とは言え、それ以前のユリウス朝時代においても直系の実子による相続はなく、また、アウグストゥスがティベリウスを養子としたように、養子として引き取った人物が皇帝の座を継ぐことはあった。)
そして、その五賢帝とは次の五人を指します。
皇帝の名称 | 誕生 | 座位期間 | 死没 |
ネルウァ | 西暦30年11月8日 | 96~98年 | 98年1月27日 |
トラヤヌス | 西暦53年9月18日 | 98~117年 | 117年8月8日 |
ハドリアヌス | 西暦76年1月24日 | 117~138年 | 138年7月10日 |
アントニヌス・ピウス | 西暦86年9月19日 | 138~161年 | 161年3月7日 |
マルクス・アウレリウス | 西暦121年4月26日 | 161~180年 | 180年3月17日 |
繰り返しになりますが、五賢帝時代のローマ帝国は繁栄していました。
皇位継承は血縁関係が優先されて世襲統治になるという従来の仕組みを完全に排除した(またはせざるを得なかった)ことから、歴史上稀と言われるほど長期の安定が訪れたのです。
五賢帝それぞれをもっと詳しく見ていこう
ここからは、五賢帝の各人をさらに詳しく見ていきましょう。
五賢帝1人目:ネルウァ
ドミティアヌス帝(在位:西暦81~96年)が暗殺され、フラウィウス朝(ユリウス・クラウディウス朝の後に出来たフラウィウス氏族による王朝:西暦69~96年)の政権は短命に終わりました。
そして直ちに前執政官のネルウァ(Nerva)が即位します。
ネルウァは元老院議員の家柄出身であったため、内戦の拡大を防ぎたい元老院が彼を次期皇帝に指名したのが理由です。
けれどもネルウァの治世は長く続きませんでした(2年未満)。ドミティアヌス帝に対して忠誠心を持ち続ける近衛隊の一部の兵士がネルウァの命を脅かしたのです。
この出来事でネルウァは心底ショックを受けて隠遁生活に入ること決めましたが、自分に息子がいなかったため、属州上ゲルマニア総督のトラヤヌスを皇位継承者として養子に決めます。
その後、紀元98年1月28日にネルウァは熱病で死去してしまいました。
短期間ではあったがネルウァはローマの安定の基盤を整えた
ネルウァの治世は非常に短期間であったにも関わらず、ネルウァはローマ帝国を安定の時代へ導いた皇帝として知られます。
なかでも貧困層を救済する法律の制定や税制改革を行った点が、特に評価されています。
五賢帝2人目:トラヤヌス
西暦98年1月28日にネルウァが熱病で死去すると、トラヤヌスが皇帝に即位しました。
ここに五賢帝二人目、そして安定と繁栄の時代「五賢帝時代」の特徴である、初めての「養子皇帝」が誕生したのです。
トラヤヌスを養子として迎えたネルウァの選択は正しいものだったと言えるでしょう。
なぜなら、トラヤヌスはローマ帝国史上最も偉大な皇帝の1人になったから。
トラヤヌスはローマの道路、下水道、港湾の整備に力を注ぎ、さらに軍事作戦によって帝国の領土をアジアやヨーロッパに拡大します。
そして、トラヤヌスは稀に見る統率力によって、ローマ軍兵士や市民の心をつかむことに成功。
このことは、ダキア戦争の勝利を記念して建設された「トラヤヌスの記念柱」に敬意を表して描かれています。
また、トラヤヌスは元老院を尊重した点でも優秀。元老院の意見を軽視することが多かった、独裁的なユリアス帝とは正反対であったため、特に元老院からの支持を集めることが出来たのだと思います。
ローマ帝国史上最大の領土拡大を実現したが反乱も起こった
トラヤヌスはパルティア、アルメニア、メソポタミアに対して軍事作戦を展開するなど、積極的な領土拡大を行った結果、同時に、ユダヤ教徒による大規模な反乱が起こってしまいます。
そのため、ユダヤ教徒に対する残虐とも言える鎮圧を実行する必要性が出てしまったのです。
このユダヤ教徒に対する残虐な鎮圧は、唯一、トラヤヌスの「偉大な皇帝」という評判を損ねるものだと言えるかもしれません。
トラヤヌスは自ら軍事作戦を指揮してクテシフォンまで遠征し、パルティア帝国と闘い、その後、軍を撤退させてローマに帰還することにしましたが、帰還途中のキリキア(Cilicia)において脳卒中のため64歳で死去してしまいます。
五賢帝3人目:ハドリアヌス
トラヤヌスが死去した時、ハドリアヌスは属州シリアの総督でしたが、トラヤヌスが数年前にハドリアヌスを養子にしていたため、五賢帝3人目の皇帝の座につきます。
トラヤヌス時代にローマ帝国は史上最大の領土に広がったものの、東方の隣国パルティアとの紛争が収束していなかったため、ハドリアヌスはメソポタミア、アッシリア、アルメニアを放棄する守勢の外交政策を取り、東方国境の安定化を測ります。
その結果、エルサレムにローマ風の都市を建設しようとしたことで西暦130年に起こった大規模なユダヤ人の反乱以外、基本的にハドリアヌス帝の時代には、殆どの地域は安定し、繁栄していました。
一方で、ハドリアヌス帝の時代にはローマ帝国の領土拡大が停止したため、北部のピクト人やそれ以外のケルト族の脅威に対して国境を明確にする目的で、ハドリアヌスはかの有名な「ハドリアヌスの長城」を建設するように属州ブリタニアに命じます。
ハドリアヌスの長城によって越えてはならない国境が定められ、ハドリアヌス帝最大の評価とも言って良い、帝国領土の防衛強化がなされることになったのです。
また、国土が安定した結果、ローマ帝国全体の統合や平準化を促進するなどにも功績を残しています。
ハドリアヌス時代にすでに五賢帝5人目の皇帝は決まっていた
ちなみに、ハドリアヌスは心臓発作によって62才で死去しましたが、生前にアントニヌス・ピウスを養子にしています。
そして生前、将来はアントニヌス・ピウスの甥であるマルクス・アウレリウスと、ハドリアヌスが寵愛していた(ハドリアヌスは同性愛者だった)ルキウス・アエリウスの息子、ルキウス・ウェルスを後継者にするように遺言したため、この時すでにアントニウス・ピウス後の五賢帝も決まっていたと言えるのです。
五賢帝4人目:アントニヌス・ピウス
アントニヌス・ピウスの治世は五賢帝の中では最も長く、また、大きな出来事(事件)もなく、おおむね平和だったのが特徴。
一方で、劇場や神殿の建設、学者の報酬を上げるなどを通して、芸術や科学の推進に努力したり、行政改革や法体系の見直しなどを行って、ローマの平穏と安定に尽力していました。
また、奴隷が市民権を獲得する上での必要な条件を緩和するなどし、奴隷解放への道が開けるなど、現在でいう「人権問題」にも取り組んだ皇帝として評価されています。
ちなみに、アントニヌス・ピウスは養子であるマルクス・アウレリウスと自分の娘小ファウスティナ(Faustina the Younger)を結婚させ、順調に帝位を継承できるように準備しており、先代ハドリアヌス帝との約束を守ります。
そして、アントニヌス・ピウスは23年間統治した後、紀元161年に死去します。
ピウスの称号は後で授かった
アントニヌス・ピウスと知られる彼には、もともと「ピウス」という名前は持っていませんでした。
彼は、西暦148年にローマ建国900年を祝う記念行事を盛大に開催します。
その中で、元老院から憎まれていた先代のハドリアヌスを、他の歴代皇帝と同じように祀ろうとしますが、元老院から大反対が起こってしまいます。
しかし、アントニウスは献身に元老院を説得し続けた結果、その姿が献身で「慈悲深い・信仰深い(ピウス)」とされ、「アントニウス・ピウス」の称号を得ることになったのです。
五賢帝5人目:マルクス・アウレリウス
アントニヌス・ピウスが死去した時、マルクス・アウレリウスは哲学者でありすでに40才。皇位を継承することにあまり気が進まなかったと言われています。
しかし、元老院によって皇位継承者になることを強要されたのか分かりませんが、(自分と共にアントニヌスの養子となった)義理の弟ルキウス・ウェルスを共同皇帝に任命することで、皇帝となることを決心します。
ルキウス・ウェルスがパルティア王ヴォロガセス4世と戦うためにアルメニアに赴いても、マルクス・アウレリウスはローマに留まりました。
その後、ルキウス軍はアルメニアを奪還し、パルティアの都市クテシフォンを占領してローマに帰還しましたが、同時に疫病も持ち帰ってしまいます。
この疫病は「アントニヌスの疫病(天然痘と思われる)」と呼ばれ、喉の痛み、嚢胞、発熱といった症状を示し、3年にわたってローマで大流行した結果、ローマ軍の兵士を含むローマ人口の大半が失われたと言われます。
そして、この機に乗じて、ドナウ川流域で以前から起こっていた諸部族によるローマ国境へ侵攻がより一層強くなり、深刻な事態に発展します。
そこで、2人の皇帝は自ら軍を率いて前線へ向かい指揮することとなりますが、169年にルキウスが謎の死を遂げてしまいます。
結果、この169年から177年に息子のコンモドゥス(当時15歳)を共同皇帝とするまで、マルクス・アウレリウスの単独統治時代になるのです。
その後、マルクス・アウレリウスは紀元180年に死亡。また、実息であるコンモドゥスがすでに皇帝となっていたために、ここに養子皇帝制は終わり、五賢帝時代も終焉を迎えるのです。
やっぱり皇帝の立場は好きじゃなかったらしいアウレリウス
ちなみに、ルキウスが命を落とした後、マルクス・アウレリウスは最大限の敬意を払ってルキウスをローマに埋葬し、ふたたびドナウ川の前線に向かっていますが、その際にドナウ川の前線で哲学的な思索にふけって書かれたのが「自省録(Meditations of Marcus Aurelius)」。
その中で、マルクス・アウレリウスは、皇帝であることの重荷を「不幸なこと」と言い表すなど、皇帝になることへ前向きじゃなかった気持ちは、当初からあまり変わっていなかったのかもしれません。
史上最悪な皇帝と呼ばれるコンモドゥス
最後に五賢帝最後のアウレリウスの息子として育ち、世襲制に近い形で皇帝になったコンモドゥスについても簡単に触れておきます。
コンモドゥスは西暦180年から192年まで皇帝の座についていたローマ皇帝。
高徳な父マルクス・アウレリウスとは真逆の性格を持つ人物で史上最悪の皇帝とも呼ばれ、あまりにも父と違い過ぎるため、コンモドゥスの父親は実はマルクス・アウレリウスではなく、母親の不倫相手の剣闘士だという噂もあるほど。
コンモドゥスはローマ市民が受け得る最高の教育を受けましたが、帝国のことを顧みずに皇帝の職務をお気に入りの臣下に任せるなどしていたため、長年の教育は役立ちませんでした。
一方で、自分は娯楽や剣闘士の競技会に夢中になっていた上に、剣闘士の競技会で負傷した兵士や身体障がい者、動物に対して度を超えた残虐行為を見せ、さらに、「自分はヘラクレスの生まれ変わりだ」と宣言するなど、完全に常軌を逸した行動をとっていたのです。
そんなコンモドゥスは皇帝の責務を疎かにし、剣闘士の競技会に大金を費やしたため、この時代のローマ経済は悪化してしまいます。
その結果、とうとう市民の堪忍袋の緒が切れ、西暦192年、愛人マルキアと侍従エレクトゥスが浴室でコンモドゥスに毒を盛るという事件が起こりますが失敗。
しかし2人は、護衛の剣闘士ナルキッソスにコンモドゥスを襲わせ、コンモドゥスは絞殺されてしまったのです。
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五賢帝時代と五賢帝|ローマの平和パックスロマーナに花開いた最高の時期のまとめ
ローマの平和呼ばれるパックスロマーナの中でも最高の時期とされる五賢帝時代は、その後の世界へ影響を与えた様々な文化、芸術、法律などが発展した時期でした。
残念ながら5人でローマの賢帝の時代は終わってしまいましたが、その業績は未だに語り継がれています。
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