ピョートル大帝(ピョートル1世)は初代ロシア皇帝として知られる人物で、また、高身長だったことでも有名な歴史上の偉人です。
17世紀後半から18世紀前半にかけて、ピョートル大帝(ピョートル1世)と呼ばれた偉大な人物がロシアを率いていました。
ピョートル大帝は、当時、一つの王国としてしか認識されていなかったロシアを「帝国」にまで昇華させ、また、ロシアの軍事強化や西洋化・近代化などを推し進め、今日に続くロシアの基盤を整えたと言っても良い偉大な人物です。
この記事では、そのピョートル大帝に関して、基本的な概要から生涯について、そして、このロシア皇帝を理解する上でしっておきたい6つのポイントまでを紹介していきます。
ピョートル大帝(ピョートル1世)とは?
「大帝」と言う名前が示すことからも分かる通り、ピョートル大帝またはピョートル1世(1682年5月7日〜1725年2月8日)とは、1721年から1917年まで存在した「ロシア帝国」の建国者であり初代皇帝。
元々は一つの王国に過ぎなかった「ロシア・ツァーリ国(別名:モスクワ・ロシア)」のツァーリ(君主)であったものの、スウェーデンの覇権を巡る大北方戦争(1700~1721)に勝利したことでピョートル1世下のロシアは領土を広げ、それに伴い「ピョートル大帝」と呼ばれるようになった人物です。
そのため、今日にまで繋がるロシアが、世界において頭角を表すキッカケとなった人物と言え、ロシアの歴史上、非常に重要で転換点を作った偉大なる皇帝として知られています。
また、ピョートル大帝は、1613年からロシアの王朝として君臨していた、ロシアの歴史上最後の王朝「ロマノフ家」の出身であり、ロマノフ朝をロシア帝国が崩壊した1917年まで繁栄させることになった点でも重要。
さらに、軍事的才能だけでなく、海軍を創設するなど軍の改革や、国内体制の効率化や近代化を強力に推進することで、現代のロシアにも繋がる基盤を整えるなど、その改革的手腕も優れていたともされます。
加えて、現在の第二の都市「サンクトペテルブルグ(ロシア帝国時代の首都)」を建設して発展させたことでも有名で、その身長は203cmで怪力の持ち主と、まさに大帝の名に相応しい人物だったのです。
ロシア皇帝「ピョートル大帝(ピョートル1世)」の歴史
ピョートル大帝(ピョートル1世)に関しての基本概要を確認してきましたが、ここからはピョートル大帝の生涯を追いながら、この人物に関する理解をさらに深めていきたいと思います。
ピョートル大帝の若い頃と実権掌握
生い立ちから事実上の追放
1672年にツァーリ「アレクセイ1世(アレクセイ・ミハイロヴィチ)」の14番目の子供として生まれたピョートルは、生まれた時から偉人になる道が用意されていたわけではありませんでした。
(出典:wikipedia)
1682年に父親のアレクセイ1世が亡くなると、彼は半分血のつながった兄のイヴァン5世と共同で国を統治する共同統治者に指定され、君主としての権力を共有するようになります。
しかし、モスクワの当時のエリートや貴族は皆、ピョートルよりもイヴァンを好み、その結果、イヴァンをツァーリとし、同じ両親を持つイヴァンの姉(ソフィア)が摂政に任命されることになりました。
つまりピョートルは、まだ子どもであったにも関わらず、宮廷から事実上の追放をされてしまい、モスクワを離れて母親のナタリヤ・ナルイシキナと共に、政治的亡命生活を送らなければいけなくなったのです。
災い転じ福となす!
しかし、幸い転じて福となすという言葉の通り、この不幸と思われた亡命生活が後に彼に幸運をもたらすこととなります。
ピョートルは、息が詰まるようなロシア宮廷の政治環境から離れて学び、成長する機会を得ることが出来たのです。
彼は航海、軍事戦略、そして数学などに興味を示して学び、これが後々、ロシア史上最も偉大な皇帝とも言える人物の基盤となったことは確かでしょう。
(出典:wikipedia)
数年後、イヴァンの姉が摂政の座から追放されると同時に、成長したピョートル(当時16歳)は、宮廷で比較的大きな力を握るようになりました。
そして1696年にイヴァンが他界した結果、ピョートルは「ピョートル1世」として、ロシア・ツァーリ国を単独統治するツァーリ(君主)となったのです。
単独ツァーリになるとすぐにピョートルは、「ボヤール」と呼ばれるモスクワの伝統的貴族から政治的権力を奪い、権力の中央集権化を実行。
このボヤールこそ、彼を宮廷から追放した当事者だったこともあり、伝統的にボヤールが就いていた政治的に重要な立場へ「社会的地位は低かったものの高い能力を有する知識人や将軍」を登用し、ピョートル1世は生涯を通じてボヤールの力を縮小するための政策を実行し続けました。
ピョートル1世のヨーロッパ周遊
ツァーリとしての立場が確実なものになると、若きピョートル1世は、ヨーロッパ周遊の旅に出かけます。
この旅の公式な理由は、ロシアの南西部で続いていたオスマン帝国との国境紛争のために、ロシアの同盟国を増やすことでしたが、ピョートルの真の目的は外交だけではありませんでした(※不運にも当時のヨーロッパの関心は、スペインのカルロス2世に子孫がいなかったことから起きた相続争いに集中していたため、18か月に渡る遠征で対オスマン軍事同盟を結ぶことは出来なかった)。
彼はロシアの君主という身分を隠して、
- ヨーロッパ各地の学校
- 工場
- 美術館や博物館
- 造船所
などを訪れ、西洋の技術や文化について学び、ヨーロッパの技術や文化を、ロシアへ導入するつもりだったのです。
中でも特に重要だったのは、イギリスやフランスなどの国から学んだ戦艦作りの技術でした。
これはおそらく、ピョートル自身の子供時代からの航海好きに由来するものでしょう。
多くの専門家は、ピョートル1世がこのヨーロッパ周遊の旅の最中に、ロシアで海軍を設立し(※当時ロシアに海軍はなかった)、16世紀にロシアをバルト海から追放したスウェーデンに対して戦争をしかけようと決心したのではないかと考えています。
ピョートル1世の決心は固く、後に50人の貴族生まれのロシアの若者を、イタリア、イギリス、オランダに送り込み、造船技術や海軍のあり方を学ばせました。
軍隊改革を行ったピョートル1世は重要な戦争に勝利して「皇帝」となる
一方で、ロシアに戻ったピョートルは、ヨーロッパに簡単にアクセスでき、さらに一年中凍ることのない「不凍港」の必要性を痛感しながらも海軍の創設を開始しました。
当時、黒海周辺はオスマン帝国の勢力下にあり、また、バルト海からのアクセスはスウェーデンの支配下にあったため、ロシアの主要な港は、ヨーロッパ側の北極海の一部である白海にあるアルハンゲリスクだけで、この港は年に数ヶ月は氷に閉ざされる問題を抱えていたのです。
(出典:wikipedia)
そのため、ヨーロッパへ簡単にアクセス出来る不凍港を獲得するためにも、その後21年間続くこととなる「スウェーデン帝国(バルト帝国とも言われるスウェーデン王国が繁栄した大国時代の呼称)」に対する戦争(大北方戦争)を始め、その結果、1721年までにバルト海に港を獲得。
これによって晴れて不凍港を獲得して領地を拡大したピョートル1世は、勝利を祝うためにロシアを「帝国」に昇華させた「ロシア帝国」を宣言し、自ら初代ロシア皇帝に就任し、ここから「ピョートル大帝」と呼ばれるようになったのです。
経済と社会の改革にも積極的に邁進し始めたピョートル大帝
経済面での改革
ピョートル大帝が戦争を通して獲得したバルト海の港は、単に海軍のベースとなっただけではありません。
彼はその港を利用し、西ヨーロッパの重商主義大国と、より良い貿易関係を築くことを望んでいました。
「重商主義(貿易などを通じて貴金属や貨幣を蓄積することにより、国富を増すことを目指す経済思想や経済政策の総称)」は、初期の近代ヨーロッパにおける政策で、この政策下で貿易赤字は忌み嫌われ、対して各国は、金塊をできるだけ多く蓄えようと躍起になりました。
そしてピョートル大帝は、この政策を非常に気に入っていたのです。
彼は重商主義を採用し、同時にロシア全土で工業生産を奨励。
ロシアにおける工業の発展を促進し、ヨーロッパの市場向けの商品を生産するために、ヨーロッパから専門家を招いたほどです。
社会面での改革
ピョートル大帝はまた、西洋式の経済を導入するだけでは満足せず、ロシアのエリートを西洋化するための急進的な社会・文化改革を実行しました。
例えば、伝統的なスタイルの長ひげを切り、ヨーロッパ風の服装を着用するよう、ロシア貴族に強制しました。
ピョートル大帝はロシア人が皆、ヨーロッパ風の見た目をしてヨーロッパ風の態度を取るようになることを望んでいたのです。
この新しい政策に反対し抗議する貴族に対して、彼らのひげをピョートル大帝自身が切ることもあったと言われます。
一方で、ピョートル大帝の「絶対主義的な態度」は、貴族層に対してだけではありませんでした。
それまで教育の分野で特に強い権力を握っていたロシア教会から力を奪い、自らの管理下に置きます。
これによって、以前のロシアでは教育機関のほとんどが教会によって運営され、宗教寄りの教育が施されていたのに対して、ピョートル大帝は世俗の学校を設立し、
- 科学を重視する教育
- フランス語やラテン語と言った外国語教育
- 府が支援する海外留学プログラム
などを推進していき、近代化の面で西洋諸国に遅れていたロシア社会を、教育面からも改革していったのです。
改革の中でサンクトペテルブルクが建設される
ロシア全土でロシアの西洋化と近代化を進めていく中、ピョートル大帝は新しいロシアの象徴となる新しい首都を建設したいと望むようになりました。
そこでこのロシア皇帝は1703年、今までほんの数軒の漁師小屋しかなかったフィンランド湾に面した更地(さらち)に、新たな都市をゼロから建設し始めたのです。
ピョートル大帝は海外から才能ある建築家と石工を招いて、高い報酬を支払うことを約束。またロシアの各県は、この地に労働者を送るように求められました。
結果、今日「サンクトペテルブルク」として知られる都市の壮大な建設プロジェクトは、建設初期にスウェーデンが何度かこの地を占領しようとしたにも関わらず、記録的な速さで完成したのです。
ピョートル大帝はこの新しい都市を、自らの名前「Peter(Пётр)」に由来とした、サンクトペテルブルグ「Saint Petersburg(Санкт-Петербу́рг)」と名付け、1712年、公式にロシア帝国の首都としました。
ピョートル大帝の死と遺産
ピョートル大帝は1724年の冬、体調を崩して重い膀胱炎を煩い、翌年の1月28日に死去。
一方で、このロシア皇帝が実行した数々の政策は功を奏し、彼が死去してから間もなく、ロシアはヨーロッパの主要国家の仲間入りを果たすことになります。
しかし、それらの改革によって、ロシア国民が大いに打撃を受けたことも忘れてはいけません。
ピョートル大帝の改革を実行するための資金は、基本的に農作民などの貧しい人々から搾取した税金であり、ロシア帝国末期まで、この人々の反乱は容赦なく鎮圧され、政策に反対する者の多くは処刑されていったのです。
そしてこれが、後々のロシア帝国崩壊を招いたロシア革命につながり、その後にソ連誕生の種となったのです。
偉大なるロシア皇帝「ピョートル大帝(ピョートル1世)」にまつわる6つの話
最後に、偉大なロシア皇帝「ピョートル大帝」をもっと知るためにも、彼にまつわる6つの話を簡単に紹介しておきます。
「人事改革」がスウェーデンに対する勝利の隠れた理由
スウェーデン領土を巡る大北方戦争での勝利は、どれだけ軍事的才能に恵まれたピョートル1世と言えども、決して簡単なものではありませんでした。
そこでピョートル1世は当時のロシア軍において、いくつかの大きな改革を実行しました。
中でもこの戦争の勝利を導いた重要だけど隠れたポイントとして、「人事改革」を挙げることが出来るでしょう。
彼は軍の高官やその他重要なポジションに人を任命する際、それまでの「身分」や「コネ」などによる配置ではなく、より結果を意識したアプローチで臨んだのです。
この姿勢は、今まで伝統的にそれらの地位に就いていた貴族(ピョートルの政敵でもあった)たちのプライドを大いに傷つけましたが、軍隊の指導がより簡単になり効率がアップ。
軍はより賢明で効率的に、そして戦略的に動けるようになったのです。
ピョートル大帝は召使いと再婚してその妻は皇后となった
ピョートル1世は1689年1月27日、16歳の若さで「エヴドキヤ・ロプーヒ」という女性と結婚し、3人の子どもをもうけましたが、そのうち成人まで成長したのは長男だけでした。
また、エヴドキヤと仲が悪かったため、ピョートル1世1698年に離婚してエヴドキヤを修道院に追放。
エヴドキヤとの子であるアレクセイ・ペトロヴィチも「ピョートル大帝討伐を画策した」として、1718年に死刑宣告を受け、獄中で受けた拷問による負傷がきっかけで死亡しました。
一方で、ピョートル大帝が生涯で最も愛したのは、元々、友人アレクサンドル・メーンシコフの召使として捕らえられ、その後、ピョートルに献上された、本名はマルタ・スカウロンスカと言う「エカチェリーナ」でした。
1702年頃にピョートル大帝の愛人となったマルタは、エカチェリーナ・アレクセーエヴナと改名。
1707年にはワルシャワ近郊で秘密結婚し、1712年2月9日にはサンクトペテルブルクの聖アイザック大聖堂でピョートル1世と正式に結婚。
そして1724年、ピョートル大帝は彼女に「皇后」の称号を与え、ここにロシア帝国初の皇后であるエカチェリーナ1世が誕生したのです。
ロシア帝国の強靭な海軍はアゾフ遠征での成功に遡る
ピョートル1世はロシアが国としての力を高めていくためには、強靭な海軍の創設が不可欠だと考えていましたが、オスマン帝国、サファヴィー朝ペルシャ、そしてスウェーデン王国によって、黒海、カスピ海、バルト海が支配されていたため、ロシアにはこういった不凍港が存在する海路を使用する手段がありませんでした。
(出典:wikipedia)
そこで1695年、黒海とアゾフ海(黒海北部にある内海)の航路を求め、オスマン帝国に対してアゾフ遠征を決行。
一度は失敗しますが、ピョートルはすぐに巨大な艦隊を創設し、1696年7月にアゾフを陥落させました。
その後、1698年9月12日にはアゾフ海に繋がるドン川の湾口部に「タガンログ」という都市を作り、これがロシア艦隊の最初の基地となったのです。
そして、このアゾフ遠征の成功こそが、ロシアが強靭な海軍創設していく上で大きな契機になったのだと言われています。
ちなみにこの地は、スウェーデン王国との戦いの最中の1711年、一度はオスマン帝国が奪い返しますが、その後も続いたロシア帝国とオスマン帝国の争いの中で、1739年にロシア帝国が再奪取し、以降はロシア領となっています。
ピョートル・ミハイロフとしてヨーロッパを旅して船大工としても働いた
巨大なオスマン帝国に立ち向かっても、当時のロシアでは力が及ばないと悟っていたピョートル1世は、上でも触れた通り、身分を隠してヨーロッパへの周遊を行ったわけですが、その際に名乗ったとされる名前が「ピョートル・ミハイロフ」。
250人以上からなるヨーロッパ使節団に一随員として参加して、ヨーロッパ各国を周ったのです。
(船大工として働くピョートル:出典:wikipedia)
そんなピョートル・ミハイルは、この周遊の最中に、東インド会社が所有する造船所で船大工として働いたこともありました。
実際の現場で働くことで技術を学び、それが、後にロシア海軍を強化していくうえで非常に貴重なものになったのは言うまでもないでしょう。
皇在任中は反乱軍を残虐なまでに制圧したピョートル大帝
ピョートル1世のヨーロッパ訪問中に、ストレリツィ(火器を主装備とした16世紀から18世紀初期にかけて存在したロシア・ツァーリ国の歩兵隊)が反乱を起こします。
これを鎮めようとピョートルはロシアへ向かうわけですが、ロシアに到着した頃に反乱の勢いはすでに収まっていました。
しかし、それにも関わらず、今後も反乱が起こらないようにピョートルは、1200人以上の反乱者を拷問したり無慈悲な方法で次々に処罰し、また、処罰された死体を公共の場につるし上げるなどして、圧倒的な恐怖と共にストレリツィの反乱軍を消滅させたのです。
その後も、ピョートル体制下のロシアではいくつかの反対勢力が立ち上がることがありましたが、その度にピョートルはは残虐な方法で反乱者を制圧していきました。
ピョートル大帝(ピョートル1世)のパーソナリティ
ピョートルの身長は203cmもあったので、周りの人に比べると飛びぬけて大きく、強靭で健康な身体を持ち合わせていたとされ、また、とてもハンサムな顔立ちをしていました。
しかし、それだけが彼の強みではなく、非常に恵まれた外見と立場を有しながら、とても努力家で働き者。
自らがモデルとなることで、周りの者にもまじめに一生懸命働くように言い聞かせ、努力して結果を出す者はとても評価したと言われます。
そしてピョートルには、どの人がどの分野に適しているかを見分ける才能があったと言われ、これが彼が行った人事改革の成功要因の一つと言えるでしょう。
一方で、ピョートル大帝はお祭り騒ぎが好きだったようで、時に大量の酒を飲み泥酔し、来賓にも多くの酒を勧めることもあったそう。
また、反乱軍に行った残虐性からも分かる通り、酷い癇癪持ち(かんしゃくもち)だったとされるピョートルは、自分に歯向かう者には特に容赦しませんでしたが、その癇癪をうまくなだめることができた人物こそ、2番目の妻であるエカチェリーナだったと言われています。
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ピョートル大帝/ピョートル1世|初代ロシア皇帝は高身長で知られる偉大な人物のまとめ
ピョートル大帝によるロシアの近代化・ヨーロッパ化は、初期近代におけるもっとも野心的な改革であったと言っても良いでしょう。
ロシアをヨーロッパにおいて、地政学的に重要な位置まで持ち上げたピョートルの目標は見事に達成され、現在の大国としてのロシアにまで繋がっています。
そのためピョートルは、ロシアの歴史上、最も重要な人物であることは間違いありません。