現在のイタリアのナポリ近郊に存在した古代都市「ポンペイ」は、79年にヴェスヴィオ火山の噴火に襲われ、最後の日を迎えました。歴史的に貴重なこの古代都市について詳しく見ていきましょう。
イタリアのナポリ湾の近くにあるヴェスヴィオ火山は、過去に何度も噴火を繰り返し、周辺に住んでいた人々へ大きな被害をもたらしています。
そして、このヴェスヴィオ火山の噴火の中でも歴史的に最も有名なものが、西暦79年に起こった噴火。
この噴火によって、同地域に存在した古代都市「ポンペイ」は火山灰や火砕流に飲み込まれて最後の日を迎え、地中深くに埋もれてしまうこととなったのです。
この古代都市ポンペイとはどのような街だったのでしょうか?
79年当時、ポンペイはどのような被害に見舞われながら最後の日を迎えたのでしょうか?
この記事では古代都市ポンペイについて、詳しく紹介していきたいと思います。
ポンペイに関する基礎知識や歴史
ポンペイって何?
ポンペイとは、現在のイタリアのナポリ近郊(イタリア中南部カンパーニア地方のナポリ湾東岸、ベズビオ火山南麓)にあった古代都市。
紀元後(西暦)79年にヴェスヴィオ山が噴火したことで火山灰と火砕流に飲み込まれ、この都市は地中に埋まって消滅してしまいました。
そしてポンペイは現在、古代都市の生活を伝える貴重な歴史的遺跡として、また、歴史・文化的な観光地として有名です。
ポンペイの始まりから消滅までを駆け足で確認
紀元前8世紀頃に、オスキ人とヒーコ人という二つのグループによって集落が形成されたのが、ポンペイの始まり。
その後、
- 紀元前526年
- エトルリア人による支配の開始
- 紀元前474年
- ギリシャと同盟を結ぶことでエトルリア人支配から脱する
- 紀元前424年
- サムニウム人による支配の開始
- 紀元前89年
- ローマによって植民都市として征服される
- 紀元後79年
- ヴェスヴィオ山の噴火によって都市が消滅する
といった流れで、一時は商業や観光都市として栄えたポンペイは、最後の日を迎えて消滅してしまったのです。
ポンペイはどのような都市だったのか?
紀元前8世紀にこの地へ人が集まって集落が作られて以降、少しずつ大きな街へと変化していくことで、ポンペイも含めたヴェスヴィオ山とナポリ湾周辺は、日光浴や景色を楽しみたい富裕層向けの観光地や保養所のような場所として人気になっていきました。
そして、紀元後1世紀になる頃には、ヴェスヴィオ山から8km程のところにあるポンペイの街は、ローマの富裕層にとって素晴らしいリゾート地となっていたようです(ローマ帝国に支配されて以降、ポンペイは急速に繁栄していったようで、建物は木造からレンガや石造りへと変わり、闘技場、2つの劇場、寺院、水道管まで整備された)。
当時のポンペイの街には、
- エレガントな家や手の込んだ造りのヴィラが舗装された道に建ち並び、
- 観光客、街の住民達、そして奴隷達が、小さな工場、職人達の店、居酒屋、カフェ、売春宿、浴場などを忙しく行き来していた
など、非常に活気がありました。
また、市民達は20,000人を収容する競技場に集まったり、屋外では広場や市場でゆったりと過ごすなど、豊かな生活を享受していたようです。
ちなみに、西暦79年に起こった運命的なヴェスヴィオ山の噴火の前夜、およそ20,000人の人々がポンペイとその周辺に住んでいたそうで、火山の火砕流によって逃げ遅れた2000人ほどの人々が命を落としたと推定されています。
ポンペイを消滅させたヴェスヴィオ火山について
ポンペイを火砕流によって飲み込んだヴェスヴィオ山は、何万年を掛けて形成されていった活火山で、その標高は1281m。
現在は噴火していないものの、近代におけるまで度々噴火を繰り返しており、最も最近の噴火は1944年3月22日に起こっています。
そのため、実は79年の噴火以前にもヴェスヴィオ火山は幾度か噴火を起こしており、1780年頃に起きた非常に激しい噴火や、79年の噴火に一番近いものであれば紀元前217年に起こした大噴火があります。
しかし、この地域はとても気持ちがよく日当たりの良い場所なためか、数十年もすれば恐ろしい噴火のことを人々は忘れていってしまうのでしょう。
79年の噴火に関しては、それ以前のおよそ300年もの間、ヴェスヴィオ火山は静かであったため、なおさら人々は近くにそびえ立つ火山の脅威を忘れてしまっていたのです。
実は62年に2月5日、同地を巨大地震が襲い、大きな被害をもたらしたのですが、客観的に見れば大噴火の予兆とも取れなくないこの大地震を、再び大きな噴火による災害の警告だと考える人は当時のポンペイにはいませんでした。
それどころか、さらに多くの人がナポリ湾の海岸に集まってきたことで、ポンペイは年々賑やかになっていったのです。
紀元79年にどのようなことが起こったのか?
大地震が起こった17年後の西暦79年8月24日、ヴェスヴィオ火山は噴火しました。
噴火による爆風で火山灰、軽石、そして岩石の柱と非常に熱い火山ガスが空高く上がり、その光景は遠くは離れた場所からでさえ見えたと言われています。
例えば、ナポリ湾の反対側から噴火を見た当時の文人「ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)」は、このヴェスヴィオ火山の噴火を、
- 「ありえないぐらいの大きさと珍しい形の雲」
と表現し、「幹のようなものの上に大きく伸びて、枝のように分かれていった」と松の木に例えています(小プリニウスが表現した噴火形式は今日では「プリニー式噴火」と呼ばれている)。
そして一昼夜、火山灰や軽石、そして岩石などが降り注ぎ、地域一帯では、人々が呼吸するのが困難になっていき、一部の建物は崩れ落ちました。
そんな状況がずっと続いた後(噴火してからおよそ12時間後)、ついにポンペイの街を飲み込む火砕流が発生。
この時に発生した火砕流は、正確には「火災サージ」と呼ばれ、火砕流に似ているけど火山ガスの比率が高くて密度が小さいため、高速で薙ぎ払うように流れ、その速度は時速100kmを超えるほどでした。
そのため、この火災サージが山の斜面を一気に下るようにしてポンペイを襲い、そこに住んでいた人々や家屋もろとも全て、一瞬にして飲み込まれてしまったのです(市街地まであふれ出た火災サージの温度は700℃近くにも達し、これほどの温度と速度の溶岩に襲われたらまず逃げ切ることは不可能だと思われる)。
翌日ヴェスヴィオ山の噴火が収束に向かった頃、ポンペイは何百万トンもの火山灰の下に埋まっていました。
そこには約2,000人が埋もれ、行方不明者や所有物を探そうと町に戻って来た人々もいましたが、ほとんど何も残っていませんでした。
周辺の小さな町スタビアエとヘラクラネウムと共にポンペイは、この後、何世紀にも渡って放置されることとなったのです。
※死亡者数に関しては諸説あるものの、一般的には2000人と推定されている。一方で最大で16000人が火山灰と溶岩によって生き埋めになったとする説もある。
ポンペイの再発見
1748年に探検家の一団が、古代の遺物を探しにカンパニア州にやって来て発掘を始めるまで、ポンペイはほとんど手付かずの状態でした。
火山灰が防腐剤のような働きをしたこともあり、火山灰の下に眠っていたポンペイの都市は、2,000年前とほとんど変わらない状態で残っていたのです。
建物はそっくりそのままの状態であり、毎日のように新しい発見が続きました。中には、当時の市民が食べていたジャムの入った瓶や食パンまで見つかったのです。
また、人々を包んだ火砕流や火山灰がその後すぐに冷やされて固まった結果、中の遺体は溶けたために空洞となる一方、人々の姿や表情がその空洞の中に刻まれており、そこへ石膏を流しこむことで、当時の人々のリアルな姿を再現することに成功しています。
ポンペイが再発見されてから今日まで、ポンペイの発掘はおおよそ3世紀に渡って続けられていますが、学者や観光客は、ポンペイの遺跡や歴史的価値に、未だ魅了され続けているのです。
ポンペイについて抑えておきたい5の豆知識
ポンペイの名前の由来
ポンペイ(Pompeii)という名前は、この地に最初に入ってきて集落を築いたオスキ人の言葉で、数字の5を表す「pompe」に由来しているとされます。
そのため、歴史学者の推測では、もともとポンペイは5つの集落から成り立っていたのではないかと考えられているのです。
一方で、ポンペイア(Pompeia)と呼ばれる氏族がこの地へ最初に入植したことが起源だとする説もあります。
ポンペイは変わった形をした街だった
ポンペイの街は、先史時代に流れ出た溶岩の上に造られていたため、街全体としては変則的な形をしていたようです。
また、街の南西部が最も昔に造られたと考えられていますが、いつどのようにして街が拡大していったのかについては、未だに正確なことが分かっていません。
ちなみに、79年にヴェスヴィオ火山が噴火した時、ポンペイの街は再建作業の真っ只中にありました。
62年2月5日に起きた大地震(並びにその後に続いた小さな地震)によって、街は大きな被害を受け、その一部は工事現場のような有様だったのです。
被害を受けた公共の建物や個人の住宅は再建中であり、何度も修理を繰り返している建物もあったと考えられています。
歴史は繰り返すかもしれない
ヴェスヴィオ山は1944年以降、噴火はしていないものの、今もなお活火山であり、いつまた噴火しても不思議はないと言われます。
特に、ヴェスヴィオ山は噴火すると非常に大きな爆発(プリニー式噴火)を起こす火山であり、現在、火口から32km圏内にはおよそ300万人の人々が住み、活火山近くの人口密度で言えば世界最高。
このような状況をふまえると、もしヴェルヴィオ火山の大噴火が起これば、ナポリを含めて未曾有の大惨事となる可能性があるのです。
最終的には6mも深い地中に埋まった
ヴェスヴィオ火山の噴火活動は噴火が始まってからその後、およそ24時間続き、街には溶岩や火山灰が2日間にわたって降り続きました。
噴火が始まってからおよそ1時間後の午後1時または2時頃、火山灰を含んだ煙によって太陽の光はさえぎられ、1時間に約15cmのペースで火山灰が降り積もっていったのです。
その結果、最終的にポンペイの街の一部は、地中6m深くも埋まってしまったとされています。
劣化が進み崩壊の危機にあるポンペイ遺跡
火山灰に守られ、都市全体の形がそのまま綺麗に残っていたポンペイ遺跡ですが、再発見されてから3世紀近くになろうとしている中で、発掘された遺跡の一部は雨風にさらされた結果、急激な劣化に見舞われています。
そのため、このままだと歴史的に貴重なポンペイ遺跡はいずれ崩壊してしまうと考えられているのです。
そこでイタリア政府は2014年、同遺跡を維持・修復するための「グレート・ポンペイ・プロジェクト」を発表。
また、国際的にも保存をするための共同作業が行われています。
ただし、遺跡の状態や直面する問題はそれぞれ異なることが多く、ポンペイを維持・保存していくには、莫大な費用と期間がかかると考えられています。
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ポンペイ|火山に襲われて最後の日を迎えた歴史的に貴重な古代都市のまとめ
79年に起こったヴェスヴィオ火山の噴火によって地中に埋まってしまった古代都市「ポンペイ」について、詳しく見てきました。
当時のポンペイでは、灰が洪水の如く大地に流れ出し、そして街全体は、「まるで扉が閉められた明かりのない部屋のような暗闇」で包まれたと言います。
そのような大災害に見舞われたポンペイは一方で、ほぼ街全体の形が完全な状態で残り、同時に、建物、工芸品、芸術品など、当時の生活や文化を現在に知らせる貴重な遺産を残してくれています。