エリトリア国というアフリカ大陸にある国家は、「アフリカの北朝鮮」と呼ばれる独裁国家ですが、歴史的には注目される国でもあります。
アフリカ大陸の北東部には、エリトリア国という国が存在します。
このエリトリア、日本では「アフリカの北朝鮮」とも言われる独裁国家で、人権や報道の自由などの点で世界的に悪名高い国です。
一方で、エリトリアがある地域は非常に長い歴史を持ち、考古学的な視点からはとても興味深い国でもあるんです。
この記事ではそんなエリトリア国について、基本的な情報からアフリカの北朝鮮と呼ばれる理由や内政状況、さらには、あまり触れられないけど実は興味深い話までを紹介していこうと思います。
エリトリア国とは?
エリトリア国(通称:エリトリア)は、アフリカ大陸北東部にある「アフリカの角」の上部に位置する国家。
首都はアスマラと言い、国の西側はスーダン、南側はエチオピア、南西部はジブチと国境を接し、東部と北東部は紅海に面した長い海岸線となっている北東アフリカの国で、その面積は約117,600㎢。
紅海南西部にあるダフラク諸島や、かつてはイエメンとの係争地であったハニッシュ諸島の一部の周辺の島も領土に含みます。
ちなみに、国名「エリトリア」の由来は、ギリシャ語で紅海を意味する「エリトラ・タラッサ(Erythra Thalassa)」です。
現在のエリトリアの人口は約500万人で、9つの民族の存在が公式に認められている多民族国家。
人口の55%近くを占めるティグリニャ人(黒人とアラブ人の混血)と、30%近くを占めるティグレ人が大多数を占め、住民の大部分は公用語であるティグリニャ語とアラビア語を話しますが、過去にはイタリアとイギリスの支配下にあった影響から、イタリア語と英語を第二言語として話すも多くいます。
また、エリトリア国では主にキリスト教とイスラム教が2大最大宗教となっており、統計元によって違うものの、
- キリスト教徒
- 50~63%
- イスラム教徒(ムスリム)
- 36~48%
と、若干キリスト教の割合がイスラム教を上回っています。
「アフリカの北朝鮮」として知られるエリトリア国
このエリトリア国、特に日本国内では「アフリカの北朝鮮」として揶揄されることもありますが、それには次のような理由があります。
まず第一に、現在のエリトリアは一党制の国家で、1993年に独立が承認されて以来、国単位の議会選挙が開催されたことは一度もありません。
また、エリトリアには男女ともに徴兵制があり、国民は長期間従軍することが義務化されている上に、従軍期間は完全に確定しているわけではなく不明瞭。
しかも、国家によって強制労働させられたり、政治的弾圧が加えられることさえあり、近年では、この状況から逃れるために多くの国民が国外へ脱出しています。
その結果、人権監視委員会「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」によると、エリトリア政府の人権状況は世界でワースト1位となっているのです。
一方で、エリトリア政府はこの主張を「政治的なバイアスがある」として否定しています。
加えて、エリトリア国内のメディアは全て政府が管理・運営しており、世界の報道自由度ランキングにおいてエリトリア国は、北朝鮮に続いて世界ワースト2位です。
このような状況から、エリトリアは「アフリカの北朝鮮」と呼ばれることがあるのです。
独裁政権を敷く政府と政治
エリトリアでは民主正義人民戦線(PFDJ)と呼ばれる政党が唯一の政党で、その他の政党の存在は違法とされていましたが、1997年に多党制を許可する憲法が制定されました。
しかし、未だに施行されていません。
また、議会は全部で150議席あり、議員選挙は何度も計画されていますが、あらゆる理由を使ってずっと中止・延期され続けており、1993年の独立以来一度も選挙が開催されていないのが現状です。
(イサイアス・アフェウェルキ:出典 wikipedia)
そのため、大統領の「イサイアス・アフェウェルキ」は1993年以来ずっと大統領職として君臨し、また、1993年に75人の議員が選挙で選ばれたものの、残りはアフェウェルキによって任命されたため、アフェウェルキのほぼ独裁状態が続いています。
加えて、地方単位の選挙も2004年を最後に開催されていません。
イサイアス・アフェウェルキ大統領は、西洋の民主主義に対する嫌悪感を何度もあらわにし、「エリトリアが次の選挙を開催するまで30〜40年、もしかしたらもっと待たなきゃいけないかもしれない」とさえ表明したことがあります。
エリトリアの歴史(ダイジェスト)
今日でいうエリトリアと北部エチオピアの地域には、1〜2世紀頃に成立したアクスム王国が940年頃まで存在していました。
(アクスム王国の遺跡)
このアクスム王国は、4世紀半ば頃にキリスト教を取り入れます。
そして、中世になると1137年、この地域にはミドゥリ・バリ王国が勃興し、16世紀前半からは一部がオスマン帝国領となります。
イタリア王国の植民地 → イギリスの保護領
しかし19世紀後半になって地中海と紅海を繋ぐスエズ運河が開通すると、ヨーロッパからイタリアがこの地域にやってきて介入を開始。
ミドゥリ・バリ王国やオーッサ・スルタン国などの独立した様々な国家がイタリア領に組み込まれていき、イタリア領東アフリカ(1936年5月9日に成立したエチオピア、イタリア領ソマリランド、エリトリアの3地域を合わせたイタリアの植民地)となります。
またこの過程で、現在のエリトリア国に相当する地域がイタリアによって「エリトリア」と名付けられました。
しかし、第二次世界大戦中の1941年、敵国であったイギリス軍にイタリア植民地軍が敗北すると、1952年までイギリス軍の保護領として管轄下に置かれました。
エチオピア・エリトリア連邦からエリトリア独立まで
そして1952年、国連総会の決議の結果、エリトリア議会の下で独立した国家となりますが、外交と国防に関しては隣国エチオピアが管理する「エチオピア・エリトリア連邦」としてでした。
しかし、エリトリアは1941年時点から完全独立を望んでいたこともあり、1960年にはエチオピア支配に反対するエリトリア解放戦線が結成。
1962年には、エリトリア議会が連邦離脱を決議した結果、以降30年近く続く内戦「エリトリア独立戦争」が、エチオピアとの間で始まります。
そして1991年、ようやくエリトリア解放戦線が首都アスマラを奪還することに成功し、同年の5月29日にはエリトリアの完全独立が宣言され、1993年5月24日には国際的に独立承認されました。
エリトリアの地理
エリトリアはアフリカの大地溝帯(アフリカ大陸を南北に縦断する幅35-100kmにもなる巨大な谷)によって、国家が二つに分断されているかのように見えるのが地理的特徴。
西部には肥沃な土地が広がるのに対して、東部は砂漠が広がります。
(フィルフィルの森)
また、エリトリアの国土には次のような特徴もあります。
- 高地の東部には暑く乾燥した海岸地域の平原が広がっている
- 国家の南西部までカバーしている
- より冷涼で肥沃な高地(標高3000メートルにも達する)も存在する
- エンバ・ソイラ(Emba Soira)という標高3018mの山の山頂が最高地点
- 南部の高地には急峻な崖やキャニオンが見られる
- エリトリア中央部あたりに位置するフィルフィルの森には亜熱帯雨林が広がる
- フィルフィルの森はアフリカ大陸で最も北に位置する熱帯雨林
- エリトリアのダナキル砂漠にはアファール三角地帯と呼ばれる盆地がある
- 3つのプレートから形成され、お互いが離れつつある地点だと考えられている
「アフリカの北朝鮮」エリトリアのあまり触れられない素顔
今でこそエリトリアは「アフリカの北朝鮮」と揶揄されるなど、あまり評判の良い国ではありませんが、文化的には何千年もの歴史があると言ってよく、実は興味深い国でもあるんです。
ここからは、そんなエリトリアに関してあまり触れられない素顔を、いくつかのポイントごとにまとめて紹介していきます。
首都アスマラはティグリニャ人を統一した場所?
エリトリアの首都アスマラは古くて紀元前800年まで遡ることのできると言われる、古代から人が住んでいた場所。
このアスマラ(Asmara)という名前は、エリトリアの多数派であるティグリニャ人の言葉「ティグリニャ語」で「統一した」を意味します。
アスマラはティグリニャ人の全部族が集まって暮らした場所だったことに由来すると考えられ、つまり、アスマラはティグリニャ人を「統一した」場所とも言えるんです。
「アフリカにあるイタリアの都市」や「ニューローマ」
アスマラはまた、「アフリカにあるイタリアの都市」や「ニューローマ」とも呼ばれることがある街。
アスマラの街が醸し出すイタリア風の雰囲気や、アスマラの古い建物のほとんどはイタリア式の建物だというのがその理由。
エリトリアがイタリアの植民地であった頃、ベニート・ムッソリーニはアスマラを「ピッコロ・ローマ(リトル・ローマ)」にするために、イタリア風の建物を積極的に建設した影響が今でも残っているんです。
エリトリアの独立に当たっては女性も男性と共に戦った
エリトリアが独立するために通った困難な道のりにおいて、エリトリアの女性は男性と共に戦ったことが古くは1810年に記録されています。
女性達は、イタリア人、そして後にはエチオピア人を追い出すために、武器を取って仲間と共に戦ったのです。
一方でこれは、「元々エリトリアの人口が少ない」上に、「数多くの戦争や内戦で数十万とも言われる多くの男性が殺された」というのが主な理由です。
ダフラク諸島は真珠漁として世界的に有名でほぼ無人の島々
真珠はアフリカの社会で昔から珍重され、特に貨幣がこの地に導入される以前には、価値を測る手段であり、通貨の代わりとしてさえも使われていたと言われます。
そんな真珠が取れるとして、エリトリアのダフラク諸島は有名なんです。
(出典:wikipedia)
ちなみに、ダフラク諸島は124個の小島から構成されていますが、有人の島は4つほどしかないらしく、ほとんどは無人島です。
ダフラク諸島の名前は「地獄の門」が由来?
ダフラク諸島はまた暑く、生息する生物の中には見かけが恐ろしいものもいます。
それに加えて、数多くある島の一部は岩だらけで、奇妙な形をした岩が吊り下げられたような地形を持っている島も存在します。
そのため、初めて見る人にとっては地獄の風景に見えたのかもしれません。
このことを示唆しているかのように、ダフラク諸島の名前「ダフラク(Dahlak)」は、「ダッハラ(Dah’ala)」という「地獄の門」を意味するアラビア語に由来していると考えられています。
独裁政権を倒したのに独裁政権が現れた皮肉
エリトリアは長く続いた隣国エチオピアとの血みどろの戦争を経て、独立を勝ち取りました。
この戦いに参加して独立へ導いた人間の一人が「イサイアス・アフェウェルキ」で、当時のエチオピア支配下にあったエリトリアで独裁政権を敷いていた「メンギスツ・ハイレ・マリアム」を権力の座から引きずり下ろした立役者です。
エリトリアがエチオピアから完全独立した結果、「イサイアス・アフェウェルキ」が初代大統領となりましたが、独裁政権を崩壊させたアフェウェルキが再び独裁政権を敷くという皮肉な状況が起こり、エリトリアが独立してから今日まで「イサイアス・アフェウェルキ」が歴代唯一の大統領として君臨しています。
エリトリアの文化では友人や親戚を前触れなしに訪問する
エリトリア人は極めて社交性が高く、人々は互いに密接な関係にあります。
そのため、友人や親戚同士の関係は非常にオープンであり、とっても近しいのが特徴で、誰もが何の前触れもなく気楽に訪問し合います。
しかも、突然訪問したとしても当たり前に歓迎してくれて、その時に家にあるものでもてなしてくれるらしいんです。
ちなみに、このような人間関係は、貧しい発展途上国では比較的共通して見られます。
考古学的な楽園!
エリトリアも含めた周辺地域では、何千年も前から古代文明が栄えていました。
初期の人類は長い間この地で暮らしており、その過去の遺物や遺跡も多く存在しています。
結果、エリトリアはアフリカ大陸において、エジプトに次いで最も考古学的な発見が多い国となっており、以前は国内の遺跡の数が45000箇所だったものが、現在ではおよそ80000箇所に増えているそうです。
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エリトリア国|アフリカの北朝鮮と呼ばれる独裁国家の歴史や内情のまとめ
アフリカ大陸の北東部にあるエリトリア国は、人権や報道の自由が制限され、アフリカの北朝鮮と言われる国です。
一方で同国は、歴史的には非常に興味深いとも言えるのです。