タージマハルはインドの歴史的建造物の一つとして有名です。ムガル帝国時代に建てられた世界遺産であり人類の偉業について見ていきましょう。
インドは世界的にも有名な大国の一つであり、また、非常に長い歴史を持った国。
そんなインドにおいて16世紀から19世紀にかけこの地を支配した、強大な国家「ムガル帝国」のことを知らない無い人は多いでしょう。
しかし、ほとんどの人は実際に行ったことが無いにしても、「タージマハル」という歴史的なインド建造物の存在を知っているかと思います。
このタージマハル、実はムガル帝国の皇帝によって作られたインドを代表する建造物の一つで、その裏には歴史的なロマンがあるのです。
この記事では、そんなタージマハルについて、基本的な概要、歴史、建築物としての特徴、そして知っておきたい豆知識までを紹介していきます。
タージマハルとは?
タージマハル(Taj Mahal)とは、16世紀初頭から18世紀後半(1526〜1858年)まで、インド南端部を除くインド亜大陸を支配したイスラム王朝「ムガル帝国」の第5代皇帝「シャー・ジャハーン」によって建設された建造物。
シャー・ジャハーンが愛した妃「ムムターズ・マハル」が、14番目の子供を出産した後に死去したことを悲しみ、彼女が生前に望んでいた「後世に残る墓を建てて欲しい」という願いを叶えるために建築した総大理石の墓廟です。
その建設には、およそ20年の歳月が掛かったとされる歴史的大事業であり、1653年に完成。
南北に560m、東西に303mにもなる広大な敷地に建てられており、敷地内には巨大な庭園と建物を反射する大きな水路が配置され、壮大な景観を持つのが特徴。
また、中央の巨大墓廟には幾何学的で美しい特徴的な模様が彫られ、その墓廟を囲むようにして4つの尖塔(ミナレット)が規則正しく配置されているなど、複雑でありながらも非常に高い芸術性を兼ね備えています。
そのため、これら特徴や歴史的背景を持ったタージ・マハルは、インド・イスラム文化を象徴する建造物と言われ、1983年にはユネスコによって世界遺産へ登録され、また、近年では「新世界七不思議」の一つに選ばれるなど、有名な観光地になっています。
タージマハルの歴史
17世紀初頭、ムガル帝国を支配していた後の第5代皇帝「シャー・ジャハーン(1592年1月5日〜1666年1月22日)」となるフッラムは、ペルシャ王朝にルーツを持つ女性(彼女の祖父はサファヴィー朝ペルシャからの亡命貴族であった)と結婚。
彼女の名前は元々「アルジュマンド・バーヌー・ベーグム」でしたが、1612年にフッラムと結婚したことで「ムムターズ・マハル」という名前(肩書き)に変わりました(※シャー・ジャハーンにとっては2番目の妻だった)。
(シャージャハーン:出典:wikipedia)
そしてシャー・ジャハーンは、すぐにこの女性を深く愛するようになり、最大限の愛を与えたと言われます。
このような深い寵愛を受けたムムターズ・マハルは、シャー・ジャハーンの忠実な伴侶として、夫が遠征へ行く際など、随所に同伴していました。
そして、1631年、シャー・ジャハーンがデカンへ遠征する際も、いつも通りムムターズ・マハルは夫に同伴していましたが、この時、14番目の子供を身籠っていました。
(ムムターズ・マハル:出典:wikipedia)
そして、事件は起こります。
14番目の子供「ガウハーラーラー・ベーグム」を遠征先で出産した後、ムムターズ・マハルは亡くなってしまったのです。
一つの言い伝えによると、シャー・ジャハーンは最愛の妻を失って深い悲しみに沈んでしまい、帝位を自分の息子に譲ることさえ考えたと言われます。
シャー・ジャハーンの息子達がなんとか父を慰めることに成功した後、シャー・ジャハーンは、最愛の妻であったムムターズ・マハルのために、かつて見たことの無い世界で最も素晴らしい墓廟を建設することに決めました。
そしてこれが、インド・イスラム文化の最高建築とも評されるタージ・マハルだったのです。
タージマハルの特徴
関わった数多くの設計士、芸術家、そして職人のおかげで、タージマハルは世界で最も美しい建築物の一つとして何百年もの間、見た者を魅了してきました。
ここでは、そのタージマハルの建築物としての特徴を少し見ていきましょう。
イスラム的な特徴
タージマハルには、当時、技術的にかなり難しかったであろう「イスラム建築」の特徴を見つけることが出来ます。
具体的には、建物のアーチ構造とドーム構造を挙げることが出来るでしょう。
イスラム建築のアーチは、完全な丸みを帯びたものではなく尖っているのが特徴。
また、ドームはやや球根のような形をしており、「たまねぎ型のドーム」という表現がピッタリな特徴を持っているのです。
加えて、一般的なイスラム教の礼拝堂やモスクに付属している「ミナレット(尖った屋根を持つ塔)」と呼ばれる塔が、中央の墓廟を取り囲むようにして立っているのが分かります。
インド的な特徴
一方で、タージマハルはインド的な要素をふんだんに取り入れた建築物であるとも言えます。
例えば、建設に使用された大理石はインドのマクラナ(ラジャスターン州中央に位置する地域で大理石で有名)で採石されたものである点は、タージ・マハルをインドこその建築物にしています。
さらに、この大理石の微妙な色合いと、それを研磨し彫刻するインドの技術が、日光と共にほぼ常に変化する輝きをタージマハルに与えており、タージ・マハルを一際美しくしているのです。
デザインに関する特徴的なポイント
タージマハルはまた、デザインの対称性と華やかさによっても定義されると言えるでしょう。
対称性
対称性に関して言うと、各建物は正方形または八角形の平面上に、対称的に設計されているという点が挙げられます。
中央の墓廟を囲む4つのミナレット(尖塔)から、アーチ、壁飾りのついたて、そしてドアの配置まで、「対称性」がタージマハルの全体的な美を強調しているのです。
但し、唯一の例外もあります。それは、シャー・ジャハーンの墓です。
タージマハルはもともとムムターズ・マハルだけの霊廟として計画されましたが、皇帝が亡くなった時に彼女の墓の隣に皇帝の墓が追加され、それにより一部、対称性から外れたデザインが追加されたのです(1666年に亡くなったシャー・ジャハーンの墓が中央から西にずれた位置に置かれたことで、芸術的な対称性が一部失われた)。
華やかさ
そして、建物に近づいていくと、タージマハルの細部に渡るデザインの精巧さを理解することが出来ます。
イスラム美術は、螺旋や独特な柄などで有名ですが、タージマハルも例外ではありません。
さらに、タージマハルの庭園はムガル帝国の庭園を非常によく表しています。
庭園はムガル王朝にとっては重要なものであり、帝国の洗練さと優雅さ、そしてイスラムの平和と平静を象徴するものでした。
このように、至近距離から見ても遠く離れた場所から見ても見事であるタージ・マハルは、インドの素晴らしいロマンスの断固たる証しであり、人類の偉業とも言える建築物なのです。
タージマハルについて知っておきたいその他9つの豆知識
タージマハルについて、基本的な概要から歴史、そして建築物としての特徴までを見てきましたが、ここからは、さらに知識を深めるためにも、その他に知っておきたい、タージマハルにまつわる9つの豆知識を紹介していきます。
4つの尖塔(ミナレット)は若干傾けられている
タージマハルが建つ土台の端に建てられた高さ40mの4本のミナレットは、実は若干傾いていると言われます。
これは、決して真っ直ぐに維持出来なかったわけではなく、また、美しさのためでもなく、戦略的な目的でなされた処置だとされます。
17世紀当時の技術では、巨大な建造物がその重さで崩れることがありました。
そのため、建築責任者であったアスタッド・アフマッド・ラハウリは、ムムターズ・マハルの墓を守るため、塔を若干傾けて設置し、万が一にも尖塔が倒れた時に中央の墓標へ向かって倒れず、墓が破損されないように設計したようなのです。
シャー・ジャハーンは最期の数年間タージマハルに入ることが出来なかった
晩年、シャー・ジャハーンは重い病気を患い、それによって4人の息子が帝位を巡って争いを始めます。
シャー・ジャハーンは長男のダーラー・シコーを後継者として考えていましたが、他の3人はこれを認めず、争いが起きてしまったのです。
結局、1658年に三男のアウラングゼーブが争いに勝利して皇帝の座についた結果、長男を応援していた父シャー・ジャハーンをアーグラ城塞に幽閉してしまいます。
それ以降、1666年に亡くなるまで、シャー・ジャハーンは愛しのムムターズ・マハルが眠るタージマハルへ近づくことも許されず、ただ眺めることしか出来なかったのです。
タージマハルは豪華絢爛な建造物だが実際の墓は地味である
タージマハルは見てきたように、当時最高のイスラム建築やインド建築の技術が導入され、豪華絢爛な建物となっていますが、大部分の豪華さに比べて、一部は非常に地味だったりします。
(出典:wikipedia)
その装飾が施されていない地味な部分が、実際のお墓。
これは、イスラム法によると墓に装飾を施すことは虚栄心の表れとみなされるため、イスラム教の教えを守るためにも、シャー・ジャハーンが妻を安置した実際の墓のデザインは、質素なまま残したというのが理由です。
タージマハル建築には莫大なリソースが必要だった
人類史の中でも偉業と讃えられるタージマハルの建設には、莫大なリソースが必要でした。
まず、その建築には「常に2万人」もの人々が携わったと言われます。
この非常に多くの人的リソースを確保するため、ムガル帝国の支配地域だけでなく、他にもペルシャや中央アジア、そして、他のイスラム王国からも人が集められました。
また、当時最高峰の技術やデザインを導入するために、同じようにイスラム世界における偉大な技術者や芸術家、そして建築家達が、この霊廟建築のために雇われたようです。
さらに、タージマハルを構成する大理石を始めとした建材や装飾品を運ぶためにも、1000頭以上の像が使われたと言われます。
タージマハルの庭園はイギリス帝国時代に大きく変わった
タージマハルの庭園は非常に美しくて有名ですが、実は、現在の庭園と元々の庭園は異なる様相を持っていたとされます。
これは、インドが大英帝国(イギリス帝国)の一部になったことで、イギリスが自国の園芸スタイルを導入したことが始まり。
その結果、当初のイスラム文化の影響を受けた豊かな緑と60以上の花壇があった庭園と比較して、現在の庭園は比較的控えめだと言われます。
戦時中には隠れるタージマハル
インドの文化的象徴として非常に価値の高いタージマハルは、平時では観光の目玉となりますが、戦時下では攻撃の目玉(標的)となってしまいます。
そこで、過去におきた大きな戦争時、インド政府とインドの人々はタージマハルを襲撃から守るため、タージマハルの周囲へ広大な足場を組み立て、爆撃機からタージマハルが見えないようにしたのです。
これによって、爆撃機のパイロットにとっては、荘厳な建物の代わりに竹が積み重なった良く分からない場所に見えたことでしょう。
ブラックタージマハル!?
実は現在ある白いタージマハルに加えて、黒い「ブラックタージマハル」を建てる計画があったらしいんです。
この2つ目のタージマハルは、シャー・ジャハーン自身のために計画された建物だったそうで、タージマハルの横を流れるヤムナー川の対岸に建設予定だったんだとか。
もしその計画が実現していたならば、白大理石ではなく「黒大理石」を使ったタージマハールを拝むことが出来たってことですね。
ただしこの話は、1665年にインドを訪れたフランス人冒険家「ジャン=バティスト・タヴェルニエ」が現地で耳にした話を持ち帰ったことで広まったもの。
そのため、その信ぴょう性は不明で、そもそもシャー・ジャハーン自身のタージマハル建設計画は無かったとする主張や、あったとしても黒にする予定はなかったなど、懐疑的な主張も存在します。
タージマハルの保全に関しては不安がつきまとっている
タージマハルの保全に関しては、年数が経つにつれて不安が高まっています。
20世紀に行われた調査によって、隣を流れるヤムナー川が徐々に干上がると共に、タージマハルの構造にも変化が起こっていることが判明。
例えば、1980年から今日までの間で、尖塔の一本が数cmほどずれたことが分かっています。
このような状況から、歴史的で象徴的なタージマハルが崩壊しないように、インドの関係各位も何かしらの対策を実施することを発表しています。
普通の車では近づけない
白い大理石が美しく輝くタージマハルですが、近年では排気ガスによって汚れが目立つようになってきた言われます。
その結果、現在、排気ガスを生み出す一般的な車やバスは、タージマハルから500m以内に入れないことになっています。
少し離れた駐車場からタージマハルまでは、徒歩で行くか、または専用車両や馬車などで行くことになります。
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タージマハル|ムガル帝国時代の歴史的なインド建造物で世界遺産のまとめ
ムガル帝国時代に建てられ、インドの歴史的そして文化的な遺産となっている、巨大な霊廟「タージマハル」について見てきました。
タージマハルの裏にある、皇帝シャー・ジャハンと、彼の妻ムムタズ・マハルのロマンスを知ると、また別の視点からタージマハルを見ることが出来ます。