トルコとギリシャの関係|オスマン帝国時代やキプロス問題が影響を与える両国の関係とは?

トルコとギリシャの関係について見ていきます。主にオスマン帝国時代から続き、キプロス問題が影を落とす両国の関係を確認していきましょう。

トルコギリシャは一部は陸によって隣り合い、大部分はエーゲ海を挟んで隣り合う国家です。

その地理的な近さから歴史の中で両国は、切っても切れない関係として発展してきました。

一方で、この地理的な近さと、主に過去600〜700年ほどの歴史は、トルコとギリシャの関係を複雑にし、また未だに未解決のまま残った大きな領土問題を残してしまっています。

この記事では、そんなトルコとギリシャの関係について、歴史の流れを追いながら見ていきたいと思います。

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オスマン帝国(オスマントルコ)に飲み込まれたギリシャ

西暦395年、古代ローマ帝国が東西に分裂した「ローマ帝国の分裂」が起こった際、ギリシャは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の勢力下に収まることとなりました。

(現在のギリシャとトルコ)

そして、ビザンツ帝国が現在のトルコのイスンタンブールに当たる「コンスタンティノープル」へ首都を置いたことで、その後1000年もの長きに渡って繁栄したビアンツ帝国では、公用語さえもギリシャ語へ変えるなど、急速な「ギリシャ化」が起こりました。

しかし、このビザンツ帝国は13世紀頃から力を付け始めたオスマン帝国(オスマントルコ)、つまり現在のトルコ前身となる巨大な国家による侵入に度々悩まされることとなり、1453年には「コンスタンティノープルの陥落」が起こってビザンツ帝国は崩壊。

ビザンツ帝国の勢力範囲にあったギリシャ帝国もまた、オスマン帝国の一部として取り込まれてしまいます。

オスマン帝国から独立を勝ち取ったギリシャ

ギリシャがオスマン帝国の勢力範囲に取り込まれてからおよそ400年。

オスマン帝国から独立するために、ギリシャの独立戦争と呼ばれる戦争が1821年に始まり、1830年2月にはついに、ロンドン議定書によってギリシャが完全な独立を勝ち取る形で終了しました。

この独立戦争に勝利する上では、イギリス、フランスそしてロシアの列強三国から助けを借りたことが大きかったと言えます。

独立後のギリシャ

独立後、ギリシャは君主制を打ち立て、1833年にはドイツのバイエルン地方を発祥とする諸侯「ヴィテルスバッハ家」のバイエルンの王子であったオットーが国王に選出されました。

しかしオットーは30年後に退位させられ、列強三国はその後、デンマークのグリュックスブルグ家の王子ゲオルギウス1世を次の国王に選出しました。

また、独立したばかりのギリシャでは、「メガリ・イデア(大ギリシャ主義:偉大なる思想の意味)」と呼ばれる思想が大きな影響力を持っていました。

これは、

衰退しつつあるオスマン帝国内に住むギリシャ人を全て、新しく独立したギリシャの国家の元に統一しよう

という民族統一主義の思想です。

(豆知識)独立後に領土を拡大していったギリシャ

ちなみに、独立時のギリシャは47,515㎢もの広大な領土を持っており、北部の国境線はヴォロス湾からアンヴラキコス湾まで広がっていましたが、時間が経つと共にさらに領土が追加されていきます。

具体的には以下の通りです。

  • 1864年・・・イオニア諸島
  • 1881年・・・テッサロニキエピロスの一部
  • 1913年・・・マケドニアクレタ島エピロス全土エーゲ諸島
  • 1918年・・・西トラキア
  • 1947年・・・ドデカネス諸島

第一次世界大戦でトルコと対峙したギリシャ

ギリシャは1917年に連合国側として第一次世界大戦に参戦

連合国」側はロシア、フランス、イギリスを中心としてアメリカや日本も参加した連合で、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国を中心にオスマン帝国も参加した「中央同盟国」と対峙しました。

つまり、ギリシャは旧宗主国のオスマン帝国と対峙したのです。

この第一次世界大戦は連合国側の勝利となり、ギリシャは連合国によるトルコの占領・分割に参加してセーヴル条約を取り決めました。

その結果、オスマン帝国に属していた、

  • イスタンブールとその近辺地域を除く東トラキア
  • スミルナ地方(エーゲ海に面するトルコ西部の都市で今日ではイズミルと呼ばれる)

はギリシャに勢力圏に入ることとなりました。

希土戦争の勃発

しかし、第一次世界大戦後も当時のトルコ(オスマン帝国)には、まだ多くのギリシャ人が居住していました。

1919年、メガリ・イデアの影響を強く受けていたギリシャは、エーゲ海沿岸諸都市にいたギリシャ人共同体を保護するとの名目の下、軍をスミルナに上陸させます。

そして、今日のトルコにおいては首都であるアンカラに向けて兵を進めました。

しかし1922年の夏、ギリシャ軍はムスタファ・ケマル(後のアタテュルク)率いるトルコ軍に破れ、撤退を余儀なくされてしまいます。

その結果、スミルナはトルコによって占領され、130万人を超えるギリシャ人難民がトルコからギリシャへと押し寄せる結果となってしまいました。

これによりメガリ・イデアは終焉を迎え、またギリシャはセーヴル条約で得た領土を失っただけでなく、経済と社会は大きな混乱に陥っていくこととなったのです。

現在もトルコとギリシャの関係に影響を与え続けるキプロス問題

その後もギリシャとトルコは、様々な問題をめぐって対立を続けました。

例えば、

  • エーゲ海の国境線
  • イスタンブールにおけるギリシャ系少数民族とギリシャ正教会の扱い
  • 西トラキアにおけるムスリム(主にトルコ系少数民族)の扱い
  • 中東や西アジアの紛争地域からエーゲ海を超えてギリシャに流入する難民問題

などです。

そして、中でも特に大きな問題となったのが「キプロス」でした。

キプロス紛争の勃発

1930年代になるとギリシャとトルコの関係は一時的に改善しますが、1960年のキプロス独立以降、悪化していくこととなります。

まず、歴史の流れによってキプロスには、多くのギリシャ系住民とトルコ系住民が住んでいました。

また、第一次世界大戦の中でオスマン帝国からイギリス領として一方的に併合されていました。

このような状況にありながら、イギリスからの独立を果たしたまではよかったものの、

  • 同国の多数派はギリシャ系住民で、中にはギリシャへの併合を求めていた者が多かった
  • キプロス共和国の初代大統領となったマカリオス3世は憲法改正を行った少数派のトルコ系住民の権限を弱めようとした

ことなどが起こった結果、トルコ側とギリシャ側が衝突するようになりました。

そしてこれに対する形でトルコは、イスタンブールに住むギリシャ系少数派住民に対する差別を加速させます。

一方で、キプロスのギリシャ住民の中でも対立は起こっており、1974年7月には反マカリオスである軍事政権の後押しを受けたギリシャ系の兵士たちがクーデターを主導し、一時的にでもマカリオスは大統領の座から失脚することとなります。

さらに、この内部混乱に乗じて、トルコはキプロスのトルコ系住民保護を名目として、キプロスの北部へ軍を送り事実上の実効支配を始めてしまいました

事実上分断されてしまったキプロス

結果、キプロスは事実上、トルコとキプロスに分断された形となってしまったのです。

さらに1983年には、トルコ系住民が住むキプロス北部は、「北キプロス・トルコ共和国」という名称でキプロス共和国からの独立を宣言してトルコはこれを承認。

キプロス共和国と北キプロス・トルコ共和国の間には「グリーンライン」と呼ばれる境界線が引かれ、国連キプロス平和維持軍が監視することとなりました。

また、これ以降もギリシャとトルコの関係は悪化を続けるばかりで、一時は軍事対立の一歩手前まで発展したこともあります。

1996年、エーゲ海に浮かぶイミア岩礁の所有権を巡り軍事衝突が起こりそうになると、アメリカのクリントン大統領がそれを回避するために介入せざるを得ない状況になったほどでした。

大地震がきっかけで歩み寄り始めたトルコとギリシャ

しかし、両国はある時を境に歩み寄り始めることとなります。

それは1999年、トルコとギリシャ両国にまたがる地域で大地震が発生し、ギリシャとトルコの国民がお互いに助け合ったのがきっかけでした。

以降、ギリシャとトルコの2国間交流が、公式または非公式のもの共に活発になっています。

例えば、1999年のヘルシンキEU会議以降、ギリシャはトルコのEU加盟を支援し続け、ギリシャの有識者の中には「トルコがEU加盟の条件を満たせばギリシャにとっても長期的な好影響が望める」と主張する人が多くいます。

また、ギリシャのパパンドレウ首相は就任直後にイスタンブールを訪問し、トルコのエルドアン首相と会談。

2国間交流をさらに活性化させ、歩み寄りを続ける姿勢を示しました。

これはパパンドレウが外相時代(1999年~2004年)に強く推進したことで、実際に彼は「トルコとの改善をした」点で外務大臣として高い評価を受けていました。

その後もパパンドレウとエルドアンは文通を続け、交流を促進するための「ハイレベル協力会議(High Level Cooperation Council)」の開催を決定。

2010年4月、ギリシャのドロウツァス外相とトルコのダウトオール外相がアンカラで会談し、両国にとって前向きな措置を取っていくことを発表しました。

65年ぶりにギリシャを訪問したトルコの国家元首

2017年12月7日、トルコの国家元首としては1952年以来、65年ぶりに、エルドアン大統領がギリシャを訪問(エルドアンは首相時代の2010年にもギリシャを訪れているが、当時は国家元首では無かった)

話し合いの内容は経済や安全保障など当たり障りのない内容に限られ、キプロス問題などに触れることはありませんでしたが、ギリシャ国民はファンファーレを鳴らして盛大にエルドアン大統領を歓迎しました。

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トルコとギリシャの関係|オスマン帝国時代やキプロス問題が影響を与える両国の関係とは?のまとめ

トルコとギリシャの関係について見てきました。

両国には1974年以降、キプロス問題が横たわり、これがトルコとギリシャの最大の対立点となっています。

一方で、ギリシャは2016年3月に締結されたEUトルコ間の難民条約を支援するなど、両国は少しずつですが歩み寄りを見せています。

今後、キプロス問題が直ぐに解決されることはないかもしれませんが、現状を見ると、それでも両国の関係は少しずつ良くなっていくと考えられそうです。

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