ツタンカーメンの謎と秘密|ファラオの呪いも含めた3つのミステリー

ツタンカーメンの謎と秘密を見ていきます。ファラオの呪いとして知られる話を始めとした、3つのミステリーを確認していきましょう。

トゥト・アンク・アメン、一般的な呼称でツタンカーメンは、紀元前1342年頃から紀元前1324年頃まで生きた古代エジプト第18王朝のファラオで、エジプトが大きな変化を迎えていた時代に短期間だけ国の指揮にあたった人物でした。

ツタンカーメンは歴代ファラオの中でも、恐らく最も世界的に有名な人物だと言えるでしょう。

古代エジプトの新王国時代の王たちの墓が集中する「王家の谷」において、1922年に考古学者のハワード・カーターが、王墓としては珍しく何千年もの間ほとんど盗掘されることなく残されていた墓を発見。

そこに眠っていた遺体こそツタンカーメンのものであり、その遺体の顔を覆うように被されていた黄金に輝くマスクなどによって、世界中へ大きな衝撃を与えたのです。

しかし、ツタンカーメンの墓が見つかり、ミイラが発掘されて研究が進んでいくにつれて、幾つかの謎や秘密が明らかになってきます。

さらに、ツタンカーメンの墓の発掘に関わった者たちに起こった不運によって、ツタンカーメンの呪いと呼ばれるミステリーも誕生しました。

この記事では、呪いの話も含め、ツタンカーメンにまつわる3つの謎と秘密について見ていきたいと思います。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

ツタンカーメンの謎・秘密1:ツタンカーメンの墓は王の墓ではない?

1922年11月4日、考古学者のハワード・カーターによって、古代エジプトの新王国時代の王たちの墓が集中する「王家の谷」において、最後の墓が発見されました。

これが現在「ツタンカーメンの墓」と呼ばれるもので、そこには黄金のマスクをはじめとした様々な副葬品と一緒にツタンカーメンのミイラが埋葬されていました。

しかし、このツタンカーメンの墓は、王の墓としては規模が小さいのではないかとの疑問が一部の研究者から呈され、なかには他の目的をもとに計画、完成された墓が、ツタンカーメンの急逝にともないツタンカーメンの墓として使われることになったのではないかとの意見もあります。

また、数々の埋葬品が発見されているものの、4つに分かれた部屋のうち、壁が漆喰そして塗料で塗られた箇所は、ツタンカーメンが埋葬されていたひと部屋のみ。

他の王家の墓に比べて、施された装飾が圧倒的に少なかったことも、この疑問を加速させました。

その結果、

  • ツタンカーメンの墓は、本来はツタンカーメン専用に作られたものではなく、実はより規模の大きな墓の一部に壁を作り、そこに出来た空間をツタンカーメンの墓に当てたのではないか?
  • 実はまだ見つかっていない別の秘密の空間がツタンカーメンの墓の壁の向こうに存在し、そこには本来この墓に埋葬されていた人物のミイラが眠っているのではないか?

といった主張もされてきました。

ただし、この主張に関して行われたレーダー調査によると、「秘密の隠し部屋はない」という結論が現在は出ています(参照:NATIONAL GEOGRAPHIC

ツタンカーメンの謎・秘密2:どのように死を迎えたのか

ツタンカーメンに関する謎や秘密の一つとして「どのように死を迎えたのか?」、つまり彼の死因についても良く触れられます。

ツタンカーメンがエジプトを統治したのは紀元前1333年から1324年までのわずかな期間であり、19歳ほどの年齢で亡くなってしまったと推定されています。

青年に差し掛かって年齢的には健康なはずなのにも関わらず命を落としたこと、さらにツタンカーメンのミイラの大腿骨は骨折しており、それから数日後に死亡したと推定されたことから、当初ツタンカーメンの死因は「他殺(誰かによって殺された)」であると考えられていました。

しかし、その後、CTスキャンやDNA検査など、科学的な調査が繰り返されていった結果、ツタンカーメンはアクエンアテン(アメンホテプ4世)と、彼の姉妹の一人の間に生まれたことが判明。

つまり、近親交配で生まれたツタンカーメンは、左足の骨や背骨が変形していたなど、生まれながらにして遺伝による先天的な疾患を多くもった虚弱体質を抱えた人物であることが分かったのです。

そして、これが大腿骨が骨折してしまった大きな理由であると推測されるようになり、

  • 重度の骨折によって骨が膝を貫通して大量の出血をもたらし、ツタンカーメンを死に追いやったのではないか?

という仮説が生まれました。

しかし、医学的にこの骨折が生前に起きたものか否かを確証することは難しく、死後に膝の骨が折れてしまった可能性も残されています。

一方で、DNA分析によって、当時まだ若い青年であった王は、マラリアに苦しんでいたことが示されています。

そのため、

  1. 遺伝的に虚弱体質だったこと
  2. マラリアによってさらに体調が悪化していたこと
  3. そこへ足の骨折が起きてしまった

といった複数の要因が重なったことによって、「ツタンカーメンの体調は著しく悪化し、最終的には命を落としてしまった」という説がツタンカーメンの死因として有力だとされています。

ただし、他にも、

  • 頭部打撃説
  • 骨折からの感染症説
  • 毒殺説
  • 鎌状赤血球貧血症(かまじょうせっけっきゅうしょう)説
    • 赤血球の形状が鎌状になり酸素運搬機能が低下して起こる遺伝性の貧血症
  • 歩行障害説

なども存在する上、全ての説はあくまでも仮説の域から出ないため、具体的な死因についてはまだ謎のまま残っていると言えます。

ツタンカーメンの謎・秘密3:ツタンカーメンの呪い?

古代エジプトのファラオたちの墓のほとんどは、王たちが埋葬されてからの長い時間の中で盗掘などの被害を受けて荒らされてきました。

そのため、全くと言っていいほど荒らされていない状態で発見されたのは、ハワード・カーターに1922年末に発見されたツタンカーメンの墓が初めてでした。

このプロジェクトに融資を行っていたイギリスの第5代カーナヴォン伯爵は、熱狂的なアマチュアエジプト学者で、カーター率いるチームと共に埋葬室へ足を踏み入れます。

彼らは、3000年以上の歴史を経てもなぜか荒らされることがなかったこの墓の中で、

  • 若いファラオのミイラ化した遺体
  • 多くの宗教的副葬品
  • 壁画
  • 碑文
  • ツタンカーメンが死後に必要とするであろう備品

を発見したのです。

この発見は、世界中のメディアに流され、大きなセンセーションを巻き起こし、ファラオの墓へ侵入しようとする者への「呪い」に関する噂が広まり、一部のメディアは、

封印されし墓へ軽率に足を踏み入れる者全てに最も恐ろしい罰が下る

という推論を掲載。

これが、現在でも有名な「ツタンカーメンの呪い(ファラオの呪い)」の始まりとなりました。

そして、これ以降起こった謎で不可解な関係者の死は、この「ツタンカーメンの呪い」説をさらに強めることになっていくのです。

ツタンカーメンの墓へ足を踏み入れてから半年もしない1923年4月5日に、カイロでカーナヴォン伯爵が56歳で死亡。

その直前には街の明かりが消え、これが「呪い」に対する恐怖の憶測を強めました。

加えて他にも、

  • 1923年に自身の妻によって射殺されたエジプトのアリ・カメル・ファーミー・ベイ王子
  • 1924年に謎の死を遂げたサー・アーチボルト・ダグラス・リード
    • ミイラのX線検査を行ったと言われている
  • 1928年にヒ素中毒で死亡したと言われているアーサー・メイス
    • カーター発掘チームメンバー
  • 1929年に自身のベッドで窒息死したと言われているリチャード・ベセル
    • カーターの秘書だった人物
  • 1930年に自殺したリチャード・ベセルの父親
  • 1939年に64歳のカーターがロンドンのアパートでホジキン病により独りで惨めに死亡

など、カーターチームのメンバーや、実際に墓を訪れた、または訪れたと言われている人々に次々と起こる死、暴力行為や奇妙な状況によって引き起こされた死が、このツタンカーメンの呪い話を盛り上げ続けたのです。

しかし、実際のところ、ツタンカーメンの墓に関わった、もしくは墓を訪れた人の多くは長命。

また、

墓の開封に立ち会った人で実際に急死したのはカーナヴォン卿だけであり、そのカーナヴォン卿も発掘以前に髭を剃っていた時に誤って蚊に刺された跡を傷つけたことにより熱病に感染し、肺炎を併発したことが死因であることが確認されている

(引用:wikipedia

など、ツタンカーメンの墓の発掘に関わった一部の人の死が大々的に報じられたことで、まるで関わった人全体の話であるかのように受け取られ、「ファラオの呪い」という謎めいた都市伝説が生まれしまったと言えます。

兎にも角にも、このツタンカーメンの呪いにまつわる謎は20世紀から語り継がれており、未だに多くの人の好奇心を掻き立てています。

合わせて読みたい世界雑学記事

ツタンカーメンの謎と秘密|ファラオの呪いも含めた3つのミステリーのまとめ

古代エジプトのファラオの一人で世界的に有名な、ツタンカーメンにまつわる謎や秘密を見てきました。

ツタンカーメンの呪いは都市伝説だとしても、まだまだいくつかの謎がこのファラオにはとりまいています。

そのため、今後もツタンカーメンに関しては新しい発見がされていくはずです。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

error:Content is protected !!