アクロポリスの丘の意味や歴史について見ていきましょう。ギリシャの首都アテネにある世界遺産として有名で、現在は一大観光地として人気です。
ギリシャの首都アテネでは、先史時代から存在する小高い石灰岩の丘「アクロポリス」を見つけることが出来ます。
このアクロポリスの丘は、長い歴史の中で、城塞、神々の神殿、信仰の中心地などと、用途を変えながら存在してきました。
現在では、世界で最も有名な古代遺跡の1つとなっており、また、ギリシャにおける人気な観光地ともなっています。
この記事では、アクロポリスの丘について、その意味から読み解くアクロポリスの概要、長い歴史、そして、知っておきたい4つの豆知識までを紹介していこうと思います。
意味から読み解くアクロポリスとは?
では、そもそも「アクロポリス」または「アクロポリスの丘」とは一体何をさすのでしょうか?
古代ギリシア語で「アクロス」は高い場所を、「ポリス」は都市を指すことから、古代ギリシア語でアクロポリスは「高い丘の上の都市」を意味し、ギリシアの岩石から成る高台に建設された「天然の要塞」の多くを意味するのに使われました。
(アルゴスのアクロポリス)
そのため、アクロポリスの丘と言えば、ギリシャの首都「アテネ」のものを指すことが一般的ですが、実はギリシャ国内には他にも「アクロポリス」と呼ばれる場所が各地に点在しているのです。
例えば、
- スパルタのアクロポリス
- 低くてそこまで目立たない丘の上に神殿が築かれている
- メガラのアクロポリス
- 双生児のように並ぶ2つの丘陵
- アルゴスのアクロポリス
- 大小2つの丘から成る
- コリントスのアクロポリス
- 巨大な丘でアフロディーテ神殿などが頂上に建っている
といったように、あまり知られていないもののアクロポリスは各地に存在します。
しかし、やはりアクロポリスまたはアクロポリスの丘と言えば、「アテネのアクロポリス」または「アテナイのアクロポリス」と呼ばれるものが圧倒的に有名でしょう。
そのため、この記事で「アクロポリス」または「アクロポリスの丘」と表記する場合、以下では「アテネのアクロポリス」を指すこととします。
ちなみに、アテネのアクロポリスには以下4つの傑作があることで知られ、現在は世界遺産にも登録されています。
- パルテノン神殿
- プロビュライア
- エレクテイオン
- アテーナー・ニーケー神殿(アテナ・ニケ神殿)
アクロポリスの丘の歴史
アクロポリスの丘の始まり
アクロポリスの丘は、古代ギリシャのポリス(都市国家)のシンボルとなった小高い丘であることからも想像がつく通り、その歴史は古くに遡ります。
例えば、平坦な頂上部分は、青銅器時代にまで遡る何千年もの昔から繰り返されてきた建築の歴史の結果だと言われます(ただし、青銅器時代末期のミケーネ文明において、ミケーネ人がこの地で耕作を始める以前のアクロポリスがどのようなものであったかを歴史的に記録した資料は存在しない)。
紀元前13世紀頃には、ミケーネ人達によって最初の城壁が作られたとされ、この城壁は約8世紀の間、アクロポリスの主要な防衛手段となっていきました。
やがてこの場所は宗教的な重要さも持つようになり、紀元前6世紀頃、古代ギリシャの中心的なポリスとなったアテナイの人々は、女神アテナを祀る、石灰岩で作ったドーリア式の神殿を丘の北東側に建設しました。
さらに、同じ紀元前6世紀に、アテナ神に捧げられたもう1つの神殿が建設され、加えて、ギリシア神話で出産の守護神とされる女神アルテミスを祀った神殿も建てられました。
パルテノン神殿の建設が開始される
そして紀元前490年頃にアテナイ人は、初期のパルテノン神殿として知られる壮大な大理石の神殿の建設を開始しました。
しかし紀元前480年、この地を攻めてきたペルシャ人による攻撃を受け、初期のパルテノン神殿は焼失して完全に破壊され、略奪行為によりアクロポリスの丘にあった他の彫刻もほぼすべて持ち去られてしまいました。
それ以上の損失を阻止するためにアテナイ人は、残された彫刻を天然の洞窟の内部に埋め、新たな要塞を1つは岩の北側に、もう1つは南側にと、2つ建設したのです。
ちなみに、ペルシャ人による破壊が起こる以前までのアクロポリスでは、すでに多くの宗教的な祭典が開催されていました。また、この時代の芸術品からは古代ギリシア時代の壮大さを窺い知ることができます。
アクロポリスの黄金時代
ミケーネ文明時代のアクロポリスの丘が単に素晴らしいものであったとしたら、古代アテナイの政治家でありアテナイの最盛期を築き上げた重鎮「ペリクレス」の指導下、アテネが文化的最高潮にあった黄金時代(およそ紀元前460年〜430年ぐらい)のアクロポリスの丘は、まさに壮観としかいえないほど素晴らしいものだったと言えるでしょう。
ペルシャ人による破壊の後、アクロポリスの丘をそれ以前になかったほど壮麗な状態へ再建すべく、ペリクレスは50年の年月を費やした大規模な再建プロジェクトを開始。
ペリクレスの指揮の下、2人の著名な建築家のカリクラテスとイクティノス、名高い彫刻家のペイディアスが再建計画に加わり、ペリクレスの計画を遂行しました。
残念なことにペリクレス自身は、アクロポリスの丘再建の全貌を見届けることなく死去してしまいましたが、彼の再建計画は続けられ、世界で最も象徴的な以下の構造物が建設されたのです。
- パルテノン神殿
- 紀元前447年に建設が始まって紀元前438年に完了したアクロポリスの丘観光の目玉として現存する巨大なドーリア式神殿
- 装飾が施された彫刻の数々やアテナの女神像が収められていた
- プロピュライア
- アクロポリスへの入口となる堂々とした建物で、中央建物と両翼にある構造物から成っている
- その片翼には精巧な絵が描かれている
- アテーナー・ニーケー神殿
- アテーナー・ニーケーを祭った神殿として、プロピュライアの右側に位置する小規模なイオニア式の建築物
- エレクテイオン
- アテナ神とその他数名の神々や英雄を祀った、大理石の神聖なイオニア式神殿
- 6体の少女の柱像(カリアティード)で支えられた玄関が最も有名
- アテナ・プロマコスの像
- 高さおよそ9mの巨大なアテナ神の青銅像で、プロピュライアに隣接して立っている
歴史の中で別な用途に使われたり破壊されたりしたアクロポリスの丘
古代ローマ時代のアクロポリス
紀元前146年にローマ帝国に破れ、ローマの勢力下に入った後、しばらくの間、アクロポリスの丘にほとんど変化は起きませんでしたが、紀元前27年にはローマ皇帝カエサル・アウグストゥスを祀った小さな神殿が建設されました。
それから数百年後、ローマ帝国がキリスト教を国教化すると、6世紀にはアクロポリスの丘の神殿の多くがキリスト教の教会として使用されるようになります。
パルテノン神殿は聖母マリアに捧げられ、エレクテイオンはチャペルとなったのです。
オスマン帝国時代のアクロポリス
さらに時間が経過し、1456年にアテナイがオスマン帝国の占領下に置かれると、アクロポリスの丘の神殿などは、モスクや弾薬庫としての役目を果たすことになりました。
例えば、パルテノン神殿はモスクに改築され、プロピュライアはオスマン帝国の支配者の住居となりました。また、トルコ占領軍の兵舎としての役目も果たします。
破壊や略奪被害にあってしまったアクロポリス
ハンガリー、トランシルヴァニアを巡って起きた、ヨーロッパのキリスト教国の神聖同盟とオスマン帝国の戦争「大トルコ戦争」の中、1687年9月26日、ヴェネチア人がアクロポリスの丘を砲撃した結果、当時、オスマン帝国軍の爆薬庫となっていたパルテノン神殿の多くが破壊されました。
また、このような惨事を経験したパルテノン神殿ではその後、略奪者や破壊者、観光客でさえもやりたい放題の状況となり、値段がつけられないほど貴重な芸術品の多くが盗まれてしまうことになりました。
パルテノン神殿を守る動きが始まる
しかし19世紀に入ると、建築物としてのパルテノン神殿の壮大さを守るため、第7代エルギン伯爵トマス・ブルースは、オスマン皇帝の許可を得て、オスマン帝国領内にあったパルテノン神殿から彫刻の数々を剥ぎ取る作業を開始。
パルテノン神殿にあった半数以上の彫刻を持ち去り、それらはエルギン・マーブルとして知られるところとなりました。
その後、エルギン・マーブルは大英博物館に売却され、今もなお、当博物館に多くが所蔵されて保全されています(※ギリシア政府は、パルテノン神殿の芸術品が今もイギリスの所有であることに対し強く異を唱え、彫刻がアテネに返還されるべきであると主張している)。
アクロポリスの丘の保全活動が本格的に開始される
そして、1822年のギリシア独立戦争後、アクロポリスは荒廃した状態でギリシアに返還されます。
これにより、ギリシア人は貴重な文化遺産の状態について調査を開始し、19世紀後半、細心の注意を払ってアクロポリスの丘全体の発掘作業が実施され、20世紀に入ると、修復作業が開始されました。
1975年には、建築家、考古学者、化学工学技士、土木工学技士などから構成されるアクロポリス文化財保護委員会を設置。
当委員会はアクロポリス修復局と協働し、アクロポリスの丘の歴史の記録、保全に取り組み、可能なかぎりオリジナルの状態に近づけて構造物を修復する作業を行っていくことになるのです。
また、今日では修復だけでなく、汚染や風化など環境要因による損傷を最小限に抑え、今後の損傷を防ぐ方法を確立する試みにも取り組んでいます。
結果、現在のところ、有名なパルテノン神殿の修復はまだ終了していないものの、エレクテイオンおよびアテーナー・ニーケー神殿の修復作業は完了しています。
アテネのアクロポリスの丘に関する4つの豆知識
アクロポリスに大理石を運ぶのは大事業だった
パルテノン神殿を含むアクロポリスの建造物の素材である大理石は地元産ではありません。
アテネの北東16kmにあるペンテリコン山で切り出され、その均一な白さで有名だった大理石です。
当時の技術だけでは大理石を切り出すのは難しく、石工たちは鉄の楔で亀裂を入れ、それに沿って木槌で叩いて大理石の塊を切り出しました。
その後、ペンテリコン山を下ってアテネまでの長い道のりを運び、さらに、アクロポリスの小高い丘の上まで塊を引き上げなければならない作業は、想像を絶するほどに大変だったに違いありません。
元々は着色されていた
現在一般的に、古代ギリシアと聞いて思い浮かべるのは白く輝く大理石ですが、アクロポリスのパルテノン神殿や他の建物はかつて、色鮮やかだったようです。
実際、パルテノン神殿のレーザークリーニングによって、青、赤、緑色が現れています。
しかし、時の流れとともに彫刻は日光に晒されて白くなり、また、18世紀と19世紀の芸術の新古典主義運動では、理想化された汚れなき過去がもてはやされ、いつの間にかアクロポリスの建設物は白く輝く建物というイメージが定着していったのです。
かつて存在した女神アテネの巨像
アクロポリスは今日まで残る古代ギリシアの最も複雑な建造物群であり、何世紀にもわたる自然災害、戦争、そして再建を考えると驚くべきことです。
しかし、それでも、上で述べたように歴史の中で多くの装飾や芸術は失われてしまいました。
その代表的なものの一つが、かつてパルテノン神殿の内部に置かれていアテナ女神の巨像。
アテナ・パルテノスと呼ばれた巨像は高さ12mにもなり、彫刻家フェイディアスが黄金と象牙で制作したものでした。
そして、この鎧を着て宝石で覆われた像は、見る者に畏怖の念を抱かせ、アテネの精神的そして経済的な強大さを見せつけていたのです。
アクロポリスの丘の観光にあたって重要なこと
アクロポリスの丘は一年を通して観光客に公開されており、アテネの街の繁華街から少し行った所に位置しています。
入場券は入口で買い求めることができますが、特にハイシーズンだと待つことを覚悟しなくてはなりません。
そのため、炎天下の真夏のアテンを考えると、この混雑を避けるためにも午前中早い時間帯か、もしくは夕方5時以降に到着するのがおすすめです。
また、とても重要なこととして、
- 履き慣れた靴
- 水
- 帽子
を忘れずに持参してください。
アクロポリスの丘の観光ではかなりの距離を歩くことになり、中には足場が悪い箇所もあります。
さらに、夏はとても暑くなるため、こまめな水分補給は絶対に忘れないようにし、日射病にならないためにも帽子の着用はすべきでしょう。
また、日焼けを防ぐためにも、日焼け止めクリームなどを塗っておいた方が良いと思います。
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アクロポリスの丘の意味や歴史|アテネにある世界遺産を探検!のまとめ
ギリシャの首都アテネにあり、古代ギリシャを象徴する遺跡「アクロポリスの丘」について詳しく見てきました。
アクロポリスの丘は、ギリシャの文化と歴史を凝縮した世界遺産。
ギリシャに興味があるなら、絶対に押さえておくべき場所です。