ゲルマン民族(ゲルマン人)について見ていきます。大枠でのゲルマン人の説明から、10の特徴的な部族の歴史までを紐解いていきましょう。
ゲルマン民族(ゲルマン人)は、現在のヨーロッパの形成に大きな影響を与えた民族で、ヨーロッパの歴史を理解する上では非常に大切な存在。
古代ローマに恐れられ、その後大きな勢力となってヨーロッパを支配していきます。
一方で、ゲルマン民族の中には非常に多くの部族が存在しており、それぞれの歴史を見ていかないことには、ゲルマン民族(ゲルマン人)の全体像はなかなか掴めません。
そこで、ゲルマン民族を理解するためにも、ゲルマン民族全体の基本概要を確認し、その後に特徴的な10の部族の歴史を簡単に紹介していこうと思います。
ヨーロッパの歴史やゲルマン人自体に興味がある人は必見です。
ゲルマン民族(ゲルマン人)とは?
ゲルマン民族またはゲルマン人とは、現在の北部ドイツ、デンマーク、スカンディナヴィア南部地帯、古代ローマ時代において大ゲルマニアという地域に住んでいた人々。
アイスランド人、ノルウェー人、デンマーク人、スウェーデン人、アイスランド人、オランダ人、ドイツ人、イギリス人(特にイングランドを中心に)などの祖先となった人々で、その身体的な特徴として、ブロンドの髪と碧眼、そして高い身長を挙げることが出来ます。
一方、このゲルマン人の一部は古代よりローマに恐れられており、度重なる武力衝突を繰り返していました。
例えば、西暦9年9月に起こった「トイトブルク森の戦い」にて、3つのローマ軍団を壊滅させローマ人を撤退させらことは有名です。
また、ゲルマン民族は西ローマ帝国の崩壊に加え、現在のヨーロッパの姿の形成に貢献した、ヨーロッパ史において非常に影響力の強い民族です。
ゲルマン人の特徴を知るためにも異なるゲルマン民族を見ていこう!
ゲルマン人は、その後に様々な国の人々の祖先となった民族グループであるため、一概に特徴などを挙げることが難しいのも確かです。
そこで歴史上存在した、ゲルマン民族に含まれる特徴的な10部族について簡単な解説と共に見ていき、ゲルマン人に関して全体での理解を深めていこうと思います。
特徴的なゲルマン民族①:サクソン人
この古代ゲルマン民族は、現在ドイツと呼ぶ北海の沿岸近くに住んでいた人々。イングランド人の民族形成にも大きく貢献しています。
サクソン人は多くの北部地域を侵攻していましたが、大部分は現在の英国グルートブリテン島の南部に行き、そこでアングル人やジュート人と交わることでアングロ・サクソン人となり、現在のイングランドに続く王国を建設することになるのです。
一方、ゲルマニアに残ったサクソン人は、王国は形成せずに4つの支族の連合体という形をとって勢力を保っていました。
そして、後にはフランク王国と戦い、フランク王国の勢力拡大を一時的にでも大きく遅らせることになりますが、結局はフランク王国に制服され、また、それまで受け入れなかったキリスト教も受容していくようになります。
特徴的なゲルマン民族②:西ゴート族
西ゴート族はローマ帝国の終わりである末期に、かなり勢力を増したゲルマン系民族。
(出典:kanopy)
西ゴート族はローマ帝国との複雑な関係を持っており、彼らは自身の都合に合わせて戦争を行ったり、平和主義を貫いたりしていました。
さらに、西ゴート族は古代ローマに勝利を収めたことでも有名。西暦410年に西ゴート族は、アラリック1世の下でローマを一時的にでも剥奪したのです。
その後、西ゴート族は、ローマとドナウ川の岸辺に定住することで合意し、ローマから支持を得ましたが、ローマにて予期せぬ飢饉が起こり、ローマ人によるゴート族に対しての差別的な扱いを助長させていくことになります。
結果としてそれが、ゴート族による反乱、その後の6年間にわたる戦争、ローマ軍の崩壊、ローマ帝国の滅亡へとつながっていったのです。
特徴的なゲルマン民族③:東ゴート族
東ゴート族は、黒海からバルト海にかけて帝国を建設したゲルマン人の一派。
(出典:Weapons and Warfare)
西暦370年に東ゴート族は襲撃に合いフン族の配下に入った後、彼らはローマの連合国としてパンノニアにて活躍することになる約80年後まで、歴史上で重要な役割を果たすことはありませんでした。
その後、5世紀末にフン族が衰退していくと、東ゴート族はイタリアへ移動して493年に東ゴート王国を建設し、東ローマ帝国との同盟により、一時はイタリアほぼ全域を支配するまでになります。
しかし、東ローマ帝国と対立するようになり、東ローマ帝国が東ゴート族に宣戦してからおよそ20年に渡って続いた戦争によって、西暦553年には東ゴート王国は滅亡してしまい、短命な王国として幕を閉じることになりました。
特徴的なゲルマン民族④:ヴァンダル族
ヴァンダル族はポーランドから来た東ゲルマン民族の1つと考えられている人々で、後にヨーロッパを移動してスペインおよび北アフリカで王国を建てました。
(出典:pinterest)
西暦406年には、パンノニア(ローマ帝国の皇帝属州)から西にドナウ川に沿って移動し、ライン川に到着した後、フランク族(ゲルマン民族の一つ)と戦闘になります。
この戦闘では2~3万人のヴァンダル族が亡くなったと言われ、ヴァンダル族にとっては壊滅的だったのです。
しかし、彼らの同盟国であるアラン族のおかげで、ヴァンダル族はなんとか勝利を手にします。
その後ヴァンダル族はライン川を渡ってガリアに攻め入り、略奪を繰り返しながら西へ移動し、アキテーヌ地域圏(フランス南西部にかつて存在した地域)を通って南へと侵攻しくのです。
ちなみに、このヴァンダル族の破壊行為が、現在の言葉「ヴァンダリズム(美しいものを汚染したり破壊したりする行為)」の語源となります。
特徴的なゲルマン民族⑤:ケルスキ族
ケルスキ族はユリウス・カエサルによって最初に言及されたゲルマン民族の一部。
(出典:pinterest)
ローマ帝国は紀元前12年にケルスキ族と他の一部ゲルマン民族を征服します。
その後、ローマはさらに北へ拡大しようとする中で、目の上のたんこぶであるケルスキ族内を分裂させようと企てますが、それに反発したゲルマン人たちが反乱を起こし、ローマ帝国との武力衝突につながっていくのです。
西暦9年、アルミニウスが率いたゲルマン民族の軍隊は、トイトブルク森の戦いにてローマ帝国軍を倒し、これはローマ史において最も壊滅的な敗北の1つとなります。
3つのローマ軍団が壊滅され、ローマは大ゲルマニア(当時ゲルマン民族が主な居住者として勢力を持っていた地域)からの撤退を余儀なくされたのです。
特徴的なゲルマン民族⑥:カッティ族
カッティ族はトイトブルク森の戦いで、ケルスキ族と連携してローマン軍と戦ったゲルマン民族の1つ。
(出典:pinterest)
戦いが終わって間もなくカッティ族の土地は、敗北のために報復に出たローマ軍の将軍ゲルマニクスによって侵攻されていきます。
それに対して、カッティ族は積極的に土地を守ろうとし、西暦50年には大きな侵攻勢力を送りこみましたが、ローマ軍は国境に沿って要塞を築くことで対応し、カッティ族は大敗をきしてしまいます。
その後、ローマ軍のゲルマニクスは最終的にカッティ族が住む地域の首都を征服し、一方でカッティ族は同じゲルマン民族であるフランク族とくっつき、西暦481年から511年まで在位したクロヴィス1世の下、メロヴィング朝フランク王国の住民として組み込まれていきました。
特徴的なゲルマン民族⑦:ブルグント族
ブルグント族は、現代のポーランドに住む東ゲルマン民族で、非常に大きな人口を抱えていたのが特徴。
(出典:https://migrationperiodrpg.weebly.com/)
ブルグント族はライン渓谷に沿ってローマの辺境に向かい、西方へ移動し、その移動の過程で民族の集団を形成していきます。
そして同時に、ローヌ川流域を領土とするブルグント王国を建国し、この王国は後にフランク王国の一部となっていきます。
ちなみに、ブルグント族はローマ帝国とともにカタラウヌムの戦いでフン族と戦ってフン族を追い返すことになりますが、この戦いの中でローマ軍も大きな被害を受けたことで西ローマの勢力が弱まり、後のフランク族の勢力拡大を許すことになるのです。
特徴的なゲルマン民族⑧:ランゴバルド族
ランゴバルド族は、イタリア半島の大部分を支配したかつては強力なゲルマン民族として知られる人々。
6世紀後半にランゴバルド王国を築き、その王国の下でイタリア半島の大部分を支配したことで有名です。
(出典:Thehistoryopedia)
ランゴバルド族はもともと小さな部族でしたが、危険を冒して新しい土地を征服し始めました。
彼らはゲピド族(ゲルマン民族に含まれるゴート族の一派)と何度も武力衝突を繰り返し、最終的には西暦567年、アスフェルドの戦いでゲピト族とその地域を征服します。
その後にランゴバルド族は、東ゴート族との戦争で人口が劇的に減少したイタリアへ攻撃を開始。
東ゴート族を含む他のゲルマン民族と協力して攻撃を続け、ついにはイタリアを壊滅させて西暦570年頃、ランゴバルド王国を築き上げるのです。
特徴的なゲルマン民族⑨:カウキー族
カウキー族は、エムス川とエルベ川の間の低地、ヴェーザー川の上流に至るまでの両岸に居住していたゲルマン民族。
興味深いことに、このゲルマン民族はかつて人工的な丘に住んでおり、その丘はとても高く、国境沿いに建設されていたとされます。
また、カウキー族は海の侵略者としても有名で、西暦41年にはガリアベルギア(古代ローマのガリア属州の一部)の海岸を襲撃し、この地域で長年に渡り襲撃を繰り返しました。
そして、2世紀後半までには、カウキー族の襲撃はより激しいものになり、同地域へ多大な影響を与えたのです。
このように激しい襲撃を繰り返したカウキー族は、西暦3世紀に非常に強い勢力となって現れてきた新しいゲルマン民族のフランク人の形成に、一部貢献した可能性が考えられます。
特徴的なゲルマン民族⑩:フランク人
フランク人は3世紀にライン川の下流および中流に居住していたゲルマン民族で、また、現在の西ヨーロッパの形成に大きな影響を与えることになるフランク王国を建国した人々として有名。
中でも、フランク王国の国王であり、初代神聖ローマ皇帝として知られるカール大帝は、歴史に詳しくない人でも名前を耳にしたことがあるかもしれません。
カール大帝の統治下でフランク人はヨーロッパの大部分を支配下に治め、現代のフランス、ドイツ、ベルギー、ルクセンブルク、オランダ、スイス、オーストリアなどの礎を築きました。
そのため、フランク人はゲルマン民族の中でも最も影響力を行使した人々であると言えるかと思います。
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ゲルマン民族(ゲルマン人)とは?その特徴を10部族の歴史を紐解きながら見ていこう!のまとめ
ヨーロッパ史上大きな影響力を持って現在の西ヨーロッパの基礎を作った、ゲルマン民族について見てきました。
ヨーロッパの歴史や世界史を理解する上で欠かせない民族集団であることは、間違いなさそうですね。
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