スエズ運河はエジプトの運河で、地図上で見ると分かる通り、地政学的な利害関係により、歴史の中で幾度となく対立が起こってきた場所です。
スエズ運河はエジプトが管理する運河で、19世紀に人類が成し遂げた偉業の一つ。
一方で、その歴史は複雑で、地政学的な重要性から様々な国が過去にスエズ運河を巡って対立してきたなど、スエズ運河は経済的、軍事的利権の象徴でもあります。
そんなスエズ運河に関する基本的な情報として、地図上での場所や、歴史のハイライト、エジプトやその他の国にとっての重要性を解説していき、最後には知っておきたい3つのポイントまでを紹介していきます。
エジプトにあるスエズ運河とは
スエズ運河(アラビア語でカナート・アル・スワイス「Qanat al-Suways」)は、全長が193km(当初は164km)あり、「地中海」のポートサイドからエジプトを通って「紅海」に接続する人口運河。
地中海と紅海の海水面の水位はほぼ等しく、運河は双方向通行です。
また、スエズ運河があるおかげで、そこを通行すればアフリカ大陸の周りを航行することなくヨーロッパからアジア・アフリカ方面に行けるというメリットが生まれます。
つまり、
- アジアや中東から物品や石油をヨーロッパ市場へ迅速に運ぶことができるようになる
- 同様にヨーロッパからも物品をアジアや中東へ迅速に運ぶことができるようになる
という、ロジスティクス面における大きなメリットがあるのです。
加えて、エジプト政府が直轄するスエズ運河庁が運営管理しているこのスエズ運河は、中東の石油に頼っている国にとっては大切で、地政学的な視点ではとても重要な要所になります。
一方、歴史的過程や重要性からエジプトの国家運営にとって、なくてはならないものとなっています。
スエズ運河の地図と場所
スエズ運河を地図上で見ると次のようになっています。
地図上に「ポート・サイド」と表記されている地中海側と、「スエズ」と表記されている紅海側を繋いでいる場所がスエズ運河の全容です。
スエズ運河の歴史
地中海と紅海を結ぶ運河を建設することは、古代エジプトの王であるファラオや、後世に現れた帝国主義者や企業家たちが抱いた長年の夢でした。
スエズ運河の前に存在したファラオの運河
古代エジプトがアケメネス朝ペルシャの王ダレイオス1世に支配されていた頃(紀元前522年〜紀元前486年)、天然のナイル川から紅海まで結ぶ淡水運河(ファラオの運河)が完成します。
それによって、直線距離ではないものの、ナイル川を経由した形で地中海と紅海が初めて結ばれました。
しかし、古代エジプトの治世が変わる中でこの運河は時が経つにつれて使用されなくなっていきます。
度重なるナイル川の環境変化によって破損し、加えて堆積するシルト(砂より小さく粘土より粗い砕屑物)によって維持補修が困難となり、紀元前1世紀の頃にはほとんど航行不可能なものとなってしまったのです。
フランスによって運河建設が推し進められた
その後時は流れ、ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)は、1798年~1801年のフランス軍によるエジプト遠征の際、運河の建設を積極的に検討しましたが、当時は地中海と紅海の海面の水位差が大きく、建設費用が多額になると考えられていたため、運河の建設は頓挫してしまいます。
それから数十年が経つと、地中海と紅海の海面の水位はほぼ等しいことが証明されます(※紅海の海面は少なくとも地中海より9m高いとの誤った結論だった)。
その結果、1859年頃に運河建設が着手されました。
しかし、当初の労働条件は劣悪で疫病が流行したり、多くのエジプト人が強制労働させられるなどしたため、エジプト総督のイスマーイール・パシャは強制労働を廃止。
フランスが建設機械を導入するようになるなど、紆余曲折もありながら1869年になとかスエズ運河が完成し開通されることになったのです。
イギリスの介入からスエズ運河庁の管理に移行されるまで
当初イギリスは海上輸送の世界的支配力を失うこと恐れて、スエズ運河の建設に反対していました。
しかしその後、エジプトの対外債務がかさむ状況の中で1875年、エジプト政府はスエズ運河会社(当時、運河を所有・管理していた会社)の株式を手放すことを決定。
それに乗じて、スエズ運河の地政学的脅威と同時にメリットを理解していたイギリスは、国策を転換してスエズ運河の株式44%を取得。
筆頭株主となることで、スエズ運河の実質的支配権を握ります。
それから月日は流れ、1922年のオスマン帝国滅亡後にエジプトは完全独立しましたが、スエズ運河の支配権がイギリスに握られたままの時期が続きました。
しかし1956年、エジプトのガマール・アブドゥル・ナセル大統領が「アラブ統一」を掲げてスエズ運河の国有化(スエズ運河庁へ管理の移行)を宣言します。
それに対し、スエズ運河の使用権や支配権を失うことを恐れたイギリス、フランス、イスラエルの軍は、エジプトに対して軍事行動を起こしましたが、スエズ運河の支配権を取り戻すことはできませんでした(※この戦争はスエズ危機や第二次中東戦争として知られる)。
当時、アジアやアフリカにある植民地との間を往復するための通り道としてスエズ運河を使っていたイギリスとフランスは特に危機的な状況に陥っていました。
これは、エジプト軍が故意に船を沈めることでスエズ運河は強制的に閉鎖されていたことによるものです(※1957年の4月に再開通した)。
また、アメリカとソ連(ソビエト連邦)は、イギリス、フランス、イスラエルが行った軍事攻撃を避難。なかでもソ連の行った「核の恫喝」が功を奏し、スエズ運河におけるエジプトの支配権が守られることになったのです。
第三次中東戦争によって1967〜1975年に再び閉鎖される
そして、イスラエルと中東アラブ諸国を巻き込んだ第三次中東戦争が起こると、運河に機雷、破壊された船、墜落した飛行機等などが集まって航行不能となったため、再度スエズ運河は閉鎖されることになります。
その結果、1967年から1975年までの8年間にも渡り、運行不能の状態が続いてしまうのです。
ちなみに、この時のスエズ運河の閉鎖によって15隻の船が運河内で立ち往生したとされます。
船の乗組員は3か月ごとに交代しましたが、船自体はその場所でずっと立ち往生しており、8年の間には、立ち往生した船同士の独自の売買制度なども作られたそう。
他にも、水上コミュニティーを築き、スポーツや交流イベントを主催したりしながら過ごす人々もいたといわれています。
そして、1975年に再開通されてようやく船が運河から出られるようになった時、8年もの月日のせいで、航行可能だった船は2隻しか残ってなかったと言われます。
エジプトや他の国にとってもスエズ運河は軍事的・経済的に重要
スエズ運河に対してはエジプトだけでなく、石油の大半を中東から輸入しているヨーロッパ諸国、複雑な同盟関係を通して運河航行の安全保障を確保するアメリカ、運河に対して経済的、軍事的関心を持つロシアや中国など、さまざまな国にとって重要な地政学的要所。
スエズ運河を継続的に開放することは、石油取引やその他の物品の輸送にとって非常に重要なだけでなく、地中海とアフリカ、中東の間の輸送を迅速に行うためにも不可欠です。
また今日、スエズ運河はエジプト政府にとって、ハードカレンシー(世界の外国為替市場において他国の通貨と自由に交換可能な通貨)獲得の重要な財源となっており、その額は年間の通航料50~60億USドル(※およそ5600億円~6700億円)に上り、エジプトにとっては経済的にとても重要なのが分かります。
このように経済的な重要性ならびに過去にイギリスへ事実上支配された経験から、大型船舶の一日の通航数の倍増を見込んでスエズ運河の拡張工事を行った際、エジプト政府は自国民のみが購入できる債券を発行して資金を調達しています。
そして、エジプトの政府関係者は、拡張と新水路の建設によって年間の収益は2023年までに倍以上となると見込んでいます
一方で、近年の原油価格の記録的な下落の結果、通航料を節約するためにスエズ運河を通らずにアフリカ大陸を周って航行する(航行日数は10日多くかかる)船も出てきています。
そのため、エジプト政府が今後、スエズ運河の航行量を増加させ、多額の投資資金を回収できるかどうかは不透明な状況です。
スエズ運河3つの魅力を紹介!
エジプト所有のスエズ運河に関して、場所や歴史などの基本知識を確認してきましたが、ここからはスエズ運河に関して知っておきたい3つのポイントを紹介していきます。
英国政府がスエズ運河の建設に猛反対した理由
スエズ運河の建設計画は1854年、フランスの元外交官フェルディナン・ド・レセップスが、エジプトの総督にスエズ運河会社の設立を掛け合ったことをきっかけに、正式にスタートしました。
そんな中、レセップスの提案した運河建設計画にはフランスの皇帝ナポレオン3世も賛同していたことから、多くの英国政府関係者は、この計画を英国が独占する海運事業に対抗する政治的な戦略と判断したのです。
そして、駐仏英国大使は運河の建設計画に賛同することは「自殺的行為」であるとし、英国紙はレセップスの運河会社の株式売却の試みを「一般市民を標的にした明らかな略奪行為である」と表明します。
結果、当時スエズ運河を所有していたスエズ運河会社の株式は、国際的評判を落とし、フランス以外の株式市場では全く売れない状況が続きました。
自由の女神はスエズ運河のために考案された
1869年運河の完成を控え、フランス人の彫刻家フレデリック・オーギュスト・バルトルディは、フェルディナン・ド・レセップスとエジプト政府に対して、
地中海側の入り口に「エジプトがアジアに光を灯す」と題した彫刻を作らせてほしい
と懇願しました。
古代のロドス島の巨像からインスピレーションを受け、バルトルディはエジプト農民の衣をまとった、高さ27.5mの巨体な灯を掲げる女性の像を考案しており、運河へ向かう船を誘導する灯台の役割を担うこともイメージしていました。
しかし、計画は実現せず・・・。
代わりに、アメリカ合衆国の独立100周年を祝うにあたり、バルトルディはスエズ運河のために持っていたアイデアに多少の変更を加えながらも、世紀式名称は「世界を照らす自由」で通称「自由の女神」として知られる像が、1886年にニューヨークでお披露目されることになったのです。
スエズ運河は冷戦時代の危機に重要な役割を果たした
1956年にスエズ運河は、エジプトと英国、フランス、イスラエルの連合軍の間に起きた短期間の戦争の中心となったのは、上の歴史部分でも触れた通り。
争いの種は英国軍が運河一帯を占領したことから始まり、1922年にエジプトが独立した後も続いた結果、エジプト人の多くは長引く植民地支配の影響に憤りを示していました。
そして、緊迫した状況は1956年7月、ナセルエジプト大統領が、ナイル川周辺にダムを建設する資金を確保するためにスエズ運河を国有化したことによって、戦争へと発展したのです。
1956年10月、英国、イスラエル、フランスの連合軍がエジプトを攻撃し、この出来事はスエズの危機として知られるようになりました。
ヨーロッパ軍は運河の近くまで侵攻しましたが、後にアメリカから非難、そしてソビエト連邦から核攻撃の脅しを受け、エジプトからの撤退を余儀なくされました。
この当時、アメリカとソ連は冷戦状態にありましたが、エジプトを巡っては両国の利害が一致し、冷状態にも関わらず連携を見せた歴史的瞬間の一つとなったのです。
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スエズ運河とは?地図や場所・歴史・エジプトにとっての重要性などのまとめ
スエズ運河は19世紀に建設され、1956年~1967年には運河をめぐって戦争が起きるなど、歴史的に多くの利害関係を生み出してきた場所。
そして、スエズ運河は現在もなお、所有権を有するエジプトだけでなく、運河に関心を寄せる世界中の国々にとって経済的、軍事的に重要な意味を持つ大切な運河です。