パナマ運河とは?場所や歴史を確認して世界三大運河の一つに思いを馳せる

パナマ運河を知っていますか?世界三大運河の一つであり、海上貿易において重要な水路です。その場所や歴史などを含め、パナマ運河に関して詳しく見ていきましょう。

今からおよそ100年前の1914年にパナマ運河が開通するまで、アメリカの東海岸から西海岸まで船で行く際は、南アメリカ大陸の南端を回らなければならず、13,000kmもの遠回りをしなければなりませんでした。

しかし、この状況は世界三大運河として評されるパナマ運河が建設されたことで一変しました。

パナマ運河の存在は今では当然のものとして受け入れられており、大西洋と太平洋を結ぶこの水路は海上貿易にとって非常に重要な役割を果たしています。

この記事では、そのパナマ運河について詳しく見ていこうと思います。

まずは、パナマ運河の概要や場所などの基本情報を確認し、その後に歴史を、そして最後には興味深い5つの真実を紹介していきます。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

パナマ運河とは?

パナマ運河とは、パナマ共和国のパナマ地峡(中央アメリカのカリブ海と太平洋との間、パナマ中部にあり、南北両アメリカ大陸を結ぶ帯状の地峡)を横断し、太平洋と大西洋を結んでいる全長約82kmに及ぶ人口の運河

世界三大運河(スエズ運河・パナマ運河・キール運河)の一つとしても知られます。

その幅は最小で91m、最大で200mとなっており、この運河を利用することでアメリカ大陸の東海岸と西海岸を、遠回りすることなく行き来することが可能

そのため、海上貿易においては非常に重要な水路です。

一方で、パナマ運河はパナマ共和国に位置するのにも関わらず、アメリカ合衆国によって建設が進められ、当初はアメリカによって管理されていたなど、「強制外交」とも考えられる、当時の中南米に対するアメリカ外交政策の負の部分を浮き彫りにする歴史建造物でもあります。

パナマ運河の場所を地図上で確認

パナマ運河の場所をより具体的に理解するために、アメリカ大陸全体におけるパナマ運河の位置関係を以下の地図で確認してみましょう。

パナマ運河は、地図上に示された赤マークの場所に建設されており、ちょうど北アメリカ大陸と南アメリカ大陸を結ぶ、国土の狭いパナマ共和国に位置しているのが分かります。

さらに拡大した以下の地図で、より正確にパナマ運河の場所を確認してみましょう。

(赤いラインがパナマ運河)

ちょうどパナマの中央辺りに建設されているのが分かり、途中、大きながトゥン湖を通りながら、下の太平洋から上の大西洋までを繋いでいるのが分かります。

この場所をほぼ直線距離で行き来することで、南アメリカ大陸の下にあるマゼラン海峡やドレーク海峡までぐるっと回らずに、アメリカ大陸の西と東へ船で行き来することが可能になるのです。

世界三大運河の一つ「パナマ運河」の歴史

パナマ運河の場所も含めた基本情報を確認してきましたが、パナマ運河はアメリカの中南米に対する外交史の光と影の歴史を表す建造物。

ここからは、その歴史にフォーカスして、この世界三大運河の一つを見つめていきたいと思います。

パナマ運河の歴史的背景

コロンブスが発見した「新世界」はアジアではなかったことをヨーロッパが理解して以来、ヨーロッパの探検家たちは太平洋と大西洋が直接交わる場所を探すことに魅せられていました

というのも、フェルディナンド・マゼランにより世界一周は達成されましたが、マゼランのとった、

  1. ヨーロッパから大西洋に沿って南に行き、
  2. 南アメリカ大陸の南端を通って大陸の西岸から太平洋に出る

(出典:wikipedia

という航路は、再現するのが困難で、当時の技術ではとても実行に移せるものではなかったからです。

しかし残念なことに、北アメリカ大陸と南アメリカ大陸共に、大西洋と太平洋をつなぐ自然な海上航路というべきものは存在しませんでした。

確認出来たのは、北アメリカ大陸と南アメリカ大陸をつなぐ中央アメリカに存在する幅およそ80km程の細長い陸地「パナマ地峡」だけだったのです。

しかし、ここで、

  • 二つの海を結ぶためにこの狭い水路に人工航路を作れば二つの海を繋げられるのでは?

という案が浮上してきました。

パナマ運河建設の最初の試み

パナマ運河建設に関する初の試みは、スエズ運河の建設をしたことでも知られるフランス人のフェルディナン・ド・レセップスの指揮の下、フランスの主導で1881年1月1日に始まりました。

しかし、このパナマ運河建設の最初の試みはあえなく頓挫してしまいます

(出典:wikipedia

「雨の降るジャングルで頻繁におそってくる泥流や、病気を運んでくる蚊の大群に刺され、黄熱病の蔓延の中で作業する」ことを想像してみてください。

こうした実務的な困難に加えて、工事技術の問題や資金調達の問題が浮き彫りになり、事業主が破産し、計画は放棄されることになってしまったのです。

この、フランス主導によるパナマ運河建設が行われた1881年から1894年にかけての期間、およそ2万人の作業員が病気や怪我によって犠牲になったと言われます。

アメリカによる買収

計画実行が不可能だと悟ったフランスは事業の買い手を探しました。

その買い手としてアメリカ合衆国が手を挙げます

これは、太平洋と大西洋を結び、簡単に行き来出来る航路が開けることは、両海洋にまたがる国土を持つアメリカにとって、経済的にも軍事的にも重要だと考えられたからです。

アメリカは運河の権利購入を決定し、当時運河の統治権(主権)を持っていたコロンビアと、パナマ運河の譲渡に関する交渉を開始。

両国間に「ヘイ・エルラン条約」と呼ばれる協定が結ばれましたが、コロンビア議会は主権の譲渡に難を示し、これを批准しませんでした

その結果、コロンビアからパナマ運河を譲り受けるアメリカの計画は破断してしまいます。

パナマの独立を支援してパナマ運河を手に入れたアメリカ

そこでアメリカが目を付けたのが、当時、コロンビアからの独立を求めるパナマ人たちによる運動

当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、

  • パナマを独立させることで、アメリカにとってより良い条件でパナマ運河を取得出来る絶好のチャンスが生まれる

と考えたのです。

これにより、アメリカはそれまでの方針を転換し、パナマ人のコロンビアからの独立を支持

ルーズベルト大統領は軍艦をパナマ沿岸に送り込み、1903年11月3日、パナマ人は独立を勝ち取って「パナマ共和国」を宣言

同年11月13日にアメリカは、パナマ共和国を承認します。

その後、領土と運河事業において、完全にアメリカの思うままになっていた新生パナマ政府とアメリカ政府の間で、新しい条約「パナマ運河条約」が11月18日に調印されたのです。

パナマ側の代理人はパナマ人ではなかった

ちなみに、当時のパナマ運河条約調印を巡ってはいくつかの問題も指摘されています。

まず、パナマ側の代理人として条約を調印したのは「フィリッピ・ビュノーヴァリヤ」という人物で、パナマ人ではなくフランス人だった点。

つまり、アメリカが条約を結んだ相手は、国の代表者でありながらその国の人間ではなかったのです。

(出典:wikipedia

そして、コロンビアとの交渉が破綻してから、パナマ運河に関する権利を取得するまでのアメリカのやり方は、「弱い者いじめ」だとも批判されます。

これは、コロンビアを静かに脅し、さらに独立を支援されたことで立場が弱くなったパナマには、新条約の締結を強要したことが理由で、当時のアメリカの外交政策はしばしば「砲艦外交(注)」と指摘されています。

(注釈)外交交渉において軍艦などの軍事力による威嚇などの間接的な使用によって相手政府に国家意思を示し、また心理的な圧力をかけることで交渉を有利に進める外交政策で、強制外交の一種とも考えられる

アメリカによって完成したパナマ運河

パナマ運河建設の主体がアメリカに移ると、現地の蚊によるマラリアや黄熱病の感染を防ぐためにも、まずは蚊の駆除が行われ、それによって蚊による疫病がほぼ根絶されます。

さらに、労働者たちの労働環境の改善も行われ、加えて、当時のアメリカが持ち得る最高峰の技術を取り入れて建設が進められていきました。

(出典:wikipedia

その結果、およそ10年の歳月と3億7500万ドルの費用がかかったものの、2014年にはパナマ運河が開通

現在このパナマ運河は、世界有数の技術的偉業として知られています。

ちなみに、この地勢に最適だと判断された結果、パナマ運河は閘門式運河(こうもんしきうんが)となりました。

これは、水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させるための装置である「閘門」を設けて、その操作によって水位を調整し、船舶の通過を図るようにした運河のことで、これもまた、パナマ運河を技術的偉業にしている理由の一つです。

パナマ運河を巡るアメリカとパナマとの争い

パナマ運河が開通した後、運河収入はパナマに帰属する一方で、運河地帯の施政権と運河の管理権はアメリカ合衆国に帰属する状況が続いていました。

また、運河の両岸にはアメリカの軍事施設が置かれ、ここを拠点としてアメリカはパナマに干渉し続けていました。

このような状態が続いた結果、パナマの人々は不満を抱え始め、パナマ運河の管理運営権はパナマにあるべきとし、アメリカ支配に対する反対運動が起きるようになります。

その結果、度重なる両政府間の協議の結果、1977年にアメリカのカーター大統領はパナマとの間に「新パナマ運河条約」を調印。

全ての国に対して常時開放された「国際運河」とすることを条件に、1979年に主権をパナマに返還し、それから20年間は両国で共同管理を行い、そして、1999年12月31日にアメリカは全てをパナマに返還することになったのです。

現在、パナマ運河はパナマにとって重要な収入源となっています。

パナマ運河に関して興味深い5つの真実

最後に、パナマ運河に対する理解をもっと深めるためにも、パナマ運河にまつわる興味深い5つの真実を紹介しておきます。

パナマ運河の利用状況

パナマ運河は「国際運河」として、実質的に世界をつないでいると言えるでしょう。

同運河を行き来している船は、毎年およそ1万4000隻で、出航地は世界中の160カ国以上1700以上の港町と言われます。

一方で、閘門システムによって水位が26mも上下し、全長82kmのパナマ運河を通過するには、9時間前後、大型船であれば10時間が必要とされます。

また、パナマ運河では、同じ方向または逆方向に向かって、2隻の船が同時に進むことが可能と言われますが、幅60mにもなる世界最大級の貨物船が通るには狭く、貨物船市場の約30%の機会損失をしているとも言われるため、パナマ運河はこれまで何度も拡張されいます。

パナマ運河の収益は年間約20億ドルにものぼる

パナマ運河の通航料は小型船舶なら数百ドル、超大型客船や貨物船舶の場合は数十万ドルまで様々。

また、通航料は船舶の大きさだけでなく、載せている貨物の種類によっても異なりますが、平均的な通航料はおよそ54,000ドルとされています。

そんなパナマ運河の収益は年間でおよそ20億ドル(約2220億円)に上り、パナマにとっては最も重要な収入源の一つです。

ちなみに、過去に最も安い通航料は、アメリカ人冒険家「リチャード・ハリバートン」が1928年にパナマ運河を泳いだ時に課せられた額で、体重が68kgであったハリバートンには、通行料として36セントが請求されました(現在だともう少し高くなるはず)。

運河建設の構想を初めて提案したのは16世紀のスペイン

1530年に当時のスペイン王であったカール5世は、測定師を派遣し、スペインからペルーまでの航海をしやすくするための運河建設の可能性を調査しました(スペインは大西洋側でペルーは太平洋側に位置する)

実現すれば、植民地政策でライバル関係にあったポルトガルに対し、軍事的優位に立てると考えたのでしょう。

そして、スペイン人探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが、2つの大海を隔てている「狭い陸橋」があると報告したことで、運河建設構想が持ち上がります

しかし、当時はそのような運河を建設することは「不可能」であると専門家たちに判断されたため、建設の着工には至りませんでした。

アメリカによるパナマ運河の完成はフランスから引き継いだことも大きい

フランスが着工を開始して失敗し、その後にアメリカがパナマ運河を完成させたことから、アメリカがパナマ運河建設の功労者として讃えられますが、実は、アメリカがパナマ運河を完成させられたのは、フランスが着工したものを引き継げたというのも大きな理由でしょう。

例えば、フランスがパナマ運河完成を目指していた期間には、およそ2億5000万ドルが注ぎ込まれ、7000万トンもの土が掘り起こされたとされます。

このように、フランスによって事前にパナマ運河建設に必要な基盤が整えられていた点は、アメリカによるパナマ運河完成を考える際に忘れてはなりません。

当初アメリカはパナマではなくてニカラグアに運河建設を考えていた

フランスがパナマ運河建設に四苦八苦している間、アメリカは、パナマの北にある中米の国ニカラグアに運河計画の可能性を見出していました

しかし、パナマからフランスが手を引いたこと、そして上述したように、フランスによってある程度、初期に必要な工程が終了していたことで、パナマにアメリカの興味が移ったのです。

ちなみに、「ニカラグア運河」の計画はその後も生き続け、2013年、香港に拠点を置く企業「HKNDグループ」が、ニカラグアに運河を建設することでニカラグア政府と合意。

2014年12月22日に着工式が行われましたが、2018年2月に中止となっています。

合わせて読みたい世界雑学記事

パナマ運河とは?場所や歴史を確認して世界三大運河の一つに思いを馳せるのまとめ

世界三大運河の一つ「パナマ運河」について場所や歴史などを見てきました。

パナマ運河は現在の世界における海上貿易で、なくてはならない存在になっています。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

error:Content is protected !!