エカチェリーナ2世はドイツ生まれのロシアの女帝です。彼女の治世では、数多くの文化・美術・教育・政治的な改革、そしてオスマン帝国などに勝利し、領土の拡大が行われたことで有名です。
近代史において非常に強大な帝国として歴史にその名を残し、現在のロシアに繋がる礎となったロシア帝国には、一人の偉大な女帝が存在しました。
その名は「エカチェリーナ2世」。
エカチェリーナ大帝とも呼ばれる人物で、ロシア史上最も長い34年もの間、ロシアの皇帝として君臨し、巨大で強大なロシア帝国を築き上げると同時に、ロシア文化の発展にも貢献した名君です。
この記事では、そのエカチェリーナ2世について詳しく見ていきたいと思います。
ロシアの女帝「エカチェリーナ2世」とは?
エカチェリーナ2世とは、ロシア史上において最も有名な女性君主の一人であり、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝として、1762年から1796年までロシア帝国に君臨した女帝。
もともとはプロイセンのシュテッティン(現在のポーランド領シュチェチン)に生まれ、第7代ロシア皇帝「ピョートル3世」の妃(皇后)であったものの、近衛連隊を中心としたクーデターによってロシア皇帝の座につきました。
そして、ロシア帝国にポーランドの一部やウクライナを取り組んで領土を拡大し、また、ロシア文化のパトロンとしてその文化育成や発展に尽力したなどから、歴代ロシア皇帝の中でも初代皇帝ピョートル大帝と並んで「エカチェリーナ大帝」と呼ばれることもあるほど、偉大な功績を残しています。
ちなみに、エカチェリーナ2世は「エカテリーナ2世」と表記されたり、英語の場合は「Catherine II」や「Catherine the Great」などと表記されます。
歴史を追いながらエカチェリーナ2世への理解を深めよう
エカチェリーナ2世の生い立ち
エカチェリーナ2世は1729年4月21日(当時使われていたユリウス暦)または1729年5月2日(現在のグリゴリオ暦)に、プロイセン王国(現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とした)のシュテッティンで「ゾフィー・フレデリーケ・アウグスタ」として生まれました。
エカチェリーナという名前は、その後、彼女がロシアの宮廷に嫁いだ時、ロシア正教に改宗すると同時に改名したものです。
彼女の父親クリスチャン・アウグストは地位の低いドイツの公爵でした。
また、母親のヨハンナ・エリーザベトは息子を欲しがっていたため、ゾフィーは基本的に、乳母によって育てられました。
しかし、後の政略結婚によって、ゾフィーの運命は大きく変わることとなるのです。
ロシアへ招かれて政略結婚したエカチェリーナ2世
15歳の時、ゾフィーは当時のロシア皇帝(女帝)「エリザヴェータ」によってロシアに招かれます。
これは、ゾフィーをピョートル大帝の孫である「大公(皇太子)ピョートル3世」に紹介するのが目的でした。
ちなみに、ゾフィーは本来、家柄的に見ると皇帝の妃になる身分ではありませんでしたが、ゾフィーの母の早くに亡くなった長兄カール・アウグストは、女帝エリザヴェータのかつての婚約者であったこともあり、ピョートル3世の妃候補となったのです。
(出典:wikipedia)
ゾフィーとピョートル3世は、特に惹かれあうことはありませんでしたが、政治的な理由から結婚が決定。
ロシア正教に改宗すると同時に名前も「エカチェリーナ2世」と改名され、1745年に大公ピョートル3世と結婚したエカチェリーナは、大公妃の称号を名乗るようになりました。
二人の間には4人の子ども(息子はそのうち一人)が生まれましたが、夫婦ともに多数の愛人を囲っており、特にエカチェリーナの愛人は、後に政治的に重要な役目を果たすこととなります。
ちなみに、もともとプロイセン生まれのエカチェリーナにとって、ロシア語は外国であったため、皇太子と結婚する前には猛烈に勉強したと伝えられます。
ロシアの女帝となったエカチェリーナ2世
エカチェリーナ2世がロシア帝国の権力を掌握する過程は、とても面白いものです。
ピョートル3世は多くの人から「弱い存在」として見られており、早々に、貴族、教会、そして軍隊の要人との間で敵対関係が生まれていきました。
その一方でエカチェリーナは、それらの人たちと良好な関係を築くことに全力を尽くしました。
そして当時の権力者たちの間では、ピョートル3世を追放し、代わりに7歳の息子パヴェルを大公の地位に就かせて母親のエカチェリーナを相談役(摂政)に任命する計画が持ち上がります。
子どもと女性が地位に就けば、他の貴族たちが自由に彼らを操れるだろうと考えたからでしょう。
しかし、この予想は大きく外れることとなります。
この計画を知ったエカチェリーナ2世は、当時の愛人で近衛軍の将校「グリゴリー・オルロフ」と軍隊の助けを借りてクーデターを起こし、ピョートル3世を逮捕させて皇帝の地位から追放してしまったのです(ピョートル3世が皇帝に即位してからたった6ヶ月程度のことだった)。
そしてはピョートル3世は後に、近衛部隊の監視役によって殺害されてしまいます(この殺害にはエカチェリーナも関与したのではないかと疑われている)。
(出典:wikipedia)
ピョートルがいなくなると、彼女は自身をロシアで唯一の指導者であると宣言し、ロシアの皇帝となりました。
エカチェリーナ「大帝」の誕生
エカチェリーナ2世は非常に頭の切れる女性で、彼女は外国人であるだけでなく、女性の指導者であったことから、その地位が決して安定したものではないことを理解していました。
そこでエカチェリーナ2世は様々な策略を練って、ロシア貴族たちとの仲を取り持とうと努力します。
貴族に政治的な地位や土地を与えるなど便宜を図って人気を買うことは、当時、決して珍しいことではありませんでした。
- 「私の仕事は専制君主であること。そして神様の仕事はそんな私を許すこと」
エカチェリーナ2世のこの言葉は、彼女の政治における哲学をとてもよく言い表しています。
エカチェリーナ2世と対外政策
一方で、国内政治に力を入れるだけでなく、対外政策にも力を入れて、その地位を絶対的な物としていきます。
それが、エカチェリーナ2世を後に「大帝」と呼ばれるまでにした「ロシア帝国領土の拡大」です。
対ポーランド・リトアニア共和国
ロシアは長いことポーランドと対立を続けてきましたが、エカチェリーナ治世のロシア帝国は当時のポーランド・リトアニア共和国(ポーランド王国およびリトアニア大公国)との戦いに勝利。
これをさらに発展させ、3度に渡るポーランド分割(1772年、1793年、1795年)によって、ポーランドの一部を獲得しました。
そして、過去の愛人のスタニスワフ・ポニャトフスキをその土地の君主に任命します。
対オスマン帝国
一方、彼女はオスマン帝国に対しても戦争を仕掛けます(露土戦争:1768年-1774年、1787年-1791年)。
ロシアは歴史的に、黒海における不凍港(年間を通して凍ることがない港)を痛切に望んでいたこともあり、この戦争でロシア軍は画期的な勝利を収めた後、エカチェリーナ治世のロシア帝国は、クリミア半島、黒海、そしてウクライナの一部を占領しました。
ここでも領土拡大に関する彼女の最も重要な相談役は、元愛人で政治友達のグリゴリー・ポチョムキンという人物でした。
また、この戦争のもう一つ重要な結果は、元オスマン帝国領の地域において正教会を復興させたことです。
しかしその一方で、今まで農奴制の存在しなかったウクライナに農奴制をもたらすという、否定的な結果も招くこととなりました(※農奴とは他の階級の人間が所有する土地に永久に従事する小作農のこと)。
とにもかくにも、ロシア国内の政治を治めながらロシア帝国の領土をポーランドとウクライナにまで拡大したエカチェリーナ2世は、「大帝」と称されるようになったのです。
エカチェリーナ2世とプガチョフの乱
1773年から1775年にかけて、農民、工場労働者、炭鉱夫、少数民族などによる、ロシア市場最大と言われる大規模な反乱「プガチョフの乱」が起こると、エカチェリーナは国内で危機に直面することとなります。
この乱を主導したエメリヤン・プガチョフは、ドン・コサックの少数民族の出身でしたが、自分はエカチェリーナの亡き夫「ピョートル3世」であると主張し、反エカチェリーナ2世の反乱分子を扇動します。
(※)ドン・コサックとは、ロシア帝国のコサック軍の一つ。ウクライナ人、南ロシア人やタタール人などによって構成され、現在の南東部ウクライナと南西部ロシアに当たるドン川の流域を中心に勢力圏を持った。
しかしその実態は、ロシア帝国の厳しい支配に疲れた、農奴制廃止を謳った農奴や少数民族による抗議運動でした。
(出典:wikipedia)
エカチェリーナは全力を挙げて軍隊によってこの乱を鎮圧しましたが、後に様々な改革を実行することを迫られます。
彼女は「訓令(ナカース)」を発布し、数多くの政治改革を行います。
そこには、ロシアの全国民を社会的地位や経済力に関わらず、法の前では平等に扱うことまでが含まれていました。
また、おそらく最も重要なのは、広大なロシアの各地に地域レベルの政府を設立したことです。
しかし一方では、農奴の力に対する恐怖心から、貴族に対して農奴をより厳しく管理することを許可したという側面もあります。
彼女の「啓蒙思想(注)」にもかかわらず、農奴は過去にないほど苦しい生活を迫られたのです。
(注釈)啓蒙思想とは、従来の封建社会の中でのキリスト教的世界観に対して、合理的な世界観を説き、人間性の解放を目指した思想(引用:世界史の窓)
文化の保護者としてのエカチェリーナ2世
様々な政策を実行していったエカチェリーナですが、おそらく彼女の残した最も大きな遺産は、ロシア文化のパトロンとしての功績でしょう。
また、彼女は啓蒙思想の申し子で、西ヨーロッパの近代化をロシアへ持ち込もうとしたことから、「啓蒙専制君主」とも呼ばれます。
エカチェリーナ2世は、フランスのヴォルテールやディドロといった思想家と文通し、ヨーロッパの偉大な画家の作品を購入するための美術品キュレーターを任命。
彼女の絵画コレクションは、今日のサンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館の所蔵品の基礎を成しています。
エカチェリーナ2世はまた、公園、庭園、劇場といった施設を拡大することにも尽力。絵画、音楽、そして文学の発展を強く促しました。
さらにエカチェリーナ2世は公立の学校を増やし、教育システムを拡大しました。その中でも特に大きな業績は、女性のための学校を設立したことです。
そして、エカチェリーナ2世は、次のような名言ともとれる言葉を残しています。
If Russians knew how to read, they would write me off.
ロシアの人々が読み書きできたなら、きっとすぐに私なんて打倒しただろうに。
きっと彼女は、このような教育の拡大によって、いつかそのことが現実になることを願っていたのでしょう。
エカチェリーナの治世の下で、帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクは世界でもっとも国際的な都市の一つになりました。
そして、この気力に溢れたロシア女帝は、1796年11月にサンクトペテルブルクで亡くなりました。
ロシアの女帝エカチェリーナ2世についての興味深い5つの話
ロシアの女帝エカチェリーナ2世の歴史を追いながら見てきましたが、ここからは、さらにこの女帝を知るためにも、彼女に関する興味深い5つの話を見ていきましょう。
息子パーヴェル1世は夫ピョートル3世の子ではない?
エカチェリーナ2世とピョートル3世の間にはバーヴェル1世という名前の一人の息子がいたわけですが、「パーヴェル1世は夫ピョートル3世の息子でないのではないか?」という憶測が存在します。
(出典:wikipedia)
当時、エカチェリーナ2世は、ロシア軍将校セルゲイ・サルトゥイコフと不倫関係にありました。
そのような状況が憶測を呼び、パーヴェル1世の本当の父親は「セルゲイ・サルトゥイコフ」ではないかと考える人が現れてきたのです。
そしてこの意見は、エカチェリーナ2世が後日、「ピョートル3世とは1度も夫婦生活を送ったことがなかった」と書いていたことで更に信憑性が高まりました。
しかし、今日の歴史家の多くは、この主張はピョートル3世の名声を落とすために、エカチェリーナ2世がわざと書いたものだと考えています。
これら歴史家によるパーヴェル1世の父親はピョートル3世であるとする主張は、両者の見た目と性格が似ていることが主な理由となっています。
エカチェリーナ2世の治世でロシア帝国はかつてないほど強力で巨大に
エカチェリーナ2世が治めるロシア帝国は、オスマン帝国との戦いで見事に勝利し、ロシアをヨーロッパで支配力のある国の1つにしました。
オスマン帝国への勝利だけでなく、ポーランド・リトアニア共和国にも勝利し、ロシア、プロイセン、オーストリアが関わったポーランド分割では、ロシアが最大の領土を獲得。
これによって、エカチェリーナ治世のロシア帝国はかつてないほど巨大で強力な国家に成長したのです。
およそ51万8千㎢もの土地を、短期間で自国領土に加えたのです。
頭では農奴制に反対していたものの農奴たちの条件を悪化させてしまった
1762年にエカチェリーナ2世が皇帝となった時、ロシアの人口はおよそ2000万人。
そして、そのおよそ半分、約1000万人を農奴が占めていました。
彼らには元々は多少なりとも権利が与えられていましたが、地主の権力が増すと農奴たちの権利は減り、18世紀半ばまでには事実上の奴隷となっていました。
一方で、エカチェリーナ2世は啓蒙思想を持っていたため、近代化の波に逆行する農奴制に対して頭では反対していたと考えられます。
しかし、「外国人+女性のロシア皇帝」という危うい立場にあったエカチェリーナ2世は、
- 農奴の解放は貴族階級や他の階級からの支持を失うことになる可能性が高い
ことに気づいていたため、頭では反対であっても、農奴たちの環境を改善することには躊躇し、逆に、その制度をさらに過酷なものにしてしまい、これが、プガチョフの乱に見られる農奴たちの強い不満を招くことになったのです。
愛人達には多大な見返りが与えられていた
エカチェリーナ2世の性に対する奔放さは有名な話で、67歳で亡くなる生涯の中で、非常に多くの男性達と関係を持ちました。
生涯で12人の愛人がいたと言われることもあれば、22人もいたとする話もあるぐらいです。
その中には、
- スタニスワフ・ポニャトフスキ
- 娘のアンナ・ペトロヴナの父親とされ、後年、エカチェリーナ2世の援助でポーランド国王になった人物
- グリゴリー・オルロフ
- 夫ピョートル3世へのクーデターを画策し、息子アレクセイ・ポーブリンスキーの父となった人物
- グレゴリー・ポチョムキン
- エカチェリーナ2世の長年のお気に入りで、彼女の治世では重要な政治家であり、ロシア軍トップの役職を務めた人物
などがおり、エカチェリーナ2世の晩年には、彼女の好みを知っていたポチョムキンが、より若い愛人男性を選んで女帝へ送っていたと言われます。
ちなみにエカチェリーナ2世は、愛人達の地位を保証するなど、多大な見返りを与えていたようですが、愛人関係が終わったあとでさえも、彼らには常に寛大だったよう。
例えば、ピョートル・サヴァードフスキーは1777年に愛人を「解雇」された後、一時金50,000ルーブルに加えて、5,000ルーブルの年金と4,000人の農奴を贈与されたと言われます。
長男よりも孫が後継者にふさわしいと考えていた
エカチェリーナ2世は、長男パーヴェル1世と折り合いが良くありませんでした。
彼は子供のころに母から引き離されて女帝エリザヴェータに養育され、エカチェリーナ2世が女帝になった後も国事から遠ざけられ続けたこともあり、両者の関係は非常に疎遠だったのです。
そのような状況に加えて、パーヴェル1世は皇帝の資質がないとエカチェリーナ2世は考えたのか、パーヴェル1世の息子アレクサンドル1世の方が、父親よりも後継者にふさわしいと考え始め、直接養育していきます。
しかし、アレクサンドル1世を後継者として指名しないまま、1796年11月17日にエカチェリーナ2世は67歳の生涯を閉じてしまいました。
その結果、パーヴェル1世がロシア皇帝の座を引き継ぎましたが、彼のとった政策は人気が得られず、5年間の治世の後に暗殺されてしまいます。
そして、アレクサンドル1世が父のあとを継いで1801年にロシア皇帝となると、1825年に死亡するまで比較的長く皇帝を務めたのです。
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エカチェリーナ2世|ロシアの女帝はオスマン帝国に勝利して近代化を推し進めたのまとめ
ロシア帝国史で最も偉大な女帝「エカチェリーナ2世」について見てきました。
彼女はロシアの社会に大きな変化をもたらし、それが、現代のロシアにまでつながる「偉大な祖国ロシア」の礎となったのは言うまでもないでしょう。