アメリカ南北戦争の原因や歴史についてわかりやすく解説していきます。有名なリンカーンの奴隷解放宣言なども行われた、アメリカの転換点となった重要な出来事の一つです。
アメリカ南北戦争は、現在の多民族国家アメリカとしての姿を形成する上で、重要な起点となった歴史的な出来事でした。
この南北戦争の中ではリンカーン大統領による有名な「奴隷解放宣言」が行われ、最終的には奴隷制度廃止を主張する北部側が南部側に勝利。
その後、奴隷として連れてこられた黒人達にも「法の下での平等」が約束され、黒人は市民としてアメリカの参政権を得ることになったのです。
この記事では、そのアメリカ南北戦争に関して、詳しく見ていこうと思います。
まずは、南北戦争の概要を確認することから始め、この戦争の背景にある原因をわかりやすく解説し、そして、南北戦争の歴史をダイジェストで追っていきます。
アメリカ南北戦争とは?
アメリカ南北戦争(American Civil War)、または単に「南北戦争」とは、当時のアメリカの北部諸州(アメリカ合衆国)と南部諸州(アメリカ連合国)の間で、1861年から1865年にかけて続いた戦争(内戦)。
1861年以前から、アメリカ合衆国の北部と南部の諸州の間には、
- 奴隷制度の存続
- 州の権利
- 西部開拓地への奴隷制の拡張
などを巡って何十年もの間、一触即発の緊張状態が続いていました。
そして、1860年11月に「エイブラハム・リンカーン」が大統領選に勝利したことを契機にして、南部の7州が1861年2月にアメリカ合衆国を脱退して「アメリカ連合国」を創設。
その後ほどなくして、アメリカ合衆国とのアメリカ連合国によるアメリカ南北戦争が開始されると同時に、連合国側にはさらに4州が加わります。
そして、南北戦争は1865年に連合国側(南部州側)が降伏し、合衆国側(北部州側)勝利して終結したのです。
ちなみにこの戦争は、それまでにアメリカ本土で起こった戦いのなかで、「最も多くの犠牲を生み出した」ことで知られる「アメリカ史上最悪の戦争」でした。
240万人の兵士のうち、およそ62万人が死亡、数百万人以上が負傷し、南部諸州は廃墟と化したのです。
アメリカ南北戦争の原因を知るために背景をわかりやすく追っていこう
南北戦争の背景
アメリカ合衆国が驚異的な成長の時代を経験していた19世紀半ば、アメリカ合衆国の北部と南部には、根本的な経済的地域格差が存在していました。
- 北部
- 製造業が発達し、農業は小規模農場に限定されて営まれていた
- 南部
- 経済的に労働力を奴隷に依存し、綿花やタバコなど、特定の農作物を栽培する大規模農業を基盤としていた
といった違いがあったのです。
また、この経済構造の違いによって北部が急速に経済成長していった結果、北部側の力は拡大。
それと同時に1830年代以降、奴隷制度を必要としない北部で奴隷制廃止の機運が高まり、新たな西部開拓地への奴隷制拡張に対する反対意見が勢いを増していきます。
これにより、南部諸州では「南部経済の支えであった奴隷制度を存続できなくなる懸念」が高まりました。
カンザス・ネブラスカ法の成立
1854年、アメリカ議会でカンザス・ネブラスカ法が採択されます。
この「カンザス・ネブラスカ法」は、「カンザス準州とネブラスカ準州を創設することを決定した」法律であると同時に、両州を、
- 奴隷州(奴隷制を認める州)とするのか
- または、自由州(奴隷制を禁止した州)とするのかは
- 住民たちの選択に任せる(住民たちが決定出来る)
としました。
その結果、カンザスと隣接するミズーリの町には北部の奴隷制反対派と、南部の奴隷制賛成派から、それぞれ武装した移住者が押しよせ、「血を流すカンザス(1854年〜1861年)」と呼ばれる一連の激しい衝突が起こります。
ちなみに、このカンザス・ネブラスカ法が可決された(民主党が主導した)ことに反対した、奴隷制反対論者が集まって結成したのが「共和党」で、共和党はその基本方針として、西部開拓地へ奴隷制を拡張することに反対の立場をとっていました。
ジョン・ブラウンによるハーパーズ・フェリー襲撃事件
1857年、のちに「ドレッド・スコット対サンフォード事件」と呼ばれるようになった、重大な判決がアメリカ合衆国最高裁によって下されます。
これは、
アフリカ人の子孫が奴隷であるか否かに拘らず、アメリカ合衆国の市民にはなれないとし、アメリカ合衆国議会は連邦の領土内で奴隷制を禁じる権限がないとした
(引用:wikipedia)
というものであり、簡単に言ってしまえば、奴隷制の合法性が確認され、奴隷制を禁止した「自由州」においてさえも奴隷の所有を許可し、南部州側の肩を持つ判決でした。
この判決が下された結果、奴隷制度廃止運動家として知られた「ジョン・ブラウン」が1859年、ハーパーズ・フェリー襲撃事件(武器庫の武器で奴隷たちを武装させて蜂起しようとした事件)を起こします。
この事件によって、北部と南部ではさらに緊張が高まることとなったのです。
エイブラハム・リンカーンの大統領就任
そして、北部と南部の緊張が最高潮に高まっている時に起こり、南北戦争の最終的な引き金となったと言える出来事が、エイブラハム・リンカーンのアメリカ合衆国大統領選出でした。
後世に「偉大な解放者」や「奴隷解放の父」と言われることからも分かる通り、リンカーンは奴隷制反対の立場を示しており、リンカーンの大統領選出が最後の一撃となったのです。
リンカーンの大統領選出から3ヵ月と経たない1861年2月に、サウスカロライナ、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスの南部7州がアメリカ合衆国から脱退。
ここに首都をアラバマ州モンゴメリーに置いた「アメリカ連合国」が結成され、その後のアメリカ南北戦争へと突入していくことになるのです。
※アメリカ連合国の首都はその後まもなくして、バージニア州のリッチモンドへと移された。
南北戦争開始から終結までの流れをわかりやすく解説
南北戦争開始
1861年3月、前年に大統領へ選出されたリンカーンが大統領に就任すると、連合国側は、サウスカロライナ州チャールストンの、合衆国側の支配下にあったサムター要塞に対して警告を発します。
そして同年4月12日、アメリカ合衆国側のリンカーン大統領が、サムター要塞に支援物資を運搬する「救援船派遣」の命令を下すと、連合国側は砲撃を開始。
ここに、南北戦争の口火が切られました。
サムター要塞の司令官ロバート・アンダーソン少佐は、砲撃の開始から2日と経たないうちに降伏し、サムター要塞の支配権はピエール・G・T・ボーリガード率いる連合軍の手に渡ります。
ちなみに、このサムター要塞の戦いの後、バージニア、アーカンソー、ノースカロライナ、テネシーの南部4州が加わったことで、連合国側は規模を拡大することになりました。
奴隷州でもデラウェア州、ケンタッキー州、メリーランド州、ミズーリ州、バージニア州の西部(後にバージニア州から「独立」してウェストバージニア州となる)は合衆国に残った。
しかし、これらの州内には連合国よりの市民感情があったため、その対応にリンカーンは苦慮したと言われる。
数で勝合衆国軍を連合国軍が打砕いたことで内戦は長期化していく
南北戦争開始時の状況を表面的に見ると、北部23州で構成されたアメリカ合衆国側が、人口の面で圧倒的に有利であり、(武器の生産をはじめとする)発達した工業力などの面でも優位性を活かせるため、北側が戦争を圧倒的優位に進められると思われました。
実際、当時の客観的な人口規模はそれぞれ、
- アメリカ合衆国:2200万
- アメリカ連合国:900万(うち400万人は奴隷)
と、北側の方が2倍もの規模を抱えていた上に、北部には南部より豊富な資金力、工場、馬、鉄道、食糧があったのです。
しかし、連合国側には、当時のアメリカで最も優秀な兵士や指揮官たちが揃い、連合国軍には強固な軍事的伝統があったのに加えて、南部側には「長きに渡り培ってきた奴隷制度を主体とする南部の伝統や組織を守るという信念」がありました。
その結果、1861年7月21日、第一次ブルランの戦い(南部側の呼称では第一次マナッサスの戦い)で、「ストーンウォール・ジャクソン」ことトーマス・ジャクソン将軍のが指揮した連合軍が、数の上では大幅に上回る合衆国軍(連邦軍)をワシントンD.C.へと後退させます。
これにより、「合衆国軍が勝利を収めるまでにそれほど時間はかからないだろう」という希望は打ち砕かれ、リンカーン大統領はさらに50万人もの新たな兵士を召集する必要に迫られました。
実際のところ、この内戦が長期化する懸念が出てきたため、北軍、南軍ともに、当初の戦力を大幅に増員する必要が出てきたのです。
バージニアでの南北戦争(1862年)
高齢のウィンフィールド・スコット将軍(合衆国軍)に代わり、南北戦争の勃発から最初の数ヶ月間、合衆国軍の最高司令官となったジョージ・B・マクレランは、部隊からの人望はあったものの、進軍に慎重な姿勢をみせていたことから、リンカーン大統領の苛立ちは募っていました。
(マクレラン:出典:wikipedia)
1862年の初春、マクレランはようやくポトマック軍(南北戦争の東部戦線における北軍の主力となった軍)を編成し、バージニア州へ進軍させてリッチモンドの南東に上陸。
5月にはリッチモンドに肉薄するところまで侵攻します。
しかし、南側のロバート・E・リー軍およびジャクソン軍による連合軍によって「七日間の戦い(6月25日〜7月1日)」が繰り広げらた結果、連合国軍へ大きな損害を与えることが出来たものの、ポトマック軍はリッチモンドを退却します。
ちなみに1862年の半ば、マクレランは引き続きポトマック軍の指揮を執ることになりましたが、連合軍の最高司令官は解任され、後任にヘンリー・W・ハレックが就任しています。
第二次ブルランの戦い
その後、南部側の軍司令官リーは、軍を北進させて連合国軍を分割。
(ロバート・リー:出典:wikipedia)
ジャクソン軍をバージニアのマナッサス付近にあったポープ軍(北側のジョン・ポープが率いた合衆国軍)と対峙させ、リー自身はジャクソン軍とは動きを別にし、後進の軍とともに進軍。
その後、リー率いる連合軍の部隊は、合衆国軍の左翼に集中攻撃を仕掛け、ポープ軍をワシントンまで後退させました。
この一連の戦いは第二次ブルランの戦い(8月28日〜30日)と呼ばれます。
そして、この勝利で勢いに乗った連合軍は北部侵攻を開始。
メリーランドへの侵攻を試みることになります。
アンティータムの戦いとフレデリックスバーグの戦い
マクレランはポトマック軍の立て直しに成功し、メリーランド州にて侵攻してきたリー軍と対峙します。
これは、アンティータムの戦いと呼ばれ、1862年9月17日に行われました。
アンティータムの戦いにおける犠牲者の総数は、合衆国軍側が約69000の兵力のうち約12,400、連合軍側が、約52000の兵力のうち約13,700に上り、単一日の戦闘としては最も流血の多い戦闘となった戦いとして知られます。
そして、このアンティータムの戦いにおいては合衆国軍側が勝利し、これによって北部州側への連合軍の進軍は足止めされ、連合軍はバージアへの後退を強いられることとなります。
(出典:wikipedia)
一方、この戦いに勝利したにも関わらず、消極的で合衆国軍側の優勢な勢いを活かしきれなかったとして、マクレランはポトマック軍の指揮官を解任され、後任の指揮官にアンブローズ・E・バーンサイドが任命されます。
12月13日、フレデリックスバーグ付近で、バーンサイド率いる合衆国軍がリー率いる連合軍に仕掛けた戦い「フレデリックスバーグの戦い」では、合衆国軍に多くの犠牲者を出したのにも関わらず、連合国側の勝利に終わり、バーンサイドは直ちに指揮官から解任。
「ファイティング・ジョー」ことジョセフ・フッカーが、後任の指揮官となりました。
そしてこの後、北軍、南軍の両陣営ともに、バージニア北部にあるラッパハノック川を挟んで相対し、一旦、冬営することになります。
奴隷解放宣言と1863年以降の戦況
リンカーン大統領は、1862年9月17日に行われたアンティータムの戦いで連邦軍が勝利したことで、同月に、
1863年1月1日以降、アメリカが合衆国が戦っていたアメリカ連合国が支配する地域における全ての奴隷たちを解放する
とした奴隷解放宣言を行います。
ただし、戦時下の特殊な状況下であることから、アメリカ合衆国側に忠誠を誓う、境界線付近の奴隷州と、合衆国軍によって制圧されたいくつかの地域に対して、この宣言が適用されるかどうかの明言を避けました。
この奴隷解放宣言によって、合州国側は国際世論を味方につけることに成功し、イギリスやフランスから援助を受けようとしていた南部連合国側の努力は失敗。
それと同時に、1865年に南北戦争が終結するまでに約18万6千人の黒人が、合衆国軍の兵士として参戦することとなったのです。
チャンセラーズヴィルの戦い
1863年の春、南北戦争の中盤、バージニアのスポットシルバニア・コートハウスの村落近くで、「チャンセラーズヴィルの戦い(1963年4月30日〜5月6日)」と呼ばれる戦闘が開始。
この戦いでは、連合国側の犠牲者数が1万3千名(兵力の約22%)で、合衆国側の犠牲者数は1万7千名(兵力の15%)と、両軍共に大きな損害を出し、連合国側が勝利します。
そして、この勝利によって勢いづいたリーは再度、北部の侵攻作戦を企てます。
ゲティスバーグの戦いとビックスバーグの包囲戦
6月に再び北部への侵攻作戦を開始ししたリー率いる連合軍は、7月1日、ペンシルベニア州南部のゲティスバーグ付近で、ジョージ・ミード将軍率いる合衆国軍に対峙します(ゲティスバーグの戦い)。
この戦いでは両軍ともに総力を結集し、3日間に及ぶ激闘の末、連合国側は合衆国軍の中枢を突破することができずに兵力の60%近い犠牲者を出し、合衆国軍側が勝利。
しかしながら、ミード率いる合衆国軍は追撃出来ず、リー軍の残党はバージニアに逃げ込むことに成功しました。
(出典:wikipedia)
一方で、1863年7月には、ユリシーズ・グラント少将率いる合衆国軍が、ミシシッピ州ウォーレン郡で行われた「ビックスバーグの包囲戦」に勝利します。
ちなみに、アメリカ南北戦争は、
- 東部戦線
- バージニア、ウエストバージニア、メリーランド、ペンシルベニアを主戦場とした
- 西部戦線
- ミシシッピ川から東、アパラチア山脈から西の地域を主戦場とした
の二つに分けることが出来ますが、ゲティスバーグの戦いは東部戦線での転換点、ビックスバーグの包囲戦は西部戦線での転換点とされ、両戦いによる合衆国側の勝利は、南北戦争の全体の転換点となったと言われ、ここから合衆国側優位に傾いていきます。
例えば、テネシー州中南部とジョージア州北西部で1863年9月18日から20日かけて続いた「チカマウガの戦い」では連合国側が勝利。
するとリンカーンは、合衆国軍におけるユリシーズ・グラントの指揮権を拡大し、グラントは増強された合衆国軍を率いて11月末、チャタヌーガの戦い(1863年11月23日〜25日)に勝利していきます。
合衆国側の最終的な勝利に向けて
1864年3月、リンカーン大統領はユリシーズ・グラントを合衆国軍の総司令官に任命。
西部戦線はウィリアム・T・シャーマンに託し、グラントはワシントンへ向かいます。
そしてグラントは、「スポットシルバニア・コートハウスの戦い」や「コールドハーバーの戦い」などを立て続けに起ち上げ、多大な犠牲者を出したにもかかわらず、グラントは消耗戦を止めることはせず、その後9ヵ月間にわたって「リッチモンド・ピーターズバーグの包囲戦(1864年6月9日から1865年3月25日にかけて、バージニア州ピーターズバーグ周辺で行われた一連の戦闘)」を展開していきます。
(ユリシーズ・グラント)
一方で、西部戦線を任されたシャーマンは、連合軍の裏をかく戦略で、9月までにアトランタを占拠。
その後、およそ6万人の連邦軍を率いて焦土作戦「海への進軍」を開始。
海への進撃とは、北軍のウィリアム・シャーマン将軍がアメリカ南部連合の早期降伏を目的として、南部連合の中心州であったジョージア州のアトランタから南東約400キロ先の港町サバナまでの主要部を、50キロから100キロ幅で行った破壊進撃
12月21日にサバナを占領するまでの道のりで、ジョージア州内を破壊していきました。
そして、サウスカロライナのコロンビアやチャールストンなどは、1865年2月半ばまでにシャーマン軍の手に落ちます。
この頃、連合国側では、連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスが遅まきながら1865年1月31日、総司令官の権限をリーに託しましたたが、その戦力はもはや尽きる寸前でした(※ロバート・E・リーはそれまで、優れた戦績にも関わらず「北バージニア軍司令官」の地位に留まっていた)。
連合国の降伏並びに消滅と南北戦争の終結
シャーマン率いる西部戦線の合衆国軍はノースカロライナに進軍し、4月半ばまでに、ファイエットビル、ベントンビル、ゴールズボロ、ローリーを占領。
その間、東部戦線のグラントが率いた合衆国軍による「ピーターズバーグ・リッチモンドの包囲戦」で、疲労困憊の様相を呈したリー軍は最後の抵抗を見せ、3月25日、合衆国軍の支配下にあったステッドマン砦に「ステッドマン砦の戦い」を仕掛けて占拠。
しかし、すぐさま反撃に合い、リー軍がリッチモンドを脱出した4月2日から3日にかけての夜に、勝敗は逆転してしまいました。
1865年4月9日、バージニア州アポマトックス郡で行われた「アポマトックス・コートハウスの戦い」で敗北した結果、ロバート・E・リー将軍が率いた連合側の北バージニア軍が降伏。
グラントはその降伏を受け入れ、ここに事実上、南北戦争が終わります。
その後、4月14日にワシントンのフォード劇場にて、リンカーン大統領が暗殺されるという事件が起きたものの、それから間もなく4月26日には、西部戦線の合衆国側指揮官シャーマンが、連合国側指揮官ジョセフ・ジョンストンの降伏を受け入れ、南北戦争は終結することとなったのです。
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アメリカ南北戦争の原因や歴史をわかりやすく解説|リンカーンの奴隷解放宣言は有名のまとめ
アメリカ南北戦争に関して、原因や歴史を詳しく見てきました。
この南北戦争後にアメリカ連合国は消滅。
また、南部州が合衆国へ復帰する前に、アメリカの北部州は憲法へ修正第13条、14条、15条を加えました。
修正第13条は奴隷制を廃止し、修正第14条は合衆国市民が「法の下で平等の保護」を得ることを保障し、修正第15条は黒人に投票権を与えたのです。
そして、その後に南部州が合衆国へ復帰した結果、現在のアメリカ合衆国の姿となっていきました。