アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)について詳しく見ていきます。古代ギリシャ時代のマケドニア王国に生まれて、世界帝国を短期間で築き上げた偉人です。
人類史にはこれまで、数々の偉大な人物が登場してきました。
しかし、そんな偉人達の中でも一際輝く存在として知られるのが、アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)です。
彼は、類稀なる軍事的才能を活かし、古代ギリシャにおいて1つの王国であったマケドニア王国を世界帝国にまで拡大させた天才。
また、アレクサンダー大王の遠征によって、各地に古代ギリシャ文化が植え付けられ、後にヘレニズム文化が花開くことになりました。
この記事では、世界史における有名人で偉大なアレクサンダー大王について、概要から生涯、そしてちょっとした逸話などを紹介し、詳しく見ていきたいと思います。
アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)とは?
アレキサンダー大王またはアレクサンドロス3世(紀元前356年7月20日〜紀元前323年6月10日)とは、古代ギリシャ人によって建国されたマケドニア王国(紀元前808年〜紀元前168年)の指導者であり、その天才的な軍事的才能を活かして、これまでに類のない巨大な帝国を作り上げた人物。
カリスマ的で無情、天才で権力に餓えた、そして外交的でありながら闘争心が強いといった要素を合わせ持ったアレキサンダー大王は、「大王のためならどこまでも出向き命をもいとわない」という強力な関係を部下との間に築き上げ、歴史的な偉業を成し遂げたのです。
残念ながらアレキサンダー大王は、「世界を統一する」という夢を果たさぬまま、32歳の頃に若くして亡くなっています。
しかし、彼がギリシャからアジアまで、広範囲に与えた文化的影響は非常に大きく、後に「ヘレニズム時代(アレキサンダーの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシアの文化融合が生じたアレクサンダー死後およそ300年の期間)」と呼ばれる新しい時代を築き上げました。
ちなみに、「アレキサンダー」、「アレクサンダー」、「アレクサンドロス」という3つの表記がありますが、アレキサンダーとアレクサンダーは英語風の読み方、アレクサンドロスはギリシャ語風の読み方を表記したものという違いだけで、どれも同じ意味を持ちます。
※当記事内では、マケドニア王になる以前は「アレクサンドロス3世」、マケドニア王即位以降は「アレキサンダー大王」と表記して区別することとします。
古代ギリシャ人の王国マケドニアが生んだ「アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)」の生涯
アレクサンドロス3世の生い立ち
アレクサンドロス3世は、紀元前356年にマケドニアの首都ペラにおいて、国王フィリッポス2世(ピリッポス2世)と、女王オリンピュアスの下に生まれました(※伝説では、アレクサンドロス3世の父親は古代ギリシャの最高神ゼウスであると信じられている)。
(フィリッポス2世)
その実の父フィリッボス2世は、息子アレクサンドロス3世には敵わないものの、自身も軍事に長けていました。
ペロポネソス半島北部に位置し、ギリシャの弱小国でしかなかったマケドニアを、フィリッポス2世は驚異的なスピードで強国に押し上げ、当時の世界に君臨した強大なペルシャ帝国を打ち倒すという野望を抱くまでに成長させたのです。
アレクサンドロス3世といくつかの重要な出会い
ブケパロスとの出会い
12歳の時、ペラの宮殿に大きい野生の牡馬「ブケパロス」が連れてこられます。
この馬は気性が非常に荒く、誰も乗りこなすことが出来ませんでした。
しかし、アレクサンドロス3世はブケパロスが自分の影に怯えていることに気づき、それを利用して勇敢にもブケパロスを見事乗りこなすことに成功。
この出来事は、その後に世界的偉業を成す彼の片鱗を見せて周囲に驚きを与えただけでなく、父フィリッポスにさえ恐れを抱かせたと言われます。
ちなみに、ブケパロスはアレクサンドロス3世の戦友として、彼が亡くなる直前まで長いこと一緒に活躍していくことになります。
哲学者アリストテレスとの出会い
そして、アレクサンドロスが13歳になると、父のフィリッポスは偉大な哲学者アリストテレスを呼び寄せ、息子の教育係に任命します。
アリストテレスはアレクサンドロス3世の文学、科学、医学、そして哲学への興味を掻き立て、ここでの教育が、後々の国家運営や戦争における軍事的戦略策定などに役立ったことは間違いないでしょう。
また、この時に一緒に学んだ学友たちが、後のアレクサンダー大王を支える将軍となっていきました。
カイロネイアの戦いにおいて若干18歳で初陣を飾る
ビュザンティオンへ戦いに赴くため、父のフィリッポス2世がマケドニアの国内をアレクサンドロス3世に与えた時、彼はまだ若干16歳でした。
そして紀元前338年、アレクサンドロス3世は自らの軍事的才能を試す機会として、「カイロネイアの戦い」に一軍の将となって父に従い参戦。
この戦いがアレクサンドロス3世にとっては初めての戦争参加となっただけでなく、見事勝利して初陣を飾ることとなったのです。
王に即位して「アレキサンダー大王」の伝説が幕を開ける
紀元前336年、ペルシャへの遠征を計画していた最中、父フィリッポス2世が護衛のパウサニアスに暗殺されてしまいます。
その結果、弱冠20歳のアレクサンドロス3世はマケドニアの国王に即位。このとき彼は、政敵となる人物を一人残らず暗殺したといわれています。
さらにアレキサンダー大王は、ギリシャ北部で起こっていた独立派の反乱を鎮圧。
こうして国内の問題を一掃し、父親の野望を受け継いだアレキサンダーは、マケドニアの世界征服への道を歩み始めていくのです。
小アジアの征服
グラニコス川の戦い
摂政に重臣アンティパロスを任命してマケドニア本国を任せたアレキサンダーは、自ら軍を率いてペルシャに向かいます。
彼の軍隊は、エーゲ海とマルマラ海のヘルスポントス海峡(今日ではダーダネルス海峡と呼ばれている)を渡り、グラニコス川(今日のビガ川)の河畔で、ペルシャ軍と対峙しました。
このグラニコス川の戦い(紀元前334年)では、アレキサンダー率いるマケドニア軍が勝利します。
(出典:wikipedia)
そこからアレキサンダー大王はさらに南方に向かい、アナトリア半島(現在のトルコ)のリュディアの王都サルデスを征服。
しかし他のアナトリア半島の都市ミレトス、ミラース、ハリカルナッソスでは住民による抵抗運動が勃発。
特にハリカルナッソスの抵抗は強く攻略は困難を極めました。
ゴルディアスの結び目
なんとかハリカルナッソスを攻略すると、アレキサンダー大王は同じアナトリア半島にあってペルシャの支配下にあったゴルディオンを占領。紀元前333年の時でした。
ちなみに、このゴルディオンは後に「ゴルディアスの結び目」という伝説の舞台となった場所。
その伝説とは、
ゴルディオンでは、ぼろぼろの荷車にきつく結びつけられた「ゴルディアスの結び目」を解くことができた者は「アジアの王になるだろう」と言われていました。
これを耳にしたアレキサンダー大王は結び目を解こうとしますが、まったく解けません。
そこで彼は発想を転換して剣を持ち出し、その結び目を一刀両断。自らをアジアの王と宣言したのです。
という話です。
イッソスの戦い
紀元前333年、アレキサンダー大王の軍隊は、トルコ南部に位置するイッソスの街の郊外で、アケメネス朝ペルシャの王「ダレイオス3世」が率いるペルシャ軍の大軍に直面。
ちなみに、この戦いにおいて両軍の規模はそれぞれ、
- ペルシャ軍:10万前後
- マケドニア軍:4万以下
であったとされています。
アレキサンダーの軍は数でこそは劣っていましたが、経験と戦略&戦術的能力、そして意志の強さは負けていませんでした。
(出典:wikipedia)
その結果、戦闘が続いていくなかで、状況はマケドニア軍優位に傾いていきます。
そして、アレキサンダー側の勝利が確実なものとなった時、ダレイオス3世は自らの妻と家族のことを全く顧みず、残された少数の兵士とともに逃亡を図ります。
このようなダレイオス3世の態度に失望したダレイオス3世の母親シシュガンビスは、ダレイオスを勘当し、代わりにアレキサンダー3世を養子として迎え、また、アレキサンダーとダレイオス3世の娘「ステタイラ2世」は後に結婚することになりました。
また、戦場に残されたダレイオス3世の家族はマケドニアの捕虜となったわけですが、アレキサンダー大王は彼女達をとても丁重に扱ったと言われます。
一方で、イッソスの戦いの後、ダレイオス三世は講和を申し入れましたが、アレキサンダーはこの提案を退けています。
ティール包囲戦
イッソスの戦いの後、アレキサンダー大王はフェニキアと呼ばれた現在のシリアやレバノンの一部にまたがる地域に侵攻。
当時のフェニキアには反ペルシャの都市が多かったため、マラトスとアラドス、ビブロスとシドンといった都市を次々と支配下に置いていきます。
しかし、紀元前332年1月、同地域の都市ティール(ティルス)が頑強に抵抗すると、アレキサンダー大王はこの重厚な砦に対して奇襲を仕掛けようとしますが、アレキサンダーは海軍を率いていなかったために、水に囲まれたティールに乗り込むことができませんでした。
(赤い部分がティール)
そこで彼はまず、ティールを長期間に渡って包囲し、その間にティールまで届く土手道(陸橋)を作るように命令。
これに対して、ティール側は何度もアレキサンダーの計画を阻止した結果、アレキサンダーは艦隊がなければティール攻略は不可能であると悟ります。
そこで彼は最終的に、大きな艦隊を集め、紀元前332年6月、ティールの壁に向かって出港。ついに、ティールを屈服させることに成功したのです。
アレキサンダー大王のエジプト征服
フェニキアを手中に収めたことで、アレキサンダー大王にはエジプト征服への道が見えてきました。
一方でこの頃、ダレイオス三世は再度、講和を提案しますが、アレキサンダー大王はこれを無視してエジプトに向かいます。
しかし、エジプトへの道中、シリアとエジプトの間に位置しているガザにおいて抵抗され、ここでも再び、数週間に及ぶ長期的な作戦「ガザ包囲戦(紀元前332年10月)」を展開せざるを得なくなります。
そして、ガザを陥落さえるとアレクサンダー大王はついにエジプトへ侵攻して占領。
この土地に自らの名前にちなんだ都市「アレクサンドリア」を築きました(アレキサンダー大王は、各地に都市を築くとそのアレクサンドリアという名前を付けていった)。
ペルシャの王となったアレキサンダー大王
ガウガメラの戦い
エジプト征服後の紀元前331年10月、アレクサンドロスはガウガメラ(チグリス川上流、現在のイラク北部と言われる)においてダレイオス3世の強大な軍隊と対峙。
ガウガメラの戦いと呼ばれるこの戦いでは、
- ペルシャ軍:20万前後(10万未満という意見もある)
- マケドニア軍:47000前後
と、イッソスの戦いの時以上に兵力の数には多きな開きがあったとされます。
(出典:wikipedia)
しかし、この戦いにおいてまたも稀代の戦術家としての才覚を示したアレキサンダー大王は、ダレイオスの裏をかく軍隊の動きを実現させ、もう少しで命を奪えるところまでダレイオスを追い詰めた結果、ダレイオスはまたも闘争。
アレキサンダーはダレイオスを追撃しようとしましたが、味方のパルメニアオンから救援を必死に要請されたため、ダレイオス追撃は後回しにしました。
そして、ダレイオス3世は逃亡中に自らの部下によって殺害されたのです。
ちなみに、その後にダレイオスの遺体を見つけた時、アレキサンダー大王は大いに悲しんだと言われ、王族の伝統に倣った葬儀をダレイオス3世のために執り行ったと言われます。
ペルシャ王アレキサンダーの誕生
紀元前330年、ダレイオス三世がいなくなった結果、ここにアケメネス朝ペルシャは崩壊し、アレキサンダー大王は、ついに父フィリッポス2世からの悲願だったペルシャ帝国の王となりました。
しかし一方で、この時にペルシャのもう一人の指導者ベッソス(ダレイオス三世を殺害した人物であると考えられている)も王位の継承を宣言。
アレキサンダーはこれを放っておくことはせず、執拗な追跡の末、ベッソスの軍は、アレキサンダーの友人でマケドニア軍の将軍として活躍したプトレマイオスに、ベッソスを差し出すことに合意。
ベッソスはその後に処刑され、政敵を排除したアレクサンドロスは晴れて「ペルシャ帝国の全権を握る」こととなったのです。
ペルシャ王に即位してから少しの期間はアレキサンダーにとって、それまで一緒に戦ってきた仲間との亀裂を生じさせてしまった時期でもありました。
ペルシャの文化を積極的に取り入れようとする態度への反感
ペルシャに暮らす民衆達から信頼を勝ち取るために、アレキサンダー大王はペルシャ風の服装を身に着け、また、ペルシャの宮廷の慣習である「プロスキュネーシス」を取り入れました。
これは相手の身分に応じて膝を着いたり、手にキスをしたりするといった礼儀作法のこと。
しかしマケドニア人の多くは、アレキサンダーのこのような変化、そして自らを神のように見せようとする姿勢を快く思わなかったのです。
彼らはペルシャ文化の実践を拒否し、なかにはアレキサンダーの暗殺を企てる者まで現れました。
パルメニオンの殺害
疑心暗鬼に陥ったアレキサンダー大王は紀元前330年、側近であったフィロタスがアレクサンドロス暗殺計画の首謀者であると決めつけ、フィロタスを処刑。
その後、フィロタスの父でマケドニア軍の中では非常に有能な将軍として活躍したパルメニオンの殺害も命令。
パルメニオンは、アレキサンダーの命を受けた自らの友人3人に殺害されます。
クレイトス殺害
紀元前328年、アレキサンダーのもう一人の側近将校であったクレイトスが、悲劇的な最後を閉じます。
ペルシャ贔屓のアレキサンダーに対して痺れを切らしたクレイトスは、泥酔してアレキサンダーに対して暴言を吐き、反抗的な態度を見せるようになりました。
そしてついにある日、この態度に我慢できなくなったアレキサンダーはカッとなり、槍でクレイトスを突き刺して殺害してしまうのです。
これは計画されたものではなく、ある一瞬の怒りの爆発によるものでした。
ちなみにアレキサンダーは、酔った勢いで暴力的になることが多かったと考えられ、これはアレキサンダーが生涯抱えた問題の一つだと言われます。
中央アジアへの侵攻を開始
ペルシャ帝国を支配下においてひと段落ついたアレキサンダーは、東はアフガニスタンまで、中央アジア方面への侵攻を開始していきます。
この中央アジアの侵攻においては、ソグディアナという地域で大きな抵抗に遭遇します。
ソグディアナとは、現在のウズベキスタンの町「サマルカンド」を中心とした地域一体のことで、紀元前6世紀頃、アケメネス朝ペルシャによって併合されて以降、ペルシャの地方州となっていました。
しかし、ソグディアナに住むソグド人を中心として人々は、未だに「ベッソス」に対して忠誠を誓っていたため、アレキサンダーはこの地域を制圧するのにゲリラ戦を強いられるなど苦労したのです。
無理だと思われた絶壁を登って士気を失わせて降伏させた
このソグディアナ攻防戦(紀元前327年)の中で追い詰められたソグディアナの人々は、「要塞」へ逃げ込んで降伏を断固拒否し続けます。
この要塞は絶壁の崖から成っていたため、彼らは難攻不落だと考えていたのです。
しかし、アレキサンダーはこの絶壁を登ることが出来たら報酬を出すとして志願兵を募集。
アレキサンダーの軍隊には、過去にも崖登りの経験をしたことがある兵士達が何人もおり、その崖登りを成功させたのです。
この結果、まさか絶壁を登ってくると思っていなかったソグディアナの人々は唖然とし、まだ戦えたのにも関わらず、士気を失ってついには降伏したのです。
ロクサネとの出会い
ちなみに、ソグディアナの要塞へ逃げ込んだ人の中にはロクサネという女性がいました。
このロクサナを見たアレキサンダーは、ロクサネに一目惚れしたと言われます。
そして、ロクサネがマケドニア人やペルシャ人とも異なる少数民族出身であるにも関わらず、アレキサンダーは彼女と結婚。
以後、ロクサネはアレキサンダーの遠征へ常に付き従ったとされています。
アレキサンダー大王のインド遠征
紀元前327年、アレキサンダー大王は、インドのパンジャブ地方への遠征に出発。
道中、平和的にアレキサンダーへ忠誠を誓った民族もいましたが、逆に激しく抵抗した部族もいました。
アレキサンダー最後の主要な戦い「ヒュダスペス河畔の戦い」
紀元前326年、彼はヒュダスペス川(インド北西部とパキスタン東部を流れる現在のジェルム川)の河畔で、その地方一帯の領主であったパウラヴァ族の王ポロスに対峙。
ここに、「ヒュダスペス河畔の戦い(紀元前326年4~5月)」が開戦されたのです。
ポロスの軍隊はアレクサンドロスに比べ経験では劣っていましたが、「ゾウ」という秘密兵器を持っていました。
(出典:wikipedia)
そのため、今までの戦いとは勝手が違い、マケドニア軍は苦戦。雷雨の中で繰り広げられた激しい戦いの末になんとかポロス軍を破りました。
しかしこの戦いで、アレクサンドロスの心を引き裂くような出来事が起こります。
愛馬ブケパロスが亡くなってしまったのです。
ブケパロスの死因が戦いで受けた傷であるのか、老齢による衰弱であるかは分かっていませんが、心を痛めたアレクサンドロスはこの地に新しい町を築き、その町は愛馬にちなんで「アレキサンドリア・ブーケファリア」と名付けられました。
ペルシャへ帰還することを決めたアレキサンダー大王
ヒュダスペス河畔の戦いの戦いの後、インド全土を征服したいと願うアレキサンダー大王は前進を続けていきます。
しかし、その道中で戦い疲れた軍隊が進軍を拒否。
また、アレキサンダー自身も戦いの最中に幾度も命の危険にさらされてきたことから、彼の側近達はペルシャに戻るようにアレキサンダーを説得。
その結果、アレキサンダーはインダス川を下ってペルシャの王都スーサに戻ることを決めます。
そして道中、マッロイ人との戦闘「マッロイ戦役:紀元前326年11月~紀元前325年2月」において重傷を負い、命を落としかけますが、なんとか傷から回復してスーサへ帰還したのです。
ペルシャ帝国の王都スーサへ戻ったアレキサンダー大王は、自らを頂点とした大帝国の繁栄には、ペルシャ人とマケドニア人を融和させ、より多文化に寛容な民族となっていく必要があると考えたのでしょう。
紀元前324年初頭、部下達の多くにペルシャ貴族の女性達と結婚するように命じ、「スーサの合同結婚式」が行われました。
一方で、マケドニア人の中には、「伝統的な文化や慣習をないがしろにしている」と考え、アレキサンダーへ反乱を起こすような者も出てきました。
対するアレキサンダーは反乱を起こしたマケドニア人将校達をクビにし、他の文化を受け入れる態度を率先して見せるためにも、代わりにペルシャ人将校を採用したのです。
そして、これを見た軍隊はアレキサンダーを恐れ、反抗することはなくなりました。
面白いことに、軍隊が自らに従うことになると、アレキサンダーはクビにした将校たちを再び重要な地位につけ、また盛大な仲直りの祝宴を開いたと言われています。
アレキサンダー大王の死
紀元前323年、アレキサンダーは広大な帝国の君主となっていました。
しかし同時期、彼は親友のヘファイスティオンを亡くし、大きな悲しみに包まれています(ヘファイスティオンはアレキサンダーの同性の恋人であったとも言われる)。
そして、この親友の死による悲しみを忘れるためか、アレキサンダーは世界征服の野望に向けてアラビア半島を征服しようと考えるようになっていきました。
しかし、アレキサンダー大王がその夢を叶えることはありませんでした。
数々の戦闘を生き延びてきたアレキサンダーは、紀元前323年6月10日、32歳の若さで亡くなってしまったのです。
アレキサンダー大王の死因ははっきりとはわかっていませんが、
- マラリア、肺感染症、肝不全、腸チフスなどによる病死
- 毒による暗殺
のどちらかが、一般的に言われる原因です。
いずれにせよ確かなことは、アレキサンダー大王は後継者を指名せぬまま亡くなったということ。
結果、アレキサンダーの死後、すぐに激しい後継者争いが始まり、彼が人生をかけて作り上げた統一帝国は悲しくも崩れ去ってしまったのです。
アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)に関する3つの逸話
アレキサンダー大王の生涯を詳しく見てきましたが、最後に、彼に関するその他3つの逸話を簡単に紹介してきます。
逸話① 哲学者のディオゲネスになりたかった?
アレキサンダー大王は若い頃、父フィリッポスが雇った古代ギリシャの大哲学者アリストテレスに学んだことは有名ですが、実は、もう一人の哲学者に魅了されていたという話が残っています。
その哲学者とは、ソクラテスの弟子の一人アンティステネスの弟子である「ディオゲネス」。
(出典:wikipedia)
ある日、ギリシャの一地方「コリントス」へまだ王子であったアレクサンドロス3世が訪れた時、ディオゲネスが挨拶に来なかったため、アレクサンドロス自ら近づいて挨拶をし、
私は富を持ってるが、貴方に何かしてあげられることはないか?
と尋ねると、ディオゲネスは「はい」と答え、
そこに立たれると日陰になるのでどいて下さい。
とだけ言いました。
アレクサンドロス3世は、ディオゲネスの返答と断り方に魅了され、
もし自分がアレクサンドロス3世でなかったらディオゲネスになりたい。
と言ったと伝えられています。
ちなみに一説には、このディオゲネスの言葉から学んだ「虚栄心を捨てる態度」を思い出したことが、インドにおいてそれ以上の進軍を停止した動機の一つだとする話もあります。
逸話② アレキサンダー大王は匂いまでも偉大だった!?
アレキサンダー大王の死から400年後に書かれた、帝政ローマのギリシャ人著述家「プルタルコス」による「対比列伝(英雄伝)」は、
- 一人の人物を記述した単独伝記
- 古代ギリシャの人物と古代ローマの人物の対比列伝
の2つからなる著作物。
その中には、アレキサンダーについても記されており、
アレキサンダー大王の肌からは最も好ましい香りが滲み出ていた。彼の吐息と全身は、身につけていた衣服まで芳しい香りにするほどだった。
という記述が残っています。
ただし、アレキサンダー大王が亡くなって400年後に書かれたことを考えると、あくまでも想像でしかないとは思いますが。
逸話③ 15年間続いた帝国拡大の中で一度も戦いに負けたことがない
稀代の戦略家であり戦術家であったアレキサンダーは、18歳の時に初陣で初勝利をして以降、その生涯において軍を率いた戦いでは一度も負けたことがありません。
そしてこれが、それまでの人類史において最大の規模となる帝国をたった十数年の間に築けた理由です。
ちなみに、アレキサンダーが戦いの中で採用した軍事的戦術や戦略は、未だに陸軍士官学校で教えられていると言われるほどです。
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アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)|古代ギリシャのマケドニア王国に生まれ帝国を築いた偉人のまとめ
世界史において最も偉大な人物とさえ言える、アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)について見てきました。
アレキサンダー大王は若くして亡くなってしまいましたが、彼が征服した地域の多くは古代ギリシャの影響を失うことなく留め、これによってヘレニズム文化が花開くことになりました。
また、アレキサンダーによって築かれた都市の中には、今日に至るまで重要な文化の中心地であり続けているものが存在しています。
このようなことから、アレキサンダー大王は、今でも史上最も強力で影響力の大きい指導者の一人であると考えられるのです。