クリストファー・コロンブスは、アメリカ大陸を発見した大航海時代の探検家として歴史的に有名で、その後の世界へも大きな影響を与えました。
15世紀から17世紀半ばまでの世界は、ヨーロッパ人によって世界各地への大規模な航海や開拓が行われた「大航海時代」を迎えていました。
この大航海時代の中ではアメリカ大陸が発見され、現在のアメリカ大陸に存在する国々や人々が形成されていくことになったのです。
そして、このアメリカ大陸発見を成し遂げ、その後の世界へ大きな影響を与えたと言われるのが「クリストファー・コロンブス」。
大航海時代の探検家であり航海者であり、幾度にも渡る航海の末に、ついにアメリカ大陸へたどり着いた人物です。
この記事では、そんなコロンブスについて、基本的な知識から生涯、そして、知っておきたい6つの話までを紹介していこうと思います。
クリストファー・コロンブスとは?
クリストファー・コロンブス(1451年頃〜1506年5月2日)は、大航海時代にアメリカ大陸を発見した、イタリアのジェノバ出身の探検家または航海者(※ジェノバ出身というのが定説だが、裏付けの証拠はない)。
1492年、1493年、1498年、1502年の4回に渡って、スペインを出発して大西洋を横断する旅に出ました。
コロンブスは、「ヨーロッパとアジアを直接結ぶ西回りの航路」を発見しようと挑戦し続けましたが、アジアまでの航路の発見には至りませんでした。
しかしその代わりに偶然、コロンブスはアメリカ大陸を発見したのです。
このように、大航海時代の探検家としてコロンブスは意図せずに「アメリカ大陸発見」を成し遂げたわけですが、アメリカ大陸にはすでに何百万の先住民が住んでいたことを考えると、真の意味で新世界(注)を「発見」したわけではありません。
しかし、コロンブスによるアメリカ大陸の発見は、ヨーロッパ諸国へ大きな影響を与え、その後、数世紀にも渡るアメリカ大陸の征服と植民地化の口火を切るきっかけとなったことは確かなのです。
(注釈)新世界とは大航海時代以降にヨーロッパ人によって新しく発見された大陸。そこには南北アメリカ大陸とオーストラリア大陸が含まれるが、アメリカ大陸だけを指して使われることも多い。
大航海時代に探検家となったクリストファー・コロンブスの生涯
当時の背景:大航海時代が始まっていたヨーロッパ諸国
15世紀から16世紀において、いくつかのヨーロッパ諸国の指導者達は、探検家たちが莫大な富と広大な未発見の土地を見つけてくれることを期待し、海外遠征を援助しました。
その中でも「大航海時代の先駆者」と言えるのがポルトガル。
1420年頃を始まりとして、キャラベル船と呼ばれる小さな船でアフリカ沿岸を行き来し、アジア・アフリカで手に入れたスパイス、金、奴隷などありとあらゆる品々をヨーロッパに持ち帰ったのです
クリストファー・コロンブスの生い立ち
ポルトガルによって大航海時代が幕を開けてからおよそ30年後の1451年頃、クリストファー・コロンブスは、イタリアのジェノバ(※ジェノバと言われているが証拠はない)で、羊毛職人の息子として生まれました。
そして、当時の時代背景的に航海者や探検家を目指す者が多かったこともあり、コロンブスは10代で商船での仕事に就きました。
しかし1470年、コロンブスの乗った船はポルトガル沿岸を北へ向かっていたところ、フランスの略奪船による攻撃にあって沈没。
海に投げ出されたコロンブスは何とか羊毛のかたまりにしがみついて岸まで流れつき、ポルトガルのリスボンにたどり着いたのです。
その後、コロンブスはリスボンで、数学、天文学、地図作成法、航海術を学び、この時期に世界を永遠に変えることになる計画の構想を、密かに練り始めるのです。
コロンブス初航海までの道のり
15世紀末、ヨーロッパからアジアへ陸路で到達することはほぼ不可能でした。道のりは長くて厳しく、行く先々で攻撃の標的になる危険性があったからです。
そこでポルトガルの探検家は、この問題解決のために海に目を向け、西アフリカ沿岸を南下し喜望峰を回る航路を開拓しました。
しかし、コロンブスには別の考えがあったのです。
巨大なアフリカ大陸を廻るかわりに、大西洋を西へ横切って航海したらどうだろうか?
コロンブスの考えは理論的には間違えていませんでしたが、計算には誤りがありました。
地球の円周は定説よりずっと小さい(※これは間違っていた)と主張し、ヨーロッパからアジアへの西回り航路は実現可能なだけでなく、比較的簡単なことだと信じていたのです。
コロンブスはこの計画をポルトガルやイギリスの役人に提示し続けましたが、ようやく興味を持ってくれる人物を見つけられたのは1491年になってからでした。
その人物とは、スペインの君主であったアラゴン王国の「フェルナンド2世」と、その妻でありカスティーリャ王国の「イザベル1世」でした。
スペイン王室の支援を受けることに成功
フェルナンド2世とイザベル1世に謁見したコロンブスは、スペインのために航海を成功させる条件として「富」と「名声」を手に入れることを提案。
それに対してスペイン国王夫婦は、カトリックの布教も要求しました(※フェルナンドとイザベルの二人はカトリック両王と呼ばれるカトリック界における代表的な人物だった)。
敬虔なカトリック信者であったコロンブスは、もちろんこの要求に対して異論はありませんでした。
こうしてコロンブスは、1492年にスペイン王室との契約「サンタ・フェ契約」にこぎつけ、その内容は、
- 見つけた富はどんな物でもその10%はコロンブスの物として良い
- 貴族の称号を与える
- 発見した土地の統治権を手に入れる(統治者の地位が約束される)
というものだったのです。
ついに初航海が始まった
1492年8月3日、コロンブスと乗組員は、ニーニャ号、ピンタ号、サンタ・マリア号の3隻に分かれてスペインを出航。
そして同年10月12日、コロンブス一行はついに「上陸」を果たします。しかし、そこは想定していたアジアではなく、バハマ諸島にある島の1つでした。
とにかくこれにより、新大陸(アメリカ大陸)ではないものの、アメリカ大陸に近いアメリカ海域へコロンブスは到達したのです。
その後、コロンブスは何か月にもわたって、現在のカリブ諸島の島から島へと航海を続け、スペイン王夫婦と約束した「真珠、宝石、金、銀、香辛料、その他の価値のある品々」を探し求めました。
その後、1493年3月、イスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国の一部)に築いた仮設入植地へ40人ほどの乗組員を残し、コロンブスは一旦スペインに帰還します。
その後の航海からアメリカ大陸発見まで
2度目の航海
それから約6か月後の1493年9月、コロンブスは2度目の航海に出ました。
そして、再び以前到達した場所へ戻るとコロンブスは、イスパニョーラ島の入植地が破壊されているのを発見(※何が起きたのかは未だに不明)。
この入植地を再建するために、弟のバルトロメとディエゴ、乗組員の一部、奴隷にした多くの先住民をそこに残し、自らはさらに西へと航路をとりました。
しかし、その航海の中でコロンブスは、思ったほどの金銀財宝やその他の貴重な品々を発見することが出来ません。
そこでコロンブスは、スペイン王国に約束していた金銀財宝の代わりとして、数百人にも上る奴隷を本国に送ってイザベル女王に献上。
しかし、コロンブスが「発見した」人々は既にスペインの民であって奴隷扱いは出来ないと考えていた女王はひどく驚き、この贈り物を送り返した結果、コロンブスは慌てふためき、釈明のためにスペインへ一旦帰国します。
奴隷商人としての顔を持っていたコロンブス
ちなみに、新大陸の発見ばかりが注目されるコロンブスですが、実はその航海を続けていく中で、「奴隷商人」としての非情な側面も持ち合わせていました。
コロンブスは発見した土地の原住民達を、人間ではなく資源または商品として考えていたようなのです。
実際、1回目の航海の後、何人かの原住民を連れ帰り、2回目からはもっと沢山の原住民をスペインへ送っています。
そして、2界目の航海においては、見つけた先住民達に対して徹底的な虐殺行為を行ったと言われ、彼らの住居は破壊され、所有物は略奪されました。
先住民達も反旗を翻すこともありましたが、近代的な武器を持つコロンブス側との戦力差は明白で、2回目の航海が終わる頃には5万を超える先住民が殺され、また、コロンブスの先住民に対する襲撃戦略はその後、スペイン人が繰り返した虐殺モデルとなって10数年続いたとされます。
ついに「新大陸」であるアメリカ大陸を発見するが・・・
1498年5月、コロンブスは3度目の大西洋横断の旅に6隻の船で出ました。
そして、この3度目の航海では、以前の2回よりも南寄りの航路を取った結果、現在のベネズエラのオリノコ川の河口に上陸。
これによって、ついにコロンブスはアメリカ大陸へ到達し、ここに、歴史上有名な「コロンブスによるアメリカ大陸発見/新大陸発見」が成されたのです。
その後、アメリカ大陸を一度後にしたコロンブスは、イスパニョーラ島の入植地に立ち寄りました。
しかしそこでは、コロンブスの弟達による劣悪な統治と残忍な行為に耐え切れなくなった入植者たちが、大反乱を起こしていたのです。
結果、あまりに酷い状況を見かねたスペインは、新しい監督者を派遣せざるを得なくなると同時に、クリストファー・コロンブスは逮捕され、鎖につながれた状態でスペインに送還されました。
クリストファー・コロンブスの最期
1502年、重罪は免れたものの貴族の地位をはく奪されたコロンブスは、最後にもう一度だけ航海を援助してくれるようスペイン国王にお願いし、その説得に成功。
4度目の航海でコロンブスはパナマまで到達し、その周辺を半年ほどさまよいましたが、最後は難破してしまい、1504年11月になんとかスペインへ帰国。
そして、1504年末に支援者の一人であったイザベル女王が死去すると、スペイン王室のコロンブスに対する扱いは冷淡なものとなります。
それからおよそ1年と半年後の1506年5月20日、クリストファー・コロンブスはこの世を去るのでした。
クリストファー・コロンブスにまつわる6つの話
大航海時代にアメリカ大陸発見を成し遂げ、ヨーロッパによるアメリカ大陸の植民地化のきっかけを作ったクリストファー・コロンブスの生涯を見てきましたが、最後に、コロンブスにまつわる興味深い6つの話を紹介しておきましょう。
クリストファー・コロンブスの正しい表記や読み方の謎
一般的に知られる「クリストファー・コロンブス」という名前は、彼の名前を英語表記した「Christopher Columbus」を発音した名前。
しかし、イタリアのジェノヴァで生まれたことを考えると、本来は「Cristoforo Colombo」と表記し、その読み方は「クリストーフォロ・コロンボ」となり、また、スペインにいたことを考えると、その表記は「Cristóbal Colón」であり、読み方は「クリストーバル・コロン」となります。
ただし、コロンブスの素性に関しては歴史的資料が少なく、「ジェノヴァ人」であるかどうかも不確かなため、最も正しい名前の表記や読み方については謎だったりします。
かの有名な旅に、あやうく出られないところだった
コロンブスにって、旅の資金を集めるのは至難の業でした。
ポルトガルの王などあちこちから援助を受けようと試みましたが、ヨーロッパの多くの統治者らはコロンブスを変人と思い、見向きもしなかったのです。
また、最終的には1491年にスペインの国王夫婦に謁見することが叶っていますが、それまでコロンブスは、スペインからの資金援助を得るために、実は何年間もスペイン王宮の周りをうろついていたとさえ言われます。
そして、スペイン王室から旅の許可が得られたという知らせをコロンブスが聞いたのは、説得を諦めて1492年にフランスへ向かったまさにその時でした。
コロンブスはケチだった
かの有名な1492年の航海で、コロンブスは陸地を最初に見つけた者に金貨を報酬として与えると約束していました。
そして実は、ロドリゴ・デ・トリアナという船員が、コロンブスが後にサン・サルバドル島と名付けた、現在のバハマにある小さな島を1492年10月12日に最初に見つけたと言われます。
しかしロドリゴは、約束の金貨を受け取ることはなかったのです。
コロンブスは、「ロドリゴが島を発見した前の夜に自分も同じ島を見つけていた」と主張。
なぜ見つけたのに言わなかったのかと言うと、
前夜は霞みがかっていて明かりも不明瞭で確信がなかったら皆に知らせなかった
と理由を述べて、ロドリゴへ金貨を与えることを拒否したのです。
とても信心深かったコロンブス
クリストファー・コロンブスはとても信心深く、自分は発見の旅をするために神によって選ばれし者であると信じていたようです。
また、コロンブスが発見した島や土地に付けた名前の多くは宗教的なものでした。
さらに、後年、コロンブスはどこへ行くにもフランシスコ修道会の修道服を着るようになり、裕福な提督というよりも、どちらかというと修道士のような姿をしていたと言われます。
しかも、3回目の航海の時、オリノコ川が南アメリカ北部の大西洋に流れ出るのを見たとき、コロンブスはそれをエデンの園だと思い込むようになったとも言われます。
コロンブスは新世界を発見したと思ってはいなかった
アジアへの新航路を探していたコロンブスは、死ぬ間際まで、自分が見つけたのは「アジアへの新航路」であり、また、見つけた土地は「アジアの一部」だと言い続けていました。
コロンブスが見つけた土地がアジアではないことを示すたくさんの客観的事実はあったものの、彼は日本や中国、モンゴル帝国皇帝の宮殿が、発見された土地の近くにあると信じ続けていたのです。
そしてついには、「地球は洋梨のような形をしていて、アジア大陸が見つからなかったのは膨らんだ形のせいだ」という馬鹿げた理論まで展開するようになっていきました。
コロンブスの遺骨の本当の行方
コロンブスは1506年にスペインで亡くなり、その遺骨は1537年にドミニカ共和国のサントドミンゴに送られました。
その後、1795年にハバナに送られ、1898年にはスペインに送り戻されたとされています。
しかし1877年、サントドミンゴでコロンブスの名前の付けられた遺骨の入った箱が複数見つかったのです。
この結果、現在はスペインのセビリアとドミニカ共和国のサントドミンゴの2つの都市が、コロンブスの遺骨を所有していると主張しています。
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クリストファー・コロンブスとは?アメリカ大陸を発見した大航海時代の探検家のまとめ
大航海時代の探検家「クリストファー・コロンブス」について、詳しく見てきました。
クリストファー・コロンブスは、確かにアメリカ大陸に到達しましたが、人類で初めてアメリカ大陸を発見したわけではありませんでした。
しかしコロンブスの旅は、その後のアメリカ大陸を大きく変えるきっかけとなり、現在の世界を形作る歴史的に重要な分岐点の一つだったのです。