アルカポネはシカゴを拠点として裏社会を取り仕切った、アメリカのギャングスターの一人です。映画「アンタッチャブル」の題材になったことでも知られるこの人物について、詳しく見ていきましょう。
アメリカのギャングスターであり、シカゴの巨大犯罪組織のボスとして裏社会を牛耳っていたアル・カポネという人物を知っていますか?
映画「アンタッチャブル」の題材になったことでも知られ、他にもこれまで数々の大衆向け作品が彼を題材にして世に送り出されてきたため、詳しくは知らなくても「アルカポネ」という名前を聞いたことがあると言う人は多いはずです。
この記事では、アメリカ裏社会の歴史における有名人「アルカポネ」について、詳しく紹介していこうと思います。
まずは、アルカポネという人物を大まかに理解するための概要を確認し、その後に彼の生涯を見つめ、最後に興味深い5つの話を紹介していきます。
アル・カポネとは?
アル・カポネ(1899年1月7日〜1947年1月25日)とは、1900年代前半にアメリカのシカゴで悪名を馳せたギャングの首領。
(出典:wikipedia)
用心棒から身を立て、ギャング組織を指揮すると同時に、
- 密造酒の製造と販売
- 売春業
- 賭博業
などの違法なビジネスを拡大し、数多くの犯罪組織をまとめあげていったことで、シカゴNo.1のボスに成り上がりました。
また、アルカポネは必要な物または欲しい物があると、それを手に入れるために脅迫行為をし、金を使い(賄賂による買収など)、殺人を犯した一方、メディアを上手に使って自らのイメージをコントロールすることに長け、世間からは慈悲深い人だと思われていた時期もありました。
しかし、ライバルを徹底的に殺害(虐殺)する無慈悲な仕打ちが世に知られると、シカゴにおけるアルカポネの支配力は失墜。
その後、刑務所へ服役していた間に患っていた梅毒が進行し、出所後にはそれまでの「強いボス」の面影はもはや無く、最後は脳卒中に伴う肺炎によって死亡しています。
ちなみに、アルカポネの顔には傷があったことから「スカーフェイス」というアダ名が付けられていましたが、誰もが恐れて本人の前では使わなかったと言われます。
アル・カポネの生涯
生い立ち
アル・カポネは1899年、ニューヨークのブルックリンにて、イタリア系移民の子として9人兄弟の四男として生まれました。
(出典:wikipedia)
幼少期のアル少年は成績も優秀な子供でしたが、厳格なカトリック系の学校に馴染めずに問題を起こして14才の時に退学。
その後数年間は、その年頃の子供がよくやるような仕事(お菓子屋で働く、地元のボウリング場のピンボーイなど)を転々とします。
しかしこの頃、アル少年は一方で、ブルックリン・リッパーズに始まり、フォーティー・シーブズの下部組織、後にはファイブ・ポインツ・ギャング(1890年代から1900年代にかけてニューヨークのロウアー・イースト・サイド界隈にいたイタリア系の比較的大規模なストリートギャング)など、ギャング組織とも接点を持つようになっていきました。
アメリカンギャングへの道へ
アルカポネがギャングの道に足を踏み入れたのは、ニューヨークのギャング「フランキー・イェール」の下で働き始めた時でした。
(フランキー・イェール:出典:wikipedia)
イェールが経営していた店「ハーヴァード・イン」にて用心棒やバーデンダーなど、いわゆる下っ端の仕事をなんでもこなした結果、イェールに認められ、アメリカの暗黒街でのキャリアが始まったのです。
ちなみにイェールの店で働いていた頃、アルカポネはある女性を侮辱して、その女性の兄からナイフで左頬を切りつけられました。
その傷跡は生涯消えず、この傷跡によって「スカーフェイス(傷跡がついた顔)」というニックネームが付けられています(本人はこのアダ名を良く思ってはいなかった)。
アルカポネは女性に謝罪しましたが、後にその女性の兄を用心棒として雇う立場となります。
シカゴへ呼ばれて一組織のボスとなる
1919年または1920頃、後に「暗黒街におけるアル・カポネの育ての親」と言われた「ジョニー・トーリオ」というシカゴのギャングスターが、アル・カポネをシカゴへ呼び寄せます。
(ジョニー・トーリオ:出典:wikipedia)
そこでの下積み時代、アルカポネはストリップ・クラブの用心棒や、買収宿のポン引きなどとして働くと同時に、不正なビジネスを組織化していくなど、裏社会での実績を上げていきます(この頃にあるカポネは、晩年を苦しめた梅毒に感染している)。
そして転機はすぐに訪れます。
1920年5月11日、トーリオのボスであり、シカゴ・アウトフィット(当初はサウスサイド・ギャングと呼ばれた)と呼ばれる犯罪組織の創設者「ジム・コロシモ(ビッグ・ジム・コロシモ)」が、自らが経営するカフェの事務所でフランキー ・イェールに殺害されたのです。
この殺害に関しては現在、酒の密売ビジネスを始めたいトーリオとカポネが邪魔になったコロシモを殺害するために、フランキー・イェールに依頼したと言うのが理由であったとされています。
(ジム・コロシモ, 出典:wikipedia)
とにかく、この事件によって一夜のうちにトーリオがサウスサイド・ギャングのボスの座に就き、アルカポネはその右腕となって、シカゴ暗黒街で一気に出世したのです。
その後、トーリオは他のギャングと平和的に話し合って縄張りを決める「和解」を試みましたが、1925年にノースサイド・ギャング(注)のボスが殺害されたのを機に交渉は決裂。
トーリオはノースサイド・ギャングから何度も報復の襲撃を受け、1925年1月24日、妻アンとの買い物からの帰り道、胸と首に銃弾を食らって瀕死の状態になり、なんとか命は助かったものの、暗黒街の第一線からは身を引くことを決め(実質的な引退)、組織トップの座をアルカポネに託したのです。
アル・カポネ26歳の時でした。
(注釈)ノースサイド・ギャングとは 1920年代から1930年代にシカゴで活動していたアイルランド系〈とポーランド系〉アメリカ人によるギャングで、闇市と酒場の奪い合いでシチリア系のサウスサイド・ギャングと対立していた。
不正ビジネスを取り仕切り堅気の世界をもコントロールしようとした
サウスサイド・ギャングのボスになったアルカポネは、ノースサイド・ギャングからの襲撃を警戒し、
- ごく親しい友人を伴って突然休暇に出掛ける
- 敵対するギャングに近づかないようにする
- シカゴ市警や市長を買収する
など、やり方は厭わずにあらゆる方法で自らの命を守ろうとしました。
その結果、生涯を通して周囲の人間が殺害される状況は続いた一方、アルカ・ポネ自身は生き延びていきます。
そして、自分に近い人間が殺される度にアルカポネは、その報復としてノースサイド・ギャングの構成員を無慈悲に殺害していきました。
一方で、どんなに敵からの襲撃があっても、アルカポネは裏社会ビジネスの拡大の手を緩めませんでした。
なかには、売り上げを増やすために酒の取引を強引に拡大し、仕入れを断った店を爆破することもあったとされます。
このような強引なまでのビジネス拡大によって、1927年頃には酒類、売春、麻薬といった不正ビジネスを取り仕切る強大な存在となっていたのです。
自らは悪事へ直接手を下さずに世間へ良いイメージを受け付けた
けれどもアルカポネはそれらの事件に直接は関与していませんでした(直接手を下したわけでははなかった)。
それどころか、アルカポネはメディアを通して「感じの良く親切な人」という印象を世間に与えていました。
野球観戦を楽しんだり、慈善事業に寄付したりする一面を見せ、「現代のロビンフッド(悪代官を懲らし,貴族や聖職者の富を奪い,貧しい人々を助ける義賊となって活躍する中世イギリスの伝説英雄)」と呼ばれることさえあったほどです。
例えば、カポネは密売によって得たお金で無料食堂に運営資金を提供。
(出典:wikipedia)
この食堂では12万人以上の人々に食事を提供し、大恐慌期に職を失ったアメリカ人の中には、ここでの食事が唯一手に入る食事だった人もいたと言われます。
政治にも影響力を広げていった
そして、アルカポネは政治にも金を使い始めます。
1927年の市長選では候補者の一人「ウイリアム・ヘイル・トンプソン」に26万ドルという莫大な額の献金をし、トンプソンを勝利させています。
その結果、当時のシカゴにおいては、「アル・カポネが実質的な市長である」と言われるさえあったのです。
アメリカの資本主義を良く理解していたアルカポネ
これら一連の行動は、アメリカ資本主義に対するアルカポネの思想を良く映し出していると言えるでしょう。
アルカポネは実際に、
This American system of ours, call it Americanism, call it capitalism, call it what you will, gives each and every one of us a great opportunity if we only seize it with both hands and make the most of it.
アメリカニズムだろうと資本主義だろうと呼び方はどうでもいいが、このアメリカの制度は、これを積極的に受け入れて最大限に活用しさえすれば、大きなチャンスを手にすることができる制度だ。
(出典:BrainyQuote)
と言っています。
聖バレンタインデーの虐殺からアル・カポネの晩年
アルカポネ率いるギャングが関与した殺人事件は数年間続きましたが、1929年、アルカポネは商売敵でノースサイド・ギャングを率いていたバッグズ・モランを殺害することで、この抗争へ終止符を打つことを企てました。
(バッグズ・モラン, 出典:wikipedia)
1929年2月14日のバレンタインデーに、アルカポネは数人の男を雇って警官の格好をさせ、偽の「強制捜査」を行うためにモランの本部に向かわせます。
ノースサイド・ギャングの関係者が倉庫で話をしていると、そこへやってきた偽警官が全員に壁に並ぶよう命じ、一斉に発泡して殺害したのです。
この事件では、モラン組の関係者7名が命を落とすことになりました。
一方で、モランは偶然にも到着するのが数分遅れた結果、倉庫に止めてあった偽物のパトカーに驚き、その場から立ち去ったことで事なきを得ていますが、これ以降、ノースサイド・ギャングの力は弱まり、カポネにとっての脅威ではなくなります。
アル・アポネに対する世間の批判が高まる
しかし、アル・カポネに対する最大の脅威は別のところから現れました。
(聖バレンタインデーの虐殺現場)
「聖バレンタインデーの虐殺」で行われた凄惨な殺害がマスコミによって大々的に取り上げられると、世間の人々はアルカポネに背を向けるようになります。
そして、この世論の声の高まりを受けて、警察組織はアル・カポネのビジネスの調査に着手し、総力を上げて起訴へ乗り出すことになるのです。
その結果、アルカポネは、
- 禁酒法違反の罪
- 法廷侮辱罪
- 武器を隠し持った罪
- 浮浪罪
- 偽証罪
で告発され、1931年にはとうとう脱税の罪で起訴され、懲役11年の判決が下されたのです。
刑務所生活から死
刑務所での生活が始まってから間もなく、患っていた梅毒が進行し始め、神経生涯などが目立ち始めます。
アルカポネは気も弱くなり、子供じみた行動をとったり、痴呆症状が出るなどし、他の受刑者の庇護が必要なほどでした。
アルカポネは1939年に釈放されましたが、その時には精神が錯乱することも多い状態で、それから7年後の1946年の時点で、アルカポネの知能は12才児並みになっていたと言います。
そしてアルカポネは1947年1月25日、脳卒中に伴う肺炎によって、48歳で死去しました。
シカゴギャングのボス「アルカポネ」に関する5つの話
アルカポネの生涯を見てきましたが、最後にアルカポネにまつわる興味深い5つの話を簡単に紹介しておきます。
イメージ作りに長けていた
すでに上でも触れた通り、アルカポネはメディアを通して世間に良いイメージを植え付ける「イメージ戦略のプロ」でした。
メディアによる良いイメージを維持することの重要性を認識していたアルカポネは、自身のイメージコントロールのための報道官を雇っていたのです。
その結果例えば、裏社会のボスであるにも関わらず、1930年3月24日発行の「TIME誌」の表紙にさえ登場しています。
最盛期には半数以上の警察が言いなりだった
アルカポネが強引なまでのやり方でビジネスを拡大出来たのには、賄賂を払って関係各者を自分の管理下に置いたのが大きな理由の一つだったと言えるでしょう。
起訴された後、1931年の裁判中にシカゴ警察署長は、
- 警官たちの60%以上がアルカポネに買収されていた
- 多くの警官が禁酒密売あるいは他の犯罪の隠蔽行為に直接関わっていた
と主張しています。
大好きなアーティストに会いたければ拉致してしまえ!
ある時、アルカポネは自分の誕生日に、有名なジャズ演奏家の「ファッツ・ウォーラー」に会いたくてたまらなくなったそう。
質問:その時、カポネがしたことは何でしょうか?
答え:もちろん、ウォーラーの拉致です!
拉致さらたウォーラーは当たり前のように怖がっていましたが、このギャングのボスが自分の大ファンだと分かってからは、リラックスして演奏したと言われます。
ちなみに、パーティを終えて帰宅する時、ウォーラーの手には数千ドルのチップが握られていたとか。
莫大な富をもたらしたカポネのビジネス
アル・カポネが手がけた様々な不正ビジネスは、カポネに莫大な富をもたらしました。
その結果、1929年、カポネ一家の年間収益は6200万ドルに上ったと言われ、現在の価値に換算するとおよそ8億3000万ドル(約900億円)。
酒の密売による儲けが最も大きく、次に、ギャンブル、売春、恐喝などが続いたとされます。
ちなみに、そんな大金を持っていたカポネが惜しみなくお金を使った対象の一つが車。
高級車を買うためにお金を使ったのではなく、自らの命を守るため、「V8 セダン」をカスタマイズすることにお金を費やし、当時の技術で可能な限りの強化を施したとされます。
彼の愛車は約1360kgの鋼鉄の鎧と防弾ガラスを備えていたのです。
アンタッチャブル
1987年に公開された映画「アンタッチャブル」は、アルカポネを題材とする映画ですが、もう一人の主人公を忘れてはいけません。
その主人公とは捜査官の「エリオット・ネス」。
彼もまた、実在した人物であると同時に、アル・カポネの犯罪を暴いて告発へ導いた張本人です。
(エリオット・ネス, 出典:wikipedia)
映画「アンタッチャブル」は、このエリオット・ネス本人が記した自伝を基に製作されており、この「アンタッチャブル」という名前は、エリオット・ネス率いる捜査官チームに対する実際の呼称でした。
ある時、エリオット・ネスは彼のチームと共に、シカゴ周辺における違法醸造者やアルカポネの密売稼業に関する場所を強制捜査しました。
その過程でアルカポネ側は賄賂を渡してエリオット・ネス達を買収しようとしましたが、想定された賄賂の受け取りをネス側は断固として拒否。
その結果、ネスとネスのチームは「アンタッチャブル(触れることが出来ないもの)」と呼ばれるようになったのです。
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アルカポネとは?アメリカンギャングで映画アンタッチャブルでも有名のまとめ
アメリカの暗黒社会で活躍したギャングのボス「アル・カポネ」について見てきました。
アルカポネは下っ端から成り上がり、大胆な不正ビジネスの展開と、世間に対するイメージ戦略によて、稀代のギャングスターとなった人物なのです。