ジュディ・ガーランドの晩年は薬物との戦いだった。

ジュディ・ガーランドの晩年について詳しく解説していきます。若くして大スターとなった歴史的女優の晩年は、薬物との戦いであり、またそのことが死因ともなりました。

ジュディ・ガーランド(1922〜1969年)は、1939年に子役として出演した「オズの魔法使」で一気に俳優としての階段を駆け上がり、大スターとなった、歴史的に有名な女優です。

しかし、若くして成功者となったジュディ・ガーランドの晩年は、全盛期とはかけ離れたものだったようです。

バルビツール酸系催眠薬を過剰に服用し47歳で事故死する前年、ジュディ・ガーランドはその生涯をかけて成し遂げてきた功績により、メディアの輝かしいスポットライトを浴びる生活を送っていました。

しかし、「オズの魔法使」のドロシー役で1939年に銀幕を美しく飾り、世界的スターとなって以来身を置いてきたきらびやかな世界は、その当時のジュディ・ガーランドの人生の中心にはなかったのです。

ジュディ・ガーランドの生涯の中でも晩年について見ていきましょう。

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病に悩まされたジュディ・ガーランドの生涯

『オズの魔法使』の後、1969年にロンドンでライブを行うまでの年月、ジュディは女優としてのキャリアにおいて鰻上りだった一方、私生活では悲劇的な低迷状態を経験しました。

メトロ・ゴールドウィン・メイヤー作品に立て続けに出演し人気を博したのに続き、ジュディ・ガーランドは、くまなくツアーをして周り、数々のハリウッド映画に出演して返り咲きを果たします。

さらに、アカデミー賞には2度ノミネートされ、1961年に行ったカーネギー・ホールでのライブをレコーディングしたアルバムで、その年のグラミー賞の最優秀アルバム賞を女性で初めて受賞しました。

一方で、1968年までには長年にわたる、

  • 覚醒作用のある薬物と鎮静作用のある薬物による処方薬への薬物依存
  • 重度のアルコール依存症

によって、ジュディの身体と声は健康な状態ではなくなっていました。

加えて、4度の結婚を経て3児の母であったジュディは、生涯を通じてダイエットと過食を繰り返し、スタジオ関係者の期待に応えようとその体重は大きく変動しました。

このような背景から、ジュディ・ガーランドは生涯にわたって、

  • 肝炎
  • 極度の疲労状態
  • 腎臓病
  • ノイローゼ
  • 危うく命を落とすほどの薬物反応
  • 肥満
  • 痩せ過ぎ
  • 度重なる転倒による怪我

など、多くの病気や健康にまつわる問題に悩まされてきたのです。

困窮した状況がジュディ・ガーランドを死に追いやった

資産管理の失敗や横領により、ジュディ・ガーランドのかつての所有財産は消えてなくなり、ジュディは追徴金として数十万ドルもの支払い義務を負っていました。

それにより、ジュディ・ガーランドは幾度となく自殺を図ろうとしたと言います。

絶望的な経済状況のなか、ジュディは7月、ニューヨークで行う最後の公演となったパレス劇場で、元マネージャーのシドニー・ラフトとの間の娘ローナと息子ジョーイ・ラフトと共に舞台に出演し、チケットは完売しました。

この公演でジュディが得た収入の大半は、追徴金として徴収されたと報じられました。

そして8月、ジュディ・ガーランドはボストン・コモンにて、推定10万人の聴衆を前に公演を行い、その後にニューヨークへ戻り、12月にマディソン・スクエア・ガーデンのフェルト・フォーラムにてさらに2公演を行いました。

オブザーバー紙によれば、1969年の大晦日、トーク・オブ・ザ・タウン公演を行うためロンドンヒースロー空港に到着してすぐ、ジュディ・ガーランドは 「2人のアメリカ人ビジネスマン」と翌年6月まで専属契約中の状態にあるとして、ロンドン公演への出演を禁止する差し止め命令を手渡されました。

しかし、その令状にも関わらず、ジュディはトーク・オブ・ザ・タウンでの公演に姿を現したのです。

「感情の衝突事故」と評されたジュディ・ガーランドのロンドン公演

1969年1月14日に行われた公演のレビューでオブザーバー紙は、ジュディについて、

今やジュディは痩せて、ほとんどやつれきって、髪は少年のように後ろに振り払われていた。スパンコールのついたオレンジ色のスーツに身を包んだジュディは粋に見えた。

ヒップに手を乗せ、気取って歩き、よろめき、足を踏みならし、うろつきながら、トラのように落ち着きなく、ジュディの大きな茶色の眼は、聴衆のなかにフレンドリーな眼差しを求めて見回していた。

「無声映画以来、新しいことは何も教わってこなかった」とジュディはしわがれ声で言った。

と記しています。

このように、明らかに全盛期と比べると陰りが出てきているにも関わらず、無理をし続けたジュディ・ガーランドは、時には観客に野次を飛ばされ、舞台上でタバコを吸って酒を飲むことさえありました。

公演にはいつも遅刻し、舞台上そして舞台裏での奇矯な振舞い、話せば呂律が回らない状態が増えた結果、聴衆の前に出ることが怖くなったジュディは、恐怖心から逃れるためさらに多くの薬物を必要とするようになっていったのです。

ある晩ジュディは、1時間20分遅刻してスポットライトのなかに足を引きずって登場したことで、敵対心をむき出しにした聴衆から、たばこ入れやロール、ゴミがジュディに投げつけられたこともありました。

当時のジュディ・ガーランドの様子については、1959年から1979年まで「トーク・オブ・ザ・タウン」で製作アシスタントを務めたワイルダーによって次のように語られています。

ジュディは少々遅刻してやってきて、それなりに素晴らしいショーをする時もあり、それは良かったのです。

でも、まったく姿を現さない夜が多すぎました。

あるいは、大遅刻して登場してその頃までには、聴衆の善意もほとんど消え失せてしまっていました。

我々としては、ジュディに公演を続けることを許可するか、あるいはやめさせるかという決断を下さなければなりませんでした。

最後の夫はジュディを死へとエスカレートさせた

ジュディ・ガーランドは生涯で5人もの男性と結婚を繰り返しましたが、最後の夫となったミッキー・ディーンズは、ジュディ・ガーランドとの初めての出会いについて、「1966年に覚醒剤の包みをジュディに届けた時」であったことを記しています。

二人はその後、度々デートを重ね、1969年3月16日に二人は結婚しました。

ジュディより12歳年下のディーンズはミュージシャンであり、以前はディスコマネージャーをしていました。

結婚当時、ジュディ・ガーランドは報道陣に対し、

ついに、ついに、私も愛されることができました。

と話しています。

一方で、ディーンズとの結婚は、薬物中毒にあったジュディ・ガーランドを死に向かって加速される結果になったとの主張が、ジュディの娘のローなによってなされています。

著書のなかでローナは、母であるジュディがディーンズと結婚した時、ジュディは薬物中毒の最終段階にあり、さらなる悪化は死をもたらす危険が非常に高いことを示していました。

そして、「トーク・オブ・ザ・タウン」で製作アシスタントのワイルダーによると、当時のジュディにとってディーンズは、

薬物中毒から抜けるための面倒を見てくれるはずの人間としては、「最も適さない人物」であった

と話しています。

というのも、本来は薬物を絶たせなくてはいけなかったにも関わらず、ディーンズは妻の要求に屈し、ジュディの求めるもの全てを与えてしまったからです。

ジュディ・ガーランドの死

ジュディ・ガーランドの最後のコンサートとなったのは1969年3月25日、デンマークのコペンハーゲン公演で、この時の曲目のセットリストは、トーク・オブ・ザ・タウンの時とほぼ同じでした。

そして、ロンドンのベルグレービア地区にあった馬小屋を改築した家の浴室で死んでいるジュディをディーンズが発見したのは、6月22日朝のことでした。

死因は、長年にわたり服用してきたバルビツール酸系催眠薬の過剰摂取によるもので、自殺を図ったとされる証拠は見つからなかったことから、事故と結論づけられました。

ジュディ・ガーランドは、本来ならまだまだ活躍が期待出来たであろう47歳の誕生日から12日後に亡くなってしまったのです。

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ジュディ・ガーランドの晩年は薬物との戦いだった。のまとめ

1939年、若干17歳の時に「オズの魔法使い」によって大成しながらも、中年以降は暗い影を負いながら人生を過ごし、47歳で亡くなってしまった歴史的な名女優ジュディ・ガーランドの晩年について見てきました。

ジュディ・ガーランドは2019年、銀幕に戻ってきました。

ピーター・キルター脚本の舞台劇『虹の彼方に(End of the Rainbow)』を原作としたジュディ・ガーランドの伝記映画「ジュディ 虹の彼方に」で、レネー・ゼルウィガーがジュディ役を演じることで、再び観衆の間にジュディの記憶が蘇ったのです。

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