アンネフランクの生涯と人生|歴史を記すアンネの日記が生まれるまで

アンネフランクの生涯と人生を見ていきます。ナチスドイツによる恐怖政治体制の下で一生懸命生きたい少女と、彼女が残した日記に関する歴史です。

第二次世界大戦中、ナチスドイツによって敷かれた恐怖政治の最中、一人のユダヤ人少女が短い生涯を閉じました。

彼女の名は「アンネ・フランク」。

ナチス政権下において恐怖と隣り合わせで苦しい生活を強いられながらも、力一杯生き、当時の状況を日記の形で記録に残したことで知られ、アンネの日記と呼ばれる彼女の日記は、後世に大きな影響を与えてきました。

この記事では、アンネ・フランクの生涯と人生とアンネの日記が生まれるまでの歴史を見ていきたいと思います。

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アンネ・フランクとは?

アンネ・フランク(1929年~1945年)、本名アンネリース・マリー・フランク(Annelies Marie Frank)とは、第二次世界大戦中にナチスドイツに実施されたユダヤ人に対する虐殺「ホロコースト」の下で、当時の日々の生活を綴った「アンネの日記」で知られる少女

アドルフ・ヒトラーとナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)が1933年、ドイツで政権を握り、ユダヤ人の生活環境がますます制限される中で、アンネ・フランクと彼女の両親、そして姉は、オランダに移住してきました。

1942年、アンネフランクは家族と共に、ドイツの占領下にあったアムステルダム市内の、父親の会社が入っていた民家の屋根裏に身を寄せ、ナチスドイツから見つからないように、咳も出せないほど静かに隠れながら生活していました。

しかし、フランク一家は1944年、ナチスに見つかって強制収容所に送られ、最終的にアンネは命を落とし、生き残ったのはアンネの父親だけとなってしまいます。

その後、生き延びた父の尽力によって、一家で隠れ家生活をしていた当時の生活を記した「アンネの日記」は、1947年に初めて出版され、70近い言語に翻訳されました。

そして、ホロコーストの記録として広く読まれ、アンネ・フランクの名前は、ホロコーストの悲劇を象徴するようになっていったのです。

ホロコーストの歴史を物語るアンネ・フランクの生涯・人生

アンネ・フランクの幼少時代

アンネ・フランクは1929年6月12日、ドイツのフランクフルトにて、裕福な実業家であったユダヤ系の父オットー・フランクと、ユダヤ系の母エーディト・ホーレンダー・フランクの子として誕生しました。

(出典:wikipedia

それから4年と経たない1933年1月、ナチ党を率いるアドルフ・ヒトラーがドイツ首相に就任。

ヒトラーおよびヒトラー率いるナチス政府は、ドイツ在住のユダヤ系市民を迫害する目的で、ドイツ国内や占領地のユダヤ人を拘束して強制収容所に送る、後に「ホロコースト」と呼ばれるようになる一連の政策を開始したのです。

この結果、家族全員をホロコーストの恐怖から守るためにも、1933年秋までにオットー・フランクはアムステルダムに移住し、そこでジャム製造に使用するペクチンの製造会社を設立。

会社は小さいながらも業績は伸びていくようになり、祖母と一緒にドイツ国内のアーヘンで暮らしていたアンネは、母と姉のマルゴットと共に1934年2月、オランダの首都に移り住みます。

1935年には、アンネはアムステルダムの幼稚園に通い始め、エネルギー溢れる人気者の少女として評判になっていきました。

ナチスドイツによるオランダ侵攻

しかし、1940年5月、その前年の9月に第二次世界大戦に参戦していたドイツはオランダに侵攻。

ドイツ空軍がオランダのロッテンルダムを爆撃すると、他の都市に破壊的な惨劇が拡大するのを防ぐためにもオランダは降伏を選択し、この「オランダにおける戦い」は5月10日に開始されて17日にはあっけなく終了し、オランダはナチスドイツの占領下となってしまったのです。

すると、オランダ在住のユダヤ人の生活環境は一変し、さまざまな制約を受けると同時に、非常に危険な状況へと変わっていきました。

1942年夏から1944年9月までの間、ナチスおよびオランダ側の協力者によって、オランダに住む10万人以上のユダヤ人が強制収容所に移送されていったと言われます。

アンネ・フランク一家の隠れ家生活が開始される

1942年7月初旬、姉のマルゴット宛てにドイツの強制労働収容所へ出頭を命じる手紙が届くと、アンネ・フランクの一家は、アムステルダム市内のプリンセン運河通り263番地の、オットー・フランクの会社が入っていた建物の裏側にある屋根裏部屋に身を隠します。

一方で、捜索隊に見つからないようにするため、一家はスイスに亡命したことをほのめかす偽の手紙を残しました。

隠れ家生活が始まって一週間後、オットーの仕事仲間であり、同じくユダヤ人一家のヘルマン・ファン・ペルスが妻のアウグステと息子のペーターと共に、フランク一家との共同生活に加わりました。

当時は、オーストリア生まれの秘書ミープ・ヒースらオットー・フランクに雇われていた少数の人々が命の危険を冒して、食糧や生活物資、外の世界の情報を、移動式本棚の裏側にあった入口から秘密裏に隠れ家へ持ち込んでいたと言われます。

そして1942年11月には、ミープ・ヒースの歯科医でユダヤ人のフリッツ・プフェファーも、フランク一家およびペルス一家の共同生活に加わりました。

「アンネの日記」の執筆を開始

アンネフランクが「秘密の隠れ家」と呼んだ小さなアパートでの8人の共同生活には、張り詰めた空気が漂っていました。

8人は常にナチスに見つかる恐怖に怯え、外出は厳禁で、階下の倉庫で働く人々に発覚するのを恐れて昼の間は静寂を保たなくてはなりませんでした。

この頃、アンネは一家の隠れ家生活が始まる一か月前の13歳の誕生日にプレゼントされた日記帳へ、観察した事柄や感情を綴っては暇をつぶすようになっていき、これが後に「アンネの日記」と知られるようになったのです。

アンネの日記は、アンネがキティと呼んだ想像上の友人に宛てて書かれ、そこには、

  • 「秘密の隠れ家」の他の住人の印象
  • 寂しさやプライバシーの欠如に対する苛立ちの感情
  • 異性への恋愛感情
  • 母親とのいさかい
  • 姉に対する憤り

など、隠れ家での生活や、十代の少女が抱くごく典型的な気持ちと話題が詳しく記されています。

一方で、アンネの日記からは、戦争や人類、そしてアンネ自身のアイデンティティに関して、鋭い洞察力や成熟ぶりも見受けられます。

またアンネ・フランクは、隠れ家生活の中で短編小説やエッセイも執筆していました。

ちなみに、1944年3月、国外追放されたオランダ政府の役人がラジオ放送でオランダ国民に対し、

ナチス政権下での生活がいかなるものであったのかを証明する記録とするため、日記や手紙を書いて残すように呼びかけた

ことに刺激を受け、アンネは後世へ伝えるため、日記に編集を加えたと言われています。

ナチスによってフランク一家と共同生活者が逮捕される

1944年8月4日、25か月におよぶ隠れ家生活の末、アンネフランクと「秘密の隠れ家」の7人の同居人は、匿名の情報提供者による密告を受けてドイツの秘密国家警察「ゲシュタポ」に見つかってしまいます(密告者が誰であったのかは未だに特定されていない)

逮捕されたフランク一家、ファン・ペルス一家、フリッツ・プフェファーは、ゲシュタポによってオランダ北部のヴェステルボルク収容所へ移送されました。

(アウシュヴィッツ跡)

そして1944年9月に彼らは、そこから貨物列車に乗せられ、ドイツの占領下にあったポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(最大級の犠牲者を出した歴史的に悪名高い強制収容所)へ送られました。

一方で、アンネとマルゴット・フランクは、アウシュヴィッツで直ちにガス室送りになるのを免れ、代わりにドイツ北部のベルゲン・ベルゼン強制収容所へと送られます。

チフスを患って命を落としたアンネ・フランク

しかし1945年3月、ベルゲン・ベルゼン強制収容所にて、まずは姉のマルゴットが、そして翌日にはアンネが、チフスによって命を落としてしまったのです。

その後、二人の遺体は集団墓地へ投げ入れられ、現在まで彼女達の遺体は特定されていません。

ちなみに当時、第二次世界大戦の戦況はナチスドイツの敗戦に傾いていたこともあり、マルゴットとアンネが命を落としてから数週間後の1945年4月15日に、イギリス軍によってベルゲン・ベルゼン強制収容所は解放されています。

しかし、時すでに遅く、強制収容所にいた人々は弱り切っている上にチフスが猛威をふるっていたため、それ以降も15,000人もの人々が命を落としたと言われます。

アンネ・フランクと共同生活を過ごした他の人々のその後

アンネ・フランクと共にオランダの屋根裏部屋で共同生活していた人々は、アンネの父オットーを除いて皆、悲惨な最後を遂げています。

まず、アンネの母エーディト・フランクは1945年1月、アウシュヴィッツにて餓死しました。

そして、ヘルマン・ファン・ペルスは1944年、アウシュヴィッツに到着後すぐにガス室で殺害され、妻のアウグステは1945年春に、現在のチェコ共和国に設置されたテレージエンシュタット強制収容所にて、同じく死亡したとみられています。

さらに、ヘルマンとアウグステの長男で、アンネの恋人だったと目されるペーター・ファン・ペルスは1945年5月、オーストリアのマウトハウゼン強制収容所にて死亡。

またフリッツ・プフェファーは1944年12月後半、ドイツのノイエンガンメ強制収容所にて病気のため死亡しました。

一方で、アンネフランクの父オットーは、1945年1月27日ドイツを侵攻したソ連軍によって、アウシュヴィッツから解放された結果、8人のなかで唯一生き残った人物となりました。

父の尽力によって出版された「アンネの日記」

アンネの日記は、生き残ったアンネの父オットーの尽力によって出版され、後世においても重要な歴史資料として取り扱われると同時に、世界的ベストセラーになりました。

ミープ・ヒースから渡されたアンネのノートと紙束

アウシュヴィッツから解放されたオットー・フランクは、アムステルダムへ戻ると、かつてオットーの秘書だったミープ・ヒースから、

  • アンネの筆跡が記された5冊のノート
  • およそ300枚の紙束

を手渡されます。

ヒースは、フランク一家がナチスに逮捕された直後、秘密の隠れ家で発見したこれらアンネによる記録を隠して保管していたのでした(マルゴット・フランクも日記をつけていたと言われるが発見されていない)

1947年にオランダにて「アンネの日記」が出版された

アンネが作家かジャーナリストになりたがっていたことを知っていたオットーは、戦時中にアンネが記した文書をいつの日か出版したいと望んでいたこともあり、娘のノートや紙束が手元に戻ると、それらアンネが書き残した文書を原稿にまとめることに尽力。

その後、アンネやフランク家をよく知る知り合いなどへ配っていくと、それが社会的に有名になり、1947年、オランダで「Het Achterhuis(後ろの家)※日本ではアンネの日記」という題名で出版されるに至ったのです。

その後、世界的にも知られるようになり、様々な言語に翻訳され、日本(日本では1952年)も含めた各国で出版されていきます。

ただし当初、この作品の出版に躊躇する国もありました。

例えば、アメリカの出版業界では当初、アンネの日記を読むと気分が沈み退屈すぎるとして、出版に前向きではなかったと言います。

しかし、結果として数千万部を売り上げたこの本は、人間の精神がどのような状況下にあっても不滅であることを証明するものであると評され、世界中の学校教育の現場で必要とされるようになりました。

また、舞台作品や映画の題材に採り上げられるなど、戦後の社会に大きな影響を与えることとなったのです。

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アンネフランクの生涯と人生|歴史を記すアンネの日記が生まれるまでのまとめ

アンネの日記で知られるアンネ・フランクの生涯と人生について見てきました。

1960年に「秘密の隠れ家」に通じるプリンセン運河通り263番地の建物が、アンネフランクの生涯を紹介する博物館として一般公開されました。

そして、現在、アンネのオリジナルの日記がここに展示されており、多くの人々が訪れる名所となっています。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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