チャールズ・チャップリンとはどういった人物だったのでしょうか?彼の人生と生涯のダイジェストから、子供に関することなどの4つの豆知識までを紹介していきます。
19世紀に誕生し、20世紀に大きな発展を遂げてきた映画業界には、これまで多くのスター達が生まれてきました。
そんな映画業界において黎明期を支え、世界的なスターとして現代でさえも多くの人々に記憶されている人物の一人がチャールズ・チャップリン。
映画業界における史上初の「スーパースター」であるとも言われ、後世のエンターテイメント業界全体へ大きな影響を与えてきました。
チャールズ・チャップリンとはどのような人物だったのか?
チャップリンの生涯と人生のダイジェストと、4つの豆知識を紹介していきます。
まずは、チャップリンの簡単なプロフィールをおさらいすることから始めていきましょう。
チャールズ・チャップリンとは?
サー・チャールズ・チャップリン(全名:チャールズ・スペンサー・チャップリン, 1889年〜1977年)とは、20世紀初頭に活躍したイギリスのコメディ俳優として有名な人物。
他にも映画監督や脚本家、映画プロデューサーや作曲家としても活躍し、映画の黎明期、またはサイレント映画時代最大のスターです。
1889年4月16日にイギリスのロンドンで生まれ、映画に出演するようになる以前は、子どものダンスグループに所属して舞台に立ちました。
そして、映画「チャップリンの失恋」において、チャップリンはパントマイムや風変りなダンスを披露。
これが大ヒットし、チャップリンは瞬く間にサイレント映画時代を代表する俳優となったのです。
その後、チャップリンは監督業でも頭角を現すようになり、「街の灯」や「モダン・タイムス」といった名作を作り上げ、また、映画スタジオ・配給会社であるユナイテッド・アーティスツ(別名ユナイト映画)を創設したことでも知られています。
また、チャップリンの作品の多くには、鋭い社会風刺や、当時の庶民の怒りなどがユーモアに包まれながらも表現されており、そういった点で、他のコメディアンからは一線を画す存在として多くの人に愛され、彼の作品は当時だけでなく後世にも大きな影響を与えることとなりました。
このように、エンターテイメント業界に偉大な足跡を残したことから、チャールズ・チャップリンは「喜劇王」という異名を持つのです。
ちなみに、「チャーリー」という愛称でも親しまれており、海外では「Charlie Chaplin(チャーリー・チャップリン」と表記されることも珍しくありません。
チャールズ・チャップリンの人生と生涯ダイジェスト
チャップリンの生い立ち
チャールズ・チャップリンは、チャールズ・スペンサー・チャップリンとして1889年4月16日、イギリスのロンドンで生まれました。
チャップリンの人生は、まさに無一文から大金持ちになった立身出世の典型例です。
大酒のみであったチャップリンの父親は、幼いチャーリーと兄のシドニー、そしてチャップリンの母を捨てて蒸発。
これにより、リリー・ハーレイという芸名で活躍していたヴォードヴィル歌手であったチャップリンの母は、女手一つで幼い子供二人を育てるようになったのです。
母の代役として幼いながらも舞台に立つこととなったチャールズ・チャップリン
チャップリンの母は後に、精神を病んで精神病院に収容されてしまうことになりますが、当初は歌手としてなんとか家庭を支えていました。
しかしある日、ショーの途中に突然のどを壊してしまい、声をなくしてしまいます。
(出典:wikipedia)
そこで代役として急きょステージに立たされたのが、当時わずか5歳のチャーリー・チャップリン。
チャップリンには生まれ持ったコメディの才能があったこともあり、この舞台に関しては、幼い子供ながらに観客を楽しませたのです(途中、声を失い始めた瞬間の母の物まねをしたとも言われる)。
しかしその後、母の声が戻ることはなく、一家の収入は途絶え、母親は精神に異常をきたした結果、施設に収容されてしまいました。
極貧状態に陥ったチャップリンと兄のシドニーは、いくつかの貧乏院や孤児院を渡り歩き、ロンドンの街で様々な仕事をこなしながら成長していきました。
チャップリン初期のキャリア
一方で、母からステージに立つことの楽しさを教わったチャップリンは、ショービジネスの世界に憧れを抱きます。
そして1899年、母親のつてを使い、8歳のチャップリンは「エイト・ランカシア・ラッズ」と呼ばれる木靴ダンスの一座に加入しました。
しかし、この仕事は長続きせず、特に儲かるものでもなかったため、チャップリンは他にも色々な仕事をこなしていたと、自ら以下のように回顧しています。
新聞売り、印刷屋、おもちゃ職人、医者の小間使いなど、様々なことをしてお金を稼いだ。でも、どんな時も、俳優になりたいという夢を忘れることはなかった。
(中略)
「だから仕事の合間には必ず靴を磨いて、服を整えて、俳優あっせん所や芸能事務所を尋ね歩いたんだ」
このような涙ぐましい努力が実り、1903年、舞台版の「シャーロックホームズ」において、天才子役としてデビュー。
(出典:wikipedia)
そして、その後にはヴォードヴィル集団の「キャシーズ・コート・サーカス」のツアーに同行し、1908年には名門フレッド・カーノー劇団に入り、パントマイムを披露するようになります。
特に「ロンドン・クラブの一夜」と呼ばれる寸劇のコミカルな酔っ払い役が当たり、一気に人気が高まり舞台俳優としての成功を収めていきました。
その後、カーノー劇団のツアーで、チャップリンは初めてアメリカを訪れ、そこで映画プロデューサーのマック・セネットの目に留まり、週給150ドルで「キーストン社」と契約を結ぶこととなりました。
チャールズ・チャップリン映画業界へ
1914年、チャップリンは「成功争ひ」で映画デビューを果たします。
この映画は、作品自体の評価は低かったものの、チャップリン初の映画として歴史に名を残すことになりました。
(出典:wikipedia)
一方で、映画業界でのキャリアをスタートしたチャップリンは、キーストーン社が抱える他の俳優と自らを差別化するために、「どの映画でもお馴染みのキャラクターをつき通す」ことを決心。
山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキを構えた「放浪者(トランプ)」の姿は、1914年公開の「ヴェニスの子供自動車競走」で初めてお披露目され、チャップリンのトレードマークとして形作られていくことになります。
(出典:wikipedia)
チャールズ・チャップリンは1914年だけで、35本もの映画に出演し、その中には映画史上初の長編コメディである「醜女の深情け」も含まれていました。
そして、1915年になると、チャップリンはセネットのもとを離れ、週休1,250ドルでエッサネイ社と契約を結び、1915年だけでチャップリンは「チャップリンの失恋」を含む14本もの映画に出演。
「チャップリンの失恋」においてチャップリンは、偶然強盗一味から農家の娘を救出する放浪者を好演。
この映画はチャップリン初の名作映画として考えられています。
また、同時期に兄のシドニーをマネージャーとして雇い、これによって基盤が整ったチャップリンは、大スターの地位へと上り詰めていくこととなります。
世界的な大スターとなったチャップリン
舞台の世界から映画界に移ってたったの3年。
26歳のチャップリンは今や世界的な大スターとなっていました。
チャップリンは年額67万ドル(アメリカ大統領の年俸の7倍)という破格の契約金で、ミューチュアル社に移籍。
大きな富を手に入れたチャップリンですが、映画製作への意欲が衰えることはありませんでした。
ミューチュアル時代のチャップリンは、
- 午前一時(1916年)
- チャップリンのスケート(1916年)
- チャップリンの放浪者(1916年)
- チャップリンの勇敢(1917年)
などの名作を引き続き生み出したのです。
完璧主義だからこそ成し遂げた数々の偉業と大スターという名声
このチャップリンの成功には、彼の完璧主義者という性格が多分に影響していたと考えられています。
また、それだけでなく実験を繰り返すことが好きなため、テイク数が膨大になることが多く、セットを丸ごと作り変えることを命じることも珍しくありませんでした。
さらに、撮影を始めてから配役を変更して全て初めから撮影しなおすことも頻繁にあったそうです。
しかし、このような「こだわり」が、抜群の結果を生み出すことになります。
(出典:wikipedia)
1920代になると、チャップリンのキャリアはますます花咲いていき、
- キッド(1921年)
- 偽牧師(1923年)
- 巴里の女性(1923年)
- 黄金狂時代(1925年
- チャップリン自身はこれこそが自分の代表作だと語っている
- サーカス(1928年)
といった有名なチャップリン作品がこの時代に作られました。
ちなみにチャップリンは、1919年にダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードそしてD・W・グリフィスらと共同で、映画スタジオ「ユナイテッド・アーティスツ」を設立しており、巴里の女性、黄金狂時代、サーカスの3作は、ここからリリースされています。
キャリア後半でも依然として輝き続けるチャップリン
1930年代に入っても、チャールズ・チャップリンは面白い映画を作り続けます。
1931年にはチャップリン自身がBGMを作曲した映画「街の灯」が公開され、興行的な大成功を収め、批評家からもこの作品は高い評価を受けました。
さらに1936年、チャップリンの名監督・名俳優としての名声を確実なものとした「モダン・タイムス」が公開されます。
現代世界の経済や政治の在り方を風刺したこの作品は、音楽や効果音付きのサウンド映画で、チャップリンが1931年~1932年に18か月間にもわたって決行した世界ツアーが原体験となっていると言われます。
この世界ツアーの中でチャップリンは、ヨーロッパやその他の地域が経済不振に悩み、その結果としてナショナリズムが急速に拡大する様子を目の当たりにしたのです。
そしてこの4年後、有名な「独裁者(1940年)」を発表。
この作品の中でチャップリンは、ヒトラーやムッソリーニの政権を正面から批判しました。
ちなみに、同映画の公開に伴ってチャップリンは、
人々の心に気遣いと優しさが戻ることを望んでいる。この国に真に民主主義が宿るのを目にしたいんだ。
と語っています。
アメリカから追放命令をされてしまったチャップリン
しかし、チャップリンは誰からも好かれていたわけではありません。
私生活において恋多き人物として知られたチャップリンは、一部の女性団体からひんしゅくを買い、アメリカの一部の州からは出入りの禁止を言い渡されてしまいました。
また、冷戦体制が確立し、共産主義者を追放する「赤狩り」が強まると、チャップリンも標的となりました。
このように風当たり強くなっていく中で、1950年代になるとミシシッピ州の下院議員ジョン・E・ランキンが中心となり、チャールズ・チャップリンの国外追放を求める運動が拡大します。
そして1952年、休暇でイギリスに向かったチャップリンは、アメリカの司法長官から「道徳的な価値」を見せなければ再入国はしてはならないと、事実上の国外退去命令を受けたのです。
これに腹立ったチャップリンはアメリカに別れを告げ、スイスの田舎町コルズィエ=スュール=ヴェヴェイの農園に移住することを決めます。
チャールズ・チャップリンの晩年
スイス移住から20年後、1972年にアカデミー賞名誉賞を受賞した際に、チャップリンはもう一度だけアメリカの地を踏むこととなりました。
これはチャップリンにとって最初で最後のカラー映画であり、チャップリンにとっては人生最後の映画となった「伯爵夫人(1965年)」の公開から5年後のことでした(※マーロン・ブランドやソフィア・ローレンといったスターが主演であったにもかかわらず、映画の興行成績は振るわなかった)。
そして1975年、チャップリンは生涯の功績が称えられて、イギリスのエリザベス女王から「ナイト」の勲章を授けられます。
しかし、それからおよそ2年後の1977年12月25日の早朝、チャップリンはコルズィエ=スュール=ヴェヴェイの自宅にて、妻のウーナと子供達に看取られて息を引き取りました。
享年88歳でした。
チャップリンの死後に起きた事件
スイスのジュネーブ湖畔に埋葬されてからしばらくした後、チャップリンの遺体が墓荒らしによって盗まれるという事件が発生します。
2人の墓荒らしがスイスの墓地から彼の棺を盗み出し、チャップリンの妻に60万ドルの身代金を要求したのです。
しかし、それから11週間後に犯人達は逮捕され、遺体も無事に戻り、同じような事件が起きないよう、墓荒らしされにくい形で再度埋葬されました。
チャールズ・チャップリンに関する4つの豆知識
チャップリンは初出演した映画をあまり好きではない?
舞台公演で巡業中の1913年、マック・セネットの目にとまり、チャップリンは週150ドルでキーストーン・スタジオに雇われ、翌年の1914年初めには「成功争ひ」の中で、失業中のペテン師役を演じて映画デビュー。
天神ひげにシルクハット、そして片眼鏡をつけたチャップリンは劇中で、面白いギャグを言う役を演じました。
しかし、チャップリンは自分の演技は酷いものだったと次のように振り返っています。
ガチガチだった。次の動きを予測させてしまったから、どのシーンも驚きの要素が消えてしまった。
また、監督が嫉妬心から、チャップリンの名演技を全てカットしたとも言われており、チャップリンは初出演の映画に対して、あまり良い思い入れは持っていなかったようなのです。
チャップリンを真似するチャップリニティスが現れる
1914年公開の「ヴェニスの子供自動車競走」において、「山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキを構えた放浪者」の姿が披露されて以降、この姿は何十年もチャップリンを象徴するトレードマークとなるわけですが、当時、この姿を真似する人々が現れました。
「小さな放浪者」と呼ばれるようになったこのキャラクターは瞬く間に人気となり、真似をする人たちやマーケティングに利用する人たちが世の中にたくさん増えたのです。
そして、一種の社会現象とも言える状況になった結果、チャップリンの放浪者を真似る人々は、ひとまとめに「チャップリニティス(Chaplinitis)」と呼ばれるようになりました。
音声映画をなかなか受け入れられなかった
1927年の映画「ジャズ・シンガー」を皮切りに、音声や音楽が含まれていないサイレント映画は、急速に音声付きの映画に取って代わられていきました。
しかし、チャップリンはサイレント映画の役者として成功し、また、トレードマークである「小さな放浪者」を確立してきたため、自己のブランドが台無しになってしまうのではないかと恐れたようです。
例えば、1930年代に公開された「街の灯り」と「モダン・タイムズ」で、チャップリンは音楽を入れたものの、イタリア語を真似た意味をなさない歌を歌った他はセリフを入れていません。
しかし、それでも時代の波には逆らえず、1940年に公開された「独裁者」はついに、フルサウンドのチャップリン映画となり、また、この映画の中でチャップリンは「小さな放浪者」以外のキャラクターを20年ぶりに演じることとなりました。
若い女性との恋多き人物チャップリン
エンターテイメント業界での成功と同じぐらい、チャップリンは私生活においても注目されることが度々ありました。
というのも、チャップリンは若い女性と多くの恋をした華やかな女性遍歴を持つ人物として知られていたからです。
まず、1918年にチャップリンは、当時まだ16歳だったミルドレッド・ハリスと電撃結婚し、2年もしないで両者は「和解できない不一致」があるとしてほどなく破綻しました。
その4年後には、再び当時16歳だった女優リタ・グレイと結婚し、こちらも4年後には破局しています。
そして1936年、すでに40代後半に差し掛かっていた頃、当時まだ20代だったポーレット・ゴダードと法的な籍は入れなかったものの内縁関係となり、6年後の1942年まで続きました。
(出典:wikipedia)
さらに、1943年、チャップリンは54歳にしてハリウッドのエージェントに紹介された18歳のウーナ・オニールと結婚し、二人はチャップリンが88歳で死ぬまで添い遂げることとなりました。
他にも、女優のマリオン・デイヴィスやジョーン・バリーとも浮名を流し、ジョーン・バリーには子供の父がチャップリンであるとの訴訟が起こされたこともあります(血液判定で子供はチャップリンの子ではないと判定された)。
このように数々の女性と関係を持った結果、チャールズ・チャップリンは女性と数々の遍歴を持った人物として名を残し、生涯で11人の子供を残したことでも知られるのです(一人は生後3日目で死亡している)。
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チャールズ・チャップリンとは?人生と生涯から子供に関する豆知識のまとめ
サイレント映画時代の象徴的存在であるチャップリンは、映画史上に残るスーパースターであり、いまだに多くの人が記憶している人物です。
チャップリンの存在が今日の映画業界を形作ったといっても、過言ではないかもしれません。