トーマス・エジソンの子供達について紹介していきます。大発明家であり起業家としても活躍したエジソンには、6人の子供がいました。
アメリカで生まれた生まれたトーマス・エジソンは大発明家として知られ、機械関連の発明に関しては人間の歴史上で最も優れた歴史的偉人でした。
さらにエジソンは、現在のゼネラル・エレクトリック社につながる会社を興すなど、起業家としても優れた人物でした。
一方で、そんな多忙を極めたであろうエジソンにもまた家庭はあり、エジソンは生涯で6人の子供を授かっています。
この記事では、トーマス・エジソンの下に生まれた子供達について見ていこうと思います。
生涯で6人の子供を抱えたトーマス・エジソン
同時代の家庭の多くがそうであったように、トーマス・エジソン家は子沢山でした。
エジソンは生涯の中で、「メアリー・スティルウェル」と「ミナ・ミラー」という2人の女性と結婚することになりますが、その二人との間に6人の子供をもうけています。
今でこそ6人の子供というと「子沢山」なイメージですが、これは19世紀後半から20世紀初頭にかけての平均的な人数でした。
一方で、当時から有名人であり裕福だったエジソンの子供として生まれるということは、生まれてきた子達にとっては大変なことだったのかもしれません。
特に、エジソンは長い時間を研究室で過ごしていたため、家族と過ごす時間は短かく、さらに、偉大な人物として知られるようになった父を持つということは、子供たちにとっては相応の重荷となったのではないかと容易に想像出来ます。
メアリーとトーマス・エジソンの間に生まれた3人の子供
1871年12月25日、トーマス・エジソンは、当時自らの会社の従業員であったメアリー・スティルウェルと最初の結婚をし、二人の夫婦生活は1884年まで続きました。
このメアリーとの夫婦生活の中で、エジソンは以下3人の子供に恵まれます。
- マリオン(1872生まれ)
- トーマス・アルバ・エジソン・ジュニア(1876年生まれ)
- ウィリアム・レスリー(1878年生まれ)
エジソンの第一子は女児で、1872年に産まれた娘マリオンです。
エジソンは愛情をこめてこの娘をモールス信号にちなんだ「ドット」と呼び、1876年に生まれた弟のトーマス・ジュニアを同じようにモールス信号にちなんで「ダッシュ」と呼びました。
さらに、メアリーとの3番目の子供ウィリアムは、1878年に誕生します。
しかし、エジソンにとって最初の妻であったメアリーは、多忙だったエジソンが家にほとんど帰ってくることがなかったこともあり、徐々に引きこもりがちになり、ついには体調まで悪化して、1884年に29歳の若さで亡くなってしまいました。
再婚したミナ・ミラーと再婚との間にも3人の子供が生まれた
メアリーがこの世を去ってから2年後の1886年2月24日、トーマス・エジソンは20歳のミナ・ミラーと再婚します。
(出典:wikipedia)
ミナはエジソンの3人の子供の継母となっただけでなく、エジソンとの間に実子をもうけました。
- マデリン(1888年生まれ)
- チャールズ(1890年生まれ)
- セオドア(1898年生まれ)
の3人です。
エジソンの他の子供たち同様、彼らは父と社会の双方から高い期待を背負っていました。
しかし、エジソンは発明家としての自分の跡を子供たちの誰かに継がせたいと思ったのかもしれませんが、彼らが頑張ってみたところで、父エジソンと同様またはそれを超える成果をあげるのは難しかったようです。
トーマス・エジソンと6人の子供達
① マリオン(ドット):エジソンの親子関係には亀裂が生じてしまった
トーマス・エジソンは20歳のミナ・ミラーと1886年に再婚したわけですが、この結婚に対して、メアリーとの間に生まれたエジソンの子供達の中には、抵抗感を持った子供もいました。
特に、ミナは夫であるエジソンよりも、ミナにとっては継子となるマリオンと年が近かったこともあり、この2人の関係は微妙で難しいものだったようです。
この結果、長女マリオンは次第に、父の若い後妻の存在によって「家での居場所がない」と感じるようになり、このミナとマリオンの間の緊張感によってマリオンは、「父が自分に無関心だ」と感じるようになり、実の親子関係にも亀裂を生むことになりました。
さらに、10代の頃ヨーロッパで過ごすことが多かったマリオンは、あるとき重い天然痘にかかります。
しかし、治るまでの7週間、父から届いたのはたった2通の手紙でした。
こうした冷たい態度にマリオンは傷ついていったのです。
② トーマス・ジュニア(ダッシュ):父に失望されてしまう
最初の妻メアリーとの間に生まれ、トーマス・エジソンにとっては第二子にあたるトーマス・アルバ・エジソン・ジュニア(ダッシュ)は若い頃、エジソンの名前を利用してさまざまな事業を興しました。
しかし、残念なことにどれも失敗に終わってしまいます。
その中には海洋波動を利用した発電技術「エジソン・ジュニア・ランプ」や、スチールから鉄を造る会社などがありました。
また他にも自身でキノコ栽培を手掛けたりもしましたが、これも失敗に終わっています。
このように事業が立て続けに失敗したことでトーマス・ジュニアは、「マグノ・エレクトリック・バイトライザー」という名の胡散臭い医療機器を販売する会社を始めとしたエジソンとは全く関わりのない会社のいくつかに、エジソン名の使用権を売却してしまったのです。
これらの結果に失望した父エジソンは、「科学的にも、それ以外の面でもまったくの無能」とトーマス・ジュニアに対して辛辣な評価を下しています。
③ ウィリアム:父とは不仲だった
メアリーとの間に生まれた第三子であるウィリアムは、一時期イェール大学で科学を学んでいたほどの秀才でしたが、当時の国際情勢によって後に第一次世界大戦に召集されてしまいました。
一方で、ウィリアムはワシントンD.C.にある自動車修理店など、複数の事業に関わるだけでなく、自身で新設計のスパークプラグを発明するなどしました。
さらにウリアムは、後にニュージャージーで養鶏家となりました。
しかし、子供時代に多忙な父から相手にしてもらう機会が少なかったこと、さらにミナ・ミラーとの再婚などを通して父のエジソンとは不仲となっていました。
実際、トーマス・エジソンは、ウィリアムのせいで恥ずかしい思いをしたことが幾度もあると語ったと言われます。
④ マデリン:科学と工学に最も適性があった?
(出典:wikidata)
エジソンの子供達の中で科学と工学における適性が最も高かったのは、ミナとの間の娘でトーマス・エジソンにとっては第四子となるマデリンだったのかもしれません。
彼女は頭の回転が速く、科学や工学の分野で女性が活躍しやすい時代であれば、きっと父エジソンの後継者となっていたであろうと言われているのです。
マデリンは1938年のアメリカ合衆国議会議員選挙に出馬しますが落選。しかし、1950年代には金融サービスと通信業を営むウエスタンユニオン社の取締役を勤めるなどしています。
⑤ チャールズ:一般的に最もよく知られるエジソンの子供
(出典:wikipedia)
エジソンの子供たちのなかで、最も一般にその名を知られているのはメアリーとの間の子供であり、エジソンにとっては第五子となるチャールズでしょう。
1927年に彼は父エジソンが築いたトマス・A・エジソン社を継いで社長となり、1959年に売却されるまで経営に携わりました。
さらにチャールズは公職にも就き、1940年にはフランクリン・ルーズベルト大統領の下で一時的に海軍長官を勤めています。
そして海軍長官時代にチャールズは政界への転身を決意し、1941年から1944年までの間ニュージャージー州知事となりました。
⑥ セオドア:父の世界に最も近かった
父エジソンの世界に最も近かったのがメアリーとの間の子供であり、エジソンにとっては第六子となる息子のセオドアでした。
彼は1923年にMITマサチューセッツ工科大学を卒業し物理学の学位を取得。
その後、トマス・A・エジソン社の研究室助手として働き始め、研究と工学分野の責任者にまでなりました。
さらに、「カリボーン・インダストリーズ(Calibron Industries)」という会社を、エジソンの研究所として知られるウエストオレンジ研究所の近くに設立し、独自の発明を始めるようになります。
1992年に亡くなるまでに80の特許を取得していたことで知られ、1000件を超える特許を持っていた大発明家の父には及ばないものの、一般的に言えばそれなりに多くの発明を残した人物だと言えるでしょう。
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トーマス・エジソンと子供達|生涯で6人の子供をもうけたのまとめ
偉大な発明家として知られるトーマス・エジソンの子供達を見てきました。
大発明家の下に生まれた子供達の中には、家族環境のせいで不運に見舞われてしまった人物もいますが、一方で、父と分野は異なるものの、社会的に活躍した人物もいるなど様々です。