イスラエル・パレスチナ問題(紛争)について見ていきましょう。未だに解決が難しいこの問題の原因や、両者の関係などを詳しく紹介していきます。
イスラエルとパレスチナ間の紛争(イスラエル・パレスチナ問題)はもう何十年も続いており、解決策に関して非常に多くの議論がなされています。
しかし、それにも関わらず一向に解決の兆しが見えません。
その理由はなんなのでしょうか?
イスラエル・パレスチナ問題(紛争)を理解するにあたって、また、なぜ解決が難しいのかを考えるに当たって、抑えておくべきその原因や歴史的な事実を確認していきたいと思います。
なお、イスラエルとパレスチナ問題を理解する上では、地域としてのパレスチナとパレスチナ自治区の違いを明確にしておくことが大切なため、当記事内では区別するためにパレスチナ地域(地域としてのパレスチナ)とパレスチナ自治区と表記します。
また、その違いは以下の通りです。
- パレスチナ地域
- 地中海東岸の歴史的シリア(大シリアまたはシリア地方と言われ、現在のシリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域の呼称)の南部を指す地域的名称
- パレスチナ自治区(パレスチナ国)
- ヨルダン川に接する西岸地区(ウェストバンク)、エジプトに接するガザ地区、東エルサレムからなるパレスチナ人による自治区。(東エルサレムはヨルダン川西岸地区の一部ではあるが、政治的・文化的・人道的な理由から別個に扱われることが多い)
イスラエルとパレスチナ自治区をまずは確認
イスラエル・パレスチナ問題を考えるには、イスラエルとパレスチナ自治区を理解しないこと難しいため、両者についてまずは確認していきましょう。
(上の画像でWEST BANKとGAZAがパレスチナ自治区に当たる場所)
イスラエルは中東のパレスチナ(地域)に位置する国家で、北はレバノン、北東はシリア、東はヨルダン、そして南はエジプトと接しており、国民はほぼユダヤ教徒。
また、イスラエル側とパレスチナ自治区側によって微妙に解釈が異なりますが、イスラエル側の解釈によれば、パレスチナ自治区を内包している国であり、パレスチナ自治区側の解釈によれば、パレスチナ自治区に隣接している国となります。
一方のパレスチナ自治区は、エジプトに接している面積の狭い(東京23区の6割程度)行政区画であるガザ地区と、ヨルダン川に隣接している東エルサレムを含む面積の広い(千葉県の1.1倍)西岸地区の二つを合わせた地区のこと。
ほとんどのエリアがイスラム教徒で占められており、また、行政はパレスチナ解放機構(POL)が基盤となったパレスチナ自治政府によってとり仕切られています。
イスラエルとパレスチナ自治区に住む人々の共通点と違い
現在でこそ、イスラエルに住む人々とパレスチナ自治区に住む人々は異なるという認識で扱われることがほとんどですが、過去には、両地域に住む人々は民族的に同族、または同族とまではいかなくとも非常に近しい人々でした。
しかし、長い歴史の中でこの地域に起こった王朝や、入植したローマ人達の影響によって、一方はユダヤ教を信じるユダヤ人としてのアイデンティティを持ち始め、他方はイスラム教徒としてのアイデンティティを持ち始めます。
また、パレスチナ自治区に暮らすパレスチナ人は、昔からこの地方に居住するセム系民族が中心なのに対して、近代に起こったシオニズム(イスラエルの地に故郷を再建してイスラエル文化を復興させようという運動)の影響により、現代のイスラエルには民族的にセム系とは異なるユダヤ人も多く入植しています。
ちなみに、イスラエル人はパレスチナ人に対して「アラブ人」と呼ぶことがありますが、これは、過去から現在までパレスチナ地域に住んでいる主な人々は、アラブ人(セム系民族の一つ)と民族的には同じだから。
ただし、古代イスラエルの人々は同じ民族背景を持ち、その中でユダヤ教を信仰するものが「ユダヤ人」と呼ばれるようになりました(※民族的には同じでもユダヤ教を信じればユダヤ人と呼ばれるため)。
このように、古代にこの地域に住んでいたユダヤ人とパレスチナ人は同族と言っても良い人々であったため、実は今日でも、イスラエルの言葉であるヘブライ語と、パレスチナで使われるアラビア語の方言には共通点がたくさんあったりします。
イスラエル・パレスチナ問題(紛争)の原因とは?
では何が原因で、イスラエルとパレスチナには、こんなにも長期間続く分裂が起こってしまったのでしょうか?
何千年も前になりますが、ユダヤ人は奴隷として暮らしていました。そしてついに彼らが自由の身になった時、現在のイスラエルに定住しました。
一方、イスラム教が誕生したのは紀元前622年で、イスラム教徒はパレスチナ地域を統治し始めます。
これ以来、多くの国々がこの土地を巡って争いを繰り返しながら支配してきたのです。
そして、20世紀に入ると、現在のイスラエル・パレスチナ問題に直接繋がる以下のことが起こります。
- 1920年頃にイギリスがこのパレスチナ地域を統治し始めた
- 第二次世界大戦中にドイツのナチス軍は6百万人のユダヤ人を虐殺した(ホロコースト)
- ユダヤ人には新たな土地が必要だと世界が知ることとなった
その結果、第二次世界大戦によって国力が大きく衰退したこともあり、イギリスは「パレスチナ」として知られていた国土を放棄することを決定し、その後は、国連に委ねることにしたのです。
そして国連のパレスチナ特別委員会(UNSCOP)によって、パレスチナ分割決議案と呼ばれる提案が提出され、国連総会は多数決でこの決議を支持したものの、パレスチナ側は断固として反対しました(※この決議案ではユダヤ側がかなり有利な条件になっていたと言われている)。
イギリスが撤退した後
イギリスが撤退した後、パレスチナ側の反対により分割案は実現せず、代わりに1948年から1949年にかけて、イスラエル人(ユダヤ教徒)と、他のアラブ諸国からの協力を得たパレスチナ人(イスラム教徒)との間で戦争が起こります。
(国連のパレスチナ分割決議案によって予定された両者の領土)
この戦争ではイスラエルが勝ちましたが、平和が訪れることはありませんでした。
その後、1967年、イスラエルとアラブ諸国の間でまたも戦争(第三次中東戦争)が勃発、結果として、イスラエルは現在のパレスチナ自治区のガザ地区と西岸地区に加え、シナイ半島までを掌握することになります(※シナイ半島はエジプト・イスラエル平和条約後の1982年にエジプトへ返還された)。
そして、1973年には第四次中東戦争と呼ばれる、イスラエル対アラブ諸国の戦争が再び起きます。
当初はイスラエルが劣勢でしたが、アメリカの支援等があり、戦局は徐々に逆転していき、最終的にはイスラエル側が勝利しました。
歴史から見るイスラエル・パレスチナ問題(紛争)の原因まとめ
このように、イスラエルとパレスチナ自治区の問題は、歴史を遡れば古代からの土地の争いにつながり、近代の歴史を振り返ると、イギリスが放棄したことで、第三者(国連)が同地域をユダヤ教徒とイスラム教徒の土地に分けようとしたことが大きな原因です。
そして、シオニズム運動の元で世界各国に離散していたユダヤ人がイスラエルの地に戻ってきたり、アメリカ、ロシア、アラブ諸国などによる、この地域を舞台にした代理戦争が起こっているというのも、大きな原因の一つであったりします。
パレスチナ人が悲惨な状況に置かれているのも問題が長引く原因の一つ
また、歴史的な原因だけでなく、現在のパレスチナ人が置かれている状況というのも、イスラエルとパレスチナ自治区の間で紛争が長引いてしまっている原因の一つだと考えられます。
イスラエルは、自国内の領域にあるパレスチナ自治区の周りに柵を張り巡らすことで、同地区を隔離しました。
また、パレスチナ地区を分断するような柵もあったり、パレスチナ自治区の中にイスラエル人が居住する地域を作ったりしたのです。
加えて、パレスチナ地区内の環境は非常に悪く、失業率は高い上にユダヤ人が住むイスラエルを通過しなければ出国も入国も出来ないため、ある意味巨大な刑務所に囚われているとも表現できます。
このような状況のために、パレスチナ人側では大きな不満が溜まっており、これが、対イスラエル人の自爆テロやミサイル発射に繋がり、そのことで今度はパレスチナ人に対するイスラエル人側の憎悪を助長してしまうため、イスラエル・パレスチナ問題を長引かせてしまっている原因になっていると考えられるのです。
イスラエル・パレスチナ問題(紛争)について知っておきたい5つの事項
イスラエル・パレスチナ問題(紛争)について、原因を軸に見てきましたが、ここからは同問題に関して知っておきたい5つの事項を紹介していきたいと思います。
当初イスラエルは近隣のアラブ諸国と有効関係を築こうとした
1948年5月14日にイスラエルが独立を宣言した時、イスラエルは近隣のアラブ諸国と友好関係を築こうとしました。
このことは、当時の文書にはっきりと証拠として記載されています。
しかしその提案も、全く受け入れられませんでした。
友好関係を結ぶ代わりに、5つのアラブ諸国の軍隊は、イスラエルの完全崩壊を目標に戦争開始を宣言したのです。
イスラエルとアラブ諸国の中が悪い諸悪の根元はイギリスの二枚舌外交にあるとされる。
第一次世界大戦中、イギリスは味方をしてくれれば「パレスチナ地域への貴方達の国家建設に協力するよ」という約束をアラブ人とユダヤ人それぞれに対して行い、この矛盾した約束は果たされなかった。
そのため、それぞれが同地域での権利を主張しているため、お互いの主張が平行線のまま進まずに関係が泥沼化してしまった。
パレスチナ側はヨルダンとエジプトにも翻弄された
1967年まで東エルサレムと西岸地区は、イスラエルではなくヨルダンの支配下に置かれていました。
つまり、もしアラブ世界にエルサレムを首都とした「独立パレスチナ国家」を築こうという意思があったならば、いつでもそうすることができたのです。
しかし、パレスチナの独立は果たされなかっただけでなく、そもそも議論された形跡も残っていません。
代わりにヨルダンは近隣地域の完全な支配を目指して、領土の拡張を続けていました。
一方で、ガザではエジプト軍が実権を握っていました。ここでも、パレスチナの自治に関する議論は一度もなされていないと言われます。
和平に文字通り命を掛けたエジプトのサダト元大統領
1977年11月、当時のエジプトの大統領であったアンワル・サダトが、それまでのアラブ諸国が行っていたイスラエル強硬路線に反対する姿勢を示しました。
サダト大統領はエルサレムに向かい、イスラエルの指導者たちとの会談。イスラエル議会での演説を通して和平交渉を開始し、その2年後にエジプト・イスラエル平和条約に結ばれました。
当時、右翼政権が実権を握っていたことにも関わらず、この和平宣言でイスラエルは、アラブのリーダー格であるエジプトと新しい時代を切り拓いていく印として、戦略的に重要で、石油も埋蔵され、数多くの居住地と空軍基地が存在していた、広大なシナイ半島を返還することを決めるのです。
この条約はユダヤとアラブの間で歴史的な瞬間となる一方、多くのアラブ人の間で不満となって現れます。
そして、この和平条約に尽力したサダト元エジプト大統領は1981年、「裏切り者」の汚名を着せられ、ムスリム同胞団の一員によって暗殺されてしまったのです。
エジプトのサダト大統領に倣って、1994年にヨルダンのフセイン国王もイスラエルとの和平合意に達します。
これによって再び、イスラエルが平和を築く意志をはっきりと持っていること、そしてアラブ諸国側から歩み寄りがあった場合には、領土の犠牲も厭わないことが明らかになりました。
サダト元大統領は命を落としてしまいましたが、彼がしたことは同地域の将来にとって非常に重要であり、その平和の遺産は現在も受け継がれています。
アラファトの存在が同紛争を長期化させた
2000~2001年、アメリカのクリントン政権に支えられた、イスラエルの中道左派政権のエフード・バラク首相は、PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長に対し、エルサレムに関する妥協的な提案を含んだ画期的な2か国協定を持ちかけました。
しかし、アラファト議長はこれを拒絶しただけでなく、クリントン大統領に対して「ユダヤ人はエルサレムに何の歴史も繋がりも持っていない」という衝撃的な内容の発言をし、さらに別の案を提示することもしませんでした。
この姿勢は、イスラエルとパレスチナの関係をさらに暴力的なものへと発展させてしまいます。
イスラエルはパレスチナ側へ土地を戻すつもりがあったが反故にされた
2005年、イスラエルのアリエル・シャロン首相は、ガザ地区から全てのイスラエル軍と入植者を撤退させます。
しかしこれを機に、パレスチナ側のハマス政権はガザ地区の実権を握り、共存の道を再び断絶してしまいます。
(左がアッバース議長で右がおるメルト首相:出典:THE TIMES OF ISRAEL)
その3年後の2008年、イスラエル首相のエフード・オルメルトがさらに歩み寄りの姿勢を見せ、パレスチナ自治の提案を持ちかけましたが、アラファト議長の後任であるマフムード・アッバース議長からは何の返答もありませんでした。
後に両者の交渉に関係する人間がメディアに対し、イスラエルが提案した協定は「パレスチナが要求する100%に相当する土地をパレスチナ側に与えるつもりがあった」ことを明らかにしています。
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イスラエル・パレスチナ問題(紛争)|原因や両者の関係などを掘り下げていくのまとめ
イスラエル・パレスチナ問題は長くそして複雑で、今回挙げた原因以外にも数々の要素が複雑に絡み合っています。
この問題が解決されるには、まだまだ長い時間がかかりそうです。
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