ムガル帝国について見ていきましょう。初代皇帝から始まり、イギリスとの関係の中で滅亡に至った、インド史上最大規模を誇る王朝です。
紀元前2600頃に始まったインダス文明から続くインドの歴史の中では、非常に多くの王朝が誕生しました。
その中でも際立つのが「ムガル帝国」と呼ばれるまでになったムガル王朝で、このムガル帝国はインドに誕生した国としては最大の領土を抱えるに至り、またその時代にはインド・イスラム文化と呼ばれる新しい文化が花開くこととなりました。
この記事では、そのムガル帝国について、簡単な概要と建国から滅亡までの歴史を見ていこうと思います。
ムガル帝国とは?
ムガル帝国(Mughal Empire)とは、1526年から1858年まで、インド亜大陸のほぼ全て(南東部を除く)を支配したトルコ(テュルク)・モンゴル系のイスラム王朝。
ムガル朝と呼ばれたり、自国内では「ヒンドゥスターン」と名乗っていたことでも知られます。
また、ムガル帝国の「ムガル」とは、中央アジアでの「モゴール」、つまりモンゴルを指すことからも分かる通り、この帝国の創始者「ザヒールッディーン・ムハンマド・バーブル」は、中央アジア出身でテュルク系とモンゴル系の血を引いていました。
1650年までにムガル帝国は、オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシャ(帝国)の2つと並び、いわゆる「火薬帝国(中世から近世にかけて、火薬、火器を用いて勢力範囲を広げ、またそれらから支配体制・社会構造の形成に大きな影響をうけた国を指す歴史学上の概念)」と言われるイスラム世界三大帝国の一つとなります。
そして、1690年頃に最盛期を迎えたムガル帝国はインド亜大陸のほぼ全域を支配し、400万㎢におよぶ領土とおよそ1億6千万人の人口の覇権を握ったのです。
一方で、公用語としてはペルシャ語を採用し、また文化的にはインドのヒンドゥー文化にイスラム文化が融合していき、現在でも有名なタージ・マハルなどにその特徴が確認される「インド・イスラム文化」が形成されました。
ムガル帝国における経済と国家体制
ムガル帝国は皇帝(グレートムガル)による専制政治を敷いており、支配階級のエリート達を拠りどころとして歴代の皇帝達は支配力を振るいました。
このエリート達は宮廷に勤め、主に行政官、官僚、秘書官、宮廷歴史官、会計官などの役割を担い、驚異的な量の書類を作成してムガル帝国の日常業務を担っていました。
こうした支配階級のエリートは、チンギス・カンが考案し、ムガル帝国皇帝がエリート階級を分類するため採用した「マンサブダール制」という軍人官僚制に基づいて組織されていたと言います。
さらに、結婚相手から算術の教育、農業、医療、家政およびムガル帝国政府の規則にいたるまで、エリート階級の生活に関しては、皇帝が直接的または間接的に管理していました。
一方でムガル帝国の経済生活は、農民や職人が生産した農産物や商品をはじめとした強力な国際貿易によって成り立ち、ムガル帝国の皇帝と宮廷は、税金および広大な土地を所有することによって支えられていたようです。
ちなみに、各地の行政はムガル皇帝によって定められたジャーギール制によって運営され、この制度の中で各地方は、ジャーギールと呼ばれる主に地元の有力者によって管理されていました。
ムガル帝国の歴史を振り返ると、歴代の皇帝の後継者はいずれの時代も、君主(皇帝)の息子でしたが、他の国と違い、長男が父親から皇位を継承する「長子継承制」では必ずしもなかったことが分かります。
ムガル帝国における世襲の特徴は、「息子であれば皆、同じ割合で父親から世襲財産を平等に相続し、皇帝の下に生まれた男性全てに平等な皇位継承権があったことで、自由な争いが推奨されていたとも受け取れる制度」を採用していました。
その結果、父親であった皇帝が死去すると、息子であった王子同士で激しい争いが繰り広げられることがムガル帝国の歴史の中では度々起こったのです。
ムガル帝国の歴史ダイジェスト
帝国の建国とバーブルの治世
ティムール朝(中央アジアに勃興したモンゴル帝国の継承政権の一つ)のフェルガナの君主「ウマル・シャイフ」と、チングス・カンの次男チャガタイの後継にあたるモグーリスタン・ハン国の君主ユーヌスの孫娘に当たる「クトルグ・ニガール・ハーヌム」の下で1483年、後のムガール帝国創始者「バーブル」は誕生しました。
(出典:wikipedia)
中央アジア発祥のテゥルク系民族とチンギス・カンの血筋を引く若きバーブル王子は1526年、第一次パーニーパットの戦いにおいて、ローディー朝の君主イブラーヒーム・シャー・ローディーを破って北インドの制圧。
この勝利によって、(バーブルがモンゴル系の血を引いていたために)ペルシャ語でモンゴルを意味するムガールが訛ったムガル帝国と呼ばれる、ティムール朝の流れを引く新王朝が成立したのです。
当初のムガル帝国はまだまだ小規模な国で、またバーブルは中央アジアでの激しい王朝間抗争から逃れてきた流浪の身であったこともあり、ムガル帝国が中央アジアに拠点を持つことは度々拒否されてきましたが、なんとか現在のカブールの辺りに拠点を設けることに成功。
これ以降、バーブルは南方へ勢力拡大を図っていくことになり、好戦的なラージプート族の地ラージプーターナー(※西北インド、現在のラジャスターン州に相当する地域)以外、他の北インドの土地とガンジス平野周辺の覇権を握るに至りました。
そして1530年、バーブルは47歳で死去。
その後、バーブルの長男であったフマーユーンは、フマーユーンの叔母の夫を皇帝の座につけようとする企てを阻止して自らが皇帝に即位しました。
バーブルはイスラム教徒でしたが、色々な意味でコーランを柔軟に解釈していたようです。
例えば、大盤振舞いをすることで有名で、その際には大量の飲酒を楽しみ、ハシシ(大麻製品)も喫煙していたと言います。
このバーブルの柔軟かつ寛容な宗教観は、バーブルの孫「アクバル大帝」によって強く反映されることになります。
帝国滅亡の危機と復活
第2代ムガル帝国皇帝となったフマーユーンは、それほど強力な指導者ではありませんでした。
(出典:wikipedia)
1540年には、パシュトゥーン人の支配者であったスール朝のシェール・シャーがムガル帝国軍に勝利してスール朝建国を宣言。
フマーユーンは権力の座を失うと同時に、長い亡命生活を送ることになったのです。
それに加えて、それ以前から一部領土の統治を任されていた弟のカームラーンがマフーユーンから離反してカンダハールとカブールを統治するなどしたため、フマーユーンが実権を回復したのは、自身が死去する1556年の一年前、ペルシャの支援を得てようやくのことでした。
ただし、この実権再奪取の際にフマーユーンはスール朝を滅ぼし、さらに1540年以前には領土を倍近く拡大していたこともあったため、彼が亡くなる時にムガル帝国の領土は当初より拡大していました。
ムガル帝国の隆盛
フマーユーンが死去すると、13歳の息子「アクバル」が皇位を継承します。
(出典:wikipedia)
アクバルはパシュトゥーン人の残存勢力を打ち破り、それまで鎮圧されていなかったヒンドゥー地方をムガル帝国の支配下に置くことに成功。
アクバルはまた、外交や婚姻による同盟関係を結んで、ラージプート族に対する支配権も獲得しただけでなく、文学、詩歌、建築、科学、絵画などの文化面も強力に推進していきました。
さらに、アクバルは熱心なイスラム教徒でしたが、寛容な宗教観を奨励してあらゆる信仰の聖人に知恵を求めるなどしたため、ムガル帝国は彼の治世下で真に復興し、アクバルはムガル朝を真に帝国と呼ばれるにふさわしい国家にまで発展させたのです。
この結果、アクバルは「アクバル大帝」と呼ばれるようになり、インドの歴史の中では「最も偉大な王であり融和の象徴」として尊敬を集め続けています。
シャー・ジャハーンとムガル帝国の最盛期
アクバルの息子「ジャハーンギール」は1605年から1627年までの間、ムガル帝国を統治し、平和と繁栄をもたらしました。
そして、ムガル帝国が最盛期を迎えるのは、このジャハーンギールの後を継いだ息子である「シャー・ジャハーン(世界の皇帝の意味)」の治世下においてでした。
(出典:wikipedia)
36歳のシャー・ジャハーンは1627年、繁栄するムガル帝国を継承し、その後の1636年には、
- アフマドナガル王国を打倒して併合し、デカン地方で領土を拡大する
- ビジャープル王国とゴールコンダ王国に帝国の宗主権を認めさせる
といった出来事を通して帝国の領土をさらに拡大。
また、ヒンドゥー文化とイスラム文化が融合したインド・イスラム文化の美術や建築物が花開き、文化面でも発展。
これらの状況によって、ムガル帝国はその歴史の中で最盛期を迎えたのです。
有名なタージ・マハルが建設された
しかし、私生活においてシャー・ジャハーンは、皇帝即位から4年目の1631年に大きな悲しみを覚えることになります。
それは、14番目の子供を出産した最愛の妻「ムムターズ・マハル」が亡くなったことです。
シャー・ジャハーンは、ムムターズ・マハルを深く愛していたことで有名で、深い悲しみと共に喪に服し、一年間も公の場に姿を見せなかったと言われます。
シャー・ジャハーンは、愛する妻への愛の証として壮大な廟の建設を命じ、これによってインドの歴史的に有名な建造物であり、インド・イスラム文化を代表する作品となったムガル建築の最高傑作「タージマハル」が作られることになったのです。
ムガル帝国の衰退
シャー・ジャハーンの三男「アウラングゼーブ」が1658年、長く続いた継承争いの末に他の兄弟達を残らず処刑して皇位の座をつかみます。
また当時、シャー・ジャハーンは存命でしたが、アウラングゼーブは病気の父をアーグラ城塞に幽閉したため、その父は晩年、タージ・マハルを日々眺めながら過ごして1666年に亡くなりました。
(出典:wikipedia)
このように冷酷なアウラングゼーブは49年もの長い治世を達成する一方で、皮肉にも「偉大なるムガル帝国皇帝」と呼ばれる君主としては最後の人物となってしまいます(※これ以降も帝位を継ぐ者はいたが、帝国衰退によって「偉大な皇帝」とは呼べない存在となっていった)。
確かに、その厳しい性格をもってしてアウラングゼーブは、ムガル帝国の領土を全方向へ拡大していき、彼が亡くなる1707年に帝国の領土はムガル帝国史上最大となっていました。
一方で、アクバル以降の融和政策に反して、アウラングゼーブは厳格なイスラム教スンニ派の信者であったことから、帝国をイスラム法で統治しようとし、宮廷内の音楽さえも禁止するなど、非常に厳格な政策を推し進めた結果、イスラム教以外の人々から多くの反発や離反が生まれていきました。
このような状況は、異なる民族や宗教間での対立を招き、また、強引な領土拡大政策によって財政は破綻し、帝国は衰退期へと突入していくことになったのです。
滅亡へと向かったムガル帝国
1707年にアウラングゼーブが死去し、バハードゥル・シャー1世が帝位を継いで以降のムガル帝国は、帝国内に溜まっていた不満が爆発すると同時に外からも圧力を受け、急激に崩壊へ向かっていくことになります。
農民による反乱が増加し、イスラム教の宗派間争いが影響して皇位も不安定となり、さまざまな貴族や武将たちが、弱体化したムガル帝国の辺境地域で覇権争いを繰り広げたのです。
そして、辺境付近では例外なく新たな新興王国が数々誕生し、ムガル帝国の領土が削り取られ始めました。
イギリス東インド会社とムガル帝国
一方で、まだムガル帝国がアクバルの治世下にあった1600年、インドではイギリス人によって、イギリス東インド会社が設立されました。
当初、イギリス東インド会社の関心事は貿易に限られており、ムガル帝国の辺境周辺での業務に従事することで満足していました。
しかし、ムガル帝国が衰退するにつれ、イギリス東インド会社は徐々に勢力を増していくことになります。
ムガル帝国の末期と終焉
1757年、イギリス東インド会社は、インドのベンガル地方の村プラッシーで起きた「プラッシーの戦い」において、ベンガル地方のムスリム太守(Nawab)とフランス東インド会社の連合軍に勝利。
この勝利の後、イギリス東インド会社はインド亜大陸の大半における政治的覇権を握り、それはイギリス領インド帝国の幕開けを意味していました。
また同時に、この後に続くムガル帝国の皇帝は皇位を継承し続けましたが、その存在は単なるイギリスの操り人形にすぎなくなっていったのです。
それから少し時間が経った1857年、インド兵の半数がイギリス東インド会社に対抗して、セポイの乱またはインド大反乱として知られる暴動を起こしました。
当時すでに大英帝国と呼ばれるほど強大な国となっていたイギリスの本国政府は、この危機を免れるために暴動へ介入して鎮圧。
結果として、1858年、当時のムガル皇帝「バハドゥール・シャー・ザファール」は反逆罪で逮捕されてビルマに追放され、ここにムガル帝国は終焉を迎えたのです。
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ムガル帝国とは?初代皇帝からイギリスとの関係そして滅亡までのまとめ
インドに興ったムガル帝国について、その概要から歴史までを見てきました。
現在のインドでは、ムガル帝国時代の遺産を数多く目にすることができます。
ムガル帝国の遺産の最も顕著な例として、タージ・マハルに限らず、デリーにある赤い砦、アーグラ城塞、フマーユーン廟など、ムガル建築様式で建設された数多くの美しい建造物が残っています。
ペルシャとインドの様式が混ざり合い、世界有数の有名なモニュメントの数々が生み出されていったのです。