オスマン帝国(オスマントルコ)に関して、基本的な概要から、知っておきたい歴史的な5つのポイントまでを紹介していきます。
世界史においてローマ帝国は非常に有名。
様々な映画や本の中でもローマ帝国は描写され、人類史上最も大きく強大な力を持った帝国の一つとして、一般的にも良く知られています。
対して、オスマン帝国(オスマントルコ)はどうでしょう?
名前は聞いたことがあるけど、いまいち良く分からないという人が多いのではないかと思います。
実はオスマン帝国、世界史上で最盛期のローマに匹敵するほど大きな力をつけた帝国としても考えられ、近代の歴史において大きな影響を与えた帝国だったんです。
そのオスマン帝国について、基本概要から、知っておきたい5つの歴史的なことを見ていきましょう。
オスマン帝国(オスマントルコ)とは?
オスマン帝国とはオスマントルコとも呼ばれることのある、歴史上最も大きな帝国の一つ。
西暦1299年、東ローマ帝国とルーム・セルジューク朝(注1)の国境地帯、アナトリア西北部ソユット(ビレジク、テュルク系民族(注2)の遊牧部族長「オスマン1世」がまとめた集団が起源(これ以降、君主はオスマン家出身者が継承していった)。
誕生した当初は、片田舎の小さなイスラム王朝という存在だったのが、徐々に勢力を拡大し、多くのヨーロッパ諸国や他のイスラム諸国を征服していくようになり、15世紀にはビザンチン帝国(東ローマ帝国)を滅ぼし、首都であったコンスタンティノポリス(コンスタンティンノープル:現在のイスタンブール)を奪取します。
帝国としての寿命は非常に長く、1299年から1922年までのおよそ600余年続きました。
さらに、支配地域の範囲も非常に広く、最盛期の17世紀には、今のブルガリア、エジプト、ギリシャ、ハンガリー、ヨルダン、レバノン、イスラエル、パレスチナ自治区、マケドニア、ルーマニア、シリア、アラビアの一部などと、アフリカの北岸部を含んでいました。
そして、オスマン帝国はテゥルク系のオスマン家出身者を君主に戴く一方、帝国領内では各民族が自らの宗教や慣習を保つことが許され、また、多くの民族が共存する多民族国家であったというのが大きな特徴です。
17世紀末以降は、ヨーロッパ諸国の技術力や軍事力が高まり、徐々にオスマン帝国の力は衰退していくと同時に領土も失っていくようになり、第一次世界大戦を経て帝国としての求心力は失われて帝国制度は廃止。
1923年には共和制を採択して、現在のトルコ民族によるトルコ共和国となります。
(注釈)
- テュルク系民族:テゥルク諸語を母国語とする民族言語グループのこと。中国のウイグル人、中央アジアのトルクメン人やウズベク人、コーカサスのアゼリ人、そしてトルコ人などは、民族的・言語的背景を共有するテゥルク民族である。
- ルーム・セルジューク朝:11世紀から12世紀に存在したイスラム教国セルジューク朝の地方政権として分裂し、アナトリア地方を中心に支配したテュルク人による王朝
オスマン帝国(オスマントルコ)の歴史について知っておきたい面白い5つのこと
オスマン帝国後継者の証はオスマンの「剣」と「ベルト」
当時世界で最も大きな力を持っていたと言える大帝国オスマントルコの後継者は、その力を誇示するために、オスマン1世の二つの遺物を着用するという伝統がありました。
その二つの遺物とは、オスマン1世の剣とベルト。
オスマン帝国後継者の戴冠式には、オスマン1世の剣とベルトの着用が伝統となり、これは、西洋において、王位に就く際に王冠をかぶることと同じ意味でした。
(出典:wikipedia)
またこの伝統は、オスマン帝国の歴代君主(スルタン)の地位と権力は、伝説的な戦士オスマン1世に遡り、オスマン帝国軍の支配者であることを帝国国民に思い出させて象徴する行事でもあったのです。
ちなみに、勇敢な戦士として活躍したオスマン1世にならい、オスマン帝国の歴史前半では、スルタンは軍隊と一緒に、戦いへ参加していたとされます(オスマン帝国が成熟して衰え始めると、スルタンの参戦は失くなっていった)。
そして現在、イスタンブールのトプカプ宮殿にて、このオスマン1世から伝わるとされる剣を見ることが出来ますが、その剣が戦いにおいて実際にオスマン1世が使ったものかどうかははっきりしていません(実際の戦いで使ったものは別にあるか、または、後世に装飾された可能性がある)。
オスマン帝国は初期の頃に姿を消していた可能性もあった
歴史上、圧倒的な勢力を誇り、広大な地域を支配下に収めたオスマン帝国は、順調に最盛期の17世紀前半まで勢力を拡大していったかに思われますが、実はその歴史上、一度だけ帝国が崩壊していたかもしれない危機に直面したことがあります。
先述した通り、オスマン帝国前半期においては、スルタン(君主)も戦争に参加することが多かったわけですが、歴史上、スルタンが敵に捕虜として捕らえられたことが一度だけあったのです。
そのスルタンとは、バヤズィト1世と呼ばれるオスマントルコ第4代皇帝(スルタン)。
(出典:wikipedia)
父である第3代皇帝のムラト1世が1389年に、当時敵対していたセルビア勢力によって殺されると、同年にバヤジィト1世がスルタンとして即位します。
このバヤジィトは敵からは恐ろしい戦士として知られ、積極的な外旋と迅速な決断に優れており、「稲妻」と呼ばれていたほどで、数々の軍事的成功を収め、その中には、イスラム勢力の台頭に対抗するためにヨーロッパから送られた、最後の十字軍に対する勝利も含まれます。
しかしながら1400年、バヤズィト1世は新しい脅威に直面します。
それは、現在のウズベキスタン生まれで「残酷」として恐れられた、伝説的軍事指導者ティムール(後に中央アジアからイランにかけて広がるティムール朝の建国者)の出現。
バヤズィト1世とティムールは1402年に、15万以上の人、馬、そして象が衝突したアンカラの戦いで交戦。
戦闘の中で、オスマン帝国の臣下の一部や、オスマン軍に編成されていた小アジアの勢力が寝返ったため、バヤズィト1世側は不利になります。
アンカラの戦い終盤には、オスマントルコ軍はボロボロになり、バヤズィト1世は一旦退却しようとしますが、そこでバヤズィト1世は捕虜として捕まってしまうのです。
このように、オスマン帝国のスルタンが敵軍に捕虜として捕らえられた結果、帝国内は一時的に壊滅状態となり、もしかしたらこの時に滅亡への道を辿っていた可能性もあったのです。
スルタンはテュルク系以外の血の方が濃かった?
オスマン帝国の歴代スルタンは、テュルク系民族のオスマン1世の子孫であるため、確かにオスマン帝国はテュルク系の君主を戴く帝国であったという表現は正しいでしょう。
しかし実際のところ、歴代スルタンの多くは、テュルク系とは別の民族の血を濃く持っていた可能性が高いと考えられます。
というのも、歴代スルタンのうち30人以上はハーレム(オスマン帝国においては女奴隷が集められた女性の居室のこと)にいた女性を母に持ち、多くの場合、キリスト教出身の女奴隷が母であることがほとんどだったから。
例えば、上に名前を挙げたムラト1世の母はアナトリア出身のキリスト教徒であり、またバヤズィト1世の母もギリシャ系のキリスト教徒。
そのため、そもそもテュルク民族としての血はバヤジィト1世の頃にはかなり薄くなっており、遺伝子的にはヨーロッパ人に近く、また、イスラム教徒として生まれてきた可能性も低いのです。
さらに付け加えれば、このことはオスマン帝国にいたテュルク人達全てにも言えるかもしれません。
スルタンと同じようにハーレムを持っていなかったにしろ、オスマン帝国は多民族国家であり、異なる民族間での交わりも多くあったでしょう。
さらに、オスマン帝国軍戦闘部隊のエリート「イェニチェリ」は、オスマン帝国に連れてこられてイスラム教に改宗したキリスト教徒の子孫と言われます。
このように、オスマン帝国はテゥルク系民族によって建国されましたが、時代を重ねるごとにスルタンを始めとしてそこに住む人々は、ヨーロッパ人に近い人々に変わっていったのではと考えられます。
オスマン帝国軍史上最大の屈辱はナポレオンによってもたらされた
歴史上で多くの戦争を経験してきたオスマン帝国ですが、その中でも最大の屈辱と言って良い戦いが、(現在のイスラエルにある)タボル山での戦いかもしれません。
当初、この戦いではフランス軍のおよそ2000に対して、オスマン帝国軍は2万とも3万とも呼ばれる圧倒的な数を誇り、数の上では勝利は確実かと思われていました。
しかし、夜明けから夕刻にかけて、フランス軍はなんとかオスマン帝国軍の攻撃を退け続けます。
この時、オスマン軍の被害は増えていましたが、フランス軍を数で圧倒していたために攻撃は続けられました。
そして、強烈な日差しの下で戦いは10時間も続き、フランス軍は疲労し、喉を渇かし、弾薬が尽きかけた時に、ナポレオンがおよそ2500人の軍勢を率いて到着したのです。
すると、ナポレオンに率いられた数百人のフランス軍兵士は、数では敵わないため、オスマン帝国軍の側面をつき、オスマン帝国軍の野営地を攻撃して略奪。オスマン帝国軍を混乱させることに成功します。
実は当時のオスマン帝国軍は、数では圧倒していたものの、時代遅れの「騎士」階級の人々で構成されており、洗練された最新鋭の装備を持ったフランス軍に対して、個々の能力や軍隊の統率という点では劣っていたようなのです。
結果、オスマン帝国軍は秩序立った行動が取れなくなり、混乱の中で退却することになります。
このタボル山の戦いでは、オスマン帝国軍兵士の戦死者およそ6000人と500人の捕虜に対して、フランス軍の戦死者はたった2人だけであったらしく、圧倒的な数を揃えたオスマン帝国側にとっては、歴史的大敗であり大変な屈辱であったのです。
オスマン帝国が長期に存続出来たのはライバルが先に崩壊したから
オスマン帝国の中期から終わりに向かう崩壊への長い下り坂にあって、オスマン帝国はその歴史に繰り返し登場する3つのライバルに直面します。
その3つのライバルとは、
- 東のサファヴィー朝ペルシャ
- 北のロシア帝国
- 西のハプスブルク家
です。
第一に、サファヴィー朝ペルシャが1736年にアフガニスタンから侵略を受けて倒されると、ペルシア(イラン)はオスマン帝国のライバルではあったものの、サファヴィー朝の下で拡大主義を続けたペルシャとは全く異なり、恐れる存在ではなくなりました。
第二に、ロシアが黒海とクリミア半島に向けて勢力を拡大し、オスマン帝国の領土を奪うようになり、オスマン帝国はロシアを相手に何度も戦うことを強いられます。
しかし、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世が退位して後に銃殺されても、オスマン帝国のスルタンはまだ権力の座にありました。
第三に、ハプスブルク家とオスマン帝国は敵対し、オスマン帝国軍は二度ほどウィーンを包囲するなど、二つの帝国の間では多くの戦いが行われましたが、第一次世界大戦でオスマン帝国はハプスブルク家のオーストリア=ハンガリー帝国に味方します。
この中で、ハプスブルク家が第一次世界大戦終結まで持ちこたえられなかったのに対し、オスマン帝国はその数年後まで存在したのです。
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オスマン帝国(オスマントルコ)の歴史を知ろう!人類史上最大最高と言っても良い現在のトルコに繋がった帝国のまとめ
現代社会ではローマ帝国ほどは有名でないにしろ、歴史的にはローマに匹敵するほど強大な帝国であったオスマン帝国(オスマントルコ)について見てきました。
現在のヨーロッパ、中東、アジア、北アフリカの広い範囲を支配したオスマン帝国は、これら地域へ現代にも繋がる様々な影響を残しています。
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