チベットと中国の歴史を紐解いていきましょう。現在起こっている、中国によるチベットの侵略や弾圧問題をより深く理解する上で役立ちます。
チベットと中国は過去1,000年以上の間、隣国として複雑な関係を持ってきました。
そして現在、この両国間の関係は、「中国によるチベット側への侵略や弾圧が起こっている」として認識されることが多く、国際情勢において一つの重要な問題として提起されています。
一方で、現在起こっているチベットと中国間の問題を理解するには、表面に見えているものだけではなく、複雑に絡み合った歴史を紐解いていかなくては十分とは言えず、実際、過去にはこの二国関係が、必ずしも現在のような一方的な情勢ばかりではなかったことが分かるのです。
そこでこの記事では、チベットと中国の問題を理解するためにも重要な、両国の歴史を詳しく追っていきたいと思います。
チベットと中国:初期の二国間関係
チベット王ソンツェン・ガンポと唐の文成公主
チベットと中国が歴史上はじめて交流したのは、明らかになっている限りで7世紀前半のこと。
この年、チベット王ソンツェン・ガンポ(581~650年)が、唐の太宗の姪「文成公主(ぶんせいこうしゅ)」と結婚。ソンツェン・ガンポはまた、ネパールの皇女とも婚姻関係にありました。
※ソンツェン・ガンポの2人の妃はともに仏教徒で、これがチベット仏教の起源となった可能性が示唆されている。
ソンツェン・ガンポは在位中に、ヤルン川(中国西部、チベット自治区南部を流れる川)の流域の一部をチベット王国の統治下に編入。
加えてソンツェン・ガンポの子孫は663年から692年の間、現在は中国の行政区となっている青海省、甘粛省、新疆ウイグル自治区におよぶ広範囲を支配。
こうした国境付近の地域は、その後何世紀にも渡り、支配する側がチベットと中国の間で行ったり来たりすることになります。
領土を取り戻した中国
692年、カシュガルにおける戦いで唐が戦いに勝利すると、中国側はチベットから西域地方の領土を取り戻しました。
そのためチベット王は、中国の敵であるアラブ人や東方のトルコ人と手を結びことになります。
一方、8世紀初頭の数十年間に中国は勢力を大幅に増強。
751年に「タラス河畔の戦い」でアラブ軍およびカルルク軍に敗北するまで、唐軍の将軍「高仙芝」は、中央アジアのほとんどの地域を征服しました。
しかし、このタラス河畔の戦い以降、中国側の勢力は急速に弱まり、チベットは中央アジアのほとんどの地域を再び統治下に置くことになります。
日の出の勢いのチベットは有利な立場を最大限に利用し、インド北部のほとんどの地域を征服し、763年、唐王朝の都「長安(現在の西安)」をも占拠したのです。
そして、チベットと中国側は、821年から822年に平和条約を結んで両国の国境を制定。
それから数十年間、チベット王国は、国が分裂して対立が絶えない小国の集まりとなってしまうまで、中央アジアの領土維持に専念していくことになります。
近代以降に起こった中国のチベット支配を理解する上で大事なチベットの前近代の歴史
チベットとモンゴル
13世紀初頭、モンゴルの指導者「チンギス・カン」が世界征服をしようとしたまさにその時代、抜け目のない政治家であったチベット人はチンギス・カンに味方しました。
その結果、モンゴル軍が中国を征服した後、モンゴルが支配した他の領地に比べて、チベットは大幅な自治を認められることになります。
そして時代の流れと共にチベットは、モンゴル人が支配する中国元朝の13州の一つと見なされるようになり、この時代、チベット人は宮廷で、モンゴル人に対して極めて大きな影響力を持つようになっていきました。
例えば、偉大なチベット仏教の宗教指導者「サキャ・パンディタ」は、モンゴルの代表としてチベットへ赴き、また、サキャの甥「チャナ・ドルジェ」は、モンゴル皇帝「クビライ・カン」の娘の1人と結婚しています。
さらにチベット人は、チベット仏教をモンゴル西部へと伝播。
クビライ・カン自身も高僧のドロゴン・チューギェル・パクパと共に、チベット仏教の教えを学んでいたのです。
チベット仏教「ゲルク派」の台頭
ダライ・ラマ1世とダライ・ラマ2世
1368年にモンゴルの元朝が崩壊し、中国に漢民族の王朝「明」が建国されると、チベットは再び独立を主張して、明の皇帝に敬意を表するのを拒否します。
それから少し時が経った1474年、チベット仏教の重要な寺院の座主「ゲンドゥン・ドゥプパ」が死去。
その2年後に誕生した子供が「ゲンドゥン・ドゥプパの生まれ変わり」とされ、一派の次なる宗教指導者「ゲンドゥン・ギャツォ」として育てられました。
ちなみに、ゲンドゥン・ドゥプパおよびゲンドゥン・ギャツォの2人は、死後になってからそれぞれ、「ダライ・ラマ1世」と「ダライ・ラマ2世」として呼ばれるようになりました。
そして、ダライ・ラマ1・2世の「ゲルク派」は、チベット仏教の支配的な宗派になっていきます。
ダライ・ラマ3世
ダライ・ラマ3世のスーナム・ギャツォ(1543~1588年)は、生前にダライ・ラマの称号を贈られた最初の人物でした。
モンゴル人の支配者「アルタン・ハーン」が「ダライ・ラマ」の称号をスーナム・ギャツォへ授けたのです。
これはおそらく、スーナム・ギャツォはモンゴル人をチベット仏教のゲルク派に改宗させたというのが理由でしょう。
新たにダライ・ラマとなったスーナム・ギャツォが、その宗教的権威を強固にした一方で、1562年に「ツァンパ政権(1642年まで中央チベットの覇者となっていたチベットの政権)」がチベット王国の覇権を手に入れ、同政権の歴代の王がそれから80年間、チベットにおける非宗教的な側面での統治を行います。
ダライ・ラマ4世
ダライ・ラマ4世「ユンテン・ギャツォ(1589~1616年)」は、モンゴル人の皇子でアルタン・ハーンの曾孫でした。
1630年代の中国大陸では、
- モンゴル
- 漢民族の明王朝(衰退しつつあった)
- 中国東北部(満州)の満州民族
の間に権力争いが巻き起こっていました。
そして1644年、ついに漢民族を退けて、満州民族が現在の中国およびモンゴル国の全土を支配する中国の最後の王朝「清(1644年~1912年)」を建国します。
一方、モンゴルの武将でありチベット仏教のカギュ派の信徒であった「リンダン・ハーン」は1634年、チベットを侵略してゲルク派を滅亡させようとしました。
リンダン・ハーンはその途中で死去しましたが、リンダン・ハーンの家臣「ツォクト・タイジ」がその意志を引き継ぎます。
しかし、モンゴルのオイラト族の部族長「グーシ・ハーン(グシ・ハン)」に対して、1637年、ツォクト・タイジとその軍は敗れます。
また、グーシ・ハーンはそれから数年後、非宗教的な側面におけるチベットの覇者となっていた「ツァンパ政権」のツァン皇子も殺害し、ここにツァンパ政権は滅亡しました。
ダライ・ラマ5世
この結果、グーシ・ハーンの後ろ盾を得ると同時にダライ・ラマ5世「ロサン・ギャツォ」は、1642年、チベット全域における宗教的権威と世俗的権威のいずれも確立することに成功したのです。
ちなみにラサのポタラ宮は、この新たな統合権力の象徴として建造された側面を持っていると言えます。
ダライ・ラマ5世は1653年、清の第3代皇帝「順治帝(じゅんちてい)」を公式訪問し、両者は対等な立場で挨拶を交わします。
両者はそれぞれ「名誉と称号」を贈り合い、ダライ・ラマ5世は清朝の宗教的権威として認められたのです。
そして、ダライ・ラマ5世は1682年に死去しましたが、彼の摂政はポタラ宮を完成させ、ダライ・ラマ率いる政府の権力を固めるため、1696年までロサン・ギャツォの死を公表しませんでした。
ちなみに、この時に築かれた、
- 聖職者(チベット)とそのパトロン(中国)
としての関係が、現在起こっている両者の対立の一つの種となってしまったと言えるかもしれません。
チベット側の言い分によれば、この時期にダライ・ラマ5世と中国の清朝との間に築かれた関係は清朝末期まで続きましたが、あくまでも「独立国家としてのチベット」の地位とは何の関係もないと主張。
一方の中国側は、当然ながらこのチベットの主張に異議を唱えています。
型破りなダライ・ラマ・6世
1697年、ダライ・ラマ5世の死去から15年後、ツァンヤン・ギャツォ(ダライ・ラマ6世:1683年~1706年)がようやく即位しました。
彼は長髪、飲酒、恋愛を楽しみ、僧として生活になじめなかったと言われます(※一方で優れた詩を残しており、その人柄や作品はチベットの民に愛された)。
ダライ・ラマ6世がこのような型破りな生活を送っていた結果、モンゴルのホシュート部族の長「ラサン・ハーン」が勢力を強めることになり、1705年、ダライ・ラマ6世は退位させられます。
そしてラサン・ハーンはチベットの支配権を握り、王を自称して、ツァンヤン・ギャツォを北京へ送り(ツァンヤン・ギャツォはその道中で「謎の死」を遂げた)、代わりのダライ・ラマ6世(対立ダライ・ラマ6世)として「イェシェー・ギャムツォ」を擁立。
チベット王としてのラサン・ハーンの支配は、この地へモンゴルのジュンガル族が侵攻して権力を奪うまでの12年間続きました。
モンゴルのジュンガル族の侵攻
チベットの地へ侵攻したジュンガル族は、代わりに擁立されていた「対立ダライ・ラマ6世」を殺害し、やがて、ジュンガル族はラサ周辺の寺院を略奪し始めます。
このジュンガル族の暴力行為に、清の康熙帝(こうきてい)がすぐさま反応してチベットへ軍隊を派遣。
しかし、ジュンガル軍によって1718年、ラサ近郊で清軍の大部隊は壊滅させられてしまいます。
憤慨した康熙帝は1720年、二度目の大軍をチベットに派遣し、ジュンガル軍に勝利。
これによって清は、正式なダライ・ラマ7世としてケルサン・ギャツォ(1708年~1757年)を擁立し、中国はチベットにおける影響力を増していくようになるのです。
近世のチベットと中国
中国とチベットの新たな国境制定
中国はこの時期、チベット情勢が不安定であったことを利用して、チベット高原の一部であるアムドおよびカムの領土を手に入れ、1724年、中国の青海省に編入。
それから3年後、中国とチベットは二国間の国境線を定める協定を締結した結果、その国境線は1910年まで有効とされました。
しかしこの時、清朝は手一杯な状態。チベットを管理させる目的で清の皇帝はラサに長官を派遣しましたが、その人物は1750年に殺害されてしまいます。
そのため、清の皇帝はチベットを直接支配するより、ダライ・ラマを介して統治したほうが得策であると考え、日常レベルの決定はチベットに任せるようにしていきました。
混乱の時代の始まり
1788年、ネパールがチベットを征服しようとグルカ兵を派遣します。
これに対して清は大挙して応戦し、ネパール軍を後退させました。
しかし、ネパール側のグルカ軍は3年後、再びチベット侵攻し、有名なチベット仏教寺院を略奪して破壊。
中国側はチベット軍とともに1万7千人の兵を派遣し、ゲルカ軍をチベットから撤退させ、カトマンズから約32kmほど南まで追いやります。
一方で、当時のチベットはこのように、中国の清朝から多大な援助を受けていましたが、チベットの人々は、ますます干渉の度合いを増す「清朝支配」に不満を募らせていったのです。
ダライ・ラマ8世が死去した1804年からダライ・ラマ13世が即位した1879年までの間、つまりダライ・ラマ9世からダライ・ラマ12世までは皆早死にしています。
これについては、唯一幼少期に亡くなったダライ・ラマ9世を除き、その時々のダライ・ラマが政治的な理由で、中国側またはチベット側に殺害されたというのが理由として推定されています。
清朝のチベット支配の終焉と独立
駒としてグレートゲームに巻き込まれていくチベット
19世紀の近代においてチベットは、ロシア帝国と大英帝国の間で繰り広げられた中央アジアにおける影響力と覇権を巡る「グレート・ゲーム」の中で、重要な駒として巻き込まれていきました。
一方、以下のような事件に象徴されるように、チベットを支配していた清朝の勢力は19世紀を通して衰退の一途を辿っていきます。
- アヘン戦争(1840年6月28日~1842年8月29日)
- 太平天国の乱(1851年~1864年)
- 義和団の乱(1899年~1901年)
そのため、中国とチベットの実際の両国関係は、清王朝の初期から明確ではなくなっていたものの、清王朝の衰退によって、チベットの地位はますます不確定なものになっていったのです。
イギリスのチベットに対する干渉の始まり
この「チベット支配の曖昧な状態」は、問題を引き起こします。
1893年、イギリス領インド帝国と中国は、「通商」および「インド北東部のシッキム州とチベットとの国境線に関する国境画定」に関する条約を締結。
しかし、チベットは条約の条項を断固として拒否しました。
その結果、イギリスは1903年、1万の軍隊を派遣してチベットに侵攻し、翌年、ラサを占領してしまいます。
そして直ちにイギリスは、チベット、中国、ネパール、ブータンの代表と新たな条約を締結し、イギリスがチベット問題に関して、ある程度の支配権をもつことを各国に認めさせたのです。
ダライ・ラマ13世と清朝支配の終焉
ダライ・ラマ13世(トゥプテン・ギャツォ)は1904年、ロシア人チベット仏教僧のアグワン・ドルジェフの強い勧めによりチベットを逃れ、まずモンゴルへ、そして北京へと逃亡。
これを知った中国は、
- ダライ・ラマ13世がチベットを離れた時点でダライ・ラマを退位した
と、一方的に廃位を宣言し、チベットだけでなくネパールおよびブータンについても完全統治権を主張します。
対してダライ・ラマ13世は、清朝の光緒帝(こうしょてい)と、この問題について話し合うべく北京へ赴きましたが、光緒帝に頭を下げることは断固として拒否。
ダライ・ラマ13世は1906年から1908年まで北京に滞在したものの、中国のチベットに対する方針に落胆し、1909年にラサに戻りました。
この結果、中国は6000人の軍隊をチベットに派遣し、ダライ・ラマ13世は同年後半、インドのダージリン地方に避難します。
しかし、この中国清朝によるチベット支配は、それから少しして終焉を迎えることになりました。
1911年、清国内で起きた「辛亥革命(しんがいかくめい)」により清王朝が滅亡したのです。
その結果、ダライ・ラマ13世は1912年にチベットへ帰還することになりました。
チベットの独立
清朝を倒して「中華民国」を建国した中国の新たな革命政府は、清王朝のダライ・ラマに対する侮辱的な行為の数々を詫びる正式な謝罪を行い、ダライ・ラマ13世に復権させる申し出を行いました。
しかし、ダライ・ラマ13世はこの中国の申し出に興味はないとして受け入れず、中国による支配を拒否し、「チベットは小さな独立宗教国家である」と宣言。
ダライ・ラマ13世は1913年に、チベットの国内および対外統治における支配権を獲得し、外国の列強と直接交渉し、チベットの司法、刑法、教育制度の改革を開始していったのです。
シムラ条約(1914年)
イギリス、中国、チベットの代表が1914年、インドとその北隣の国々との国境線を画定する条約を結ぶため、交渉の席につきます。
この条約は「シムラ条約」と呼ばれ、
- 中国は「内チベット(青海省としても知られる)」の非宗教的な側面での支配権を持つ
- 中国の主権の下、ダライ・ラマの支配下にある「外チベット」の自治を認める
- 「実質的に独立した統治体」として認める
- 中国とイギリスはいずれも、「チベットの領土保全を尊重し、外チベットの行政に関しては干渉しない」
という内容も含まれました。
しかしイギリス側が、現在はインドのアルナーチャル・プラデーシュ州の一部となっているチベット南部のタワング地域の所有権を主張した後、中国は条約に調印することなく、交渉の場から退いてしまいます。
そのため、シムラ条約はチベットとイギリスの二国間のみで調印されることになったのです。
中国が調印に加わっていなかったことによる問題
この結果、これまで中国は、アルナーチャル・プラデーシュ州(タワング)北部におけるインドの所有権を認めたことはなく、中国とインドは1962年、この地域における覇権をめぐった戦争「中印国境紛争」に突入しました。
また、この国境紛争問題は現在もなお、未解決のままとなっています。
さらに、中国がチベット全土の主権を主張しているのに対して、チベットの亡命政府は、中国がシムラ条約に調印していない事実が、
- 内チベットと外チベットのどちらもダライ・ラマの支配下にあることの証明
だと主張し、こちらも未解決のままとなっています。
少しばかり続いたチベットの平穏
複数の国内外の問題に対応していくため、その後の中国は、チベット問題を論ずる余裕がなくなっていきます。
例えば、1900年代初頭に起こった日本による満州占領などの問題です。
また、中国国内では内戦が勃発していきます。
清朝を倒して成立した「中華民国」の新政府が名目上、中国の領土の大半における支配権を有していたのは、数々の軍閥間で争いが勃発するまでのわずか4年間に過ぎませんでした。
実際、1916年から1928年までの中国史は、清王朝崩壊の負の遺産である権力の空白を埋めるべく、数々の軍閥が内戦を繰り返した「軍閥時代」と呼ばれる時代です。
そのため、1949年に中国共産党が勝利するまで、中国国内は恒常的な内戦状態にありました。
加えて、「日本軍による占領」と「第二次世界大戦」により、中国国内の情勢はさらに悪化したのです。
このような状況下で、中国はチベットに対する関心をほとんど示すことが無かった、または出来なかったのです。
一方で、1933年に亡くなるまでダライ・ラマ13世は、独立統治体「チベット」を平和的に主導出来ました。
ダライ・ラマ14世の誕生
ダライ・ラマ13世の死去に伴い、ダライ・ラマの新たな転生者が1935年にアムド地方で誕生します。
現職(2019年現在)のダライ・ラマ14世となるテンジン・ギャツォです。
彼は1937年にラサに入り、チベットの指導者ダライ・ラマになるべく教育訓練が開始され、1940年、ダライ・ラマ14世に即位しています。
それ以降、ダライ・ラマ14世は、中国の圧力によってインドに亡命する1959年まで、ラサに居住していました。
中華人民共和国のチベット侵略
1950年、1949年に建国された「中華人民共和国」の人民解放軍(PLA)がチベットに侵攻しました。
数十年ぶりに政治的安定を取り戻した北京では、毛沢東がチベットに対する支配権を主張しようとしたのです。
小規模なチベット軍は、中国人民解放軍に大敗を喫し、中国は「十七か条協定」の草案を作成。チベットを「中華人民共和国の自治区」として併合するとしました。
一方のダライ・ラマ14世率いるチベット政府の代表は、嫌々ながらも協定に調印しました。
しかしその9年後、チベットでは十七か条協定は不当であるとして抗議活動が起こります。
中国による農業集団化とチベット側の反乱
共産主義を掲げ、ヨシフ・スターリンによる農業集団化を模倣しようとした中国の毛沢東政権は、チベットの土地の再分配に直ちに取り掛かります。
僧院や貴族の所有する土地は、農民に分配されるために差し押さえられていきました。
同時に、共産主義勢力は、チベット社会における富裕層および仏教による勢力基盤の破壊を試みます。
これに対し、1956年、チベット僧が率いる反乱が起き、1959年まで続いたこの反乱の中で、武力に劣るチベット軍は、中国軍を追い出すためにゲリラ戦を挑みました。
一方の中国人員解放軍は、村や僧院を全て破壊して反撃。ポタラ宮の爆破やダライ・ラマ法王の暗殺もほのめかします(但し、実行されなかった)。
ちなみに、国外追放されたダライ・ラマ政府によると、3年間におよぶ熾烈な戦いによって、チベット側の死者は86,000人に及んだとされています。
ダライ・ラマの逃亡
1959年3月1日、ダライ・ラマ14世は奇妙な招待状を受け取ります。ラサ近郊にある「中国人民解放軍の本部で開催される公演」へのものでした。
ダライ・ラマはこれに応じず、公演は3月10日まで延期。
その前日の3月9日、中国人民解放軍の幹部はダライ・ラマ側へ、
- 公演に来る際にダライ・ラマの護衛は同行させない
- チベット人民にダライ・ラマが宮殿を離れることを公表しない
という要求を求めてきます。
この要求を不可解に思ったチベット側は、直ちにこれを公表。
ポタラ宮の周りには翌日、数十万人ものチベット人が指導者を守るために集結しました。
すると、この動きに対応するように、代表的な僧院や、ダライ・ラマが夏季を過ごす離宮「ノルブリンカ」の射程内へ、今度は中国軍側が大砲を移動させてきました。
結果、双方が立てこもる状態が続きます。
そして3月17日、チベット軍はダライ・ラマがインドへ逃れるための経路を確保(その後、ダライ・ラマ14世はインド北部のダラムサラへ亡命する)。
それから2日後の3月19日に両軍の戦いが始まり、チベット軍が敗北に追い込まれる形となりました。
1959年のチベット蜂起による影響
1959年3月20日、ラサほぼ全域が破壊されました。
- 800ほどの砲弾がノルブリンカに放たれた
- ラサの三大僧院も破壊された
- ラサ全域の僧院や寺院から1千人にもおよぶ僧侶が捕虜にされた
- その多くが処刑された
- 残されたダライ・ラマの護衛は銃殺隊によって公開処刑された
など、「1959年のチベット蜂起」と呼ばれるこの出来事の結果は、凄惨なものとなりました(さらに、1959年から1964年までの間に、30万人ものチベット人が行方不明となっている。これに関しては、監禁、処刑、国を追われて亡命したという理由が考えられている)。
そして1959年のチベット蜂起以降、中国政府はチベットの自治権の多くを廃止し、チベット全域の再定住および土地の再分配の政策を推進。
この過程では、
- チベットにおける文化大革命
- チベット人のアイデンティティとなる文化的遺産は徹底的に破壊された
- 漢民族による実効支配の強化
- チベットにおけるチベット人の占める割合を減らし、また漢民族に職の機会を提供するため、漢民族によるチベット地域への移住を推進した
- 官職のほとんどは華人で占められるようになっていった
といったことが起こり、中国はチベット支配を強めていきました。
また、ダライ・ラマ法王は1959年のチベット蜂起以後、国を追われたままとなっています。
パンチェン・ラマ10世の死とパンチェン・ラマ11世問題
一方で中国政府は、1989年、ダライ・ラマ14世に次ぐ立場にあったパンチェン・ラマ10世がチベットに戻ることを認めます。
パンチェン・ラマ10世は、文化大革命で荒廃したシガツェ市にあるタシルンポ寺を復興させるなどの功績を立て、また、中国によるチベットへの侵害を公の場で非難するなどした人物です。
しかし、この中国に対する批判を行った5日後、50歳で亡くなってしまいました(重度の心臓発作が原因であったと伝えられている)。
そして、この死を境に、
- ダライ・ラマ14世から認定されたパンンチェンラマ11世( ゲンドゥン・チューキ・ニマ)
- 中華人民共和国が認可したパンンチェンラマ11世(ギェンツェン・ノルブ)
の二人が存在する状況となってしまっています。
2008年のチベット騒乱
近年に起きたチベットと中国間の出来事としては、「2008年のチベット騒乱」を知っておくべきでしょう。
2008年3月10日、「1959年のチベット蜂起」から49年の節目を迎えるにあたり、また、北京オリンピック開催の年であるといったことにより、チベットの人々はチベットの独立や収容されている僧の解放を求めるデモを行いました。
当初、抗議活動は穏やかに進められていたものの、中国警察が催涙ガスと銃を用いて介入する事態となります。
それに火を注ぐように、「収監された僧たちが不当な扱いを受けたり、殺害されたりしている」といった情報(真偽は不明)が出回ると、デモ活動は最終的に暴動へと化したのです。
チベット人は逆上し、ラサやその他市街地に点在する華人の店舗を見つけては破壊。また中国政府は、この暴動によって18人が殺害されたと発表。
中国側はこの状況を受け、海外からのメディアそして旅行者によるチベット入国を直ちに禁止しました。
さらに、騒動は青海省(内チベット)、甘粛省、そして四川省にも広がってしまいます。
中国政府は5,000人におよぶ部隊を派遣して事態を厳重に取り締まり、この中では中国軍によって80から140人が殺害され、2,300人以上のチベット人が拘束されたと言われます。
2008年のチベット騒乱は、中国にとっては国の威信をかけた「2008年夏季オリンピック」の準備が進められていた重要な時期に起きました。
結果、国際社会から中国へ厳しい目が向けられ、オリンピック開会式への参加を拒否した首脳も出るなど、この出来事は、中国国内で起きている人権問題の提起につながったと言えるのです。
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チベットと中国の歴史|侵略・弾圧問題を理解する上で重要な知識のまとめ
チベットと中国の歴史を見てきました。
両国は長年にわたり、密に協力し合う時代もあれば、争いも繰り返してきたなど、課題と変化に満ちた関係を続けてきたと言えます。
この複雑な関係を知ることが、現在の両国に起こっている問題を理解する上でも大切になってくるはずです。