第二次世界大戦をわかりやすくまとめていきます。その歴史や原因、参加国や犠牲者、そして年表などを項目別に見ていきましょう。
人類史の中で世界は数々の戦争を見てきましたが、1939年から1945年に起こった世界第二次世界大戦は、世界のほとんどを巻き込んだ大規模な国際紛争で、未曾有の規模のものでした。
その中では5000万人を超える人命が失われ、20世紀最悪のジェノサイドの一つとして知られるホロコーストが起こり、さらに人類史上初めて核兵器が使われたのです。
また、第二次世界大戦を経験した世界はその後、同じ轍を踏まないためにも国際連合を発足させるなどしたため、世界の政治や社会が大きく変わっていくきっかけとなりました。
この記事では、その第二次世界大戦についてわかりやすくまとめていこうと思います。
歴史や原因、参加国や犠牲者数、そして年表までを見ていきましょう。
第二次世界大戦とは?
第二次世界大戦(World War II:WW II / WW2)は、1939年から1945年まで続いた世界的規模の戦争。
列強といわれた国々を全て含む世界の大多数の国々が最終的に、
- 枢軸国
- ドイツ、日本、イタリアを中心とする陣営
- 連合国
- アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国などの陣営
という2つの相対する軍事同盟を結成し、30ヵ国以上、1億人以上の人々を直接的に巻き込んだ総力戦でした。
また、第二次世界大戦の主要参加国は、経済、産業、科学全般にわたる国力すべてを大戦に投入した結果、民間人と軍人の区別も曖昧になるほどの規模となりました。
第二次世界大戦はこれまでの人類史において史上最悪の戦争で、死者の数は5000万人から8500万人にも上ると言われます。
また、第二次世界大戦の中では、ホロコーストと呼ばれる集団虐殺、戦略爆撃、飢餓や病気による計画的に謀られた死、そして人類史上で唯一、戦争で核兵器が使用されたなど、その名前の通り、全世界があらゆる手段を用いて戦った大戦だったのです。
第二次世界大戦の歴史(流れ)をダイジェストで見ていこう
アジア太平洋地域の支配を目論んでいた日本は、1937年まで中国と戦争状態にありましたが、日本と中国のどちらかが宣戦布告したわけではありませんでした。
第二次世界大戦の勃発から欧州戦線の拡大
第二次世界大戦は1939年9月1日、ドイツによる「ポーランド侵攻」を受けて、フランスとイギリスがドイツに対し宣戦布告したことで開戦したという解釈が一般的です。
1939年後半から1941年初頭まで、一連の軍事行為と条約締結を経て、ドイツはヨーロッパ大陸の大部分を征服あるいは支配下に置き、イタリアおよび日本と枢軸国としての同盟関係を結びます。
一方、北アフリカおよび東アフリカでの軍事行動開始に続き、1940年半ばにフランスが敗れると、軍事衝突は主にヨーロッパの枢軸国と大英帝国(イギリス)との争いとして続き、その後、バルカン半島における戦い、英国空中戦、電撃戦、長期にわたる大西洋の戦いへと続いていったのです。
そして1941年6月22日、ヨーロッパの枢軸国がソ連侵攻を開始し、人類史上最大の戦争の舞台が整います。
この東部戦線(注)では、枢軸国軍が消耗戦を余儀なくされ、ドイツ国防軍は最も深刻な打撃を受けました。
(注釈)第二次世界大戦の中でも欧州(ヨーロッパ)を舞台に行われた欧州戦線は、西ヨーロッパを舞台にした西部戦線、北アフリカを舞台にした北アフリカ戦線、そしてソ連を舞台にした東部戦線に分けられる。
太平洋戦争の勃発
1941年12月、日本がアメリカ合衆国および太平洋にある、ヨーロッパ植民地の島々に対し奇襲攻撃を仕掛けました。
これを受けたアメリカは、直ちに日本へ対して宣戦布告。
イギリスがこれに賛同を表すると、ヨーロッパの枢軸国は日本との同盟関係に従って直ちにアメリカに対し宣戦布告し、ここに太平洋地域を舞台にした太平洋戦争が開戦します。
その後、日本が西太平洋の大部分における覇権を急速に拡大して、アジアの多くの人々が西側の植民地支配から解放されると、その中の一部の軍は日本側の支援に回ります。
枢軸国の劣勢へ傾いていく第二次世界大戦
1942年、日本が「ミッドウェー海戦」で致命的な敗北を喫すると、太平洋地域への枢軸国側の進軍が足止めされます。
さらに、ドイツとイタリアが北アフリカ戦線で敗れ、加えてソ連国内で行われたスターリングラード攻防戦(スターリングラードの戦い)にて、枢軸国軍は決定的な敗北を喫したのです。
その結果、
- 東部戦線におけるドイツの一連の敗北
- 連合国軍によるシチリアおよびイタリア侵攻
- 太平洋地域における連合国側の勝利
などをはじめとする1943年の主要な勝敗によって、枢軸国側は主導権を維持することが困難となり、全ての戦線において戦略的後退を余儀なくされます。
そして1944年、ヨーロッパの連合国がドイツの侵略下にあったフランスに侵攻して大部分を取り戻し、ソ連は失った領土を取り戻すことに成功。
それに加えて連合国は、ドイツおよびドイツと同盟関係にあった国々への攻撃に転じました。
また、1944年から1945年には、中国中央部、中国南部、ビルマといったアジア本土にて、形勢が大きく逆転。
苦戦を強いられていた日本に追い討ちをかけるように、連合国軍が攻撃を仕掛けた結果、日本海軍は壊滅状態となり、西太平洋の主要な島々をめぐる覇権を日本は連合国側に奪われてしまいました。
第二次世界大戦の終結
ヨーロッパにおいて第二次世界大戦は、ヨーロッパの連合国並びにソ連によるドイツ侵攻をもって事実上は終結。
ソ連軍によるベルリン攻略、アドルフ・ヒトラーの自殺と続き、1945年5月8日にドイツが無条件降伏するに至りました。
対してアジア・太平洋地域では、1945年7月26日、連合国側がポツダム宣言を発します。
しかし日本がその降伏勧告を拒否すると、アメリカは日本本土の広島と長崎に、それぞれ8月6日と8月9日付けで原子爆弾を投下。
日本列島本土への米軍上陸が差し迫り、次なる原子爆弾投下の可能性や、日本に対するソ連の参戦と満州侵攻を受け、1945年8月15日、日本は降伏の意思を発表。
これによって、アジア・太平洋地域においても連合国側の全面勝利が確実なものとなったのです。
その後、第二次世界大戦が終戦を迎えると、連合国側による軍事法廷が開かれ、ドイツおよび日本の戦犯が軍事法廷で裁かれました。
第二次世界大戦後の世界
第二次世界大戦の経験は、全世界規模での政治的様相と社会構造の変化をもたらしました。
例えば、国際連盟の失敗を反省し、また、国際協力を促進して今後の軍事衝突を未然に防ぐためにも、第二次世界大戦の戦勝国である中国、フランス、ソ連(ロシア)、イギリスおよびアメリカ合衆国を安全保障理事国とした国際連合(United Nations:UN)が新しく発足します。
また、ソ連とアメリカは、超大国として覇権を争うライバル関係に発展し、半世紀近くにおよぶ冷戦時代に突入しました。
さらに、大戦で疲弊したヨーロッパは荒廃し、ヨーロッパ諸国の影響力が弱まったことが引き金となり、アフリカやアジアでは脱植民地化の動きが起こり、多くの独立国が誕生します。
そして、国内産業が被害を受けた多くの国々では、経済復興および経済発展に向けた政策を打ち出し、その中でもヨーロッパでは、第二次世界大戦以前からの憎しみに終止符を打ち、統合された一つのヨーロッパとしてのアイデンティティを確立しようとする政治統合が始まり、現在の欧州連合(EU)へと繋がっていったのです。
第二次世界大戦に関するその他の重要なポイントまとめ
第二次世界大戦について、大まかな歴史の流れを理解できたところで、それ以外に抑えておきたいポイントを項目別に見ていきましょう。
重要ポイント1:第二次世界大戦の原因
大事に世界大戦は、多くの要素が絡まり合った結果として勃発しましたが、その中でも抑えておくべき主要な原因として、以下のポイントを挙げることが出来るでしょう。
原因① ヴェルサイユ条約
第一次世界大戦の終焉時に開催されたパリ講和会議で調印されたウェルサイユ条約(1919年6月28日)は、多くの国々に不満を残したまま締結されました。
ドイツやオーストリアをはじめとする敗戦国は特に、軍隊の放棄と高額な補償を要求するパリ講和条約に不満を隠せませんでした。
そもそもドイツがヴェルサイユ条約に賛成したのは、「調印しなければドイツに侵略する」と他の国々に脅されたのが大きな原因です。
ちなみに、このヴェルサイユ条約で求められた補償金に関してドイツは、2010年になってようやく支払いを終えました。
原因② 深刻な経済的不況
第一次世界大戦は多くの国々の経済に多大な悪影響を及ぼしました。
1920年頃にようやくヨーロッパの国々の経済が安定すると、今度はアメリカで大恐慌が発生し、ヨーロッパの経済は再び壊滅的な影響を受けました(世界大恐慌, 1929年)。
このような未曾有の不況下で、共産主義とファシズムが勢力を拡大していき、これが第二次世界大戦勃発の大きな原因の一つとなったのです。
原因③ 独裁主義体制
政治不安と経済不況は、ドイツ、イタリア、日本そしてソビエト連邦といった国々で、独裁主義体制または、それに準じた政治体制の誕生を促し、指導者の暴走を招くこととなりました。
原因④ ナショナリズムの台頭
ヨーロッパで既に育ち始めていた愛国主義は、第一次世界大戦を経てより一層強くなりました。
特に敗戦国においてその傾向が目立ち、その強すぎる愛国心は間違った指導者の出現を盲目的に許すこととなったのです。
原因⑤ 宥和政策の失敗
外交上の譲歩によって戦争を極力避けて平和を維持する、または問題の解決を図ろうとする宥和政策の失敗もまた、第二次世界大戦を招いた原因とされます。
チェコスロバキアは第一次世界大戦後に独立国家となりましたが、1938年頃になると、四方をドイツに囲まれる形となりました。
そしてヒトラーは、ドイツ人が多く居住するチェコスロバキア西部のズデーテン地方を併合したいと考えるようになります。
これに対して宥和政策を押し出したイギリスの当時の首相ネヴィル・チェンバレンは、ヒトラーをなだめるために「これ以上の領土を要求しない」と約束させた上で、ズデーテン地方の占領を許可。
しかし1939年3月、ヒトラーはチェコスロバキアの他の地方にまで侵略していき、最終的にはナチスドイツの脅威を高めることとなったのです。
重要ポイント2:第二次世界大戦の主要プレーヤーに関して
第二次世界大戦では、参戦した国々が枢軸国と連合国という2つの勢力に分かれて戦いました。
この2つの主要な勢力を理解するためにも、もう少しそのプロフィールを掘り下げていきましょう。
枢軸国
ドイツ、日本、イタリア3か国は日独伊三国同盟(1940年9月27日)を結成し、これが枢軸国の原型となります。
大戦が進むにつれて、そこへさらにブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、そしてドイツによって作られた二つの国(クロアチアとスロバキア)が参加しました。
主要な指導者
- ドイツ
- アドルフ・ヒトラー(総統)
- 日本
- 東条英機(首相/陸軍大将)
- イタリア
- ベニート・ムッソリーニ(首相)
同盟国
アメリカ合衆国、イギリス、中国そしてソビエト連邦などは連合国を形成し、枢軸国に立ち向かいました。
1939年から1944年の間に、最低でも50の国が同盟国側に立って戦い、終戦までにさらに13の国が同盟に参加しました。
その中には上記の国以外にも、
オーストラリア | フランス | ブラジル |
カナダ | インド | ニュージーランド |
南アフリカ | チェコスロバキア | デンマーク |
ベルギー | ギリシャ | オランダ |
ノルウェー | ポーランド | フィリピン |
ユーゴスラビア | その他イギリス連邦諸国 |
などが含まれています。
主要な指導者
- アメリカ
- フランクリン・ローズヴェルト(大統領)
- イギリス
- ウィンストン・チャーチル(首相)
- 中国
- 蔣介石(将軍)
- ソ連
- ヨシフ・スターリン(書記長)
重要ポイント3:第二次世界大戦による負傷者/死者数
国 | 死者数 | 負傷者数 |
アメリカ | 405,399 | 670,846 |
イギリス | 329,208 | 348,403 |
イタリア | 77,494 | 120,000 |
オーストラリア | 23,365 | 39,803 |
オーストリア | 380,000 | 350,117 |
カナダ | 37,476 | 53,174 |
ソビエト連邦 | 7,500,000 | 5,000,000 |
中国 | 2,200,000 | 1,762,000 |
ドイツ | 3,500,000 | 7,250,000 |
日本 | 1,219,000 | 295,247 |
ハンガリー | 140,000 | 89,313 |
フランス | 210,671 | 390,000 |
ブルガリア | 10,000 | 21,878 |
ベルギー | 7,760 | 14,500 |
ポーランド | 320,000 | 530,000 |
ルーマニア | 300,000 | 不明 |
第二次世界大戦の年表
最後に、第二次世界大戦の流れを年表としてまとめておきます。
1939年9月1日 |
ドイツ軍がポーランドを侵略すると、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発。しかし、デンマーク、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ベルギー、フランスもすぐにドイツの支配下に置かれる |
1940年6月10日 |
イタリアがイギリスとフランスに宣戦布告してドイツ側で戦争に参加。戦線はギリシアと北アフリカに広がる |
1940年7月〜9月 |
ドイツ軍と英国軍の航空戦であるバトル・オブ・ブリテンが英国の海岸線で行われる |
1940年9月〜1941年9月 |
ドイツ軍がロンドンにブリッツと呼ばれた夜間の大規模な空襲を行う |
1941年1月22日 |
イギリス軍とイギリス連邦諸国軍がリビアの港湾都市トブルクを制圧 |
1941年6月22日 |
ドイツ軍がソ連へ侵攻 |
1941年9月 |
日本軍がインドシナ半島へ侵攻 |
1941年12月7日 |
日本軍が真珠湾を攻撃して米国海軍の航空機の半数以上を破壊し、八隻の戦艦全てを損傷させる。日本はまた、フィリピンのクラーク、イバ両航空基地も攻撃して米国陸軍の航空機の半数以上を破壊する |
1941年12月8日 |
ルーズベルト大統領は議会で「アメリカ合衆国にとって恥辱の日」と発して米国は日本に宣戦布告。日本は香港、グアム島、ウェーク諸島、シンガポール、英領マラヤを侵略する |
1941年12月11日 |
ドイツとイタリアが米国に宣戦布告 |
1941年12月25日以前 |
日本軍がタイ、グアム島、香港、ウェーク島を制圧 |
1942年初頭 |
北アフリカとソ連での枢軸国軍の進軍を連合国軍が一旦止める |
1942年2月 |
日本軍はマレー半島を侵略し、一週間以内にシンガポールが降伏する |
1942年6月4日〜6日 |
日本はミッドウェー島を皮切りにハワイ諸島を侵略する計画だったが、米国がその計画の暗号を解読。日本軍はミッドウェーを攻撃したものの、空母四隻と200機以上の搭載機および操縦士を失い、米国の最初の明確な勝利となる |
1942年8月19日 |
ドイツがさらにソ連深く侵攻してスターリングラードの攻防戦が始まる |
1942年8月〜1943年2月 |
アメリカ海兵隊が太平洋のガダルカナル島の戦いに勝利して島を保持 |
1942年10月23日 |
イギリス軍が第二次エル・アラメイン会戦で枢軸国軍を撤退させる |
1943年2月 |
スターリングラードの攻防戦でドイツ軍が降伏。これにより、ドイツ軍の東への進軍が止まる |
1943年7月10日 |
連合国軍がイタリアに上陸 |
1943年7月25日 |
イタリア国王が政治指導力を回復。ムッソリーニは解任されて逮捕される |
1943年11月〜1944年3月 |
日本が占領していたソロモン諸島のブーゲンビル島に米国海兵隊が上陸して奪還作戦が行われる |
1944年6月6日 |
連合国軍がノルマンディー海岸のユタ・ビーチ、オマハ・ビーチ、ゴールド・ビーチ、ジュノー・ビーチ、ソード・ビーチの五か所に上陸。上陸作戦には、船舶5000隻、航空機1万1000機、兵士15万人が動員される。この日はD-デイと呼ばれる |
1944年8月25日 |
米軍と自由フランス軍がパリを解放 |
1945年1月27日 |
ソ連軍がポーランドのクラコフ近郊にあったアウシュビッツ強制収容所の施設群を解放 |
1945年2月19日〜3月26日 |
アメリカ海兵隊が硫黄島で日本軍と戦闘 |
1945年4月12日 |
ルーズベルト大統領がジョージア州ウォームスプリングスで死去。ハリー・トルーマン副大統領が大統領として宣誓 |
1945年4月25日 |
ソ連軍がベルリンを包囲 |
1945年4月28日 |
ムッソリーニがスイスへの逃亡中に殺される |
1945年4月29日 |
米軍の兵士がドイツのミュンヘン郊外にあったダッハウ強制収容所を解放 |
1945年4月30日 |
ヒトラーと妻エヴァ・ブラウンが自殺 |
1945年5月7日 |
ドイツのランスにあったアイゼンハワーの司令部でドイツが降伏 |
1945年5月8日 |
ヨーロッパ戦勝記念日。ヨーロッパにおける連合国の勝利によって欧州での戦争が公式に終結 |
1945年7月16日 |
ニューメキシコ州アラモゴードで最初の原子爆弾実験の成功 |
1945年7月29日 |
トルーマン大統領は日本が無条件降伏しなければ日本を破壊すると警告するが日本は拒否 |
1945年8月6日 |
戦争において初の原子爆弾(リトルボーイ)が広島市に投下される |
1945年8月9日 |
二発目の原子爆弾(ファットマン)が長崎に投下される |
1945年8月14日 |
日本がポツダム宣言の受諾と戦争の終結に無条件で合意 |
1945年9月2日 |
日本が東京湾のUSSミズーリ艦上で降伏文書に署名。ここに第二次世界大戦は完全に終結する |
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第二次世界大戦まとめ|歴史・原因・参加国・犠牲者数・年表までのまとめ
これまでの人類史上で最悪の戦争と呼ばれる第二次世界大戦についてまとめてきました。
第二次世界大戦を経た世界は、その過ちを二度と犯さないためにも、国際協力などを強化してきました。
しかしそれでも近年は、大戦から時間が経過してしまったからなのか、ナショナリズムの高揚や国際協力を軽視する傾向が目立ち始めています。