ガリレオ・ガリレイの生涯と人生について掘り下げていきましょう。ガリレオに関する歴史ダイジェストと9つの豆知識を紹介していきます。
社会における文化的側面が大きく花開いたルネサンス時代のイタリアには、数々の天才芸術家や科学者が現れましたが、そのルネサンス時代後期のイタリアで誕生した人物にガリレオ・ガリレイがいます。
ガリレオは、主に科学の分野で優れた実績を残し、現代科学の礎を築いた歴史的人物です。
イタリアでのルネサンス時代は1600年には終焉を迎えたという見方もあるため、通常、ガリレオがルネサンス時代の天才に含まれることはあまりありませんが、若い頃にルネサンス時代後期を過ごした経験は、彼がその後に優れた業績を生み出す上で大きな影響を与えたはずです。
この記事では、ガリレオ・ガリレイの生涯と人生を追う歴史ダイジェストと、ガリレオにまつわる9つの豆知識を通して、偉大な科学者ガリレオについての理解を深めていこうと思います。
ガリレオ・ガリレイ
ガリレオ・ガリレイ(1564~1642年)は「現代科学の父」や「天文学の父」とも呼ばれるイタリア出身の人物で、物理学、天文学、宇宙学、数学、哲学の分野で大きな功績を残しました。
また、イギリスのロジャー・ベーコンと共に、知識を獲得するための経験的方法である「科学的方法または科学的検証」を開拓した人物の一人として知られています。
他にも望遠鏡を改良し、木星の衛星や土星の環、金星の満ち欠け、太陽の黒点、そして月の表面などを観察したことでも有名。
ガリレオは自分を売り込むことに長けており、イタリアのエリート層の間に数多くの友人や支援者がいたと言われ、イタリアではパドヴァにあるイタリアで2番目に古い大学「バドヴァ大学」で教授の地位にも就いていました。
一方で、カトリック教会の有力者からは嫌われてしまったことも事実で、地動説を唱えたガリレオは1616年、そして1633年の二度、裁判にかけられ、最終的には自宅軟禁に処されて一生を終えたのです。
ガリレオ・ガリレイの生涯と人生の歴史ダイジェスト
生い立ちから初期のキャリア
ガリレオ・ガリレイは1564年にイタリアのトスカーナ地方にあるピサで、音楽家であり研究者であった父「ヴィンチェンツォ・ガリレイ」の長男として生まれました。
その後の1581年、ガリレオは医学を学ぶためにピサ大学に入学しますが、たちまち数学の虜となってしまいます。
そのため、彼は1585年、卒業することなく大学を去ります(つまり、ガリレオは大学中退者ということ!)。
しかし、1582年頃からトスカーナ宮廷つきの数学者「オスティリオ・リッチ」に数学を学んでいたこと、また、大学を中退したにも関わらず、1583年、最初の有名な発見となる「振り子の法則」を発表したことなどもあり、1589年から1610年にかけて、ガリレオはピサ大学そしてパドヴァ大学にて数学の教授職に就いたのです。
そしてこの間、彼は落下する物体に関する実験を行い、物理学の分野で重要な功績を残しました。
具体的には、
- 物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しない
- 物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例する
という、2つの発見でした。
ガリレオ・ガリレイにまつわる有名な話の1つに、「ピサの斜塔」から大小重さの異なる球を同時に落として両者が同時に地面へ着地するかどうかの実験を行ったというものがあります。
ただし、これついては弟子によって創作された逸話であり、実際に行われたことはなかったという説もあり、真偽は良く分かっていません。
ガリレオがそのような実験をしたとの記録は、何年も後に弟子によって書かれたもの唯一のみであることが、真偽がはっきりしない理由です。
生涯結婚することはなかったが子供はいた
また、大学の教授職を得てから少ししてからのこと、ガリレオはしばしば訪れていたヴェネツィアにて、6歳ほど年下のマリナ・ガンバという女性と出会い、彼女とは生涯結婚することはなかったものの、2女1男の3人の子供をもうけています。
- ヴィルジニア・ガリレイ(後に修道女となりマリア・チェレステに改名)
- リヴィア・ガリレイ(後に修道女となりアルカンジェラに改名)
- ヴィンツェンツォ・ガンバ
です。
ガリレオ自身は晩年にカトリック教会と対立するようになりますが、二人の娘はフィレンツェ近郊の修道院に入り尼僧となりました。
望遠鏡とメディチ家の宮廷
オランダの望遠鏡の噂を聞きつけたガリレオは1609年、そのオランダ風のデザインを改良した最初の望遠鏡を自ら製作しました。
そして1610年1月には早速、木星の周りを周回している4つの「惑星」を発見。
これらは後に木星の4つの衛星であることが分かります。
ガリレオはすぐにこの結果を「星界の使者(Sidereus Nuncius)※日本では星界の報告」として論文発表。
この論文にはまた、月の表面に関する観察結果や、天の川に誕生した新星に関する多くの記述も見られます。
イタリアで時の人となったガリレオ・ガリレイ
「星界の使者」が出版されると、ガリレオはたちまちイタリアの時の人となり、それがメディチ家の第四代トスカーナ大公「コジモ2世」の目に留まった結果、ガリレオはメディチ家専属の数学者兼哲学者として雇われることになりました。
(コジモ2世)
これによりガリレオは、実験を続けるための支援を受けるようになり、発見をより効果的に世界へ発表できるようになっていったのです。
一方でガリレオの発見は、当時の科学者や聖職者の間で広く受け入れられていたアリストテレス的世界観とは対立するものでした。
月の表面のでこぼこは「天井の世界は完璧である」という見方とにはそぐわないものであったことに加え、ガリレオ衛星の軌道は教会が支持した天動説とは完全に矛盾していたのです。
そしてこれが、後には宗教界との対立を生んでいくこととなります。
ガリレオの裁判
1616年、カトリック教会は地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスの著書「天体の回転について(De Revolutionibus Orbium Coelestium)」を禁書に指定。
この本はその題からも分かる通り、科学的に地動説を論じた世界初の論文でした。
また、この禁書への指定に合わせる形で、ローマ教皇パウルス5世はガリレオをバチカンに呼び寄せ、以後は公的にコペルニクスの説を支持することを禁じたのです。
1632年、ガリレオは天動説と地動説の両方の論点を述べた「天文対話(別名”二大世界体系にかんする対話”)」を出版。
しかし、天動説を信じる登場人物の名前が「シンプリチオ(頭の単純な人という意味)」であったことからも、ガリレオが明らかに地動説を指示していたことは明らかでした。
そして1633年にガリレオは、ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられます。
当初、ガリレオは地動説を説いたことを否定しますが、後に「わざとではない」としながらも認めた結果、ガリレオ・ガリレイは異端判決を受け、自分の誤りに対して悲しみと嫌悪を見せなければ拷問が待っているとの圧力が掛けられたこともありました。
最終的にこの裁判でガリレオは有罪が告げられ、地球が動くという地動説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文をガリレオは読み上げ、ここに裁判は終了したのです。
軟禁生活を送りながら亡くなったガリレオ
裁判当時、70歳近くだったガリレオには当初、無期刑が言い渡されましたが、その後すぐに軟禁へ減刑されたこともあり、投獄されることはなく、余生を快適な自宅軟禁下で過ごすこととなりました。
この間、彼は生涯に行った実験の結果をまとめた名著「新科学対話」を記しています。
また、有名な英国人詩人のジョン・ミルトンや哲学者トマス・ホッブズが訪れているなど、度々、訪問客を迎え入れていました。
しかし、1642年1月8日、ガリレオは動悸と高熱に苦しんだ後、フィレンツェ郊外のアルチェトリの自宅にて息を引き取りました。
享年77歳でした。
ガリレオ・ガリレイの生涯に関する興味深い話
「それでも地球は動く」はうそ?
裁判で地球が宇宙の中心にあることを認めるように強要され、そして異端誓絶文を読み上げた後、ガリレオは「それでも地球は動く」と口走ったと言われています。
しかし、この逸話が初めて文献に登場するのは裁判から125年も経ってからのことです。
そのため、実際は、状況を考慮してもガリレオ自身がこの言葉を発したとは考えにくく、何者かが後付けで加えたという説が現在は主流です。
指図されるのが嫌いだったらしい
ガリレオは「指図されるのが大っ嫌いだった」と言われます。
ピサ大学の若き教授だった頃でさえ、ガリレオは波風を立てることで有名でした。
大学の規則によると、教授はいつも正式な外衣を着ることになっていましたが、ガリレオはそれを拒否。
ガリレオが「尊大であり、動きにくくて不快だ」と考えたためでした。
これに対して大学は、ガリレオの給料を減らしています。
一般的なイメージとは裏腹に初期の頃は教会とも上手くやっていた
晩年こそ大きな問題に発展してしまったものの、ローマ法王庁は天文学の知識を求めていたこともあり、ガリレオの人生の2/3は教会とのトラブルと無縁でした。
天文学の知識はイースターなどの教会にとっては重要な祝祭日を決めるために不可欠だったからです。
また、1611年にガリレオがローマを訪れてイエズス会の天文学者に望遠鏡を披露した際には、大歓迎を受けました。
さらに、後のローマ法王ウルバヌス8世は、夕食の席でガリレオにエッセイを読み上げさせ、ガリレオを賛美する詩さえ書いたほどです。
しかし、数名の保守的な教授たちがガリレオのことを悪く言い始めたために、状況は悪くなっていきました。
そして追い討ちをかけるように、ガリレオの観測からは支持できるものであったことから、ガリレオはコペルニクスの地動説(太陽中心説)を否定せず、せれがまた、教会との対立を一層深めていきました。
名前と姓が重なるのには理由がある
ガリレオ・ガリレイの名前(ガリレオ)と姓(ガリレイ)は、非常に似ていると感じませんか?
実はこれ、れっきとした理由があるようなのです。
その理由とは、ガリレオの故郷トスカーナでは当時、初めての子供(長男)には姓に基づいた名前をつける習慣がありました。
その結果、ガリレイに基づいたガリレオという男性らしい音のする名前が付けられ、後世にも記憶されるガリレオ・ガリレイが誕生したのです。
おもちゃを科学的な道具に一変させた
ガリレオは自ら望遠鏡を発明したわけではなく、1608年に特許申請されたオランダで制作された望遠鏡を改良し、科学的観察に用いたことは上でも述べた通りです。
ただ、ガリレオが行った改良というのは、その後の科学の発展には非常に重要でした。
というのも、オランダ製の望遠鏡に対してガリレオが改良した望遠鏡は、その精度が20倍も30倍も高かったと言われ、
祭りで売られているおもちゃを科学的な道具に一変させた
とさえ言えるからです。
メディチ家の星々
望遠鏡による観察を始めてからすぐの1610年にガリレオは、木星に四つの小さな衛星があることを初めて観察して有名になりました。
そして、当時、トスカーナを治めていたメディチ家のコジモ2世がガリレオの支援者だったこともあり、それらの衛星を当初は「コジモの星々」と命名し、その後はコジモの提案にしたがって「メディチの星々」と改名しました。
ちなみに、この知らせはあっという間に広がり、すぐに当時のフランス国王がガリレオ・ガリレイに、もっと星を見つけて自分の名前もつけてくれないかと依頼したと言います。
ガリレオは芸術家としても優れた能力を備えていた
一般的に現在ではガリレオは科学者として有名ですが、彼の興味そして才能は、いくつもの分野にまたがるものでした。
ガリレオは水彩画や油絵が上手く、遠近図の大家だったとも言われ、この才能は望遠鏡で見えたものを解釈するのに間違いなく役立ったことでしょう。
ガリレオが描いた月の絵は特に印象的です。
ガリレオの絵には熟練した水彩画家の巧みな筆使いが見られ、柔らかく発光するような魅力があると言われるのです。
自分の学生たちに占星術を教えてた
ガリレオ・ガリレイは占星術を生徒に教えていたという話が残っていますが、現代科学の父とも呼ばれるガリレオが、占星術を教えていたとは驚くべきことです。
ただし、今日では占星術が科学に基づかないごまかしであることは分かっていますが、ガリレオの時代はようやく占星術と天文学の違いが明らかにされ始めた頃でした。
さらに、占星術を教えられる教授には、教えられない教授よりも学生の需要があったことを考えると、裕福ではなかったガリレオにとっては重要な収入源ともなったのでしょう。
「相対性」をアインシュタインよりもはるか以前に考えていた
現代物理学の父と言われるアルバート・アインシュタインは、相対性理論を生み出してそれまでの物理常識を壊し、飛躍的な科学の発展を導いたことで知られます。
実は、ガリレオ・ガリレイは、アインシュタインと全く同じように相対性理論について記したわけではありませんが、
- 運動は相対的であること
つまり、「運動についての感覚には自分自身の運動そして目にしている物体の運動が関係すること」を明確に理解していたようです。
窓のない船室に閉じ込められたら、船が泊まっているのか一定の速度で動いているのかを知る手だてはない
といったような考えを巡らせていたようなのです。
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ガリレオ・ガリレイの生涯と人生を探る歴史ダイジェストのまとめ
ガリレオ・ガリレイの生涯と人生について、歴史ダイジェストと9つの豆知識を通して見てきました。
ガリレオが唱えた運動の法則は、質量や大きさに関係なくすべての物体が同じ速度で加速するという実験結果から生み出されたもので、ニュートンによる古典力学の体系化への道を開きました。
また、カトリック教会の判決にもかかわらず、ガリレオの太陽中心主義(ケプラーによる修正を含む)は、瞬く間に科学的事実として受け入れられるようになります。
コンパスと天びんから改良された望遠鏡と顕微鏡に至る彼の発明は、天文学と生物学に革命をもたらし、ガリレオは月にクレーターや山があること、金星の満ち欠け、木星の衛星、天の川の星など、様々な発見を残しました。
思慮深く独創的な実験を好む彼の傾向は、科学的手法を現代的な形へと押し進めたのです。
さらに、教会との対立において、現在、ガリレオの汚名はほとんど晴らされたと言っても良いでしょう。
ヴォルテールのような啓蒙思想家は、ガリレオを「客観性のために命を捧げた殉教者」として描写しています。
また、最近の研究では、実際の裁判と刑罰は、単に宗教と科学の間の対立問題であっただけではなく、法廷での陰謀や哲学的な細部の不一致によるものであったことが明らかになっています。
1744年にガリレオの『天文対話』は教会の禁止書籍のリストから削除され、20世紀には教皇ピウス12世とヨハネパウロ2世が、ガリレオに対する協会の扱いについて公式に後悔の声明を発表したのです。