ゲルマニアとは?古代ローマで使われた地名|歴史やそこに住んでいた人々に迫る

ゲルマニアとは古代ローマで使われていた地名で、そこに住んでいた人々は古代ローマの驚異となっていました。そのゲルマニアについて詳しく見ていきます。

古代ローマはかつてのヨーロッパで燦然と輝いていた国家であり、歴史に詳しくない人であってもその名前を知っています。

一方で、当時は他にも様々な地域がヨーロッパに存在しており、なかには古代ローマを脅かすようなものまでありました。

その一つの地名が「ゲルマニア」であり、なかでも大ゲルマニアの存在は、古代ローマにとって驚異の一つだったのです。

このゲルマニアについて、

  • ゲルマニアとは何か?
  • ゲルマン人とは?
  • ローマとゲルマニアの関係とは?

の3つのポイントを中心に詳しく見ていこうと思います。

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ゲルマニアとは?

ゲルマニアとは、古代ローマで使われていた地名で、主にゲルマン人が居住していた中・北部ヨーロッパの地域のこと。

南部はドナウ川、北部はバルト海、西部はライン川、東部はヴィスワ川の間に広がっていました。

(出典:wikipedia

なかでも、ライン川西岸には主にケルト人(特にガリア人)が居住しており、紀元前1世紀には古代ローマ帝国の属州になることで「小ゲルマニア(Germania inferior)」と呼ばれるようになります。

そして、古代ローマ帝国は小ゲルマニアを上流と下流の二つに分け、それぞれに、

  • 上流
    • 高地ゲルマニア(現在のスイス、ドイツ南部、フランス東部)
  • 下流
    • 低地ゲルマニア(現在のオランダ南部、ベルギー、ドイツ西部)

という名前を与えていました。

一方、ライン川東部の広大な領土を有する地域は大ゲルマニア(Magna Germania)と呼ばれ、また、「古代ローマ帝国の支配を受けない地域」という意味でゲルマニア・リベラ「Germania libera(=free Germania)」という名称でも知られていました。

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ゲルマニアという地名の起源について

ゲルマニアという地名はユリウス・カエサルの時代以降に広く使用されるようになりましたが、それ以前にも古代ローマ帝国で広く使われていたかどうかは不明。

一方で、この地名の語源は恐らくガリア語(古代ローマ時代のヨーロッパはガリア地域で話された一言語)だと考えられています。

また、カエサルはローマ帝国と同盟を結んだレミ族から聞いた話として、「ゲルマンという言葉は『ライン左岸のゲルマン人(Germani Cisrhenani)』と呼ばれる集団のことを元々は表すが、その後、同じ民族全体をゲルマン人と呼び、彼らが住む場所一体はゲルマニアと呼ばれるようになった」と残しています。

ゲルマニアとゲルマン人

ゲルマニアに居住していたのは主にゲルマン諸語を操るゲルマン人と考えられていますが、その他にケルト人、バルト人、スキタイ人、初期のスラブ人などもいたとされます。

この民族構成の割合は、時が経つと同時に移住や同化によって変化ていきますが、基本的にゲルマン人が最も多い民族グループであったことは変わらなかったようです。

(出典:youtube

ちなみに、ゲルマン人に関して最初に言及したのは古代ギリシア人。

その後、古代共和制ローマの権力者ユリウス・カエサルがゲルマン人について記録を残しています。

その中でユリウス・カエサルは、ゲルマン人が、

  • 好戦的な種族であること
  • ローマ属州のガリアにとって脅威であること
  • 古代ローマ帝国と軍事衝突を起こしたこと

などを記していました。

当時のローマはヨーロッパ諸国で非常に大きな力を持っていたにも関わらず、将来ヨーロッパで一大勢力となるゲルマン人の潜在的な驚異を、すでにこの頃から理解していたことが分かります。

カエサルはゲルマン人征服を正当化しようとした?

ユリウス・カエサルは記録のなかで、

「ガリア人(スエビ族)は好戦的で力が強く、何よりも武勇を重んじる機能本位の種族であり、文明を知らぬ野蛮人だが、ゲルマン人の残忍さはそれをはるかに超えるもので、ローマ帝国属州ガリアやローマ帝国自体にとって脅威である」

とか

「ゲルマン人は特に定住地を持たない遊牧民であり、その文化は原始的である」

などと記しているわけですが、このゲルマン人が野蛮で残忍という主張に関しては、ユリウス・カエサルが多少なりとも、客観的で正しい認識へ意図的に色付けしている可能性が考えられます。

つまり、カエサルはそのような説明をすることで、ゲルマン人並びに全ゲルマニアの征服を正当化しようとしたのではないかということです。

常にローマ人と敵対的な関係を持っていたわけではない

ゲルマン人と古代ローマ人が実際に接触することはありましたが、常に敵対的な関係だったわけではありません。

ヴァルトギルメスフォーラム(Waldgirmes Forum)で行われた発掘調査では、ローマ文民による都市の跡が発見されています。

このヴァルトギルメスフォーラムは、大ゲルマニア(ローマの支配を受けないゲルマン人が主に住んでいた地)に含まれていた場所。

これはつまり、古代ローマ人とゲルマン人は少なくとも一定期間、平和に共存していたことを意味していると考えられるのです。

ローマとゲルマニア

(出典:Heritage History

小ゲルマニア

ローマ軍と、その後に小ゲルマニアと呼ばれる地域の人間が初めて軍事的衝突したのは、ユリウス・カエサルの指揮の下始まったガリア戦争(紀元前58年〜紀元前51年)において。

カエサルは紀元前57年には同地域へ侵攻し、そこに住む複数の民族を無力化することに成功。

紀元前50年には、この地へローマ人による入植が始まります。

カエサルが亡くなってアウグストゥスを皇帝とする帝政ローマになってからは、事実上、小ゲルマニアはローマ人によって征服されていましたが、正式にローマ帝国へ属州として編入されるのは西暦85年のことです。

大ゲルマニア

一方、アウグストゥス帝の下、紀元前12年に古代ローマ帝国は大ゲルマニアの征服を試み、ゲルマニクス(Germanicus)とティベリウス(Tiberius)が司令官となり、レギオン(ローマ軍団のこと。古代ローマにおける軍隊のうち陸軍の基本的編成単位で、ローマ市民権を有する者だけで構成された)を率います。

その結果、西暦6年までに古代ローマ軍はエルベ川に至るゲルマニアの全域を一時的に制圧し、占領することに成功するのです。

ところが西暦9年にトイトブルクの森の戦い(Battle of the Teutoburg Forest)で、ローマ人はゲルマン人に敗北し、大ゲルマニア全域を併合するという古代ローマ帝国の計画は失敗に終わります。

アウグストゥス帝はローマ軍に大ゲルマニアから撤退するように命じ(撤退が完了したのは西暦16年)、ライン川からドナウ川に至るローマ帝国と大ゲルマニアの間の国境線を明確にしたのです。

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ゲルマニアとは?古代ローマで使われた地名|歴史やそこに住んでいた人々に迫るのまとめ

世界史上では古代ローマの影に隠れてあまり目立たないものの、当時のローマにとっては大きな驚異として恐れられたゲルマニアと、そこに住むゲルマン人について見てきました。

特にヨーロッパの歴史に興味があるなら、このゲルマニアという地名をしっかりと頭に入れておきましょう。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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