アーリア人とは一体どんな人々のことを指すのでしょうか?その特徴とは?非常に広範囲な意味を持つ「アーリア人」について、歴史を含めて掘り下げていきます。
世界には多くの「人種」や「民族」を指す言葉がありますが、「アーリア人」という言葉ほど、定義がバラバラで、説明するのが難しいものはないかもしれません。
そのため、「アーリア人」と言っても、人によって意味していることがバラバラで、一言で「特徴」を表現することは困難であり、その解釈によって、社会や歴史の見方も変わってくることもあるのです。
この記事では、そんな様々な仮説や定義を持つアーリア人について、詳しく見ていきたいと思います。
まずは、アーリア人の定義を出来るだけ簡潔にわかりやすくまとめることから始め、その言葉の意味の発展と歴史的変貌を追っていき、最後に、「元々のアーリア人」とされる人々について確認していこうと思います。
アーリア人とは?
「アーリア人」という言葉は、いくつかの定義を持つため、簡潔に、そして一言ではなかなか説明が難しい用語。
その軸となる視点によって解釈が変わり、人種を指すこともあれば、より言語学的な観点から特定の社会グループを指す場合、また、狭義での意味なのか、拡大解釈された意味なのかによっても異なってきます。
そのため、アーリア人が指す対象としては以下のように異なる人々が含まれます。
- イラン・アーリア人(最も狭義の意味/本来意味する対象とも考えられる)
- インド・ヨーロッパ語系諸族の「一派」でイランとインド辺りに定住した民族
- イラン・アーリア人の末裔達
- インド・アーリア人を末裔と考えられている人々
- パシュトゥーン人
- ペルシャ人
- タジク人 など
- インド・アーリア人を末裔と考えられている人々
- インド・ヨーロッパ語系諸族の諸言語を使う「全て」の民族
このように、アーリア人とは一言で表すのが難しい言葉になり、例えば、その「特徴」を挙げるようなことは非常に困難なのです。
アーリア人について深く理解するために言葉の歴史を追ってみよう
ここからは、その「アーリア人」という言葉をより深く理解するためにも、そして、なぜ異なった意味が派生してきたのかの理由を理解するためにも、その歴史的背景を追っていきましょう。
元々の「アーリア人」とされる対象
アーリア人という呼び名は、もともと「古代イランや北インド亜大陸に住んでいた」とされる古代インド・ヨーロッパ語族に属する言語を話す人々に対して使われていた名称でした。
アーリア人の「アーリア」は英語で「Aryan」と表記し、これはサンスクリット語の「アーリヤ(ārya)」が語源。
アーリア人は自らを、
他民族より「高貴な」民族と考えた
(引用:wikipedia)
ことから、「自称する名称」としてこの言葉を使ったと考えられています。
より言語学的な視点で使うべきとされた「アーリア」
そしてある仮説によると、アーリア人は北方から来て古代インドを侵略。このアーリア人の存在が、インド社会の仕組みや、文化、宗教の形成(例えばヒンドゥー教やカースト制度の誕生など)に繋がったとされています。
しかし20世紀後半に入ると、この「アーリア人による古代インド(インダス文明)の侵略」という仮説や、そもそも「アーリアという言葉を人種の定義として用いること」が、研究者によっては否定され始めていきます(※古代インドの侵略が無かったという説については後述)。
- インド・ヨーロッパ語族の古代語であり、ヒンドゥー教の典礼言語「サンスクリット語」に含まれる「崇高、名高い」と意味を持つ「アーリヤ」が、「アーリア人」という名称の言語的なルーツである
- 「崇高」や「名高い」は社会的な地位を示す言葉である
- よって、人種による見た目で分類された名称ではなく、社会的な文脈で使われた言葉である
と提唱していく研究者達が増えたのです。
その結果、
- 「アーリア」という言葉はむしろ言語学的な視点でのみ使われるべきである
- 特に北方からやってきた移民が南アジアにおけるインド・ヨーロッパ語族の諸言語発達に与えた影響を考慮するべきである
- よって、「アーリア」という名称はインド・ヨーロッパ語族に族する言語の一つ「インド・アーリア語派」を指し示す言葉としてのみ使うべきである
という考えが生まれてきました。
これによって、「アーリア人」という言葉は、
- 単純に特定の人種を指す言葉ではなくなった
- 言語学的な視点で特定の人々のグループ(民族)を指すようになった
- 特にインド・ヨーロッパ語族に含まれる「インド・アーリア語群」の諸語を話す人々を指すようになった
といった流れで、その言葉の意味が変化していったようなのです。
「アーリア」の対象範囲が拡大していった
そして、インド・アーリア語群を指すアーリアは、より上位のインド・イラン語派を指すようになり、ついには「インド・ヨーロッパ語族全体」を指す言葉として、その対象が拡大していきました。
特にこのことは、19世紀頃に起こった、白人国家(ヨーロッパ諸国)における「帝国主義」にとっては、都合の良い解釈だったのかもしれません。
というのも、
- アーリア人 = 「高貴な人」や「優れた人」
という図式は、ヨーロッパ人の祖先達がユーラシア大陸全域に広がって一帯を征服していき、さらに今度は、世界全体を植民地化して行ったことを正当化すると言え、彼らからしてみれば「筋が通る」話と考えられるからです。
白人至上主義と「アーリア人=白人」の解釈の始まり
そして、1850年頃にヨーロッパで白人至上主義が発祥すると、フランスのアルテュール・ド・ゴビノー伯爵によって白人至上主義が熱心に広められると同時に、アーリア人は支配人種と位置づけられます。
(アルテュール・ド・ゴビノー:出典:wikipedia)
その後、今度はゴビノー伯爵の弟子であるヒューストン・ステュアート・チェンバレンによって初めて「アーリア」という言葉が「白人(ヨーロッパ人)」という意味で使用されました。
この時代、「インド・ヨーロッパ語族の言語を話す人々(=白人)」というカテゴリにあたる人々は自らを、多くの発明や改革を生んだ優れた人種であると考え、セム人(ユダヤ人)、黄色人、黒人はより下位の人種として、彼らに酷い扱いを受けていったのです。
ナチスドイツ台頭と「アーリア人種最上位=ゲルマン民族」の考え方
こういった風潮はやがて北欧やドイツで、「自分たちこそ純粋な人種である」と信じる人々の出没に繋がります。
この概念は人類学者たちによって1925年頃から否定され始めたものの、ヒトラー主導のナチスドイツ下で、
- ゲルマン民族 = 雑種化していないアーリア人 = 真のアーリア人 = 最上位の人種
といった、一種の選民思想が生まれた結果、ナチスドイツは自分達を、かつてユーラシア大陸の覇者となり、人種ヒエラルキーの頂点に立つ「高貴な古代アーリア人の子孫である」と宣言したのです。
こうした疑似科学は「ナチスが政治的目標を達成するためのプロパガンダ」として用いられ、これが、「非アーリア人」として考えられた「ユダヤ人」や「ロマ人」などが排除される根拠の一つとなり、20世紀最悪のジェノサイドの一つ「ホロコースト」が起きてしまったのです。
その後も人種的優位性を意味する言葉として利用される「アーリア人」
ナチスドイツが倒れて以降も、白人至上主義者の多くが「アーリア」を自分たちの人種を表すイデオロギーとして使い続けました。
例えば、
- アーリアン・サークル
- アメリカ・テキサス州の囚人たちに起源を持つギャング集団
- アーリアン・ネイションズ
- 20世紀後半に顕著になった、キリスト教徒で白人至上主義を唱える過激派
- アーリアン・ブラザーフッド
- カリフォルニアのサン・クエンティン州立刑務所に本拠を持つギャング集団
- ネオナチ(ナチズムを復興しようとする、または類似性を持つ人々)の一派
- いまだに真のアーリア人種はゲルマン系、または北欧系のことだと主張している(もちろんこれを立証する歴史的、考古学的証拠はない)
などは有名です。
一方で、元々の「アーリア人」がイラン・インド周辺に住んでいた人々を指していたことから、インド人やイラン人が自らを言及する時に「アーリア人」と言うことがあったり、学術的にはインド・アーリア語群またはインド・イラン語派の諸語を話す人々を指す言葉として用いられることが、現在では一般的だと言えます。
「本来の」または「元々の」アーリア人について考察してみる
見てきたように、「アーリア人」の意味は複雑です。
また、「ナチスドイツが定義したアーリア人」によって、「アーリア人」という言葉には現在、様々なマイナスイメージもついて回ります。
しかし歴史を遡れば、「アーリア人」という言葉は、古代にインドへ拡大していった人々の集団「イラン・アーリア人」であることが分かります。
そこで、ここでは最後に、このイラン・アーリア人を「本来のアーリア人」または「元々のアーリア人」と定義して、彼らの歴史や特徴などを探っていきたいと思います。
イラン・アーリア人の始まり
その後「イラン・アーリア人」と呼ばれるようになったイラン集団は、紀元前15世紀頃からその生活域を北インドに拡大していきました。
中央アジアの遊牧民たちの一部が紀元前2000年頃から南下し始め、ヒンドゥークシュ山脈を越え、緑に覆われたインダス川流域に住み着くようになったのです。
これが、元々のアーリア人(イラン・アーリア人)でした。
一説には、
- アーリア人は止めようもない勢いを持った侵略者たちであり、インド大陸を制圧し、当時この地で発展していたインダス文明を滅亡させた
と言われていますが、インダス文明(紀元前2600年〜紀元前1800年)の滅亡と、アーリア人の移住の時期は重ならないことが判明しています。
そのため現在では、「アーリア人による古代インド文明の侵略説」は否定されており、インダス文明が滅んだ後に、インドへアーリア人が移ってきて住み着いたと言う説が有力です。
そしてこれ以降、アーリア人は北インド中心に定住し、その後のインド文明の発展へ、大きく影響を与えていくようになったと考えられているのです。
アーリア王国が存在した?
一方で、アーリア人の一部はイラン高原に入り、そこで暮らすようになったわけですが、そのアーリア人達は、「アーリア王国」を建国したのではないかとする仮説が存在します。
「アーリア王国」と呼ばれる王国の存在を立証する証拠はほとんどありませんが、一説によると、現在のイラン北西部に紀元前715年頃から紀元前550年頃まで存在した「メディア王国」が、実はアーリア王国であったのではないかとされます。
(出典:wikipedia)
その理由の一つとして、
古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、古代アジア南西部にあったメディア王国の人々について、
The Medes were called anciently by all people Aryans; but when Medea, the Colchian, came to them from Athens, they changed their name. Such is the account which they themselves give.
メディア人は、昔はアーリア人と全ての人々から呼ばれていた。しかし、コルキス王国のメーディア王女がアテネからやってきた時に、彼らは国の名前をメディアに変えた。それが彼ら自身による説明である。
(引用:Ancient Origins)
と記していた。
というものがあります。
ただし、古代の史料はどれも、アーリア人については僅かに触れるだけで、そこに述べられていることがどれほど正確なのかは知る由もありません。
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アーリア人とは?特徴表現が困難なインドイランの歴史から始まる人々のまとめ
一言ではなかなか表すのが難しい、「アーリア人」について、その言葉が持つ意味や、裏にある歴史的背景を確認してきました。
アーリア人という言葉が出てきた時には、その意味する対象をしっかりと確認することが、非常に重要になってきます。