カーネルサンダースにまつわる9つの話を紹介してきます。ケンタッキーおじさんの人生や、カーネルサンダースの呪いと言われる都市伝説を知りたければ要チェックです。
ケンタッキーフライドチキン(KFC)と言えば、フライドチキンを主体にしたファーストフードチェーンで、日本はもとより世界中に多くのファンを抱えます。
そしてKFCのシンボルと言えば、「ケンタッキーのおじさん」や「カーネルおじさん」で親しまれている「カーネル・サンダース」。
KFCの創業者であり、ブランドのアイコン的存在です。
一方で、カーネルサンダースの生涯や人となりについては知っていますか?
実はカーネルサンダース、多くの仕事で失敗しながらも、決して諦めることなくビジネスを成功へ導いたことで知られ、また、その人生は破天荒だと言えるものでした。
この記事では、カーネルサンダースに興味がある人向けに、カーネルサンダースにまつわる9つの話を紹介していきます。
なかには、カーネルサンダースの呪いとして知られる都市伝説も含まれるので、気になったら確認してみてください。
- カーネルサンダースの話1:人生の大半はひどいビジネスマンだった
- カーネルサンダースの話2:とにかく口が悪かった
- カーネルサンダースの話3:ビジネスを守るために商売敵を撃った
- カーネルサンダースの話4:KFCに繋がる飲食はガソリンスタンドから
- カーネルサンダースの話5:人生の中で2度結婚してる
- カーネルサンダースの話6:軍における大佐(カーネル)ではない
- カーネルサンダースの話7:KFCを売って得たのは200万ドル
カーネルサンダースの話1:人生の大半はひどいビジネスマンだった
今でこそケンタッキーフライドチキン(KFC)の創業者として知られるカーネル・サンダースですが、KFCを成功させる前の人生においては、数多くの失敗を繰り返していたビジネスマンだったことは一般的にそこまで知られていません。
- 保険・ランプ・タイヤのセールスマン
- ボイラー係り
- 鉄道の機関車修理工
- ガソリンスタンドの経営
など、40種に上る職やビジネスを転々としたり、あまり賢くない経営の賭けに出ることが多かったのです。
また、何度も喧嘩をしては仕事をクビになったことも、人生の中で多くの職を転々とした理由の一つでした。
ちなみに、カーネルサンダースが経験した仕事の中でも、「ケンタッキーおじさんっぽくない仕事」の一つが弁護士。
当時アメリカで有名だった「クラレンス・ダロウ」という弁護士に憧れ、今で言う通信教育のような形で法律を勉強し、アーカンソー州の治安判事裁判所で弁護士として法廷に立ちました(当時は弁護士資格が無くても法廷に立てた)。
しかし結局は、依頼主と法廷で殴り合いのケンカをしたことから、弁護士としてのキャリアから脱線しなくてはならなくなりましたが・・・。
カーネルサンダースの話2:とにかく口が悪かった
今でこそ「ケンタッキーおじさん」として親しまれるカーネルサンダースは、残された写真などを見ると一見、いつもジェントルマンだったような印象を受けるかもしれません。
しかし、仕事を転々とした理由の一つが喧嘩であったことからも分かる通り、カーネルサンダースは怒りっぽく、そして不機嫌になると一気に言葉遣いが荒くなることで有名でした。
特に、チェーン店で出された食べ物の味や質に納得がいかない時、カーネルサンダースは不機嫌になりやすかったと言われます。
実際、1970年に発行された「The New Yorker」は、
The Colonel is famous among K.F.C. people for the force and variety of his swearing
カーネルはK.F.C.の人々の間で、その迫力とバラエティーに富んだ罵声で有名だ
(出典:The New Yorker)
と書き記しています。
カーネルサンダースの話3:ビジネスを守るために商売敵を撃った
1930年、カーネルサンダース40歳の時、石油やガス事業を営む「シェル・オイル」がガソリンスタンド経営をオファーしたことで、カーネルサンダースはガソリンスタンド経営に乗り出します。
カーネルサンダースが経営していたガソリンスタンドは荒々しい治安だった、ケンタッキー州コービンのヘルズ・ハーフ・エイカーにあったものの、売られたケンカから手を引くことがなかった短気で喧嘩っ早いカーネルサンダースにとって、この土地柄はぴったりでした。
ガソリンスタンドへの客寄せのために巨大な看板を何kmにも渡って設置するアグレッシブなマーケティング戦略を展開すると、同地域で競合だったスタンダードオイルのガソリンスタンドを経営していたマット・ステュワートを苦しめ激怒させます。
その結果、ステュワートはサンダースの看板を塗りつぶしたのです。
これに対してサンダースは、
(てめえの)頭を吹き飛ばしてやる!
と脅し、自ら看板を描き直しました。
しかし、ステュワートがまた看板を塗りつぶしていることを知ったサンダースは武装し、シェルオイルの人間を二人を引き連れて現場へ急行。
すると、ステュワートも銃を持ち銃撃戦が開始されました。
この銃撃戦の中でステュワートは、シェルのエリアマネジャーであったロバート・ギブソンを射殺。対するサンダースは、ステュワートの肩を撃ち抜きます。
この結果、ステュワートには殺人罪で禁固18年の判決が下った一方、カーネルサンダースに対する告訴は取り下げられ、無事にビジネスを守り同地域のガソリンスタンド市場を握ることが出来たのです。
カーネルサンダースの話4:KFCに繋がる飲食はガソリンスタンドから
後のケンタッキーフライドチキンに繋がる「飲食ビジネス」をオープンしたのは、1930年から始めたコービンのガソリンスタンドの一角でした。
当初は6席ほどのスペースしかなく、そこでガソリンスタンドの利用客相手に「サンダース・カフェ」と名付けられたコーナーを作り、飲食サービスを提供し始めたのです。
しかし当初、このサンダース・カフェのメニューにフライドチキンは含まれていませんでした。
調理時間が長すぎるというのがその理由です。
その後、徐々にサンダース・カフェが人気になっていったため、カーネルサンダースはガソリンスタンドの向かいに新しくお店をオープンし、人気だったカントリーハムのステーキといった料理以外にも、鉄製のフライパンで揚げたフライドチキンを提供し始めたのです。
そして、1939年にはより短時間で仕上げるために圧力釜を用い、11種類のハーブとスパイスでコーティングされた「オリジナル・チキン」の提供を開始。
これが、サンダース・カフェの目玉商品となり、後のケンタッキーフライドチキンとなっていったんです。
カーネルサンダースの話5:人生の中で2度結婚してる
カーネルサンダースは、人生の中で2度の結婚を経験しています。
まずサンダースは、19歳の時に最初の妻ジョゼフィンと結婚。二人の間には3人の子供が生まれます。
しかし、経営していたガソリンスタンドの一角の物置を改造した6席の「サンダース・カフェ」を開くと、そこで働き始めたウェイトレス「クローディア・レディントン」と不倫関係になりました。
結果、ジョゼフィンとは離婚し、1949年にクローディアと再婚。
カーネルサンダースがフライドチキンのレシピを考案し、ケンタッキーフライドチキンを全国的なブランドへ発展させた際にサンダースをサポートしたのは、この二番目の妻クローディアだったと言えるんです。
ちなみに、サンダースは生涯にわたって女性に対する奔放さで悪名を馳せました。
例えば、サンダースの伝記の著者であるジョン・エド・ピアース(John Ed Pearce)によれば、商工会議所のある女性は、サンダースが来るたびに彼の手を払いのけなければならなかったんだとか。
カーネルサンダースの話6:軍における大佐(カーネル)ではない
カーネルサンダースの本名は、ハーランド・デーヴィッド・サンダース。
一般的に知られている「カーネル(Colonel)」と言う名前は「大佐」を意味し、「カーネル・サンダース」とは、いわゆる愛称や呼称のようなものです。
サンダースは軍に所属してキューバで働いていたことは確かですが、そこでの経歴は一兵卒止まりで、大佐にはなっていません。
では、なぜサンダースが「カーネル」という称号で呼ばれるようになったかと言うと、1935年に当時のケンッキー州知事「ルビー・ラフーン」から、「州の料理への貢献」が評価されて「ケンタッキー・カーネル」という、名誉大佐の称号を授かったから。
ちなみに、1949年にもう一度同じ名誉称号を授かった際、サンダースはその称号に見合うように、ひげを生やしたり、黒いフロックコートや紐ネクタイの着用を試みます。
しかし、黒のコートだとすぐに小麦粉で汚れが目立ってしまうと判明したため、小麦粉の汚れを隠すために白いスーツに変更し、それに合わせるようにして口ひげや顎ひげを白く脱色した結果、現在のカーネルサンダースのイメージが出来上がったようなのです。
カーネルサンダースの話7:KFCを売って得たのは200万ドル
一軒のカフェ(飲食コーナー)から始まり、1952年にはフランチャイズ第一号店が開かれ、その後、KFCのフランチャイズビジネスは急速に発展していくこととなります。
一方で、75歳になったサンダースは、「自分では急拡大するビジネスを維持するのが困難だ」と感じるようになり、1964年にKFCビジネスを売却。
その見返りとして、200万ドル、現在の価値で約1600万ドル(日本円で18億円ほど)と、KFCの顔として留まることで継続的な報酬を受ける権利を得ました。
しかし、売却当時にはおよそ600店舗を抱え、その後のKFCの新規株式公開(IPO)の際、株主たちが何百万ドルもの利益を出したことを考えると、当時の売却額は破格だったと言えるでしょう。
実際、IPO後初のフランチャイズ加盟店大会でサンダースは登壇し、40分間にわたって経営陣を罵り続けたと言われ、サンダースは自分が貧乏くじを引かされたと考えていた様子が伺えます。
チェーン店1号がユタ州に作られケンタッキーフライドチキンのブランドが確立した
カーネルサンダースのフライドチキンが初めてファーストフードとしてヒットする、フランチャイズ第一号店を開いたのは、全く縁のなさそうな土地「ユタ州のソルトレイクシティ」でした。
1952年に同市で最大規模のレストランを経営していた「ピート・ハーマン」が初のフランチャイジーとなって、お店をオープンしたのです。
また、このピート・ハーマンは、「ケンタッキー・フライドチキン(KFC)」というブランド名を提案したり、KFCのお店で見かけるユニークな容器を考案した張本人でもあったりするのです。
そしてこれを契機に、カーネルサンダースは、1946年製のフォード車を運転して国内を駆け巡り、新しいフランチャイジーとの契約を増やしていきました。
カーネルサンダースの話8:KFCに1億2,200万ドルの訴えを起こした
カーネルサンダースが1964年にケンタッキー・フライド・チキンを売却し、その後の1971年にコングロマリットのヒューブライン社がKFCを買収すると、サンダースはKFCを混乱に巻きこみます。
1968年にサンダースがケンタッキー州シェルビービルにオープンした、KFCの競合になり得るかもしれない「The Colonel’s Lady’s Dinner House(カーネルのレディーのためのディナーハウス)」を、サンダースがフランチャイズ化する計画を進めると、ヒューブライン社はその計画すると脅迫。
これに対して、サンダースは1億2,200万ドルの支払いを求める裁判を起こしました。
結局、カーネルサンダースには100万ドルが支払われることで和解が成立し、代わりにサンダースは、KFCの顔に泥を塗るようなことはしないという約束が結ばれました。
ちなみに、「The Colonel’s Lady’s Dinner House」は「Claudia Sanders Dinner House(クローディア・サンダース・ディナーハウス)」と名前を変更し、レストランはその後も経営が認められ、現在も残っています。
カーネルサンダースの話9:カーネルサンダースの呪い
カーネルサンダースにまつわる都市伝説の一つとして、「カーネルサンダースの呪い」というものが存在します。
1985年、阪神タイガースは21年ぶりのセントラルリーグ優勝を達成し、ファンたちは歓喜の渦に巻き込まれました。
その結果、一部のファンが興奮のあまり付近にあったKFCのお店からカーネルサンダース像を持ち出し、道頓堀に投げ入れてしまいます。
これが原因かどうかは不明ですが、1985年に日本一に輝いて以降、長期にわたって阪神タイガースの成績は低迷。
2003年にようやくセリーグで優勝はしたものの、2018年に至ってもなお、日本一には輝いていないんです。
ちなみに、道頓堀に投げられたカーネルサンダース像は、2009年に泥で覆われた川底から発見されています。
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カーネルサンダースの呪いや人生にまつわる9の話|ケンタッキー創業者の破天荒な生涯のまとめ
ケンタッキーフライドチキンの創業者「カーネル・サンダース」について、知っておきたい9つの話を紹介してきました。
カーネルサンダースの人生は破天荒であったものの、「絶対に諦めない姿勢」で最後には大成功を収めたサンダースからは、学べることがたくさんあります。