エロマンガ島 -行き方・地図・歴史・観光情報- バヌアツに属する島

バヌアツ共和国に属するエロマンガ島について詳しく紹介していきます。地図で場所を確認し、歴史や行き方も含めた観光情報までを見ていきましょう。

その一風変わった名前からして、多くの日本人が興味をそそられるであろう「エロマンガ島」は、南太平洋に浮かぶバヌアツ共和国の島。

名前がユニークであるものの、島自体に関してはあまり詳しく知られていません。

そこでこの記事では、少し謎に包まれたエロマンガ島に関して、その概要から地図上での場所、そして歴史から行き方も含めた観光情報までを紹介していこうと思います。

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エロマンガ島とは?

エロマンガ島エロマンゴ島イロマンゴ島とも表記される)とは、南太平洋のオセアニア地域に浮かぶ群島国家「バヌアツ共和国」の、最南端に位置するタフェア州に属する島

北西端から南東端まで約48㎞あり、島の幅は20-30㎞。

島の総面積は891.9㎢と、バヌアツを構成する諸島の中では4番目に大きな島で、タフェア州の中では最大のサイズを誇ります。

(出典:wikipedia

現在の島民人口は2000人前後と考えられ、そのほとんどはバヌアツ共和国の大多数を占めるメラネシア人

およそ300〜350の世帯があり、島で最も大きなディロンズ・ベイ(Dillon’s Bay)、ポトナルヴィン(Potnarvin)、イポタ(Ipota)と呼ばれる村で主に暮らしています。

そして、エロマンガ島に住むおよそ2000人のうち、90%ほどが現地の固有言語で、オーストロネシア語族のマレー・ポリネシア語派に含まれるエロマンガ語(シエ語)を母語とし、それに加えてバヌアツ共和国の公用語である、

  • ビスラマ語(60%以上)
  • 英語(60%以上)
  • フランス語(20%前後)

を多くの人々が話します。

ちなみに、エロマンガ島は19世紀にビャクダン(白檀:爽やかな甘い芳香が特徴の香木)の産地として知られていましたが、乱伐によって多くが姿を消してしまいました。

エロマンガ島の名称について

エロマンガ島(Erromango)という名前は、日本人にとっては一種の冗談のように聞こえるかと思いますが、これはれっきとした島の公式名称。

この名前が付けられた経緯に関しては諸説あるようですが、中でも有力とされているのが以下の2つです。

  1. ヨーロッパ人として初めて発見したジェームズ・クックが、現地でヤマノイモをご馳走になった時、現在は失われてしまった現地語の一つ「Sorung語」で「armai n’go, armai n’go(この食べ物は美味しい)」という表現を聞き、島名と勘違いしてしまったという説
  2. クックに同行していたゲオルク・フォルスターが近隣のタンナ島を訪れた時、現地の男性から「Irromanga」という島名を教わり、後にクックに伝わった時にはその綴りが少し変化して「Erromango」となったという説

エロマンガ島の地理

地図で確認するエロマンガ島の場所

エロマンガ島の場所を地図で確認すると以下の通りです。

西にオーストラリア、北西にソロモン諸島、東にフィジー、南西にニューカレドニアがあり、さらに南方へ下っていくとニュージーランドを確認出来ます。

さらに、もう少し拡大した地図を見てみましょう。

バヌアツ共和国の中では南部に位置する島であり、北へ120〜130km行った辺りにバヌアツの首都であるポートビラが、南へ40kmほどのところにはタンナ島があるのが分かります。

エロマンガ島の地理的特徴

エロマンガ島は600〜100万年前に起こった火山活動期に形成されたと考えられ、その実態は地殻の隆起によって海面から100-300mの高さに達した水中火山

そのため、中央・北・東に火山円錐丘(熔岩または火山砕屑物あるいは両方が,同一地点から繰り返し噴出して火口の周囲に円錐状に集積したもの)が3つある台地を形成し、中心部には島の最高峰となる837mの火山「サントップ山(Mount Santop)」がそびえ立ちます。

また、島の3/4近くは常陽樹(常緑樹とは葉が落ちにくく、年間を通して葉が生い茂っている樹木)に覆われる一方、北東側は草地と林地に覆われ、高地では雲霧林(熱帯・亜熱帯地域の山地で霧が多く湿度の高い場所に発達する常緑樹林)を見つけることが出来ます。

エロマンガ島の歴史

先史時代

エロマンガ島に人々が居住するようになったのはおよそ3,000年前のこと。

人類史上初めて遠洋航海を実践し、太平洋の島々に住み着いたと思われるラピタ人が、東南アジアからメラネシアの島々に移り住む中で、エロマンガ島でも暮らし始めたと考えられています。

実際、エロマンガ島にある数多くの洞窟の中には、2800年から2400年前に人間によって使われていた痕跡が確認されており、部族のモチーフや伝説にまつわる石画や岩面彫刻が残されている洞窟も発見されているのです。

ヨーロッパとの接触

イギリスの海軍士官で海洋探検家「ジェームス・クック」は、ヨーロッパ人として初めてエロマンガ島に上陸した人物でした。

1774年8月4日、島の北東部、現在のポトナーヴィン(Potnarvin)付近に上陸したとされています。

そして、このクックによる島の発見の結果、18世紀に同地はイギリスとフランスの旧共同統治領となりましたが、実際は行政機関が置かれず統制が全くない無政府状態でした。

(※)ヨーロッパとの接触以前、エロマンガ島の人口は5,000人程度であったと考えられており、20,000人までにおよぶ時期もあったのではないかと推定されている。

ビャクダンの原産地として有名になる

一方で、ヨーロッパ人が訪れるようになった結果、エロマンガ島はビャクダン(白檀)の産地として知られるようになります。

ビャクダンは中国においてアロマオイル、そして彫刻用の木材を提供する樹木として貴重とされており、1825年、貿易商そして探検家であったピーター・ディロン(Peter Dillon)によって、島内で広域にわたり白檀が生育していることが確認され、知れ渡ることになったのです。

すると、ビャクダンを目的として多くの人々が島外からエロマンガ島へ訪れるようになって開拓されていった結果、1865年頃にはエロマンガ島のビャクダン供給は底を尽くこととなりました。

人口減少に見る悲劇の島エロマンガ島

伝染病や虐殺行為

そして、このビャクダンを狙ってエロマンガ島を訪れたヨーロッパ人や、島へキリスト教の布教活動を行いに訪れた宣教師の中には、現地の人間が免疫を持っていなかった赤痢やはしか、他にも天然痘などの伝染病を持ち込んでしまった者もいました。

その結果、

  • 天然痘の流行(1853年)
  • はしかの流行(1861年)

など、伝染病が島中に蔓延することとなり、島の人口のおよそ60%が亡くなってしまいます。

それに加えて、商人の中には住民を虐殺するなどの行為を行った者も現われ始めたのです。

奴隷狩り

さらに、ビャクダンが採れなくなると今度は、1860年頃から始まった「悪名高き労働売買/奴隷貿易(フィジー、サモア、オーストラリアの農園で働かせるためにメラネシア人を強制連行した行為)」に合わせて、エロマンガ島へやってきた商人の対象は現地住民に変わっていきます。

つまり、多くの原住民達が人身売買の対象となっていったのです。

(出典:wikipedia

島の人々の中には自ら望んで島外へ派遣された者もいたものの、その手口にだまされ、余儀なく強制的に外へ送られた人がほとんどでした。

この時期に奴隷売買されて島外へ派遣された人の数は、今でも明らかになっていません。

しかし、1906年時点でエロマンガ島の人口は、400人未満にまで減少していたと言われます。

その後の歴史

1906年、イギリスとフランスの間で条約が調印された結果、同地には各種行政機関が置かれて法律の整備も進んだことで、無政府状態が解消されます。

そして、1960年代になるとエロマンガ島を含めたバヌアツの人々は独立運動を始め、フランスは反対したものの、1980年7月30日にイギリス連邦(主にイギリスとその植民地であった独立の主権国家から成る、緩やかな国家連合)に加盟した共和国として独立

これによって、イギリスとフランスにより共同統治領という立場から脱却し、エロマンガ島は独立国家「バヌアツ共和国の一部」という現在の形になったのです。

ヨーロッパによる宣教活動によって失われたエロマンガ島の伝統文化

ヨーロッパ人と接触して以降の歴史の中で、エロマンガ島に住んでいる先住民達の伝統文化の多くは失われてしまったと言われます。

(出典:wikipedia

エロマンガ島の原住民達の間には元々、食人文化が存在していました。

19世紀前半から同地へ送り込まれた宣教師の中には、原住民に殺されて食べられてしまった者もいるのです(※合計6人が殺されたと言われる)

また、そのような状況下でキリスト教の布教を進めることは大変困難でした。

しかし、

  • ヨーロッパ人によって持ち込まれた伝染病流行を逆手に利用
  • 住民達の伝統社会や文化の綿密な研究

によって、ついには原住民達を改宗させることに成功するのです。

なかでも、この島で1864年から布教活動をしていたジェームス・A・ゴードン」の作戦は「キリスト教の神を信じさせる」という点では大きな成果を上げました

その作戦とは、

  • それまで数々の宣教師を殺害したエロマンガ島の住民達に対して、キリスト教の神が怒ったために、罰として伝染病を蔓延させて多くの住民の命を奪った

という考えを広めること。

この作戦があだとなってゴードン自身は殺害されてしまいますが、ゴードンの死後も伝染病は続いたため、時間が経つと同時にゴードンの話は、より人々に信じられるようになっていきます

そして、これによって多くの人々が最終的にはキリスト教へ改宗すると同時に、教会が承認しない伝統的な文化表現が人々の生活から失われることとなっていき、島の伝統社会や文化は崩壊してしまったのです。

ただし、2009年に和解の儀式(注)が行われた結果、「呪い」にまつわる信仰は姿を消し始め、エロマンガ島の歴史や文化の一部が見直されるようになってきています。

(注釈)2009年11月、ブリティッシュコロンビア大学人類学博物館、バヌアツ長老教会、バヌアツ文化センターによる長年にわたる協力の末、過去に殺害されたジョン・ウィリアムズ宣教師の子孫の一行が、その殺害を実行した先住民の子孫と和解するためエロマンガ島を訪れ、その際に和解の儀式が執り行われた。

エロマンガ島への観光

エロマンガ島に関して、その概要から場所、そして歴史までを見てきましたが、バヌアツ共和国へ観光に訪れた際には、このエロマンガ島にも訪れることが可能。

ここからは、観光目的でエロマンガ島を訪れてみたい人向けにちょっとした情報を紹介しておきます。

観光地としてのエロマンガ島

その大部分に人が住んでいないエロマンガ島は、観光地化された場所ではありません

例えば、島で最も大きな村であるディロンズベイ(ウポンコーとも呼ばれる)でさえ、質素な商店が数店舗しかなく、宿泊施設も数えるほど。

そのため、ディロンズベイと他の2つの村にわずかに存在する観光客向けの設備を除けば、この島に観光客の訪問を想定した設備はありません。

Erromango – Vanuatu Study Abroad 2018

一方で、ありのままの自然を楽しみたい人にとっては訪問を検討してみる価値があるかもしれません。

例えば、島の周りを歩いて、

  • ブッシュウォーキング
  • ハイキング
  • トレッキング

などを楽しむのが選択肢となるでしょう。

他にも、エロマンガ島から南へちょっと行った所にあるタンナ島は、世界で最も火口へ近づける活火山「ヤスール山」で有名なので、エロマンガ島と合わせて訪問すると良さそうです。

エロマンガ島への行き方

エロマンガ島には現在、

  • ディロンズ・ベイ(Dillon’s Bay)
  • イポタ(Ipota)

の2箇所に滑走路があり、バヌアツの首都ポートビラ(Port Vila)より、2本の飛行機がそれぞれ火曜日と土曜日に飛んでいます(※曜日は変更になる可能性があるので事前に確認してください)

そのため、もしもエロマンガ島を訪問したい場合は、一度ポートビラへ入り、そこから乗り継ぎでエロマンガ島へ入島することになります。

ただし、ディロンベイの滑走路は、雲が低く立ち込めていたり雨が降っていたりする場合、閉鎖となるので注意が必要です。

詳しくは、バヌアツ航空のページで予定を確認してみましょう。

(参照:Vanuatu.Travel

エロマンガ島内での移動

また、エロマンガ島には、ディロンズベイからディロン湾の滑走路まで続く、およそ9kmの道1本しかなく、車で島内を周ることが出来ません。

そこで、代わりにスピードボートをチャーターして、島に複数ある船の乗り場へ乗り継ぎ、島を周ってみるのが良いかと思います。

(出典:Vanuatu Aelan Walkaboat

例えば、

  • ディロンズ・ベイ(Dilon’s Bay)→ ポングキル・ベイ(Pongkil Bay)
    • → 5000 vatu(約5000円)
  • ディロンズ・ベイ(Dilon’s Bay)→ サウス・リバー(South River)
    • → 10000 vatu(約10000円)

(参照:Vanuatu.Travel

で、それぞれ周ることが可能です。

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エロマンガ島 -行き方・地図・歴史・観光情報- バヌアツに属する島のまとめ

バヌアツ共和国に属し、名前がユニークな島「エロマンガ島」について紹介してきました。

この島に関しては実際に訪問する機会はほとんどないかもしれませんが、ちょっとした雑学知識として知っておくと良いかもしれません。

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