カシミール地方とカシミール問題(紛争)をそれぞれ解説していきます。インド、パキスタン、中国が関わる地域と、そこで起こる領土問題に関して詳しく見ていきましょう。
雪に覆われたヒマラヤとカラコルム山脈に囲まれた場所には、カシミール地方と呼ばれる非常に美しい地域があります。
しかし、この地域を巡っては世界的にみても1、2を争うほどに長い間、カシミール問題やカシミール紛争と呼ばれる紛争が続いています。
インドとパキスタンがそれぞれが独立を果たした1947年以降、カシミール地方を巡って対立が起こり、そこへさらに中国が加わる国際的な領土問題となったのです。
カシミール問題は、インドとパキスタン、そしてインドと中国の関係を理解する上でも大切であり、また、この問題を理解するにはカシミール地方についての理解を深めなくてはいけません。
そこで、カシミール地方とカシミール問題の2つに分けて、それぞれを紹介していこうと思います。
カシミールとは?
カシミールとは、インド亜大陸(インド半島とも。南アジアのインド・バングラデシュ・パキスタン・ネパール・ブータンなどの国々を含む亜大陸・半島)の北西部、インド北部とパキスタン北東部の国境付近に位置する山岳地域。
北東部には新疆ウイグル自治区(中国の一部)、東部にはチベット自治区(中国の一部)、南部にはインドの州であるヒマーチャル・プラデーシュ州とパンジャーブ州、西部にはパキスタン、北西部にはアフガニスタンが隣接しています。
その総面積は約222,200㎢で、そこへ約1400万人前後の人々が住んでいると推定されています。
一方で、1947年にインド亜大陸が分割されたインド・パキスタン分離独立以降、カシミール地方はインドとパキスタンの間でその支配権を巡って紛争問題が起き、その後、さらに中国が加わって、現在はこの三ヶ国による領土問題が続いています。
具体的には、カシミール地方の北部および西部はパキスタンにより実効支配されており、アザド・カシミール、ギルギット、バルティスターンの3つの地域から成っています。
そして、カシミール地方の南部および南東部はジャンムー・カシミール州として、インドに実行支配されています。
インドとパキスタンによる実効支配地域は、1972年に画定された「管理ライン(line of control)」により分割されていますが、両国ともこの管理ラインが正式な国境線であるとは認めていないため、この領土問題が両国間で続いているのです。
それに加えて、中国が1950年代にカシミール地方東部で活発な動きを見せ始め、1962年以降、(カシミール地方最東端の)アクサイチンの支配権を握っています。
ちなみにカシミール地方はかつて「地上の楽園」とも言われ、インド人が多く訪れる避暑地でもありました。
しかし現在の不安定な情勢により、観光客が訪れることはほとんどありません。
カシミール地方の土地と人々
カシミール地方のほとんどの土地は、深く狭い峡谷と、標高の高い不毛な高原から成る山岳地帯です。
カシミール南西部には、比較的標高が低いジャンムー平野とパンチ(プーンチ)平野が位置し、この2つは、より広範で肥沃かつ人口が密集した北部のカシミール渓谷地域から隔てられているのが特徴。
森林に厚く覆われたヒマラヤ山脈の丘陵と、レッサーヒマラヤのピルパンジャル山脈によって隔てられているのです。
ジャンムーはインドの州「ジャンムー・カシミール州」に属し、パンチ(プーンチ)はパキスタンが実行支配している「アザド・カシミール」に属します。
一方で、標高約1,600mに位置し、ジェルム川上流域を形成するカシミール渓谷(南西部はプリパンジャル山脈と、北東部はヒマラヤ山脈と境を接している)には、シュリーナガルといった都市があり、この渓谷はインドのジャンムー・カシミール州の一部です。
ちなみに、標高の高いカシミール渓谷の北東部は、標高6000mを超える山々が連なるヒマラヤ山脈の西部となっていることでも知られ、例えば、ヒマラヤ山脈からほぼ北西方向には、エベレスト山に次いで世界第二位の標高8,611mを誇るK2がある、カラコルム山脈の山頂がそびえ立っています。
そして、カシミール渓谷の北東部からさらに北東へ行くと、標高が高い山岳地帯であるラダック地域があり、北西に流れるインダス川の険しい峡谷によって他の地域から分離されています。
カシミール地方とインド・オーストラリアプレート
カシミール地方は、インド・オーストラリアプレートの最北端に沿うように位置。
このインド・オーストラリアプレートが、およそ5000万年をかけてユーラシアプレートの下に沈み込んだ結果、ヒマラヤ山脈が形成されました。
一方でこの地理的特徴は、カシミール地方で地震が頻発する原因ともなっており、カシミールは地震多発地域として知られているのです。
例えば、2005年に発生した巨大地震では、アザド・カシミール(パキスタン)の首府「ムザファラバード」をはじめとして、隣接するジャンムー・カシミール州(インド)および、パキスタンの北西辺境州「カイバル・パクトゥンクワ州」も甚大な被害を受けました。
カシミール地方の気候
カシミール地方の気候は、南西部の低地は亜熱帯気候、そして、標高の高い山岳地帯全域は高山気候と、地域により様々です。
もちろん降水量も異なり、季節風が吹くヒマラヤ山脈の西側および南側では降水量が多く、大陸性の気象条件が優勢な北側および東側では雨量が少なくなっています。
カシミール地方に住む人々
カシミール地方には、およそ1400万人前後の人々が暮らしていることは既に触れましたが、その内訳は以下のように考えられています(※正確な調査がないためあくまでも推定値)。
実行支配国 | 地域名 | 人口(万) | 宗教割合 |
インド | カシミール渓谷 | 400 | イスラム(95%) ヒンドゥー(4%) |
ジェンムー | 300 | イスラム(30%) ヒンドゥー(66%) | |
ラダク | 25 | イスラム(46%) 仏教(50%) | |
パキスタン | アザド・カシミール | 400 | イスラム(100%) |
ギルギット・バルティスターン | 200 | イスラム(99%) | |
中国 | アクサイチン | 不明 | 不明 |
上の表が示す通り、カシミール渓谷以外のインドによって実行支配された地域では、ヒンドゥー教や仏教など、インドに起源を持つ宗教を信仰する人の割合が高いことが確認出来ます。
ただし、ラダックに住む仏教徒の多くは、チベット系住人という特徴があります。
一方で、パキスタン実行支配地域に住む人々のほぼ全てはイスラム教を信仰するムスリムになります。
ちなみに、この地域には様々な民族背景を持った人たちが住んでいることから、カシミール地方は多民族地域であるとも言えます。
カシミール問題とは何なのか?
インドとパキスタンを中心にして、そこへ中国が加わる三ヶ国による紛争を交えた領土問題であるカシミール問題は、なぜ始まり、これまでどのような情勢が続いてきたのでしょうか?
ここからは、カシミール問題について、ポイントごとに分けながら簡潔に見ていきたいと思います。
カシミール問題はなぜ、どのように始まったのか?
カシミール地方を巡る対立は、インドとパキスタンが独立したことから始まりました。
大英帝国の統治の下、イギリス領インド帝国として、シミール地方が一つのまとまった広大な地域であった時代には、その地域構造や辺境地帯の脆弱さが問題となることはありませんでした。
しかし、1947年にイギリスがインド亜大陸における支配を放棄して撤退すると、ヒンドゥー教を多数派とするインドと、イスラム教国のパキスタンの2つに分かれ、その後にカシミール問題が表面化します。
インド・パキスタン分離独立の協定締結により、藩国(イギリスの従属下で一定の支配権を認められていた領国)の支配者は、パキスタンとインド、いずれに帰属するか選択権を与えられました(どちらの国につくのも自由だった)。
カシミール藩国の王ハリ・シングは当初、この選択を留保することで独立を維持できると考えます。
しかし、カシミール藩国西部の辺境地域沿いでイスラム教住民が暴動を起こし、パシュトゥーン人が介入するなどの一連の混乱に巻き込まれた結果、1947年10月、インド連邦への帰属を表明する文書に署名。
これにより、
- カシミール地方はパキスタンの一部とするのが当然と考えるパキスタン側
- インド連邦への帰属を確実なものとしたいインド側
の双方から介入される領土問題(カシミール問題)が始まってしまったのです。
実際、国連によると、「インドへの帰属問題は印パ両国間での対立を生み、その年の暮れには紛争が始まった」とされます。
そして翌年の1948年には、カシミール地方で限定的な武力衝突が続いたため、1949年1月、国連による調停で停戦が実現。
同年7月には、インドとパキスタンが停戦ライン(管理ライン:約700㎞に渡る)を画定し、カシミール地方の統治地域を分割しました。
当時の一時的な、その場しのぎの策であった管理ラインによる分割は、現在もなおそのまま存続しているのです。
カシミールに関心を寄せた中国
イギリスが提案したカシミール北東部の国境に関する協定を中国は一切拒否し、これは、1949年に政権を握った共産党以降の中国(中華人民共和国)にも引き継がれました。
このイギリスによる提案を拒否する一方で、中国の新政府はインドに対し、カシミール地方の国境問題について交渉に応じるよう求めましたが失敗に終わります。
しかし、チベットにて中国当局が設立され、新疆ウイグル自治区にて影響力を強めると、今度はラダックの北東部に軍を送って中国が侵攻。
この侵攻は主に、アクサイチン高原を通る軍事路を建設し(1957年に完成)、新疆ウイグル自治区とチベット西部との情報伝達を向上させる目的で行われたと考えられますが、結果として、インドによる発見が遅れたこともあり、インドとチベットの間にある同地域の支配権を中国が握ることとなったのです。
そしてこれにより、インドと中国の間で国境紛争が起こり、1962年10月の中印国境紛争に発展。
この紛争後、中国は中国人民解放軍(中国軍)をアクサイチンへ送って侵攻し、以降はラダックの北東部に位置するこの地域を中国が実行支配する状況が続いています。
ちなみに、インドはこの地域の境界線問題に関して中国との交渉を拒否したため、この一件は、両国関係に大きな影響を及ぼして外交的亀裂が生じることとなりました。
1980年代後半に入り、ようやく関係改善の兆しが見え始め、その後数十年に渡って中国とインドは関係改善に努めましたが、未だにラダック地域の境界線問題は解決をみていません。
その後のカシミール問題
1947年以降、カシミール問題には中国も関わっているものの、その中心は常にインドとパキスタン。
インドとパキスタンは3度交戦しており、そのうち1947年と1965年の2回はカシミール地方を巡る紛争でした(第一次・第二次印パ戦争。1965年の紛争は中国によるアクサイチン実行支配に刺激されたパキスタンが、武装集団をインドの支配地域へ送ったことで始まった)。
また、1990年代にはパキスタンの支援を受けた過激派のテロも頻発し、1998年に双方が核保有国となった後の1999年にも衝突が起きています。
このように、定期的に国境付近で軍事衝突を起こすことはあったものの、2003年以降からは、不安定ではあるものの休戦状態と言えるような状態になっていました。
しかし、ここ数年は緊張感が増していると言え、予断を許さない状況になってきています。
例えば、2016年9月18日、パキスタン側の武装集団が実効支配線近くのインド軍基地を襲撃し、インド軍兵士が19人殺害されるという事件が起き、同年9月29日には、事実上の国境付近において両国の軍が衝突してパキスタン軍兵士が2名死亡しました。
また、2019年2月14日にインドの支配地域で爆発事件が起きて約40人が死亡すると、その報復として、2月26日にインド軍がパキスタン側の武装組織の拠点を空爆し、300人以上を殺害。
さらにその報復措置として、今度はパキスタン側がインド側を空爆する事件が2月28日に起きました。
各国が実行支配する地域のまとめ
最後にインド、パキスタン、中国が実行支配する地域をわかりやすくまとめておくと、以下のようになります。
- インド
- ジャンムー・カシミール州
- カシミール地方の南部と東部にあたる
- カシミール地方の約45%
- ジャンムー・カシミール州
- パキスタン
- アーザード・カシミール、ギルギット、バルティスタンの3つの地域
- カシミール地方の北部と西部にあたる
- カシミール地方の約35%
- アーザード・カシミール、ギルギット、バルティスタンの3つの地域
- 中国
- アクサイチンとシャクスガン渓谷
- カシミール地方の最北東部にあたる
- カシミール地方の約20%
- アクサイチンとシャクスガン渓谷
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カシミール地方とカシミール問題(紛争)|インド・パキスタン・中国の領土問題のまとめ
インドとパキスタンを中心に、中国も加わって続いている領土問題「カシミール問題/カシミール紛争」は、見てきたように、インドとパキスタン、そして中国とインドの関係において、大きな障害となっている問題です。
この地域についての理解を深めて同問題を知ることは、この3つの国それぞれの関係を把握する上で重要なポイントになります。