クリミア併合(クリミア危機)についてわかりやすく解説していきます。なぜ起きてしまったのか?問題点を探りながらこの出来事を見つめていきます。
ウクライナに属する半島の一つクリミアは、風光明媚な観光地として、ウクライナ国内外から多くの観光客が訪れる場所でした。
そんなクリミアを舞台に2014年、ロシアとウクライナの間でクリミア危機という政治的出来事が起こり、軍事介入の下、本来はウクライナの一部であったクリミアが一方的にロシアへ併合されてしまいました。
このクリミア併合はなぜ起こったのでしょうか?そして、どのような問題点を抱えているのでしょうか?
クリミア併合について詳しく見ていこうと思います。
クリミア併合(クリミア危機)とは?
クリミア併合とは、国際的にはウクライナの領土と見なされる半島「クリミア」を巡り、2014年にロシアとウクライナの間に生じた政治危機「クリミア危機」を通して起こった、クリミアのロシア側への編入(併合)のこと。
クリミアは1991年の独立以来ウクライナに属していたものの、2014年3月16日に、クリミア自治共和国とセヴァスポリ特別市(クリミア半島南西部に位置する都市で本来はウクライナ政府直轄地)でロシア編入の賛否を取る住民投票を行われた結果、クリミア共和国中央選挙管理委員会は90%以上の賛成票が得られたと発表。
同年3月18日には、ウクライナ政府の意向を無視して、ロシア、クリミア自治共和国、セヴァスポリ特別市の間でロシア編入に関する条約が調印され、ロシア側と親ロシア派によって一方的に二つの地域がロシアへ併合された出来事です。
ただしクリミア併合は、国際社会の制止と、クリミアとセヴァスポリに対して主権を持つウクライナを無視して強引に実行されたため、国際的には承認を得られておらず、現在も係争状態のままです。
実際、当時ウクライナの首相であったアルセニー・ヤツェニュク氏はこの行為に対して、「国際レベルでの強奪(a robbery on an international scale)」と表現し、また、欧米各国もクリミア合併を強く非難し、ロシアに対して国際的な制裁を開始しました。
一方、ロシアでは国会議員たちが歓喜に溢れ、ロシア国内でのプーチン大統領の支持率は大幅に上昇しました。
ちなみに、このクリミア併合の主な舞台となったクリミア自治共和国について少し理解を深めておきましょう。
クリミア自治共和国は、クリミア半島のうちウクライナの直轄地であったセヴァストポリを除いた地域を管轄する自治共和国。
そのため、ウクライナの主権領土でありながら、元々高度な自治権を持っている「国家内国家」という状況にありました。
また、ゴツゴツとした岩山が特徴的なビーチ沿いに広がる黒海に面した美しい場所で、人気の観光スポットです。
一方で、政治的に複雑な場所でもあります。
1954年、当時のソ連最高指導者であったニキータ・フルシチョフは、クリミアはウクライナの一部であると宣言しますが、ロシア人の多くはこれを不法と見なしていました。
そして以前から、人口の半数以上をロシア系住民、4分の1をウクライナ系住民、そして残りの多くを1944年にスターリンによって追放され、反ロシア派であるクリミア・タタール人が占めていました。
クリミア併合はなぜ起きたのか?歴史を追って見ていこう
では一体なぜ、このクリミア併合は起きてしまったのでしょうか?
2014年にクリミア併合が起きてしまった理由について知るために、歴史を追いながら確認していきたいと思います。
ロシアに支配されたクリミアとクリミア・タタール人
ロシアとクリミアには長い歴史があります。
1783年、エカチェリーナ2世の統治下だったロシア帝国は、クリミアを支配していたオスマン帝国を破り、クリミアをロシアの一部とします。
当時、クリミアに暮らす人々の大多数はクリミア・タタール人でした(クリミア・タタール人とはテュルク語を話すテュルク系民族で、多くのクリミア・タタール人はイスラム教徒だった)。
そして、ロシア帝国にクリミアが併合されてからというもの、クリミア・タタール人は差別的な扱いを強いられてきましたが、その扱いはソビエト時代に突入するとさらに酷くなります。
その結果、1917年から1933年にかけ、クリミア・タタール人のおよそ半分が殺害や飢餓によって死亡するか、クリミアから出ていくよう強要され、1944年には残りのクリミア・タタール人も、ソ連によってクリミアから追放されて中央アジアに住むことを余儀なくされました。
※1967年以降、一部のクリミア・タタール人は故郷であるクリミアに帰郷し始めたものの、ソビエト時代に増えたウクライナ人やロシア人の人口に比べると、クリミアに居住しているクリミア・タタール人の割合は現在でも高くない。
「贈り物」としてウクライナへクリミアがプレゼントされた
ロシアの一部となった1783年からちょうど170年後にあたる1954年、当時のソビエト連邦最高指揮官ニキータ・フルシチョフは、個人的に非常に緊密な関係にあったウクライナへ、ロシアからウクライナへの「同胞への贈り物」としてクリミアを移管することを決定(※フルシチョフは民族的にはウクライナ人だった)。
クリミアはウクライナの管轄下になったのです。
当時はロシアとウクライナのどちらもソビエト連邦に属していたので、クリミアがウクライナの管轄下になっても大きな変化や問題点などは浮上しなかったものの、1991年にソビエトの崩壊が起こると大きな影響を及ぼすことになります。
ソ連崩壊後のクリミア
ソビエト連邦が崩壊へ向かう1991年末期、ソ連崩壊に合わせるようにしてウクライナはソビエト連邦から独立することになったわけですが、それ以前にソビエトからの独立の是非が問われた際、
- ウクライナの首都キエフでは・・・96%が賛成
- クリミアでは・・・55%が賛成
と、クリミアにおけるウクライナ独立支持の割合は、ウクライナの他の地域に比べてかなり低かったのです。
そして、独立してから一年も経たない1992年5月5日、クリミア州議会(当時はまだ自治領ではなかった)は、「クリミア共和国」としてウクライナからの独立を宣言。
これに対してロシアは支持を表明します。
しかし、ロシア連邦を構成するチェチェン共和国の独立問題が起こったため、ロシアはその問題を解決することを優先し、クリミア独立の支援を中止。
結果的に、「クリミア共和国」としての独立は成立しなかったものの、1998年にはウクライナ国内における自治権を獲得して「クリミア自治共和国」となりました。
親ロシア派と親西欧派の分裂
ウクライナの人々は社会主義だったソビエト連邦からの独立後、徐々に民主主義・資本主義体制へと変わっていくなかで、西ヨーロッパ諸国に近づきたい親西欧派と、ロシアに近づきたい親ロシア派に分かれ、意見の対立が目立つようになります。
「どういった形でこれまでのウクライナの良さを残していき、どのように国を新しくしていくのか?」
市民全員が同意する結論を見出すのがただでさえ難しかったこの時期、「ヨーロッパなのか、ロシアなのか」というトピックで国民の意見は分かれていったのです。
2014年ウクライナ騒乱の開始
このような状況の中で、2013年当時にウクライナの大統領だった親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチは、EU連合との政治・貿易協定の調印を見送ってしまいます。
これに対して、親ヨーロッパ派の人々が立ち上がり、2013年11月、「ユーロマイダン」と呼ばれる抗議運動を始めました。
この一連の抗議活動はその後も続き、2014年初旬には100人以上のデモ参加者が殺され、その多くは親ロシア派政権下にあった警察、狙撃手、政府軍によって殺害されたのです。
一方、この騒動の中で、国内において強い反発を受けたヤヌコーヴィチ大統領はロシアに亡命。
親西欧はによって、新しいウクライナ大統領が選任されました。
クリミア危機の始まり
親西欧派が起こした一連の抗議活動と新政府の立ち上げにより、クリミアと東ウクライナには動揺が広がっていきました。
親西欧派による抗議が続くなかで、親ロシア派による抗議活動も始まり、2014年2月26日ついに双方のデモ隊の激しい衝突が始まってしまうのです。
そして、翌日2014年2月27日には「リトル・グリーンメン」と呼ばれる武装した覆面兵士が、クリミア最高議会を含む政府の建物を占拠。
この結果、同日までクリミア自治共和国のトップを務めていたアナトリー・モヒリオウは解任され、代わりに親ロシア派のセルゲイ・アクショーノフをクリミアが指導者として選任されました。
こういった流れを受け、クリミア自治共和国の議会は、ウクライナから離脱してロシアの一部になることを可決します。
ちなみに、このリトル・グリーンメンたちは自分たちが誰に属しているかという徽章を付けてはいなかったものの、「ロシアの特別軍事組織だろう」というのが多くの専門家の意見でした。
ロシアのプーチン大統領は当時、ロシアから送られた兵士がクリミアにいることを否定していましたが、その後リトル・グリーンメンがロシア兵士であったことを認めています。
クリミア併合
そして、2014年3月16日には住民投票によって、ウクライナからの独立とロシアへの編入が承認されました。
親ロシア派の管理下にある「クリミア共和国中央選挙管理委員会」の発表によると、投票率は83%ととても高く、96%もの人々がロシアに編入することに賛成したとされます。
しかし、クリミア・タタール人の多くがこの住民投票を拒否したこともあり、その正当性に関しては疑念が多く残されているのも事実です。
とにもかくにも、この住民投票の結果を受けて、2014年3月18日にロシアがクリミア編入への条約へ調印し、ウクライナ側の意向を完全に無視して一方的にクリミアをロシア領として併合したのです。
ロシアがクリミアを欲しがる理由とウクライナがクリミアを手放したくない理由についての考察
クリミア併合がなぜ起こったかについて、歴史を追ってその理由を見つめてきましたが、ここからは、ロシアがクリミアを欲しがる理由と、ウクライナがクリミアを手放したくない理由について考察していき、この出来事の問題点への理解を深めていきたいと思います。
ロシアがクリミアを欲しがる理由
ロシアがクリミアを欲しがる理由は、過去にクリミアがロシアの一部でなったという単純な理由だけではありません。
他にも「ロシアにとっては歴史的に象徴的な意味がある」という理由と、「地政学的な戦略上の重要性」という、大きく2つの理由があると言えます。
理由① 歴史的に象徴的な意味を持つ
クリミアは、ロシアの歴史において非常に重要で象徴的な場所となってきました。
1850年代にロシア帝国が、フランス、イギリス、そしてオスマン帝国と戦った、クリミア戦争と呼ばれる史上稀にみる大規模な戦争の舞台でした。
戦争ではロシアが敗北を喫しますが、この戦いにおけるロシア軍の勇敢さは未だにロシア人の誇りの源であり、ナショナルアイデンティティの根底の一部にもなっていると言えるほどです。
また、クリミアのリゾート地「ヤルタ」は、ルーズベルト、スターリン、そしてチャーチルの会談で有名なヤルタ会談が行われた地であり、ロシア人にとっては非常に記憶に残る重要な場所です。
理由② 地政学的な戦略上の重要性
しかし、ロシアのクリミア併合に対する関心は、郷愁の念を遥かに越えたものになっています。
それが、地政学的に見た場合、この地域はロシアの戦略上で非常に重要度が高いという点。
クリミア半島南西部の端にあるセヴァストポリは、ロシア唯一の不凍港の海軍拠点で、ロシアにとっては、地中海を通って軍事力を拡大できる最重要拠点なのです。
例えば、ロシアはセヴァストポリを経由して、シリア内戦中のアサド政権へ武器を供給していたとされます。
加えて、黒海沿岸の制海権は東のジョージア(※現在NATOへの加盟を積極的に求めている)、北のウクライナを除くNATO加盟国に握られています。
単純に考えると、ロシアはクリミア半島の海軍基地がなければ、現在の国際的な軍事力を維持するのが難しくなってしまうのです。
ウクライナがクリミアを手放したくない理由
一方、ウクライナにとっても、クリミアは手放したくない場所です。
クリミアには大きなウクライナ系民族集団が存在し、またウクライナ人の多くも夏休みに訪れる地でもあります。
また、強く主張されるべき問題点としては、国際的にクリミアはウクライナの主権領土だという事実があります。
つまり、いくらクリミアは自治権を持っていたとしても、クリミアへウクライナ以外の他国が干渉することは本来であれば禁止されていたはずであり、リゾート地としても有名な地域が勝手に他国の判断で切り離されるなど、政治的または経済的な理由から見て許すことは出来ない話でしょう。
クリミア併合から続く問題点
ロシアへ一方的にクリミアが編入から一年後に行われた調査によると、クリミアに住むウクライナ系住民の一部やロシア系住民の多くは、ロシア編入に賛同しているようでしたが、クリミア・タタール系住民の大多数は「国際法に基づいてクリミアのロシア編入が行われるべきだった」という大きな不満を抱えながら暮らしています。
一方、ウクライナでは今でも親西欧派と親ロシア派とで意見が分かれています。
さらに、クリミア合併はロシアと西洋諸国との間に亀裂をもたらした結果、ロシアに隣接するヨーロッパの国々は「いつか自分たちの国にもロシアが介入してくるのではないか」という危機を募らせており、住民の中には不安を抱えている人も多くいます。
実際、「プーチンは、かつてソビエト連邦が支配していた土地を取り戻そうとしている」と信じている意見も出ているのです。
また、過去の国際的な約束を無視するという問題点も浮上してしまいました。
1994年12月15日に締結されたブダペスト覚書では、「ウクライナは核放棄に合意」して、「ロシアはウクライナの領土の保全を約束」しましたが、クリミア併合によってこの約束は反故にされてしまったのです。
これによってプーチンは、ロシアが低迷していた90年代に締結された条約は、全て無効であると示唆しているのです。
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クリミア併合(危機)とは?なぜ起こったのか?問題点などをロシアとウクライナの関係から見ていこうのまとめ
クリミア併合に関して見てきました。
2014年に起こったクリミア併合は、国際法や国が持つ主権のあり方を根本的に問われた出来事だと言えます。
また完全にこの問題は収束していないため、今後どのように進んでいくかが気になるところです。