アラブの春は、近年起きた革命の中でも最も規模が大きく影響力の大きなもの。そのアラブの春が起きた原因を探りながら、失敗したのか成功したのか、そしてその後までを見ていきます。
中東とチュニジア・リビア・エジプトといった北アフリカの国々で起きた一連の運動「アラブの春」は、この地域だけでなく国際社会全体を震撼させました。
しかし、各地の長期政権のいくつかを崩壊させる一方、アラブの春は、その後の内戦や難民問題を引き起こす引き金ともなってしまいます。
- このアラブの春とは一体何だったのか?
- その原因は何なのか?
- その後に関しては成功したのか失敗したのか?
など、アラブの春に関する疑問についてまとめてみたので確認してみてください。
アラブの春とは?
アラブの春とは、チュニジア、モロッコ、シリア、リビア、エジプト、そしてバーレーンなどの中東・北アフリカ地域のイスラム教国家を巻き込んだ「民主化を求める一連の運動」のこと。
民主化の拡大と文化的な自由を求めて、一般民衆が主な原動力となった運動です。
2010年12月にチュニジアの露天商の青年が警察に抗議するため焼身自殺し、それがきっかけで大規模な運動が2011年の春頃に始まり、そのままアラブの春という名前がつきました(1968年にチェコスロバキアで起こった「プラハの春」にならっているとされる)。
アラブの春を理解する上で重要なジャスミン革命
北アフリカや中東に多大な影響を与えたアラブの春ですが、たった1人の抗議が原因となり一連の大規模な政治的・社会的運動へ繋がったという事実を忘れがちです。
アラブの春が始まったのは2010年12月17日のこと。
チュニジアの街角で野菜を売っていたムハンマド・ブーアズィーズィーは、営業許可がなかったとして警察に露店を差し押さえられ、それに対する抗議として焼身自殺を図ります。
この時、チュニジアにおける青年層の失業率は25~30%と非常に高くなっており、一般層の間では政府に対する不満が高まっていました。
そのため、ブーアズィーズィーの自分を犠牲にした行動は、同じように苦しむ多くの一般民衆の共感を呼び、チュニジアの「ジャスミン革命」に発展します。
チュニジアの首都チュニスでその後、大規模な街頭デモが発生し、最終的に23年もの長きに渡り権威を振りかざして社会を圧政していた大統領「ジン・アビディン・ベンアリ」を辞任に追い込み、サウジアラビアへ亡命させることに成功するのです。
アラブの春は多くの国々で起こりましたが、民主化への移行を実現できたのは唯一このジャスミン革命が起こったチュニジアであるとされています。
その他の多くの国は、逆にテロの増加や無政府状態に陥ることになりました。
ジャスミン革命によってチュニジアが民主化へ移行したことに触発された、北アフリカや中東諸国の活動家たちは同様に、自分たちの国で権威を振りかざす政府に対しても反対運動を開始します(一連の民衆運動の参加者たちは、社会的な自由度と政治参加への機会の増加を求めていた)。
例えば、エジプトの首都カイロのタハリール広場で発生したデモや、バーレーンで起こった同様のデモ等です。
しかし、リビア、シリア、イエメンのように、これらの反対運動が大規模な内戦の原因となってしまった例もあります。
アラブの春の特徴は一般層の参加とSNSの活用
このアラブの春の特徴はまず第一に、同地域の多くで、これまで限定的な政治参加しかできていなかった一般の民衆が主な原動力となっている点。
特に独裁政権による圧政や、経済格差の広がりなどに対して民衆の間に不満が高まっており、そのことが強い動機また原因となって一気に爆発した結果、多くの反政府デモが起こったと言えます。
そして第二に、アラブの春がなぜそこまでの規模に拡大し、また同時に一般民衆がこれほど参加したかという点に関してはSNSの活用がありました。
抗議デモの発端となった事件がメディアで報道された結果、主に中産階級の知識人や若者が、各種SNSや動画サイトを使って情報を拡散。
その情報がさらに共有され、以前には考えられなかったほどのスピードで国境を超えた結果、非常に広範囲の地域で同時多発的に民主化運動が起こったのです。
アラブの春、その後
先述したように、チュニジアで起きた運動は基本的人権の観点で国に何かしらの改善を起こしたものの、同様の運動が起こった他の国が、その後全て良い方向へ変わったわけではありませんでした。
最も顕著な失敗例の一つが、アラブの春による早期の改革が起こっていたエジプト。
30年もの間権力の座についていたホスニー・ムバーラク大統領の追放後、多くの民衆が希望を抱きましたが、独裁政権による支配が戻ってしまったのです。
2012年、選挙により選出されたムハンマド・ムルシー大統領は、アブドルファッターフ・アッ・シーシー国防相主導のクーデターにより罷免されてしまいます。
その後、2013年にはシーシーが大統領となり、現在も政権を握っている状況が続いています。
アラブの春失敗例
また、アラブの春失敗として、次の2つの国も顕著な例として挙げられます。
アラブの春失敗例① リビア
リビアでは権威を振りかざしていた独裁者ムアンマル・カダフィ大佐(1969年から2011まで長期の独裁政権を敷いた)が2011年10月、激しい内戦の末、反対勢力により拷問(文字通り、町中を引きずり回される)されて殺害されました。
彼の死亡映像はインターネットで流れ、何百万人もの人の目にさらされたのです。
しかし、カダフィが失脚したその後もリビアは内戦状態にあり、対立する2つの政府が事実上国の地域を別々に支配している状況が続き、リビアの一般市民は何年にも及ぶ政変において、町中での暴力や厳しい食糧事情、医療の制限など大変苦しい思いをしてきました。
結果、現在世界中で問題になっている難民危機の原因の一つとなり、何千人もの人がリビアから逃れ、多くはヨーロッパでの新たなチャンスを願い船で地中海を渡っています。
アラブの春失敗例② シリア
シリアでも同様に、アラブの春の後に始まった内戦が数年続き、多くの国民が身の安全を確保するためトルコ、ギリシャや西ヨーロッパへと避難していき、また事実上の無政府状態が続きました。
その結果、過激派テロ組織ISISが同地域で勢力を伸ばし、シリアの北東において、イスラム法による国家の樹立を宣言してしまったのです。
何千・何万とも言われる人々が殺害され、身の危険を感じた多くの一般民衆は難民として国を離れることになります。
その後、ロシア連邦軍がアサド政権を支援するとして軍事介入を開したことで、徐々にISISから主要都市を奪還し、また、アメリカ軍の空爆などの結果、ISISの組織は事実上崩壊。
一方で、現在はアサド政権が再び力を取り戻しており、アラブの春によって起きた内戦で国が疲弊しただけで、以前と同じような独裁状態に陥っています。
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アラブの春について知っておきたい5つのこと
アラブの春について、概要から原因、さらに失敗例などを見てきましたが、ここからはそれ以外にも知っておきたい5つのことについて見ていきましょう。
多くの避難民が生まれてしまった
アラブの春は一般民衆がより良い生活や社会を求めて起こした運動ですが、結果的に多くの人々が避難民となり、困窮した生活に陥ってしまうことになります。
例えばリビアでは、アラブの春によって少なくとも45万5千人の一般市民が避難民になってしまったと言われています。
多くの人々は家を失い、地域の学校や避難民のための仮説キャンプへ退避して過ごす日々が続きました。
また、このような状況の中で、約250万の人が緊急の人道支援を必要としたそうです。
エジプトでは183人の抗議者が死刑になった
エジプト政府は、政府に逆らったとして2013年7月から2014年7月の間に少なくとも22,000人を逮捕しました。
しかし、逮捕だけに止まらず、2015年2月には、首都カイロの裁判所にて政治的暴力の罪で183人が死刑を宣告されたのです。
これは、アラブの春が起きたその後も、エジプトは変わることが出来なかったという失敗を反映している出来事だと言えるかもしれません。
アフリカ政府のいくつかはソーシャルメディアを禁止した
アフリカ大陸のいくつかの政府は、アラブの春に関するマスコミ報道や、ソーシャルメディア利用を規制した事実を忘れてはなりません。
例えばジンバブエでは、抗議の様子を撮影した動画を広めた活動家達が逮捕される事件が起こります。
また、人権問題活動家であるムニャラジ・グウィサイは、抗議の様子のビデオを見たことで500ドルの罰金を科せられるなど、当時、同じように独裁を敷いていた国々の政府は、抗議の芽を早い段階で摘む目的で、一般民衆の情報拡散手段を制限したのです。
アフリカ「諸王の王」の最後は下水排水溝
かつてのリビアの最高指導者カダフィ大佐は、リビアに42年間の独裁を敷くと同時に、自らを「アフリカ諸王の王」と呼んでいました。
しかし、その諸王の王の最後は皮肉にも下水排水溝であったとされています。
近隣の下水排水溝に逃げ込んだものの、リビア国民評議会(反カダフィ勢力)の部隊によって見つかりました。
当時カダフィはすでに重傷を負っており、数時間後には死亡したと言われています。
アラブの春は若者をテロ集団に駆り立てた
アラブの春の大きな原動力となったのは若者たち。
同地域の国々では特に若者の失業率が高く、とても大きな不満が溜まっていた上に、若さというエネルギーが有り余っている人たちでした。
しかし、アラブの春が失敗した結果、多くの若者たちは希望を失って大きな失望感に苛まれることになり、そのなかの一部はテロ集団へと去っていくことになったのです。
時系列で見るアラブの春
最後に、時系列に並べたアラブの春の主要な出来事を一覧として紹介しておきます。
日時 | 出来事 |
2010/12/17 | ・チュニジアでムハンマド・ブーアズィーズィーが、野菜売りの露店営業の許可がなかったため警察に逮捕されたことに対する抗議として焼身自殺する ・彼の死後、すぐに街角でのデモ行動が始まり国中に広がる |
2011/1/14 | ・チュニジアの大統領ジン・アビディン・ベンアリが辞任し、サウジアラビアへ亡命 |
2011/1/25 | ・エジプトの首都カイロのタハリール広場で初めての組織的集団デモが発生 |
2011/2 | ・イスラム教徒が多数を占める国々で反対派が独裁政権に抵抗し、民主的改革を求めて「怒りの日(Day of Rage)」を実施 |
2011/2/11 | ・エジプトのムバーラク大統領が退陣 |
2011/3/15 | ・シリアで民主化要求デモが始まる |
2011/5/22 | ・モロッコで警察が数千人の民主化要求デモ隊を鎮圧 |
2011/7/1 | ・モロッコの有権者が、国の君主制の権力を制限するよう憲法の改正を承認 |
2011/8/20 | ・リビアでトリポリ支配をめぐり反乱軍が戦闘を開始 |
2011/9/23 | ・イエメンで大規模民主化要求デモが発生 |
2011/10/20 | ・リビアの独裁者ムアンマル・カダフィ大佐が反乱軍によって捕まり殺害される |
2011/10/23 | ・チュニジアで初となる議会民主制の選挙が実施される |
2011/11/23 | ・イエメンの独裁者アリー・アブドッラー・サーレハが権力委譲協定に署名 ・2012年2月に完全に辞任し、2017年、国が未だ内戦に巻き込まれている最中に殺害される |
2011/11/28 | ・エジプトで初となる議会民主制の選挙が実施される ・2012年6月は選挙によりムルシーが大統領となるが、2013年7月にクーデターによって解任される |
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アラブの春とは?原因や失敗からエジプトやチュニジアのその後までのまとめ
北アフリカや中東で起こったアラブの春は、現在の世界へ対して大きな疑問を投げつけた出来事でした。
その後も同地域の多くの国は未だに混乱しており、国際協力が必要な状況はまだまだ続きそうです。
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