ポルトガルの有名人を紹介していきます。エンリケ航海王子などの歴史的人物から、サルヴァドール・ソブラルといった歌手まで、合わせて15名を見ていきましょう。
現在でこそ世界でそこまで大きな影響力を見せつけられていないものの、南ヨーロッパのイベリア半島にあり、スペインの隣に位置するポルトガルは、かつて帝国にまでなった強国の1つでした。
そのため、ポルトガルの黄金時代には多くの歴史的有名人がポルトガルから誕生しました。
一方で、現代においても一部の領域でポルトガルは世界的な有名人を輩出しています。
この記事ではポルトガル出身の有名人として、歴史的な人物からアスリートや政治家まで、合わせて15名を紹介していきます。
- 探検家ポルトガルの有名人1:エンリケ航海王子
- 探検家ポルトガルの有名人2:バルトロメウ・ディアス
- 探検家ポルトガルの有名人3:ヴァスコ・ダ・ガマ
- 探検家ポルトガルの有名人4:フェルディナンド・マゼラン
- 探検家ポルトガルの有名人5:ルイス・デ・カモンイス
- 探検家ポルトガルの有名人6:フェルナンド・ペソア
- ポルトガルの有名人7:アントニオ・サラザール
- ポルトガルの有名人8:アマリア・ロドリゲス
- ポルトガルの有名人9:ジョゼ・サラマーゴ
- ポルトガルの有名人10:エウゼビオ
- ポルトガルの有名人11:アントニオ・グテーレス
- ポルトガルの有名人12:ジョゼ・モウリーニョ
- ポルトガルの有名人13:ルイス・フィーゴ
- ポルトガルの有名人14:クリスティアーノ・ロナウド
- ポルトガルの有名人15:サルヴァドール・ソブラル
- 合わせて読みたい世界雑学記事
- ポルトガルの有名人|エンリケ航海王子からサルヴァドール・ソブラルまでのまとめ
探検家ポルトガルの有名人1:エンリケ航海王子
エンリケ航海王子(1394〜1460年)は、1394年にポルトガルのポルトでジョアン1世とフィリパ・デ・レンカストレの間に三男として生まれ、ポルトガルの大航海時代初期における中心的存在となった人物。
「航海王子」として知られるエンリケ航海王子ですが、実はエンリケ航海王子自身は一度も航海に出たことはありません。
しかし、代わりにエンリケ航海王子は、航海のための資金援助を行ったのです。
1420年にはキリスト騎士団の団長になって資金力を得たため、北アフリカへの探検航海に資金を提供することが可能になり、エンリケ航海王子の下でポルトガル人は、マデイラ諸島とアゾレス諸島、カーボベルデ諸島のいくつかの島を発見して植民地化しました。
またエンリケ航海王子は、西アフリカ沿岸にも探検隊を派遣し、多くの探検隊員は金と奴隷をポルトガルに持ち帰りました。
探検家ポルトガルの有名人2:バルトロメウ・ディアス
バルトロメウ・ディアス(1450年頃〜1500年)は、ポルトガルの航海者であり、ヨーロッパ人としては初めて喜望峰に到達したことで知られる有名人。
当初バルトロメウ・ディアスは、喜望峰を「嵐の岬」と呼んでいました。
しかしその後、喜望峰への到達がさらなる航海のチャンスをもたらすことが分かり、それに敬意を表すためにも「喜望峰」へと名前を変えました。
そして、喜望峰はヨーロッパとインド間の重要な交易路になっていったのです。
なお、皮肉なことに、バルトロメウ・ディアスは1500年に喜望峰で嵐に見舞われて命を落としています。
探検家ポルトガルの有名人3:ヴァスコ・ダ・ガマ
ポルトガルのシーネスで生まれたヴァスコ・ダ・ガマ(1460年頃〜1524年)は、ヨーロッパ人探検家として初めて海路でインドに到達した有名な人物。
さらに、ヨーロッパ人として初めてモンバサやケニアなどのアフリカ地域を訪れたとしても知られています。
ヴァスコ・ダ・ガマは、英雄としてインドからポルトガルに帰還しました。
そして、その後すぐにポルトガル人はインドへ航海し、交易路を確立したのです。
ちなみに、インドへ到達した偉業は、上に挙げたバルトロメウ・ディアスが事前に喜望峰を発見していたからに他ありません。
探検家ポルトガルの有名人4:フェルディナンド・マゼラン
1480年頃にポルトガル北部の貴族の家庭に生まれたフェルディナンド・マゼラン(1480〜1521年)は、「史上初の世界一周」を成し遂げた、東インド諸島へのスペイン探検航海を率いたことで有名。
世界一周の航路は、アフリカの沿岸を下り、南アメリカを超えてパタゴニアを通過し、アジアに到達し、アフリカの先端部を通り越してヨーロッパに戻るという航路でした。
フェルディナンド・マゼラン自身は航海中にフィリピン諸島で首長と争いになり戦死しましたが、彼が率いた船団のうちのいくつかの船が、翌年ヨーロッパに何とか帰還し、偉業が達成されたのです。
探検家ポルトガルの有名人5:ルイス・デ・カモンイス
ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(1524〜1580年)は、ポルトガル史上最も有名で最大の詩人と評価される人物。
その豊かな才能は有名で、シェイクスピアやホメーロス、ダンテといった超一流の有名人と比較されるほどです。
カモンイスは多くの作品を残しましたが、その中で最も有名なのは「ウズ・ルジアダス」。
この作品の中では、大航海時代によって繁栄を極めたポルトガルの黄金時代が謳われています。
探検家ポルトガルの有名人6:フェルナンド・ペソア
フェルナンド・ペソア、全名フェルナンド・アントニオ・ノゲイラ・ペソア(1888〜1935年)は、20世紀を代表する優れたポルトガル人作家の一人であり、国民的作家。
また、詩人、文芸評論家、翻訳家、出版者、哲学者としての肩書きも持つなど、マルチな才能を持つ人物としても有名でした。
75個にも及ぶ異なるペンネームを利用して、詩や哲学的なエッセイ、文芸のエッセイなどの執筆活動を行っていたのです。
ちなみに、現在彼の遺体は、ヴァスコ・ダ・ガマなどの有名な歴史的偉人が眠るジェロニモス修道院に埋葬されています。
ポルトガルの有名人7:アントニオ・サラザール
アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール(1889〜1970年)は、ポルトガルの政治家であり経済学者で、1932から1968年までの長期に渡り、エスタド・ノヴォという政権を敷いてポルトガルの首相を務め続けた人物。
また、エスタド・ノヴォ自体は、1974年に起きたカーネーション革命によって打倒されるまで続き、ヨーロッパ最長の独裁政権として有名になりました。
サラザールについての評価は、ポルトガル国内でも分かれています。
「冷酷な独裁者」だとみなす人がいる一方、今までのポルトガルの歴史の中でも「最も優れた人物」だと評価する人もいるのです。
ちなみに、サラザールは1968年に意識不明の重体に陥り、2ヶ月後に意識を取り戻しましたが、この間にエスタド・ノヴォのトップの座はマルセロ・カエターノに移っていました。
しかし周囲の人々は、サラザールへこの事実を教えてショックを与えないために、執務室を以前のまま完璧に保全し、さらに、偽の新聞を読ませ、サラザールが権力喪失の事実を知らないように図り、これはサラザールが死ぬまで続きました。
ポルトガルの有名人8:アマリア・ロドリゲス
アマリア・ロドリゲス(1920〜1999年)は、おそらく歴史上で最も有名なポルトガル人歌手であり、また、女優としても知られる人物。
ポルトガルに生まれた民族歌謡である「ファド」を世界中で披露し、ファドの普及活動へ従事したことで、「ファドの女王」として知られるようになりました。
また彼女は、現在に至るまで、ポルトガルにおいて最も高い売上を記録した歌手としても有名であり、3000万枚以上のアルバムを売り上げています。
ポルトガルの有名人9:ジョゼ・サラマーゴ
ジョゼ・サラマーゴ(1922〜2010年)は、1998年にノーベル賞を受賞した現代を代表するポルトガル人作家。
リスボンから北へ約100kmの所にあるアジニャーガの村で生まれ、その後、リスボンの町に移って生活を送るようになりますが、彼は当初、メカニックや金属細工師として働いていたことで知られます。
その後、ジャーナリストや翻訳家に転身しましたが、サラマーゴが世界的にも大きな注目を集めるようになったのが、彼にとっては4番目の作品である「修道院回想録」を60代の頃に出版した時。
この結果、それから6年後の1998年にはノーベル賞が授与されたのです。
また、2003年、アメリカの文芸批評家のハロルド・ブルームによって、「今日生きている作家の中で、最も豊かな才能に恵まれた人物」と評されるなど、当時はポルトガルが世界に誇る文化人として有名でした。
ポルトガルの有名人10:エウゼビオ
エウゼビオ、全名エウゼビオ・ダ・シルヴァ・フェレイラ(1942〜2014年)は、史上最も優れたポルトガル出身のサッカー選手の1人であり、同時に世界で見ても史上最も優れたサッカー選手の1人だと考えられている人物。
彼の出生地は現在のモザンビークにあたるものの、当時はポルトガル領東アフリカであったため、ポルトガル出身者に含まれることがよくあります。
ポルトガル代表として出場した64試合における41ゴールを含め、合計745試合に出場し、733ものゴールを決めたことで有名で、また、ポルトガルのリスボンに本拠地を置くSLベンフィカを11回リーグ優勝に導き、1962年にはUEFAチャンピオンズカップで優勝したことでも知られます。
さらに、1966年のワールドカップでは、9得点を決めて世界中を驚かせました。
ポルトガルの有名人11:アントニオ・グテーレス
アントニオ・グテーレス(1949年〜)は、1995から2002年までポルトガルの首相を務め、また、2017年からは国連の第9代事務総長を務めていることで世界的に有名なポルトガル人。
また、それ以前は2005~2015年まで、国連の難民高等弁務官を務めたこともあります。
グテーレスは「過去30年間で最も優れたポルトガルの首相だった」と評価されており、実際、国内国外に関わらず、多くの賞や栄誉を受賞してきました。
その中には、コインブラ大学やサウスカロライナ大学に加え、日本の明治大学から贈られた名誉博士の学位も含まれます。
ポルトガルの有名人12:ジョゼ・モウリーニョ
ジョゼ・モウリーニョ、全名ジョゼ・マリオ・ドス・サントス・モウリーニョ・フェリックス(1963年〜)はサッカー指導者として有名な人物。
リスボン郊外のセトゥーバルで育ち、ビジネススクールを中退後、スポーツ科学を学ぶためにリスボン工科大学へ入学。
その後、1989年にヴィトーリアFCのユースコーチから始まり、1990年にはCFエストレラ・アマドーラのアシスタントマネージャー、1991年にはADオヴァレンセ、1994年にはFCポルトのアシスタントマネージャー、1996年にはFCバルセロナのアシスタントマネージャー、そして2000年にはSLベンフィカの監督と、順調にサッカー指導者としてのキャリアを積んでいきました。
そして2004年には、おそらくジョゼ・モウリーニョのキャリアとして最も有名なチェルシーFCの監督に就任。
2015年には、ポルトガルサッカー連盟によって「21世紀を代表するポルトガル人監督」に選ばれました。
これまで20を超える主要な賞を受賞していて、史上最も成功したサッカー監督の1人だと考えられています。
ポルトガルの有名人13:ルイス・フィーゴ
ポルトガルの伝説的なサッカー選手だったとして有名なのがルイス・フィーゴ(1972年〜, 全名ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ)。
ポルトガルのアレンテージョ地方出身の両親の下に生まれ、ポルトガルのアルマダのコヴァ・ダ・ピエダーデで育ちました。
1989年にリスボンのスポルティングCPでキャリアを始め、その後、1995年から2000年までFCバルセロナ、2000年から2005年までレアル・マドリード、2005年から2009年までインテル・ミラノに在籍。
また、現役当時は127試合にポルトガル代表として出場し、当時の歴代最多出場記録を保持するなど大活躍した攻撃的ミッドフィルダーとして知られます。
ポルトガルの有名人14:クリスティアーノ・ロナウド
クリスティアーノ・ロナウド、全名クリスティアーノ・ロナウド・ドス・サントス・アヴェイロ(1985年〜)は、おそらくサッカー界で最も有名な選手であり、世界的に最も有名なポルトガル人の1人。
ポルトガルのマデイラ諸島で生まれ育ったロナウドのプロサッカー選手としてのキャリアは、ポルトガルの首都リスボンにあるスポルティングCPから始まりました。
その後、2003年から2009年までマンチェスター・ユナイテッドFC、2009年から2018年までレアル・マドリード、2018年からはユヴェントスFCに在籍し、欧州三大リーグで優勝した史上最初の選手となり、また、FIFA最優秀選手賞を何度も受賞するなど、数々の栄誉を手中に納めてきました。
さらに、ポルトガル代表としても活躍しており、ポルトガル代表の歴代最多得点記録も保持しています。
ポルトガルの有名人15:サルヴァドール・ソブラル
サルヴァドール・ソブラル(1989年〜)は、ポルトガル出身の歌手であり、2017年度に開催されたヨーロッパの歌の祭典「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」へポルトガルを代表して出場。
その大会で優勝したことで世界的に有名になり、また、国際的な名誉を手に入れました。
さらに、ただの優勝ではなく、獲得した得点はそれまでの史上最高点となり、彼の実力の高さが証明されることとなりました。
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ポルトガルの有名人|エンリケ航海王子からサルヴァドール・ソブラルまでのまとめ
ポルトガル出身の有名人を15名紹介してきました。
ポルトガルは非常に豊かな歴史と文化を抱える国です。そんなポルトガルに興味を持ったなら、合わせて有名な人々についても抑えておきましょう。