女性数学者15名|有名で歴史に名前を残す天才女性達

女性数学者を15名紹介していきます。男性に比べると少ないですが、それでも歴史の中では多くの女性数学者が多大な功績を残してきました。

数学の世界では一般的に、これまで女性よりも男性数学者達の方が多く活躍してきました。

これは決して男性に対して女性が数学の能力に恵まれていないからではなく、歴史の中で社会が数学における女性の活躍を受け入れてこなかったことに大きく起因すると言えるでしょう。

しかし、そんな環境であっても、類稀なる圧倒的な才能を持った女性が数学者として活躍することは、誰も止めることが出来ませんでした。

結果として、男性に比べれば数は少ないものの、歴史上には数々の女性数学者が現れ、数学の発展や人類社会の発展へ貢献してきました。

この記事では、歴史上に現れた女性数学者の名かから、有名な15名をピックアップして紹介していきます。

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女性数学者1:ヒュパティア(350年から370年頃~415年)

ヒュパティア(350年から370年頃~415年)は、天文学、哲学、数学において優れた歴史的な女性数学者。

また、東ローマ時代のエジプトの古代都市アレクサンドリアにおける、最初で最後の女性の思想家としても活躍しました。

アレクサンドリアのヒュパティアとして知られる彼女は、数学者テオン・アレクサンドリカスの娘であり、父親の後に続くかたちでアテネで教育を受けた後、数学者および哲学者になりました。

また、400年頃にヒュパティアは、アレクサンドリアの新プラトン主義哲学校の校長となり、そこでプラトンやアリストテレスについて講義を行ったことでも知られます。

ヒュパティアは多くの研究を行いましたが、その中で最も重要だったのはディオファントス著の「算術」とペルガのアポロニウス著の「円錐曲線論」の注釈を書いたことで、さらに、初期の液体比重計について詳細な記述を残していたことでも有名です。

女性数学者2:エミリー・デュ・シャトレ(1706~1749年)

フランスの数学者であり物理学者、そして著述家として知られるエミリー・デュ・シャトレ(1706〜1749年)は、ヨーロッパの啓蒙時代に活躍した女性。

当時、女性に高等教育を受ける余裕は与えられませんでしたが、エミリー・デュ・シャトレは幸運にも質の高い教育を受けることができ、1740年には哲学と科学に関する本「物理学教程」を出版しています。

彼女の最も偉大な功績とされるのは、アイザック・ニュートンのプリンキピア・マテマティカ(『自然哲学の数学的諸原理』)を翻訳して注釈を付けたことで、この翻訳本は、エミリー・デュ・シャトレの死後10年を経過した1759年に出版され、現在でも権威あるフランス語訳とされています。

またエミリーの注釈には、ニュートン力学に関する高度な内容の考察も含まれていました。

女性数学者3:マリア・ガエターナ・アニェージ(1718~1799年)

マリア・ガエターナ・アニェージ(1718~1799年)は、イタリアの数学者であり哲学者、また、神学者や人道主義者という一面も持ち合わせた歴史に名を残す女性。

歴史上で女性として初めて数学の大学教授に任命され、また、女性として初めて数学の教科書を著した人物です。

アニェージは、微分積分について概説する最初の本を著し、さらにはアニェージの曲線という方程式を考案し、ヒュパティア以来、初めて登場した重要な女性数学者であったと言われます。

女性数学者4:ソフィ・ジェルマン(1776~1831年)

フランスの数学者、物理学者、哲学者として知られるソフィ・ジェルマン(1776~1831年)は、弾性理論についての論文を書き、1816年に女性として初めてパリ科学アカデミーで大賞を受賞した歴史的な女性数学者。

当時の社会では女性が高度な教育を受ける風潮にはなかったのにも関わらず、ジェルマンは両親の反対に屈することなく父親が所有する書物を読んで勉強し、著名な数学者と文通をすることで、教育の機会を追求していきました。

その結果、上述した大賞を受賞したのです。

また、未婚の女性として初めて、パリ科学アカデミーとフランス学士院の集会に参加した人物になったと同時に、フェルマーの最終定理の証明にも大いに貢献しました。

ただし、女性であったがゆえにジェルマンは、数学者というキャリアを生涯の仕事とすることは叶いませんでした。

女性数学者5:エイダ・ラブレス(1815〜1852年)

イギリス貴族の女性として育ち、生涯において数学を愛好したエイダ・ラブレス(1815〜1852年)は、数学者としてのキャリアを持っていたわけではありませんが、実質的には優れた数学者として功績を残した人物。

チャールズ・バベッジの解析機関に関する記録を翻訳し、ベルヌーイ数の計算方法の注釈を執筆しました。

ベルヌーイ数の計算方法は世界初のコンピュータープログラムだと言われていて、そのためにエイダ・ラブレスは、世界初のコンピュータープログラマーと考えられることもあります。

女性数学者6:メアリー・エベレスト・ブール(1832~1916年)

メアリー・エベレスト・ブール(1832~1916年)は、独学で学んで数学者となったことで知られる女性であり、重要な数学教本の著者としても有名。

また、ブールは教育に関して驚くほど進歩的な考えの持ち主であり、遊びのなかに数学教育の要素を取り入れて子供たちに数学を教えました。

ブールの著書の1つには、寓話や歴史を用いるなどの興味深い方法で子供たちに代数学と論理学を説明しているものもあります。

また、ブールは、生徒たちが生徒同士で教え合い、新たな考えや方法を発展させることができる環境下では、互いに発見を共有できることから、協同学習を重要な学習法と考えていたことでも知られます。

女性数学者7:ソフィア・コワレフスカヤ(1850~1891年)

ソフィア・コワレフスカヤ(1850〜1891年)は、ロシアにおける最初の有名な女性数学者。

解析学、偏微分方程式、力学の分野に偉大な貢献をし、また、ストックホルム大学においてヨーロッパで女性初の正教授に就任したことは、彼女の最も偉大な功績とされています。

1875年にコーシー=コワレフスカヤの定理を証明したり、コワレフスカヤのコマを発見したりして、数学と数理物理学に基づく10つの論文を執筆し、女性初となる科学誌の編集者の一人ともなりました。

女性数学者8:エミー・ネーター(1882~1935年)

ユダヤ系ドイツ人数学者のエミー・ネーター(1882~1935年)は、抽象代数学と理論物理学への偉大な貢献で知られる女性。

当時の一流の数学者の一人として、保存則と対称性の関係を明らかにするネーターの定理を証明し、抽象代数学の基本を変えたネーター環を提唱したことで有名です。

その他にも、非可換環論や多元数、可換環に基づいた理論を展開し、また、物理学の分野でネーターの定理は、対称性と保存則との関係を説明しています。

その数学への貢献から、エミー・ネーターはアッケルマン・トイブナー記念賞を受賞し、男性数学者の中にはネーターのことを、数学の歴史において最も重要な女性と称する人々もいます。

女性数学者9:エウフェミア・ヘインズ(1890~1980年)

エウフェミア・ヘインズ(1890~1980年)は、アフリカ系アメリア人女性で第一号となる数学の博士号を取得した人物。

1943年、アメリカ・カトリック大学から博士号を授与されました。

またその後は、地元ワシントンD.C.の教育制度に偉大な貢献をし、公立学校で47年間教鞭をとり、ワシントンD.C.教育委員会の女性初となる委員長を務めました。

若いアフリカ系アメリカ人女性を主な対象として教師養成のために設立された、マイナーティーチャーズカレッジの数学の教授として、数学およびビジネス教育の学部を設立し、学部長を務めたことでも知られます。

女性数学者10:メアリー・カートライト(1900~1998年)

メアリー・カートライトは、女性として初めてイングランドの王立協会のフェローに選ばれ、ロンドン数学会のド・モルガン・メダルと王立協会のシルヴェスター・メダルを受賞した女性数学者。

カートライトは1923年、オックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジで数学を修め、首席で卒業。

首席で卒業したのは女性として初めてでした。

その後の1928年には博士号取得のため、オックスフォード大学に戻り、整関数の零点に関する博士論文を執筆しました。

そして1945年にカートライトは、円周率の無理性の証明に関して、シャルル・エルミートの初等的証明を単純化することに成功し、1947年に女性数学者として初めて王立協会フェローに選出されたのです。

メアリー・カートライトは、等位線や単位円板の関数、位相幾何学、常微分方程式などについて100以上の論文を執筆したことでも知られます。

女性数学者11:マジョリー・リー・ブラウン(1914~1979年)

著名な数学者であり教育者のマジョリー・リー・ブラウン(1914~1979年)は、当時、アフリカ系アメリカ人女性で数学の博士号を授与された数少ない数学者の一人でした。

当時、アフリカ系アメリカ人学生に門戸を開く数少ないプログラムを有したミシガン大学大学院で、数学の研究をしていたマジョリー・リー・ブラウンは、歴史的に黒人向けの大学であったテキサス州マーシャルのウィレイ大学にてフルタイムで働く傍ら、夏の間のみ講義へ出席して卒業したのです。

そして最終的に彼女は、ノースカロライナカレッジ(現在のノースカロライナ・セントラル大学:NCCU)で数学科の学科長となりました。

また、ブラウンは早い段階でコンピュータサイエンスの重要性に気づき、1960年にはIBMへ助成金6万ドルを投資しNCCUにコンピュータを導入。

これは、学術用コンピューティングとしては最初のコンピュータであり、黒人向けの大学においても初めてのことだったのです。

ブラウンはとりわけ、マイノリティーや女性のための数学教育促進に尽力したことでも知られます。

女性数学者12:キャサリン・ジョンソン(1918~2020)

アメリカの物理学者、宇宙科学者、数学者のキャサリン・ジョンソンは、NASAにデジタルコンピュータを早期に導入しアメリカの航空学と宇宙計画に貢献したことで知られる女性。

また、アフリカ系アメリカ人であったジョンソンは1938年、アフリカ系アメリカ人女性として初めてウェストバージニア大学大学院に学びました。

さらに、ジョンソンは天測航行の正確なコンピュータ化の功績で知られ、マーキュリー計画および1969年のアポロ11号の月への飛行の軌道を計算し、両計画における重要人物の一人でした。

そのため、宇宙局は「NASAの科学者として働いた最初のアフリカ系アメリカ人女性の一人としての歴史的役割」と、彼女について言及しています。

2015年11月24日にはバラク・オバマ大統領が、STEM教育においてアフリカ系アメリカ人女性として先駆的な役割を果たしたと、彼女に大統領自由勲章を授与しています。

女性数学者13:ジュリア・ロビンソン(1919〜1985年)

(出典:wikipedia

ジュリア・ロビンソンは、アメリカの女性数学者で、白血病を発症し短命であったにも関わらず、女性として初めて米国科学アカデミーの数学部門の会員に選ばれ、アメリカ数学会の会長を務めました。

ディオファントス方程式および決定可能性についてのものは彼女の功績としてよく知られます。

またロビンソンは、ヒルベルトの第10問題に貢献したことでも有名です。

女性数学者14:シャフィ・ゴールドワッサー(1958年〜)

シャフィ・ゴールドワッサーは、アメリカ生まれの女性数学者で、イスラエルのワイツマン科学研究所とアメリカのマサチューセッツ工科大学で、数学と計算機科学の教授を務めてきました。

主な研究領域は、ゼロ知識証明と計算複雑性理論、計算数論 、暗号理論で、その理論計算機科学への貢献から、同分野で権威を持つ賞とされるゲーデル賞を2回、チューリング賞を1回受賞しています。

また、全米科学アカデミーや全米技術アカデミーの会員などにも選ばれています。

女性数学者15:マリアム・ミルザハニ(1977~2017年)

マリアム・ミルザハニはイラン出身の女性数学者で、スタンフォード大学で数学の教授を務めていたことで知られる人物です。

高校生の時にイラン人女性として初めて国際数学オリンピックで金メダルを獲得。

また2014年には、曲面の対称性の理解に関する研究で、女性としてもイラン人としても史上初めて数学の分野で最も名誉あるフィールズ賞を受賞しました。

しかし、2013年に見つかった乳がんが悪化して脊髄にまで転移してしまった結果、40歳の若さで亡くなってしまいました。

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女性数学者15名|有名で歴史に名前を残す天才女性達のまとめ

数学に大きく貢献した、有名で歴史的な女性数学者を15名紹介してきました。

男性の数学者達に比べると、そこまで知られてはいませんが、彼女達の功績なくして現在の数学の発展はなかったとさえ言えるかもしれません。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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