日系ブラジル人とはどういった人々なのでしょうか?差別を耐え抜いてモデルマイノリティにまでになった彼らの歴史やアイデンティティなどを深掘りしていきましょう。
「日系ブラジル人2世」や「日系ブラジル人3世」という言葉を耳にしたことがあるでしょう。
彼ら日系ブラジル人は、ブラジル国内において大規模なコミュニティを持ち、 「手本や見本となる少数派」という意味のモデルマイノリティとして同国では認知されています。
しかし、歴史の中では多くの差別や苦難があり、それらを乗り越えて、ブラジルで肯定的に受け入れるまでに至ったのです。
一方で、日本にやってきた日系ブラジル人は日本人のルーツを持ちながらも、日本社会から阻害され、様々な困難を抱えています。
この記事では、日系ブラジル人の概要、ブラジルにおける彼らの歴史、日本における日系ブラジル人の環境、そして日系ブラジル人のアイデンティティの4つの項目へ大きく分け、日系ブラジル人に対する理解を深めていきたいと思います。
日系ブラジル人とは?
日系ブラジル人とは一般的に、その祖先に日本人のルーツを持つブラジル人のこと。
ただし、日本国籍を持っていたものの、ブラジルへ帰化し、ブラジル国籍を取得したことでブラジル人となった者も、広義には日系ブラジル人に含まれます。
同じ日系ブラジル人と言っても、両親の両方が日本人にルーツを持つ人もいれば、片親だけがルーツを持つ人、さらに、世代を重ねたことで、外見的にも文化的にもほとんど日本人との共通点が失われてしまっている人など様々です。
特に、近年は日系同士ではなく、およそ50%の日系ブラジル人は日本にルーツを持たない人と結婚するなど、他の民族的背景を持った人との結婚が増えた結果、若い日系ブラジル人の世代では、日本人や日本とほとんど関係を持たない人たちも増えています。
いずれにせよ、
- 両親の一方もしくは両方が日本人にルーツを持つブラジル人
- 日本国籍を持っていたがブラジルへ帰化してブラジル人となった人
のどちらかに該当する人は、日系ブラジル人と呼ばれます。
そして、ブラジルは日本国外における最大の日本人コミュニティを有し、日系ブラジル人に該当する人々はおよそ160万人に上るとされ、ブラジルの人口全体の1%弱を占めています。
ブラジルにおける日系ブラジル人の歴史
ブラジルへ多くの日本人が移民として渡った
19世紀末の日本は人口過多でした。
一方で、ブラジルは人口不足で、とりわけ広大なコーヒープランテーション(コーヒー農園)で必要な大量の労働力が不足していました。
このような背景もあったことで最終的に、ブラジルが日本以外の国で世界最大の日系人口を抱える国へと変わる「日伯交流」が生まれたのです。
日本からブラジルへの移民開始
(出典:wikipedia)
日本からブラジルへの移民の第一波は1908年6月18日、781名を乗せた笠戸丸がサントス港に入港し、ブラジルへ到着したことで達成されました。
当初、ほとんどの移民が、一山当てていつの日か故郷の日本に錦を飾る夢を抱き、最初の数年はブラジルで暮らして一生懸命に働くつもりだったと言いますが、実際に日本へ帰国した移民はほとんどいませんでした。
その後、ブラジルへの移住は1920年代から1930年代に急増し、1930年代半ばには、ブラジルに50万人以上の日本人が移住しました。
存在感が増すにつれて冷遇されていった日系人達
コーヒープランテーションの労働者はその後、自作農となり、日本人移民同士でお金を出し合って農地を取得し、「植民地」として知られる日系移民の少数集団を形成。
主にサンパウロ州やパラナ州周辺に離散しました。
(出典:wikipedia)
そして、ほとんどの日系人達は、日本の習慣に沿った社会生活を送り、ブラジル人との接触はほとんど行わないようになっていきます。
しかし、ブラジルにおける日系人の存在感が目に見えるかたちで増していくにつれ、ブラジル国民と政治家の間で反日感情が高まり、日系人の民族集団をブラジル国民のアイデンティティにそぐわない「黄禍(おうか)※黄色人種は脅威であるという差別」であるとして、日系人達は拒絶されていくようになるのです。
日系人にとって苦難の時期となった第二次世界大戦と終戦後
第二次世界大戦中と終戦後の数年間は、日系移民コミュニティにとって苦難の時期でした。
日系ブラジル人を含む日本人は、日本に対して愛国主義的に献身。この時代の愛国主義の主な象徴は天皇陛下でした。
それと同時に、ブラジルも1930年代から、ジェトゥリオ・ヴァルガスの独裁政治による愛国的な権威主義体制下にありました。
日本とブラジルの両国のナショナリズムの狭間で、第二次世界大戦中、(日本人の子孫である)日系移民コミュニティは制約に苦しみました。
1934年、ブラジル政府はナショナリズムを扇動する目的で、強制的な同化プログラムを策定。
教育はブラジル国内で統一され、1937年には外国語による指導が厳しく禁止されました。
日系人は日本人学校の運営を許可されず、日系人の子供たちは日本語を学習することが禁止されたのです。
1940年には外国語による出版物や新聞が禁止され、その2年後、ブラジルは日本との国交を断絶。
第二次世界大戦中にブラジルと日本は敵国関係となり、ブラジルにおいて日系移民はその矢面に立たされました。
終戦後には日系ブラジル人コミュニティの中で亀裂が生じた
終戦後、ポルトガル語のマスコミ報道を理解できない多くの日系ブラジル人は、日本の敗戦を信じられませんでした。
日系ブラジル人がそれまで受けてきた教育やその世界観は、「日本は無敵で優れている」という思想が中心になったものだったからです。
こうした出来事は、
- 日本の勝利を信じて疑わない日系ブラジル人(勝ち組)
- 日本の敗戦を事実として受け入れた日系ブラジル人(負け組)
という分裂を生み、同じ日系ブラジル人同士のコミュニティで、トラウマとなる対立を惹き起こしました。
思想の違いも1つの要因であったかと思いますが、より根源的にはおそらく、日系ブラジル人コミュニティで生じた階級区分が、この対立の根本的要因となったのでしょう。
結果、同じ日系人であったとしても、対立するコミュニティに対して、殺人やテロ行為に及ぶ者さえ現れ、日本が無敵であるという理想論に異議を唱えた負け組派の人々を、熱狂的な勝ち組派が暗殺する事件などが発生しました。
苦難にも関わらずブラジルへ残ることを決めた日系ブラジル人達
しかし、こうした分裂が生じていたにもかかわらず、日系ブラジル人はブラジルに留まることを選び、ブラジルは日系ブラジル人にとって第二の祖国となっていきました。
日系ブラジル人にとってブラジル永住は、生き抜いていくための運命であるように思えたのです。
1940年代の10年間までは、日系ブラジル人の10人に9人が地方の田舎のコミュニティで生活していましたが、長年の勤労が実り、こうした日系移民の社会的地位が向上し始めた結果、1950年代後半までには、日系ブラジル人の2人に1人がブラジルの都市部で生活するようになっていました。
日系ブラジル人2世はさらにブラジルへ溶け込んでいった
そして、ブラジルへ移民としてやってきた日本人の下に生まれたブラジル生まれの日系ブラジル人二世は、ブラジルの生活に更に溶け込んでいきました。
二世の人々は自らを転換期にある人々と認識していたようです。
(日本人街「リベルダーデ」)
1960年代には日系人達は中流階級の仲間入りを果たし、サンパウロ市内の日本人街「リベルダーデ」など、日系移民が集中する都市中心部に、日系人の経済的、文化的、宗教的な拠点を設立し始めます。
そして、産業や商業活動に従事するようになると、日系ブラジル人家族は子どもたちの教育へ投資し始めました。
ただし、終戦後の最初の十年間、戦前からブラジルに住んでいた日系一世と日系二世の少数派は、日本の伝統に執着心を持ち続け、日本人としてのアイデンティティを保持しようと努力した一方で、多数派はアイデンティティクライシス(自己喪失)に陥り、その後数十年にわたって悩み続けることになったことも事実です。
教育や経済面で成功を収めていくようになった日系ブラジル人
日系ブラジル人はブラジルにおいて、教育や社会経済面で大きな成功を収めていきました。
長く険しい道のりを経て、日本人移民労働者の立場から肯定的な意味合いのマイノリティ(少数派)へと変貌を遂げたのです。
1969年には日系ブラジル人であったファビオ・ヤスダ(安田良治)が国務大臣に就任し、ブラジル政府が日本文化や日系移民の永住を促進する政策を採ったことは、日系ブラジル人にとって決定的な出来事でした。
(ファビオ・ヤスダ)
さらに、日本のブラジルに対する心情的援助(ソフトパワー)にも促進されて、日系ブラジル人と他のブラジル人との間には「民族的アイデンティティの境界線」が建設的なかたちで定められ、これが日系ブラジル人のモデルマイノリティ(手本や見本となる少数派)としてのイメージを決定づけました。
混血が進み多様化していく日系ブラジル人
長い年月を経て日系ブラジル人は多様化し、混血も進みました。
例えば田舎には、
- 日系三世あるいは日系四世が、今なお、日本人のルーツを持たない人々を指して「ガイジン」という言葉を用いる
- 多くが結婚相手に日系人を望んだりする
という日系人コミュニティがある一方で、対照的に、他の多くの日系ブラジル人は、
- 他のブラジル人と日系人との混血(ブラジル人とのハーフまたはハーフよりもブラジル人の血筋が濃い)
- メスティコス(混血)と呼ばれている
といった具合です。
実際、見た目からは日本人の祖先を持つことが識別できないような外見を持ち、日本風の苗字からようやく日系人と分かる人もいます。
また、日系人の若者世代の多くは日本語が話せず、日本や日本文化に対する執着がほとんどありません。
(日系ブラジル人女性と黒人系ブラジル人男性のカップル)
しかし、祖先が日本人でないのに、ある一定の「日本人らしさ」を主張する新しい人々の集団も存在します。
こうした人々は一般に、日本の武術や宗教に関わっていたり、Jポップの熱狂的なファンだったり、その他の日本に関連した活動に携わっている人々です。
これら熱狂的な親日派の日系ブラジル人達は、ある一定期間、日本へ渡って生活し、日本語や日本関連の習慣や文化の背景にある思想を学ぶことにより、「自分は何者であるか?」を考え、結果的に、熱狂的な親日派となっていくようです。
様々な分野でブラジルに貢献している日系ブラジル人
現在まで日系ブラジル人は、さまざまな分野や領域でブラジルに貢献してきました。
例えば農業では、日本から持ち込まれた野菜や果物の生産量を増加させ、ブラジルでの栽培に適応させました。
また、日系ブラジル人は柔道や合気道など日本の武術をブラジルに紹介し、ブラジル人の間で極めて高い人気を博しました。
仏教や新興宗教集団などの日本の宗教もまた、多くのブラジル人を惹きつけています。
このような結果、日系かどうかに関係なく、ブラジル人の多くは日本食や日本の芸術を好む傾向にあります。
日本における日系ブラジル人
注目されがちな一部の日系ブラジル人の成功とは裏腹に、多くの日系ブラジル人はまた、ブラジルの不安定な経済や政治に苦しめられてきました。
1990年代にはブラジルは経済危機に陥り、一方で日本では単純労働者や肉体労働者が不足。
この結果、日本政府は、一世、二世、三世の日系ブラジル人に対して、特にニーズの高かった産業分野における業種で、日本で合法的に働くことを許可する「逆移住」を促進し、相当数の日系ブラジル人が日本へやってきたのです。
こうした逆移民は、祖先がかつてそう呼ばれたように、今回は逆の意味で「出稼ぎ労働者」と呼ばれました。
日本社会で外部とはあまり関わりを持てない日系ブラジル人達
日本に住む日系ブラジル人は、日系ブラジル人コミュニティを作り、外部からは「ブラジル人」と認識される傾向にあり、こうした日系ブラジル人の多くは、自分たちのコミュニティの外側にある日本社会と関わり合いを持たずに生活し、ブラジルの製品やメディアを消費して生活しています。
そして、ほとんどの日系ブラジル人には政治的な権利がなく、二流市民の扱いを受け、日本人は誰もやりたがらないような単純労働に従事しているなど、ブラジルでは肯定的な意味合いでのマイノリティとみなされている日系ブラジル人が、日本では実質的に日本人より低い地位にあります。
また、多くの日系ブラジル人には、職場を除いて日本人とほとんど接触の機会がありませんが、日系ブラジル人の子供たちの多くは他のクラスメートの多くが日本人という状況で育っています。
しかし、日系ブラジル人の子供たちは、言葉の壁や日本の学校制度のなかでいじめに遭うなどの困難から、学校での成績は芳しくなく、10代のうちから工場で働き始める若者も多くいます。
こうした意味で、日本で幼少期のほとんどを過ごした日系ブラジル人の子供達の多くは、日本でもブラジルでも将来に希望を見出せず、永続的に日本で二流市民としての地位に甘んじなければならない失われた世代と言われることもあるのです。
このように、日本でマイノリティとしての日系ブラジル人アイデンティティが芽生えたことは、転換期にある日系ブラジル人コミュニティの多様化を表していると言えるでしょう。
循環移住を繰り返す日系ブラジル人
日本在住の日系ブラジル人の数はピーク時、30万人以上であったと推定されています。
その後、2008年に日本が経済不況に陥った時期、日系ブラジル人労働者は一時解雇され、2011年以降、東日本大震災、津波、福島原発事故により日本が甚大な被害を受けると、日系ブラジル人の数はおよそ10万人にまで減少しました。
しかし現在、ブラジルは再び経済悪化を経験することとなり、日本に住む日系ブラジル人の数は20万人前後まで増加していると推定されています。
このように、ルーツを持つ複数の国を行ったり来たりして生活する動きは循環移住とも呼べるもので、多くの循環移民は、日本とブラジルとの間において、両国の社会経済的状況の変動に影響され、流れに飲み込まれてしまっています。
ただし、日本側では少しずつ日系ブラジル人の生活環境改善の兆しが現れてきているのも確かで、日本における日系ブラジル人採用制度の見直し、日系ブラジル人コミュニティや日系ブラジル人向け施設の変化などが起こっています。
日系ブラジル人のアイデンティティとは一体?
日系ブラジル人のアイデンティティは、日本とブラジルそれぞれの多数派社会と、両国間で折り合いをつけながら形成されてきたと言えるでしょう。
具体的には、次のような具合です。
- ブラジルでは
- 日系ブラジル人の多くは、文化や言語の点ではブラジルネイティブであっても、ブラジル人として認識される「人種的な」特徴を持ち合わせていないため、日本人であると認識されてる傾向にある(ただし、外見的にもほとんど日本人のルーツが分からない人はそうでないことも多い)
- 家族生活や多くの日系ブラジル人団体で、仏教儀式や典型的な日本の祭り、伝統が推進されているため、多くの日系ブラジル人にとって、日本文化はまったく異質なものというわけではない
- 日本では
- 日系ブラジル人は、血筋や人種に価値を置く、日本の伝統に基づいた日本人のアイデンティティに理論的には適合するものの、文化的、言語的な競争力の欠如により、日本人との接触が困難になり、孤立を余儀なくされている
- 日系ブラジル人は、サンバやカーニバル、人気の高い祭りなどでブラジルを象徴する存在となっており、ブラジルの肯定的な側面を強調して日本人との違いが際立つ傾向にある
このように、多くの日系ブラジル人の行動は、その国の多数派社会が期待する文脈に沿っていると言えるでしょう。
ブラジルの「日本人」、日本の「ブラジル人」というレッテルに強く影響を受け、環境によって柔軟に変化する二面性が、日系ブラジル人の特徴的なアイデンティティなのだと思います。
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日系ブラジル人とは?歴史の中で差別を耐え抜いたモデルマイノリティまとめ
日系ブラジル人について複数の異なる視点から見てきました。
ブラジルでは肯定的に受け入れられているマイノリティとして活躍する日系ブラジル人達は、日本においては不遇な扱いを受けることが多く、日本でも問題として話題に挙がることがあります。
一方で、この日系ブラジル人の問題は、日本が古くから抱える多くのマイノリティ関連問題を浮き彫りにしたと言え、日本政府や市民社会に対応策の代替案を模索するよう働きかけています。