クルド人とはどういった人たちなのでしょうか?彼らについて理解するためにも、迫害問題を引き起こす原因となった歴史的背景や、トルコやイランにおけるクルド人の状況を見ていきたいと思います。
トルコやイラク、そしてイランやシリアの一部をまたがるようにして暮らすクルド人達。
国際情勢や中東地域に関するニュースなどを見ていると、彼らクルド人に関して耳にすることが良くあります。
では、このクルド人とは一体、どのような人たちなのでしょうか?
なぜ、迫害問題が起こっているのでしょうか?
この記事では、クルド人について理解を深めるために、クルド人に関する基本的な知識から、迫害問題つながった歴史的背景、そして、比較的大きなクルド人人口を抱えるトルコ、イラン、イラクにおける彼らの状況について見ていきたいと思います。
クルド人とは?
クルド人は、トルコのアナトリア半島東部にあるトロス山脈やイラン西部にあるザグロス山脈、また、イラク北部、シリア、アルメニアなどの一部地域や周辺地域に居住して同一言語を持つ、イラン系の山岳民族グループ。
その人口の大半はイラン、イラク、トルコが隣接する地域に居住しています。
クルド人達が主に住むとされる、大まかに区分された上記の地域一帯は一般に「クルディスタン」と呼ばれることがあります。
ただし、このクルディスタンについては、使う側の人間によって例えば、
- イラン人がクルディスタンと言う場合
- → イラン北西部にあるコルディスターン州
- イラク人がクルディスタンと言う場合
- → イラク国内のクルド人自治区
といったように、定義が異なってくることがあります。
クルド人達の言語と人口
クルド人の言語「クルド語」は、ペルシア語やパシュトー語(パシュトーン人が話す言葉)と同じ、西イラン語群に属する言語で、多くのクルド人によって使われます。
一方で、クルド人はクルド語以外に現地の言葉(例:トルコ語やアルメニア語など)も話すことがほとんどです。
そして、国境をまたいで住み、また調査基準も異なるといった理由から、統計によってその推定人口規模は大きく変わってくるため、クルディスタン以外の国に住むクルド人のディアスポラ(離散民)達も加えると、その人口規模はおよそ2500万〜4500万人と範囲がとても広く、正確な数字と言うのは良く分かっていません。
ちなみに、人口規模が大きいクルド人グループのトップ5を挙げると、以下の通りです。
- トルコ:1430〜2000万
- イラン:820〜1200万
- イラク:560〜850万
- シリア:200〜360万
- その他ディアスポラ:200万
- ドイツの約80万が筆頭
クルド人の伝統的な生活様式
クルド人の伝統的な生活様式は遊牧。
メソポタミア平原、そして、トルコやイランの山岳地帯各地を、ヒツジやヤギを連れて移動する生活を基本としており、必要に応じて最低限の農業を営んでいました。
しかし、この移動を伴う遊牧生活は、第一次世界大戦(1914年~1918年)後に国境が設定されたことによって、困難になってしまいます。
その結果、多くのクルド人は伝統的な遊牧生活をやめ、村に定住して農業を営んだり、それまでの彼らの生活には無かった仕事に就く道を選ばざるを得なくなりました。
クルド人の歴史
先史時代のクルド人に関してはほとんど知られていませんが、クルド人の祖先は数千年もの間、現在と同じ山岳地帯を中心に暮らしていたと考えられています。
また、メソポタミアにおける初期の帝国についての記録には、「クルド」に似た名前の山岳民族に関する記述が多数存在します。
さらに、古代ギリシアの歴史家クセノフォン(Xenophon)の著作「アナバシス」に記される、
- 紀元前401年、現在のイラクのザーホー近郊で1万人の敵と戦った「カルドゥチョイ族」
とは、クルド人のことではないかと考えられています。
ただし、メソポタミアの記録にしろ、アナバシスに記された記録にしろ、それが実際にクルド人を指しているかどうかについて確実なことは分かっていません。。
「クルド人」という名称が使われ始めたのは7世紀頃から
「クルド人」という名称が使われ始めたのは7世紀頃。
この地域にイスラム教が入り込み、彼らの多くがイスラム教へ改宗した頃のことです。
そのため、現在でもクルド人の大半はイスラム教徒であり、中でもイスラム教の最大宗派であるスンニ派に属する人が多数を占めています(但し、他の宗派や他の宗教を信仰する者も存在する)。
また、クルド人は軍人としての戦闘能力が高かったこともあり、歴史の中で多くの国の軍隊から傭兵として必要とされてきました。
例えば、十字軍との戦いで功績をあげたことで西欧諸国においても名が知られているサラディン(1137または1138〜1193年)はクルド人であり、彼らの戦闘能力の高さを象徴する存在です。
(サラディン)
一方で、クルド人はクルド人が住む地域「クルディスタン」に長期間に渡って居住してきたにも関われず、それまでに国家を持つことはありませんでした。
そして、「クルディスタン」は、西アジアから北アフリカまでの地域を支配して台頭してきたオスマン帝国(1299年〜1922年)によって、領土の一部として組み込まれることになったのです。
第一次世界大戦後に「各国」へ分断されたクルド人コミュニティ
第一次世界大戦でオスマン帝国が破れると、オスマン帝国が所有していた領土は、戦勝国側によって恣意的な国境線が描かれて異なる国に分断されてしまいます。
これは、結果的に生まれた、複数の国にまたがるように位置するクルディスタンに住むクルド人コミュニティも、同時に分断されることを意味していました。
それ以降、一時はクルディスタン王国(1922年〜1924年)が作られたり、政治的な理由からソ連によってクルディスタン共和国(1946年〜1946年)が樹立したりしましたが、クルド人達は、自らが多数派となる国を持てず、また、コミュニティは分断されたままとなってしまったのです。
クルド人が持つ独立の夢
この状況は各国にあるクルド人コミュニティの中から起こった、「分離独立」を求める運動や活動につながり、現在まで続いています。
ちなみに、この分離独立の裏にあるクルド人の民族主義またはナショナリズムの高まりは、他の要因も影響していると考えられます。
その要因とは例えば、
- 西洋による私有地の概念の流入
- 中東や湾岸地域における利権争い
などで、これが、都市圏に居住する少数でありながら影響力を持つクルド人の知識人を刺激し、民族主義運動の拡大が促進されたと言えるのです。
しかし、国を持たずにコミュニティが分断され、異なる国の文化や社会に住む状況が1世紀近く続いてしまった結果、「クルド人」としてのアイデンティティは以前に比べて薄くなっていると言われます。
特に、より良い生活を目指して都会へ出たり、また、他の国へ移住して生活しているケースも多く、これらのことが、クルド人コミュニティの連帯感を薄めてしまっています。
トルコ・イラン・イラクで暮らすクルド人達
クルド人について、基本的なことから歴史までを見てきましたが、ここからは、クルド人口が多い、トルコ、イラン、イラクで暮らすクルド人達の状況(主に迫害状況)について焦点を当てていきたいと思います。
トルコで生活するクルド人
トルコで生活するクルド人は、トルコ政府により非情な待遇を受けてきたと言えるでしょう。
クルド人はクルド人ではなく「山間部で生活するトルコ人」であるとし、クルド語の使用を禁止。
他にも、
- (一部の地域では)クルド語はトルコ語の方言であると見なされる
- 主要都市近郊ではクルド人特有の民族衣装の着用を禁止した
など、「クルド人」としてのアイデンティティーを剥奪しようとした試みが行われてきました。
また、トルコ政府は東部地域におけるクルド人による政治的な活動を抑圧し、クルド人の西部都市への移住を奨励。
これは、高原地方に集中していたクルド人の人口を拡散させることが狙いだったと考えられます。
しかし、このような待遇が続いた結果、クルド人達は断続的に反乱を起こしてきました。
例えば、
- 1978年にはクルド労働党(PKK)が発足
- アブドゥッラー・オジャランが「クルディスタン」の独立を目的として、マルクス主義組織であるクルド労働党(PKK)を結成
- アナトリア半島東部が勢力の活動の中心となり、反政府のゲリラ活動を展開し、頻繁にテロ攻撃を行っていくこととなった
- 1980年代から1990年代の事実上の内戦状態
- PKKによる攻撃、それに対するトルコ政府による軍事制裁により、トルコ北部はこの期間、事実上の内戦状態にあった
- 1999年にオジャランが拘束され、PKKの活動も一時は下火となる
- 2004年に再びクルド人勢力によるゲリラ活動が再開される
といった出来事が起きているのです。
ちなみに、欧州連合(EU)への加盟を目指していたトルコ政府は、EUからの圧力に屈する形で、2002年、クルド語による公共放送そして教育を承認していますが、根本的な解決には至っていません。
イランで生活するクルド人
イランでは、同化政策を推し進める政府からの圧力に直面すると同時に、イスラム教スンニ派が多数を占めるクルド人達は、国の大多数を占めるシーア派によって、宗教的な迫害とも向き合う生活を強いられていると言えるでしょう。
ちなみに、第二次世界大戦直後、ソビエト連邦の支援の下でクルド人は、「クルディスタン共和国(マハバード共和国)」と呼ばれるクルド人国家を1946年1月、イラン北西部に樹立させています。
しかし、1946年4月にはソ連軍がこの地域から撤退することが決定。
実際に撤退した後、同年12月にイラン政府が政府軍を投入した結果、このクルディスタン共和国は崩壊しています。
ただし、時を同じくしてイラン・クルド民主党(KDPI)が設立され、以降は断続的にイラン政府に対する小規模の戦闘攻撃を展開されています。
イラクで生活するクルド人
一方、イラクではクルド語やクルド文化が認められ、イランに比べれば、クルド人に対する同化政策的なプレッシャーは比較的少なかったものの、政府による弾圧は最も残忍であったと言えるでしょう。
イラクでは1931年から1932年、そして1944年から1945年にかけて、クルド人系武装勢力による反乱が起きました。
事態は政府によって短期間で封じ込められましたが、クルディスタン共和国で軍を率いた「ムスタファ・バルザーニー」の指揮のもと、武装勢力による小規模な反政府活動は1960年代まで続き、1975年、クルド人達とイラク政府との和解が試みられたものの失敗に終わり、新たな戦闘が勃発ました。
一方で、1970年にはイラクの最大政党「バアス党」と、バルザーニー率いるクルディスタン民主党の間で協定が結ばれ、クルド人自治区が設置されています。
サダム・フセインの台頭によってクルド人の状況が悪化する
1979年、バアス党の党首にサダム・フセインが就いて同国の大統領になると、油田開発を推し進めるためにも、クルド人が大半を占める油田地域(キルキークなど)にイラク人を移住させ、クルド人を追い出す政策を打ち出します。
この政策は1980年代に強化され、多くのクルド人が強制的に移住を迫られることとなりました。
さらに、イラン・イラク戦争(1980〜1988年)が同時期に起こった結果、イラクとイランの国境付近では、イランを支援しているとの疑いで、クルド人の取り締まりが強化されました。
そして、同戦争の終盤、1988年3月から8月にかけて、「アンファル作戦」と呼ばれる残忍非道な事件が起こります。
クルドの反政府勢力の反乱を鎮めるため、イラク勢力は大量の化学兵器をクルドの民間人に向けて使ったのです。
例えば、最大規模の化学兵器による攻撃の一つは、3月16日、ハラブジャ近郊で起き、マスタードガスや神経ガスによって約5000人が殺害されたと推定され、アンファル作戦はジェノサイドの一つであるとさえ言われることがあるのです。
また、この結果、多くのクルド人達がイラクから逃れることとなりました。
現在のイラク・クルド人自治区
2003年にサダム・フセインの政権が倒れたことで、クルド人自治区の独立機運が高まりましたが、イラク国内のアラブ人や、クルド人問題を抱えるトルコが強行に反対し、未だに独立には至っていません。
しかし、2017年9月25日に行われた独立をめぐる住民投票では賛成派が多数となり、その結果を踏まえたクルド人自治政府は、それから2年以内の独立を目指すと発表しています。
とはいえ、
- その住民投票の結果をイラク政府は認めていない
- イラク政府はいつでも進軍出来る構えを見せている
- 周辺をイランやトルコなどに包囲されて経済封鎖も続いている
といった状況を考えると、その独立は困難を極めると予想されます。
合わせて読みたい世界雑学記事
- ロマ人(ロマ族)|ジプシーと軽蔑される人々の生活・歴史・特徴
- イラク戦争とは?原因や目的などをわかりやすく解説
- シリア内戦とは?原因・難民状況・経過|シリア騒乱と呼ばれる未曾有の紛争について
- タタール人とは?テュルク系民族が特徴で旧ソ連圏に主に居住する人々
- ソルトベイ|塩振りおじさんや塩ファサーで知られるトルコ人の話
- →こちらから国際情勢や世界の民族に関する情報をさらに確認出来ます
クルド人とは?迫害問題に繋がった歴史背景からトルコ等の状況までのまとめ
歴史的な背景から迫害問題を抱え、中東地域に関するニュースでよく耳にする「クルド人」について見てきました。
同地域の情勢において、クルド人は一つの鍵となる人々であるため、国際情勢を理解する上でも重要です。