マハトマ・ガンジーとは?インド独立運動の父の生涯と5つの事実

マハトマ・ガンジーはインド独立運動の父として知られる人物です。非暴力・不服従の思想を基にした運動を展開してインドを独立へと導きました。

インドが植民地としてイギリス帝国の支配下にあった時、一人の男性が独立のための運動を起こしました。

その男性とは「マハトマ・ガンジー」として世の中に広く知られる人物で、彼が主導した「非暴力・不服従」の思想と運動は、大きなうねりとなってイギリス支配の終焉へと繋がり、ついにインドは独立を果たしたのです。

そのため、マハトマ・ガンジーはインド独立運動の父としても知られています。

この記事では、そんなマハトマ・ガンジーについて、その生涯と知っておきたい5つの事実を紹介していきたいと思います。

まずは、マハトマ・ガンジーとはどんな人物なのか、簡単に確認することから始めていきましょう。

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マハトマ・ガンジーとは?

マハトマ・ガンジー(本名:モーハンダース・カラムチャンド・ガンジー)とは、インド独立の父として知られるインド出身の政治指導者

非暴力・不服従の思想と運動で世界的に尊敬を集め、「偉大なる魂」の意味である「マハトマ」という尊称を付けられた結果、現在は一般的に「マハトマ・ガンジー」として知られています。

マハトマ・ガンジーは1900年代初頭に、南アフリカでインド系移民の活動家として改革運動を主導。

そして、第一次世界大戦後、イギリスからの独立運動における立役者となりました。

ガンジーは禁欲的な生活スタイルを貫く敬虔なヒンドゥー教徒として知られ、着用する衣服は腰布とショールだけということもよくありました。

また、数回にわたり投獄され、数々の不当な仕打ちを受けたにも関わらず、インドの最貧困層の人々に対する抑圧に抗議するため、数多くのハンガー・ストライキを実施するなどしています。

1947年のインド・パキスタン分離独立後、ガンジーはヒンドゥー教徒とイスラム教徒の平和的関係を築くべく活動を続けましたが、1948年1月、デリーにてヒンドゥー教徒の原理主義者に銃殺されてしまいました。

インド独立運動の父「マハトマ・ガンジー」の生涯

ガンジー初期の人生

モーハンダース・カラムチャンド・ガンジーは、1869年10月2日、現在のグジャラート州(インドの北西部にある州)のポールバンダルで生まれました。

父親はポールバンダル藩王国(注)の宰相であり、母親はたいそう信仰心が篤く、自己鍛錬と非暴力を教義とする禁欲的な宗教「ジャイナ教」の影響を受けた、ヒンドゥー教のビシュヌ派(ヒンドゥー教のビシュヌ神を崇拝する宗派)の熱心な信者でした。

(出典:wikipedia

19歳になるとガンジーは家を出て、ロンドンの4つの法曹院のひとつ、インナー・テンプル法曹院にて法律を学びます。

そして1891年半ば、法曹院を卒業後にインドへ帰国したガンジーはすぐに、ボンベイで弁護士業を開始しますが、インドの弁護士活動は勝手が違ったのか上手くいかず、ほどなくしてガンジーは、あるインドの会社に職を得て、その会社の南アフリカにある事務所へ派遣されました。

その結果、これ以降20年近く、ガンジーは妻のカストゥルバと子供たちと共に、南アフリカに留まることになるのです。

(注釈)ポールバンダル藩王国とは、イギリスが植民地統治していた時代のインドにおいて、イギリスの従属下で一定の支配権を認められていた藩王の一つで、現在のグジャラート州のポールバンダル県にあった藩国。

南アフリカでの経験が非暴力・不服従運動の誕生に繋がった

南アフリカへ移ったガンジーを待っていたのは、インド系移民に対する人種差別でした。

例えばある日、南アフリカのダーバンにある法廷にガンジーが出向いた時のこと、その法廷にいたヨーロッパ人判事は、ガンジーにターバンを外すように指示

ターバンを外さないと法廷には入れないという規則や法律はないため、これを人種差別だと理解したガンジーは、その指示を拒否して法廷を去りました。

(出典:wikipedia

また別の日のこと、プレトリアへ向かう旅の途中でガンジーは、鉄道の一等車への乗車を拒否されただけでなく、荷物もろとも放り出された挙句、諦めずに一等車へ入ろうとしたところ、暴力を振るわれるという強烈な人種差別を体験します。

この鉄道の旅での体験はガンジーにとって大きな転換点となります

その後、ガンジーは権力に屈しない手段として、「非暴力・不服従」またはサティヤーグラハ(真理と主張を意味するガンジーによる造語)と呼ぶ思想を展開し、人々に広めていくようになるのです。

このことからも分かるように、ガンジーの活動家としての歩みは、インドではなく南アフリカから始まったのでした。

トランスヴァール政府に対する市民抵抗運動の主導者となったガンジー

1906年、トランスヴァール共和国(20世紀初めまでヴァール川北方、現在の南アフリカ共和国北部に存在した共和国)の政府が南アフリカ在住のインド系住民の指紋登録に関する法律を可決すると、ガンジーはその後8年間にわたり、この法律に反対する運動の主導者となって非暴力・不服従運動を続けました。

この運動の最終段階である1913年には、女性を含む何百人もの南アフリカ在住のインド系移民が投獄され、鞭打ちの刑に処され、射殺される者もいました。また、トランスヴァールの行進を企画したとして、同年にガンジーは初めての投獄を経験しています。

しかし最終的に、ガンジーが不正を追求したこと、そして、イギリス政府およびインド政府からの圧力が強まったことを受け、トランスヴァール政府は妥協案を受け入れます。

これには、インド系移民の結婚を認めることや、インド系移民に課されていた人頭税の廃止などが盛り込まれていました。

インドへ帰国したガンジー

ガンジーは南アフリカを離れ、1915年にインドへ帰国。

植民地政府に対する批判的な姿勢は変わらなかったものの、当時の世界は第一次世界大戦の最中にあり、戦後の自治承認を期待してガンジーはイギリスを支援していました。

しかし1919年、植民地政府がローラット法(破壊活動を鎮圧する緊急権限として、逮捕状を発行せずとも逮捕が可能で、裁判をせずとも投獄出来る権利をインド総督に保証した法律)を通過させたことで、ガンジーの期待は裏切られます。

(出典:wikipedia

その結果、ガンジーは対抗措置として、反英運動である非暴力・不服従運動を組織

この運動でガンジーは、

  • 仕事や商売を休業する
  • 断食と祈りによってイギリスへの抵抗を呼びかける

といった活動を呼びかけ、結果としてイギリスを大いに追い詰めていきます。

しかし、アムリットサルでの抗議集会に参加していたインド人およそ400名が、イギリス主導の兵士達に虐殺される暴力事件アムリットサル事件:1919年4月13日)が発生すると、ガンジーは身を引きます

ただし、それも一時的なもので、同年末には非協力運動(より積極的にイギリス統治拒否の態度を示す活動)の開始を宣言。

1920年までにガンジーは、インド独立運動の最も象徴的な存在となっていました

運動の指導者ガンジー

母国インドをめぐる「非暴力・不服従」運動、そして「非協力運動」の一部として、ガンジーはインドが経済的に独立することの重要性を強調。

例えば、イギリスから輸入されるテキスタイルに代わるものとして、特にカッダルとよばれる手織綿布の製造を推奨したり、自国産業の育成を進めていくために「自身もチャルカと呼ばれる手紡ぎ車を使って糸を紡いで自分の服を作る」といった行動を始めていきます。

ちなみに、この頃からガンジーは、雄弁で、祈りや断食、瞑想を主体とした禁欲的な生活スタイルは、多くの信奉者の崇敬を集め、マハトマ(偉大なる魂)と呼ばれるようになっている。

(出典:wikipedia

また、第一次世界大戦後にガンジーは、インド独立を目指すインド国民会議(コングレス党)に加わっていますが、この政党の後ろ盾もあり、ガンジーはインド独立運動を大規模に組織化し、イギリスの製造業者や、インド国内でイギリスの影響力が大きい立法機関や教育機関などに対するボイコット運動を主導していきます。

しかし、運動の波が大きくなるにしたがって暴力事件が散発した結果、ガンジーは抵抗運動の停止を一方的に宣言

多くの人々を驚かせると同時に、ガンジーの指導力も一時的に低下することとなりました。

一方で、度重なる運動のためにガンジーは度々投獄され、1922年3月にガンジーが逮捕された時には裁判にかけられ、6年間の禁固刑が科されています。

実際には1924年、虫垂炎の手術後に釈放されたものの、ガンジーはそれから数年間、積極的な政治参加はしませんでした。

しかし1930年、植民地政府による塩税がインド最貧層の人々に悪影響を及ぼしているとして、塩税に対する新たな不服従運動(塩の行進などは有名)を開始します。

ハリジャン運動

第2回英印円卓会議への参加

1931年、イギリス当局がある程度の譲歩を見せると、ガンジーは再び運動の中止を宣言し、ロンドンで開催された第2回英印円卓会議(イギリスが提唱したインドの自治に関するロンドンでの会議)にインド国民会議の代表として出席。

その際、ガンジーは統一国家としてイギリスから即時独立することを要求しますが、インドの少数派であるイスラム教徒の指導者「ムハンマド・アリー・ジンナー」や、不可触民の代表は、イギリスが提案した分離選挙の受け入れを表明します。

そのため、失意を覚えたガンジーはそのままインドへ帰国。

それからまもなく、インドで新たに誕生した植民地政府によってガンジーは逮捕されてしまいます。

不可触民の解放へ活動を始めるガンジー

一方で、イギリスによる不可触民達への分離選挙区の認可は、不可触民への差別を固定化するものと考えたガンジーは、不可触民問題へ真剣に取り組んでいくようになります。

その過程でガンジーは、不可触民達をハリジャン(神の子)と呼び、獄中でのハンガーストライキを通して、このハリジャン達に対する不当な扱いに対して抗議を開始。

このガンジーの行動は、信奉者のあいだで大きなうねりを引き起こし、ヒンドゥー教徒のコミュニティや政府改革の機運を高めた一方、イギリスからの完全自治の実現という目標から離れていくガンジーに対して、インド国民会議の一部は批判的な態度を取るようになります。

この状況もあり、ガンジーは農村コミュニティ内を廻ってハリジャンの解放を説いて回る活動に専念するため、1934年、政界からの引退を表明しました。

第二次世界大戦の勃発から終焉、そしてインドの独立まで

1939年、第二次世界大戦の勃発により、政治的な緊張状態に引き戻されたガンジーは、再びインド国民会議の指揮をとり、インドが第二次世界大戦でイギリスへ協力するのと引き換えに、イギリス軍にインドから撤退するよう要求。

これに対してイギリス軍は、党の指導部全体を投獄し、それにより、イギリスとインドの関係は史上最悪な状態へと陥ります。

しかし、1945年にイギリスは戦勝国とはなったものの、第二次世界大戦で疲弊して国力が衰退

結果的にイギリスは、地理的に遠く離れている上に独立運動が続いていたインドを、植民地として支配し続けるには十分な体力が残っていない状態でした。

インドとパキスタンの分離独立

そして1947年、イギリスで労働党が政権を握ると、イギリス、インド国民会議、ムスリム連盟の三者間で、インド本土の支配をめぐる交渉が開始。

そしてついに1947年8月15日、イギリス領インド帝国は解体され、インド連邦の独立が認められたのです。

しかし、このインド連邦の独立は、決してガンジーが思い描いたものではありませんでした。

というのも、インド連邦の独立と同時にイギリスは、インドの一部をイスラム教徒が主体のパキスタンとして分割して独立させたからです。

もちろんガンジーは、このインド・パキスタン分離独立案に強く反対しましたが、独立を達成した後、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が平和を手にすることができるという希望を持って、これに同意したのです。

その後、インド・パキスタン分離独立に続いて起こった大規模な暴動の最中、ガンジーはヒンドゥー教徒とイスラム教徒に、互いに平和的に暮らすように促し、カルカッタでの暴動が収まるまでハンガー・ストライキを続けました。

マハトマ・ガンジーの死

1948年1月、ガンジーはデリーの街に平和をもたらそうと新たに断食を行っていました。

1月30日、その断食が終わった12日後、マハトマ・ガンジーはデリーで開催された夕刻の礼拝集会に向かう途中、イスラム教徒との交渉活動に腹を立てた狂信的なヒンドゥー教徒、ナトラム・ゴドセによって射殺されてしまいます。

享年78歳でした。

その翌日の1月31日、国葬が執り行われ、ガンジーの遺体が街の通りを運ばれていく行列には、およそ1万人もの人々が参列し、遺体は聖なるヤムナ河畔で火葬されたのです。

マハトマ・ガンジーに関して知っておきたいその他5つのこと

マハトマ・ガンジーは10代で結婚した

インドは昔から、幼い子供達が結婚させられる児童婚が多い国として知られていますが、マハトマ・ガンジーも例外ではありませんでした。

(出典:wikipedia

なんと彼は13歳の時に、商人の娘で同じく10代だったカストゥルバ・マカンジと結婚

これは、両親が決めた結婚であり、実はガンジーとカストゥルバは、結婚の6年前から許嫁とされていたのです。

とはいえ、ガンジーと結婚したカストゥルバはその後、生涯の妻としてガンジーを支え続け、二人は4人の息子を授かります。

マハトマ・ガンジーは平和の人だがノーベル平和賞を受賞したことはない

マハトマ・ガンジーの生涯を見ていくと、ガンジーほど「平和」の名に相応しい人はいないとさえ言えるでしょう。

実際、ガンジーはその功績によって、1937年、1938年、1939年、1947年の4 度、ノーベル平和賞にノミネートされています。

しかし、ガンジーがこの賞を獲得することは一度もありませんでした

また、暗殺された1948年にもガンジーはノーベル平和賞にノミネートされましたが、ノーベル委員会は故人には賞を授与しないと決定。

代わりに委員会は、その年は「存命である適切な候補者がいない」として、受賞者なしと発表したのです。

その後、1964年にノーベル平和賞を受賞したアメリカの公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、受賞スピーチの中でガンジーの活動を認め、1989年のノーベル平和賞受賞者のダライ・ラマ14世は、「私の良き指導者、マハトマ・ガンジーに捧げる」と称しました。

こういった流れもあり、2006年、ノーベル委員会はガンジーに一度も賞を授与しなかったことについて、公式に後悔の念を表明しています。

ロンドンに残るガンジーの銅像

現在、ウエストミンスター宮殿を一望するパーラメントスクエアには、ガンジーの功績を称えた彼の銅像があります。

しかし皮肉なことに、イギリス帝国に闘いを挑んだガンジーの銅像は、イギリス帝国を守った偉人たちの銅像と並んで建てられているのです。

その中でもガンジーと同じ時代に活躍し、イギリスの首相でもあったウィンストン・チャーチルは、インドの独立を徹底的に阻止し、ガンジーとガンジーが支持するもの全てを忌み嫌い、

  • 「今や東洋でしか見かけない苦行僧のような恰好をして、半裸で総督庁の階段を闊歩している挑発的な人物」

と罵っていたことは良く知られています。

ガンジーは人種差別者だったのか?

20世紀への変わり目に南アフリカで生活していたガンジーの当時の様子が研究で明らかになってくると、歴史学者の間では「マハトマ・ガンジーは人種差別主義者だったのではないか」との論争が繰り広げられ始めました。

確かに、ガンジーの非暴力・不服従運動の思想はその後、アパルトヘイトに対する抵抗運動に影響を与えたかもしれません。

しかし、活動初期のガンジーには「人種間の平等を信じていなかった」と思われる節がいくつも確認されているのです。

例えば、イギリス人作家のジャド・アダムスは著書の中で、ガンジーは1896年に行ったスピーチにおいて、アフリカ黒人のことをこの上ないほど侮辱的な言葉「kaffirs」で呼んでいたと記しています。

具体的には、

Ours is one continual struggle against a degradation sought to be inflicted upon us by the Europeans, who desire to degrade us to the level of the raw kaffir,

我々の闘いは、インド人の地位低下に反対する断続的な闘いである。この地位低下はヨーロッパ人によって押し付けられようとしている。彼らは我々を下品な「kaffir(アフリカの黒人)」と同じくらい低い地位に陥れようとしているのだ。

という内容です。

BBCもまた、ガンジーの伝記作家でありガンジーの孫のラジモハン・ガンジーによる、

当時まだ若く経験も浅かったガンジーは、間違えなく何の知識もなく、南アフリカの黒人達に対して偏見を持っている時もあった

という言葉を引用しています。

ちなみに、このようなマハトマガンジーによる黒人差別が浮き彫りになってきた結果、2016年、ガーナは、公民権運動の功績を称えて設置したガンジー像を、大学構内から撤去すると発表しました。

(参照:HUFFPOST

マハトマ・ガンジーとインディラ・ガンジーは親戚ではない

インドの歴史においてもう一人ガンジーの名前で有名な人物と言えば、インド連邦の第5代、第8代首相を務めた女性政治家の「インディラ・ガンジー(1917年〜1984年)」。

マハトマ・ガンジーと同じようにインドへ大きな影響を与え、また生きていた時代も重なる部分があるため、両者は親戚か何かと思われることもありますが、この二人は親戚でも何でもありません。

インディラ・ガンジーはジャワハルラール・ネルーの娘で、ジャワハルラールは独立したインド連邦の初代首相を1947年から亡くなるまで務めた人物です。

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マハトマ・ガンジーとは?インド独立運動の父の生涯と5つの事実のまとめ

インド独立運動の父「マハトマ・ガンジー」について、その生涯などを見てきました。

ガンジーは、インド以外の国でも未だに語り継がれる歴史的人物です。

彼の功績は、インドを独立に導いただけでなく、その他の植民地や被差別グループなどへも希望を灯すこととなりました。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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