マリー・アントワネットの生涯と人生にまつわる12の話を紹介していきます。混乱期に生まれて時代に翻弄されたと言っても過言でない、オーストリア生まれのフランス王妃の話です。
「マリー・アントワネット」の名前を聞いたことがある人が多いと思います。
混乱の時代に生きたフランス王妃であり、フランス革命の中で最期はギロチンに処されて命を落としたことで、世界史の中でもよく知られる人物です。
彼女は浪費家として知られ、その贅沢な暮らしによって最終的には多くのフランス国民から反感を喰らい、悲劇的な最後を迎えることになったのです。
マリー・アントワネットはどんな人物だったのか?
彼女について知るために、その生涯と人生に関する12の話を紹介していこうと思います。
まずは、マリー・アントワネットの全体像を知るためにも、彼女についての簡単なおさらいから初めていきましょう。
- マリー・アントワネットとは?
- マリー・アントワネットの生涯と人生12の話
- マリーアントワネットの生涯と人生1:オーストリアの王女として生まれた
- マリーアントワネットの生涯と人生2:結婚した時はまだ14歳だった
- マリーアントワネットの生涯と人生3:4人の子供を産み7人の子供を養子に迎えた
- マリーアントワネットの生涯と人生4:夫婦仲は極めて良かったらしい
- マリーアントワネットの生涯と人生5:ファッションリーダーだった
- マリーアントワネットの生涯と人生6:農民ごっこをして遊び反感を買う
- マリーアントワネットの生涯と人生7:他人を気遣う性格も持ち合わせていた
- マリーアントワネットの生涯と人生8:「お菓子を食べればいいじゃない」とは言っていない
- マリーアントワネットの生涯と人生9:フランスの経済的苦境は彼女の浪費が主要因ではない
- マリーアントワネットの生涯と人生10:罪は捏造され近親相姦も含まれていた
- マリーアントワネットの生涯と人生11:死刑執行人に謝った
- マリーアントワネットの生涯と人生12:無名の墓に埋葬されて後に移動させられた
- 合わせて読みたい世界雑学記事
- マリーアントワネットの生涯・人生にまつわる12の話!最期はギロチンに処せられ時代に翻弄された王女のまとめ
マリー・アントワネットとは?
マリー・アントワネット(Marie Antoinette)、全名「マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アブスブール=ロレーヌ・ドートリシュ」とは、1755年にオーストリア大公「マリア・テレジア」の娘として生まれ、1774年に夫であるルイ16世がフランス国王に即位してからは、フランス王妃となった女性。
大多数の貧しい民衆とは対照的な並外れた豪華な生活をヴェルサイユ宮殿で続けた結果、民衆軽視と見なされ、さらに、時折政治にも介入しようとしたことから、「オーストリア女」としてフランス国民から強い反感を招きました。
さらに、1789年から始まったフランス革命時には、それに反対して王政維持のために反革命勢力を組織したり、武力干渉を各国へ要請。
その結果、反革命の中心人物として1793年に処刑され、命を落とします。
このような人生を歩んだ結果、マリー・アントワネットは美しい外見を持っていた反面、その生涯における様々な軽率な態度や浪費によって、「美しく純情で軽率な浪費家」として後世でも知られることとなったのです。
マリー・アントワネットの生涯と人生12の話
マリーアントワネットの人生は、ヨーロッパの国々における宮殿の陰謀と大混乱が渦巻く、目まぐるしく変化する時代のものでした。
時代の変化に柔軟に対応出来なかったことで、彼女自身も変革期に翻弄された被害者の一人だったのかもしれません。
ここからは、そのマリー・アントワネットの生涯に関して知っておきたい12の話を紹介していきたいと思います。
マリーアントワネットの生涯と人生1:オーストリアの王女として生まれた
人生の最期をフランスで迎えるマリー・アントワネットは、元々オーストラリアで生まれた王女でした。
1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランシス1世と、強大な力を持つハプスブルク家の女帝(女大公)マリア・テレジアの未子として、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンという名前の下、オーストリアのウィーンで誕生したのです。
(出典:wikipedia)
ちなみに、マリア・テレジアは、父カール6世が後継者問題で悩んだこともあり、自分は出来る限り多くの子供を産もうと考えていました。
その結果、マリア・テレジアは生涯の中で16人の子供を産み、その中で女性は11人。
マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)はマリアテレジアにとって、11人目の女の子だったのです。
マリーアントワネットの生涯と人生2:結婚した時はまだ14歳だった
マリア・アントーニアは、政治的な理由によって若くして結婚させられることとなります。
1754年から1763年まで続いた七年戦争以前、フランスとオーストリアは長年の因縁関係にありましたが、台頭してきたイギリスとプロイセンを共通の敵として、この戦争を境にフランスとオーストラリアは同盟を結ぶこととなりました。
そして、七年戦争の末、長年の宿敵だった両国との間に交わされた新たな同盟関係を確たるものにするため、オーストリアの君主は末娘を、次期フランスの君主となるであろうルイ=オーギュスト王太子(後のルイ16世)に差し出すこととしたのです。
つまり、マリア・アントーニアは2カ国を繋ぐ役割のいわば人質となったのです。
(出典:wikipedia)
1770年4月19日、マリアがまだ14歳だった時、ウィーンにおいてマリアの兄が花婿代理を務る形で結婚式が行われ、翌月5月16日にはヴェルサイユ宮殿において、王太子となっていた15歳のルイと正式な婚姻の儀式が行われました。
そしてこの時を境にして、マリア・アントーニアは、「マリー・アントワネット」と呼ばれるようになったのです。
マリーアントワネットの生涯と人生3:4人の子供を産み7人の子供を養子に迎えた
マリー・アントワネットとルイ=オーギュストの関係は、政治による奇妙なものでした。
会ってわずか数時間した後、まだ10代だった若い2人は花婿の祖父「ルイ15世」によって夫婦の寝室に案内されます。
2人のベッドを祝福するようにそれぞれにキスをして退室し、2人に王室の跡取り作りを任せたのです。
しかし、この取り計らいも虚しく、二人の間には結婚してから7年もの間子供が出来ませんでした。
これに関しては、当時、「王太子は痛みを伴う病気を患っていたために性交不能だった」というのがその理由だと考えられています。
(出典:wikipedia)
そして、結婚してから7年後の1778年にマリー・テレーズが生まれ、1781年に皇太子ルイ・ジョゼフ、1785年にルイ・シャルル、そして1786年にソフィが生まれることとなりました。
ただし、ソフィは1歳の誕生日を迎える前に亡くなり、(おそらく結核のため)ルイ・ジョゼフは7歳で亡くなったなど不幸が続きます。
これが理由なのか、マリー・アントワネット生涯の中で、7人の子供を養子に迎えており、その中には亡くなったメイドの娘や亡くなった門衛の3人の子供もいました。
マリーアントワネットの生涯と人生4:夫婦仲は極めて良かったらしい
マリー・アントワネットとルイ16世の結婚はあくまでも政略的なものであったにも関わらず、二人の夫婦仲は極めて良かったと言われます。
(出典:wikipedia)
そんな夫婦仲を表す一つのエピソードとして、次のようなものがあります。
ルイ16世は生涯を通じて大の狩りの愛好家でした。
そこで、愛する夫に合わせようと、マリー・アントワネットはこれまで経験したことのなかった馬術を学ぶことを決意。
しかし、世話人に万が一のことを考えると危険すぎると反対されてしまいます。
それでもマリー・アントワネットは諦めかったため、最終的には馬の代わりに「ロバ」に乗ることを許されたのです。
その後、マリー・アントワネットはロバに乗って夫と一緒に外出することもあれば、ロバを連れて森の中をトレッキングすることにのめり込み、週に3回は見物人を集めて森へのトレッキングを決行するようになったと言います。
マリーアントワネットの生涯と人生5:ファッションリーダーだった
最終的には多くのフランス国民から嫌われ、処刑によって最期を迎えてしまうマリー・アントワネットですが、フランスに来たばかりの頃の彼女は、フランス大衆の心を掴んでいたようです。
パリを訪れた時、まだ10代だったマリー・アントワネットを一目見ようと、5万人もの観衆が押し寄せた結果、大混乱となり、少なくとも30人が圧死したと言われています。
そして、その人気に合わせる形で、彼女の美貌と新進のファッションデザイナーを重宝したスタイルによってマリー・アントワネットは、一躍、フランスのファッションリーダー的存在となり、さらに、フランスを飛び越えてヨーロッパ全体でもファッションアイコン的な存在となったのです。
戦艦が乗ったヘアスタイルをしたことも!
当時の貴族女性の間では、相手が驚くようなヘアスタイルを競うことが流行していました。
もちろん御多分に洩れず、マリー・アントワネットも、どんどん奇抜なヘアスタイルにして周りの視線を集めることに精を出していたようです。
その結果、中には120cmもあった重力をものともしない髪型をしていたことがあったり、英国のフリゲート艦を沈めた記念に、フランスの戦艦ラ・ベル・ポールの巨大模型を髪に載せたこともあります。
マリーアントワネットの生涯と人生6:農民ごっこをして遊び反感を買う
マリー・アントワネットの生涯を語る時、「浪費」に関しての話から逃れることは出来ません。
その一つの例として、次のような話が残っています。
フランス中の農民達が飢えている中、マリーアントワネットはヴェルサイユ宮殿の敷地内に、池、庭園、別荘、水車、家屋が揃った当時の村落を再現した「プチ・アモー」の建設を依頼します。
そして、マリー・アントワネットと侍女達は、農民のような服装になり、田園風景の中で乳搾りをする女性や羊飼いのふりをするママゴトのようなことをして楽しんだのです。
しかし、貧しさに苦しむ農民達の気持ちを考えず、彼らの生活を真似て楽しむ遊びは常軌を逸したものでした。
このプチ・アモーなどに見られる、国民の現実を無視したマリーアントワネットの放蕩ぶりや軽率な行動は、その後フランス革命を扇動した革命家たちを中心に怒りを買っていくこととなったのです。
マリーアントワネットの生涯と人生7:他人を気遣う性格も持ち合わせていた
貧しい人々を軽蔑し、常に自らのことしか考えないエゴイストで浪費家というマリー・アントワネットに対するありふれた歴史的見解は、彼女が元々持っていた親切で寛大な性格を曇らせています。
実はマリー・アントワネット、向こう見ずでわがままな浪費家のようなイメージを持たれることが多いですが、生涯の中では、そのイメージと反する行いを度々行ってきました。
例えば、彼女は未婚の母たちのために家を建て、貧しい家庭を訪れて食料を与え、1787年の飢饉の間は、穀物を必要としている人々へ食べ物を買い与えるために宮廷内でカンパを募ったり、食器類を売ることもありました。
さらに、マリー・アントワネットが乗る馬車がワイン商人を偶然怪我させてしまった時、彼女はすぐに助けに駆け付け、医療費を払い、彼が復職できるまで家族のケアもしたという逸話が残っています。
また、自らの子供にはおもちゃを我慢させるなど、将来大人になった時に節度を持った人物となれるよう、子供達のことを思っていたと言われます。
マリーアントワネットの生涯と人生8:「お菓子を食べればいいじゃない」とは言っていない
「飢えに苦しむフランスの農民たちが、食べるパンがなくて苦しんでいる」と聞いたマリー・アントワネットが、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言い放ったという話は有名です。
しかし、マリー・アントワネットがこの言葉を発したという証拠はありません。
これは、マリー・アントワネットが生まれる何年も前、 1660年にルイ14世と結婚したスペインの皇女マリー・テレーズについて、思想家のジャン=ジャック・ルソーが描写した文章に出てくるもので、民衆の実情を知らず、興味も示さない王族たちを表現するために使われたものでした。
実際、この発言は、マリー・アントワネットと結びつけられるまでは、ルイ16世の叔母2人が言ったものとされていたという話も残ります。
むしろ、プロパガンダとして用いるために、フランス王室に対して反感を持っていた当時の人々によって、「お菓子を食べればいいじゃない」というセリフが、国民からひんしゅくを買っていたマリー・アントワネットに結び付けられたと考えるのが妥当でしょう。
マリーアントワネットの生涯と人生9:フランスの経済的苦境は彼女の浪費が主要因ではない
マリー・アントワネットとルイ16世は、壊滅的な負債と蔓延する貧困に直面しても贅沢な宮廷の伝統を続けていたため、この乱費が、後にフランス革命の引き金となる、当時のフランスが陥った経済的苦境の原因であるという見方があります。
しかし、実際の主要因は、彼女の贅沢で気まぐれな生活というわけではありませんでした。
ルイ16世が王位を継承し、マリー・アントワネットがフランス王妃となった時、国は既に金銭的に深刻な状況に陥っていました。
さらに、敵対するイギリスに対抗するためにも、当時、イギリスの植民地という立場から独立しようとしていたアメリカを支援する目的でフランスは巨額を投じ、一方ではルイ16世統治時代、フランスの金融政策は失敗に終わってしまいました。
これらが、フランスが経済的苦境を迎えることになった主な理由なのです。
しかし、反王室や反貴族として始まったフランス革命の中で、そのプロパガンダによって扇動された大衆の不満は、マリー・アントワネットに向かうこととなり、また、大衆向けのマスコミは、実際よりも贅沢をしているマリーアントワネットの姿を描いたと言われます。
マリーアントワネットの生涯と人生10:罪は捏造され近親相姦も含まれていた
フランス革命中に実施された革命裁判によって、1793年1月にルイ16世がギロチンで処刑されてから9ヶ月後、マリー・アントワネットも革命裁判にかけられました。
罪状は、国家反逆罪、乱交、息子のルイ=シャルルとの近親相姦など、でっち上げられた罪によってであり、マリー・アントワネットはこれら罪状についてほぼ無罪を主張したため、裁判は難航します。
その結果、フランス革命を扇動する者達によって息子のルイ17世(父のルイ16世が処刑された後、名目上は王となっていた)は隔離され、彼は当時まだ子供であったにも関わらず、数々の虐待が加えられただけでなく、母親にいたずらをされたという証言をするよう強要されたり、母親と近親相姦の事実があったとする書類に強制的に署名をさせられることとなりました。
このような状況で、マリー・アントワネットの無罪の主張は聞き入れられることもなく、見世物のような2日間に渡る裁判の後、全員が男性からなる陪審員達によって全ての容疑で有罪となり、全員一致でマリーアントワネットのギロチンによる死刑が確定したのです。
マリーアントワネットの生涯と人生11:死刑執行人に謝った
遺書を書き終えたマリー・アントワネットは、1793年10月16日、両手を後ろに縛られ、髪を短く刈り取られた姿で、死刑が執行されるギロチン台へ向かっていました。
この時に、マリー・アントワネットは人生における最後の言葉を残し、それは、一般に言われるように「贅沢でエゴイスト過ぎる人生」を生きてきた人間とは思えないほど、深く謙虚なものだったと言われます。
ギロチン台へ向かっている途中、誤って死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまったマリーアントワネットは、「どうかお許しください。ムッシュウ。わざとではございません。」と発したのです。
マリーアントワネットの生涯と人生12:無名の墓に埋葬されて後に移動させられた
1793年10月16日午後12時15分、ついにギロチンが下ろされて命を絶ったマリー・アントワネットん遺体は、マドレーヌ寺院の裏にある共同墓地に運び込まれ、そして投げ込まれました。
それから20年以上の月日が流れた時、ナポレオン・ボナパルト失脚後のフランス王政復古時代の1815年1月18日、マリー・アントワネットとルイ16世の遺体は掘り起こされ、その数日後にはサン=ドニ大聖堂の歴代の王が眠る墓地に移されました。
彼らの遺体の一部は、未だマドレーヌ墓地にあるとされますが、現在、2人がぞんざいに葬られていた場所には、1816年に贖罪礼拝堂が建てられ、その魂が鎮められています。
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マリーアントワネットの生涯・人生にまつわる12の話!最期はギロチンに処せられ時代に翻弄された王女のまとめ
オーストリアの王女として生まれたものの、政治的な理由からフランスへ渡って王妃となり、最後はフランス革命の中でギロチンの刑に処せられてしまったマリー・アントワネットの人生を見てきました。
マリー・アントワネットは浪費家や軽率な女性として描かれますが、混乱期のフランスを生きた結果、その姿は真実よりかなり誇張されているのかもしれません。