マリリン・モンローの晩年と最後を見ていきます。波乱万丈の人生は、ハリウッド黄金期を彩ったセックスシンボルのマリリン・モンローを死に追いやったのかもしれません。
ハリウッドが誇るとても魅力的でセクシーなブロンドヘアの女性として有名な人物と言えば、ハリウッド黄金期を支えたセックスシンボル「マリリン・モンロー」。
モデルから転進した大女優として歴史に名前を残しています。
孤児院や里親のもとで育った幼少期から、ハリウッドのスターへの階段をかけのぼったマリリン・モンローの栄光は、まさにシンデレラストーリーでした。
しかし、彼女の人生は衝撃的な結末を迎える結果となったのです。
なんと、1962年8月4日、わずか36歳で亡くなってしまったのです。
その死因は自殺である可能性が高いとされているものの、死に至る結果となった晩年のマリリン・モンローをとりまく出来事には現在も様々な説が残されています。
この記事では、マリリン・モンローを死に追いやった原因を少しでも理解する、または推測するためにも、彼女の晩年と最後を見ていきたいと思います。
1962年に36歳の若さで最後を迎えたマリリン・モンロー
マリリン・モンローが亡くなった1962年の8月当時、マリリン・モンローは一見すると人生を立て直しつつあるようにみえました。
7万5千ドルでカルフォルニア州ブレントウッド地区に初めての家を購入し、ライフ誌の表紙も飾っていたのです。
また、映画「女房は生きていた」にも再起用された矢先でした。
反面、モデルから転進したハリウッドスターとして知られたマリリン・モンローの人生においては、最も暗い時期であったことも事実です。
一年前に三度目の結婚生活を共にした劇作家アーサー・ミラーと離婚し、ジョン・F・ケネディー大統領との不倫疑惑がささやかれるようにもなっていたのです。
写真写りは完璧とされていた外見に代わり、マニキュアやペディキュアといったケアが必要な姿が頻繁に見られるようになっていきました。
そして1962年8月5日、マリリン・モンローは自宅の寝室にて変わってしまった姿で発見されました。
電話の受話器を手に握り、衣服をまとわず裸のままうつぶせで倒れている姿が発見されたのです。
その後の調査の結果、発見からおよそ6から8時間前、8月4日の日付が変わる前に亡くなったことが判明しています。
加えて、睡眠薬として服用されているネンブタール、50カプセルの空となった瓶も発見されました。
人生の晩年まで続いたマリリン・モンローの波乱万丈な恋愛生活
大衆文化の歴史上で、セックスシンボルを代表する一人でああるマリリン・モンローの私生活は、波乱万丈なものでした。
1926年6月1日、ノーマ・ジーン・モーテンソンとしてロサンゼルスで生まれたマリリン・モンローは、孤児院や里親のもとで幼少期を過ごしました。
そして、わずか16歳で最初の結婚相手であったジム・ドハティと結婚。
最初の結婚生活は1942年から1946年にかけて続き、その後、歴史に残る野球選手となるジョー・ディマジオと1954年に、さらには劇作家アーサー・ミラーと1956年から1961年にかけて結婚生活を送りました。
この3度に渡る結婚生活の中で最も長く続いたのが、アーサー・ミラーとの結婚生活でした。
しかし、この結婚の中で数度にわたり流産を経験したマリリン・モンローは、薬物やアルコールの使用について自らを責めたと言います。
そして、薬物使用と夫婦での共作となり1961年に公開された映画「荒馬と女」の制作における意見の不一致がストレスとなり、両者の関係は悪化。
作品は完成させたものの、ニュースとして取り上げられることを懸念し、ジョン・F・ケネディ大統領が就任した1961年1月20日にマリリン・モンローはミラーとの婚姻関係を解消したと言われています。
また、皮肉にもマリリン・モンローは、ミラーとの離婚する以前からケネディ大統領とも肉体関係があったと言われ、また、離婚後にもその関係は続いていったと考えられています。
しかし、この関係も、合衆国大統領周辺を強化する目的でFBIがケネディ大統領の弟ロバートに忠告したことで、最終的には終焉を迎えることとなりました。
アーサー・ミラーとの離婚、そしてケネディ大統領との不倫関係やその終焉などが、マリリン・モンローの精神状態に与えた影響について様々な意見が上がっています。
いずれにせよ、マーロン・ブランドやフランク・シナトラ、映画監督であったエリア・カザンなどとのロマンスを含む波乱万丈な恋愛関係は、マリリン・モンローの人生を激動されるものであり、彼女の晩年に大きな影響を及ぼした可能性は否定出来ません。
ちなみに、1962年5月19日の民主党のイベントにおいて、まるで裸であるかのようにボディーラインがあらわとなったジャン=ルイデザインのドレスを身にまとい、マリリン・モンローがケネディ大統領に向けて、セクシーな声で「ハッピーバースデー・ミスタープレジデント」を歌った出来事は有名です。
ケネディ大統領は、マリリン・モンローのパフォーマンスに「これほどに心のこもった甘い声でハッピーバースデーを歌ってもらえたら、もう政界に悔いはない」との言葉を残しています。
そのわずか三ヶ月後にマリリン・モンローがこの世を去った存在となることは、誰もが想像してなかったことでしょう。
晩年にスランプに陥っていたマリリン・モンローのキャリア
1960年の「恋をしましょう」、1961年の「荒馬と女」と、立て続けに興行収入がふるわず、マリリン・モンローは自身がスターの地位を失いつつあることを感じ始めていました。
加えて、1962年には「女房は生きていた」の撮影中、自らの不適切な対応により20世紀フォックススタジオから6月8日に解雇されることとなってしまいました。
映画スタジオ側は、マリリン・モンロー側の理由による慢性的な制作の遅れによって、コストが200万ドル膨らみ、50万ドルをマリリン・モンローに請求しました。
ニューヨーク・タイムズ紙によると、マリリン・モンローは「ビジネスのマネジメントに問題があった」とのコメントを残しています 。
一方で、対立が公となって評判にダメージを受けたものの、マリリン・モンロー自身はこれから自分がどう対応すべきかを考え、事態の好転を図る準備を進めていました。
「ライフ」そして「パリ・マッチ」などの有名雑誌の表紙を飾り、「女房は生きていた」への再起用をスタジオとも交渉し、翌月曜日には現場に復帰する予定となっていたのです。
さらに、数日間中に記者会見を開くことも計画していたと報告されています。
精神科医を受診していたマリリン・モンロー
マリリン・モンローの生涯は、複雑な生い立ちに加え、名声を得たことによるプレッシャーに悩まされるものであったようです。
彼女による名言のいくつかは 、頭の中にとりついて離れない不安を物語っています。
セックスシンボルであることはとてもしんどいこと。疲れたり、傷ついたり、頭が混乱している時は特に。
ハリウッドはキスのために1000ドル支払うのに、魂には50セントしか支払わない場所
目を閉じてハリウッドのことを考えると見えるのはひとつの太い静脈瘤だけ。
といったものです。
また、マリリン・モンローの生みの母は、精神科の診療所に通院しながら人生の大半を過ごしたことで知られますが、マリリンは母親のようにはなりたくないと固く心に決めていたようです。
しかし、1961年、精神科診療所に入院すると、クッション張りの部屋から出ることのできない生活に突入し、母親のようにはならないと誓っていたマリリンはさらなるトラウマを受けてしまったようでした。
マリリン・モンローの最後
亡くなった当時、マリリン・モンローは精神科医ラルフ・グリーンソンにかかっていました。
彼女が遺体で発見された8月5日の前日となる8月4日(土曜日)の午後5時15分頃には、電話でグリーンソン医師と1時間ほどにわたり話をしたとされ、ロサンゼルスタイムズ紙の追悼記事によると、「眠れないと訴えたマリリン・モンローは医師からドライブに出かけるようすすめられた」と報告されています。
またこの通話後にグリーンソン医師は、マリリン・モンローは新鮮な空気を求めてビーチに向かったと考えていたようです。
しかし、残念なことに翌日には自宅の寝室で彼女は遺体となって発見されたのです。
遺体と共に発見んされた空の薬瓶
遺体とともに発見された空の薬瓶は、わずか数日前に処方されたばかりでした。
夜間に一錠とされていたものでしたが、ベッド側のテーブルには他にも12から15瓶ほどの薬瓶が置かれていたのです。
マリリン・モンロー自宅の家政婦であったユーニス・マリーは、亡くなったとされる1962年8月4日(土曜日)の夜8時頃、マリリン・モンローが寝室に向かう姿を確認していました。
しかし、翌日日曜日の早朝3時25分頃、寝室の電気がまだついたままであることに気づき、様子を見にいったものの返答がなかったため、グリーンソン医師に連絡をしました。
そして、グリーンソン医師が現場に到着すると、医師は窓を割って部屋に侵入し、マリリン・モンローの遺体を発見したのです。
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マリリン・モンローの晩年と最後とは一体?波乱万丈の人生から死の真相のまとめ
マリリン・モンローの晩年と最後について見てきました。
これが、マリリン・モンローの人生最後から死に関する一連の顛末です。
彼女の死因は薬の大量服薬によるものとされますが、彼女を追い詰めたもっと根源にある原因については様々な説が飛び交っており、マリリン・モンローの死の真相は永遠の謎に包まれ続けています。