ノルマン人とはどういった人たちだったのでしょうか?海賊ヴァイキングと呼ばれて恐れられ、ノルマンコンクエストを起こしたことでも知られる彼らについて見ていきます。
ヨーロッパの歴史の中ではゲルマン人、スラブ人、ケルト人など、様々な民族グループが登場し、それぞれが入り乱れるように勢力を争いながら現在のヨーロッパの基盤が形成されていきました。
そんな民族グループとして、ゲルマン系のノルマン人の存在を忘れてはなりません。
このノルマン人は8世紀頃からヨーロッパ各地へ広がり、ヨーロッパ人の多くの祖先となっていっただけでなく、現在のイギリスやフランスの一部、そして南イタリアを中心で大きな勢力を持った人々でした。
そんなヨーロッパ史上で重要なノルマン人とはどういう人々だったのか?
この記事では、ノルマン人に関する簡単なまとめから、ノルマンコンクエストを含め、イギリスとフランスの間で起きたノルマン人に関わる歴史的出来事を年表に沿って見ていこうと思います。
ノルマン人とは?
ノルマン人とは、白人系人種に属するインド=ヨーロッパ語族のゲルマン民族の中でも、スカンジナビアからバルト海沿岸に住んでいた北方系のゲルマン人グループ。
西暦8世紀以降は、ヨーロッパ大陸沿岸部を中心に、ヨーロッパ各地へ威嚇、襲撃、略奪行為を展開していき、海賊ヴァイキング(バイキング)と呼ばれていました。
また、1066年には「ノルマン・コンクエスト(ノルマン人によって成立したノルマンディー公国のギヨーム2世 – イングランド名はウィリアム1世 – によって起こされた)」を通してイングランドを征服したことでも知られます。
しかしその反面、全てのノルマン人が略奪行為を続けたわけではなく、中には移住先(または征服先)の土地に定住を始めると、その後は穏やかに土地の開拓をする者も多くいたようです。
いずれにせよ、ヨーロッパ各地に広がったノルマン人達は、自らの伝統的な信仰を捨てて、キリスト教の規範を支持するようになっていくなど、時代とともにヨーロッパ社会の一員となっていったのです。
このような歴史的背景を抱えるためにノルマン人は、フランス人、イギリス人、ドイツ人、ウクライナ人など、多くのヨーロッパ人達の祖先の一部を成し、またスカンジナビアへ残ったノルマン人達は、後のスウェーデン人やデンマーク人の主な祖先となっていきました。
ノルマンコンクエストを含めたノルマン人の一部の歴史を見ていこう
ノルマン人の概要を簡単に見ていきましたが、ここからは彼らのバックグランドをより理解していくためにも、ヨーロッパ大陸に渡ったノルマン人に関するいくつかの歴史的出来事を年表を追って見ていきたいと思います。
具体的には、フランス北西部にノルマン人がノルマンディー公国を建てたとされる911年から、1066年に起きたノルマンコンクエスト、そして、ノルマンディーが永久にかつ完全にイギリスからフランスの領土となってしまった1204年までの歴史の流れを追っていきます。
ただし、この「ノルマンディーとイングランドそしてフランスの流れ」以外にも、イタリア南部へ向かって勢力を拡大したノルマン人グループなどもいるため、これから紹介する歴史はノルマン人に関する一部の流れでしかない点は頭に入れておいてください。
911年:ノルマンディー公国の成立
911、当時の西フランク王国の王であったシャルル3世は、都市ルーアン(フランス北西部の都市)の周辺地域に侵入してきたバイキング(ノルマン人)の首長ロロ(別名ロールフ)に対し、その地(ルーアン周辺)を与えます。
(ロロの像)
そして、結果としてノルマン人によるノルマンディー公国が成立しました。
これはシャルル3世が、フランスの土地をバイキングの手に渡すことで、フランス国土への攻撃に終止符が打たれることを願ったというのが主な理由です。
一方で、見返りとしてロロはこの地域の護衛役を引き受け、洗礼を受けて洗礼名をロベールとし、ノルマン人達は土地を開拓して封建的経済社会の一員となり、戦時には戦力として貢献するようになっていきました。
ちなみに、ルーマン周辺一帯は、古代スカンジナビア人や北欧海賊の地を意味する「Northmannia」として知られるようになり、以後ノルマンディーと呼ばれるようになっていきました。
1000年前後:ヨーロッパの一員として溶け込んだノルマン人
この頃になると、当初は海賊バイキングと恐れられていた彼らも、現在のフランスに住んでいた人々と婚姻関係を結ぶようになり、1000年を迎える頃には異教徒としてのバイキングの存在はすっかり失われ、フランス語を話すキリスト教徒集団としてヨーロッパ大陸に溶け込んでいました。
1002年にはノルマンディー公リシャール2世の妹エマが、「無思慮王」や「無策王」として知られるイングランドの王でウェセックス王家のエゼルレッド2世と結婚し、イングランドへ渡ります。
(エドワード懺悔王)
そして、1003年から1005年の間、後に「エドワード懺悔王」と呼ばれる息子が誕生。
このエドワード懺悔王はその後、イングランドがスヴェン1世とその息子クヌート1世によって征服されるとノルマンディーへと逃れ、それから四半世紀をノルマンディーの地で過ごしました。
この王家のつながりが、かの有名なノルマンコンクエストを正当化する根拠の一つに利用されたのです。
1035年:後の征服王ギヨーム2世(ウィリアム1世)による王位継承
ノルマンディーを8年間統治したノルマンディー公ロベール1世(リシャール2世の息子)は1035年、エルサレムへの聖地巡礼の旅の帰路で病に倒れ、ニカイアで死去しました。
その結果、予め取り決められていた合意に基づき、ロベール1世の庶子(本妻以外の女性から生まれた子)のギヨーム2世がわずか7歳か8歳の若さで王位を継承。
その後、十数年にわたり、ノルマン人貴族によるこの若き王と公国をめぐる覇権争いが続きました。
(ギヨーム2世・ウィリアム1世)
そして、このギヨーム2世は後に、ノルマンコンクエストを通して後のイングランドを征服し、「征服王」や「イングランドのウィリアム1世」として知られていくようになります。
1052年:イングランドを訪れたギヨーム2世
1052年、ギヨーム2世がイングランドを訪れます。
この頃にはウィリアム1世のノルマンディーでの支配は確立されていました。
一方で、イングランド王には再びウェセックス王家のエドワード懺悔王が即位していましたが、後継がいなかったこともあり、周辺国の王や諸侯達は虎視眈々と狙っていました。
ギヨーム2世がイングランドへ渡ったのもこれが理由だと言われます。
どうやら、この訪問中にギヨーム2世は、エドワード懺悔王からイングランド王としての王位継承の約束を取り付けたと考えられているのです。
1066年:ノルマンコンクエストの勃発
1066年の1月5日、エドワード懺悔王が死去。
すると、イングランドで最も権力のある伯爵で、強力かつ人気高い後ろ盾を得ていた義兄ハロルド2世(ハロルド・ゴドウィンソン)が直ちに王位を継承しました。
しかし、これに対して、イングランド王の地位を狙う弟トスティはノルウェー王ハーラル3世の後見を得て東側から、一方のノルマンディー公ギヨーム2世は南側からイングランドに侵入します。
ハロルドは、9月にスタンフォード・ブリッジの戦いで、トスティとハーラル3世に勝利しましたが、10月14日、ギヨーム2世率いるノルマン軍との戦いであるヘイスティングズの戦いで戦死していしまいます。
この結果、同年の12月25日、ギヨーム2世はウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠し、ノルマンディー公としてフランス王臣下にしながらイングランド王の地位を得たのです。
そして、このノルマン人によるイングランドの征服は後に「ノルマンコンクエスト」と呼ばれるようになりました。
また、ノルマン・コンクエストの後、
- ノルマンディーの支配者としてはフランス国王の臣下である
- しかし同時に、イングランド王としてはフランス国王とある意味で対等の地位にある
という状況は、後世に続く複雑なイギリスとフランスの関係の大きな原因となっていきました。
1087年〜1100年:ウィリアム2世からヘンリー1世の誕生まで
父ウィリアム1世がノルマンディーで危篤状態になると、息子のウィリアム2世はイングランド王位を狙っていた兄のロベールに先んじて、1087年9月26日、父の死を見届けることなくウェストミンスター寺院で戴冠式を行いイングランド王を継承。
これによって、ロベール2世を退けて対抗する勢力を抑えることに成功します。
ただし、父のウィリアム1世によってノルマンディーの後継者はロベール2世と決められていたこともあり、ウィリアム2世はノルマンディー公の後継者にはならず、ロベール2世がノルマンディー公となりました。
そんな中、ウィリアム2世は不運にも1100年8月2日、ニューフォレストで直臣数名との狩猟中に、部下の放った流れ矢に当たって死去してしまいます。
当時、まだ後継がいなかったこともあり、イングランド王位は弟のヘンリー1世が継承することとなりました。
1106年:ヘンリー1世がイングランド王とノルマンディー公に即位する
(ヘンリー1世)
ヘンリー1世がイングランド王に即位して以降、ロベール2世はその王位を主張してイングランドへ侵攻。
しかし、それを防いだことでヘンリー1世は力づくでロベール2世に自らの王位を承認させたものの、ロベール2世はその後もヘンリー1世の対抗勢力と組み、ヘンリー1世と対峙し続けました。
そのため、逆にヘンリー1世はノルマンディーを侵攻し、1106年にはタンシュブレーの戦いでロベール2世を捕らえ、ノルマンディー公の公位も手にすることとなります。
これによって、再び一人の手によって、イングランド王とノルマンディー公の称号が握られることとなりました(※ヘンリー1世はノルマンディー公としてはアンリ1世と呼ばれる)。
1135年:ヘンリー1世の死去とスティーブンの王位継承
1135年12月1日、ノルマンディーにてヘンリー1世が死去しました。
伝えられるところでは、医師の指示を無視して好物のヤツメウナギ料理を食べた後に死去したと言われています。
ヘンリー1世の亡骸は船でイングランドへ移送され、レディングにヘンリー1世が建立した寺院に埋葬されました。
一方で、ヘンリー1世には多くの庶子がいたものの、相続権を持つ嫡子は娘のマティルダと、1120年に船の遭難事故で亡くなってしまったウィリアムの二人だけだったため、マティルダが王位継承者として指名されていました。
しかし、臣下の多くは娘マティルダの統治に反対し、代わりにヘンリー1世の甥スティーブンを支援。
12月22日、スティーブンが新たなイングランド王として、また、ノルマンディー公としては「エティエンヌ」という名で即位することとなったのです。
ただし、マティルダの激しい巻き返しによってノルマンディー公の称号は1144年は失われ、マティルダの夫であるジョフロワ4世(アンジュー伯)が受け継ぐことになりました。
1154年:スティーブンが死にヘンリー2世がイングランド王となる
1154年、イングランド王スティーブンが死去し、これによって、即位後から続いた従妹マティルダとの激しい内戦も終焉を迎えました。
そして、後継者としてジョフロワ4世とアティルダの息子ヘンリーがイングランドの王位を継ぎ、ヘンリー2世となりました。
(ヘンリー2世)
ちなみにヘンリー2世の即位は、圧力をかけられた結果、1153年にスティーブンが署名して締結された「ウォリングフォード条約」の約束によるものです。
また、ヘンリー2世の父でノルマンディー公だったジョフロワ4世は1151年に亡くなっているため、この時ヘンリー2世はノルマンディー公の称号も持っていました。
1204年:イングランド王がついにノルマンディーを永久に喪失する
その後、ヘンリー2世の三男リチャード1世の時代をまたぎ、その後にヘンリー2世の末子ジョンがイングランド王を継承するまで、ノルマンディーの土地とノルマンディー公の公位はイングランド王に握られていました。
(イングランド王ジョン)
しかし、ジョンはフランス国内の領土をめぐって、フィリップ2世をはじめとするフランスの諸侯と対立。
フィリップ2世との全面戦争に突入し、その戦いにことごとく敗れた結果、1214年までにジョンはフランスにおける領地をほとんど喪失してしまい、ノルマンディー公領に関しては1204年に失ってしまいました。
それでもジョンはノルマンディー公を主張し、ジョンの後継となったイングランド王ヘンリー3世も同様に主張し続けましたが、実質的にはすでにノルマンディーはフランスの領土となっており、最終的には1259年に締結されたパリ条約によって、正式に公位も放棄することになります。
また、この時期の争いによって、ノルマンディーは永久にイングランド王の手から失われることとなり、これにて、イングランドとノルマンディーとの繋がりは完全に消滅しました。
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ノルマン人とは?ヴァイキングと呼ばれノルマンコンクエストを果たした民族グループのまとめ
ノルマン人について、その概要から歴史の一部の流れまでを見てきました。
ちなみに、ノルマン人に関しては、元々、略奪行為などを通して定住先を拡大してきたためか、彼らの最大の功績としては、よく十字軍に代表されるような軍事面での活躍が挙げられます。
しかし、実は政治面おいても優れた能力を発揮しました。
さらに、ノルマン人達はイギリスやイタリアなど、強い勢力を誇った土地に多くの学校、修道院、聖堂や教会を建設し、中でもイギリスにはノルマンコンクエスト後、新たに手に入れた土地を守るため多くの城を建てました。
このように、初期の頃は海賊バイキングとして名を馳せたものの、その後のノルマン人達は社会を発展させる上でも優れた能力を発揮したのです。