ポルポト政権とカンボジア大虐殺について見ていきます。ポルポトが率いたクメール・ルージュによって、現代史に残る非常に残忍な出来事が引き起こされました。
人類の現代史の中では、いくつかの残忍な大虐殺が起こりました。
ヨーロッパを見ればナチスドイツがユダヤ人に対して行ったホロコースト、アフリカを見ればルワンダ大虐殺があります。
一方、アジアを見た場合、ポルポト政権下のカンボジアで大虐殺が起こりました。
この記事では、そのカンボジア大虐殺を引き起こした張本人「ポル・ポト」と、カンボジア大虐殺がどれほど残虐な出来事だったのかについて見ていきたいと思います。
まずは、ポル・ポトとカンボジア大虐殺の概要を簡単に確認し、その後、ポル・ポトの人生をダイジェストで追いながら大虐殺が起こってしまった流れを理解し、そして最後に、カンボジア大虐殺がどれほど酷い出来事だったかを示す3つの事実を紹介していきたいと思います。
ポル・ポトとは?ポル・ポト政権下のカンボジア大虐殺とは?
ポル・ポト(Pol Pot)は、1975年から1979年までカンボジアを支配した(注)共産主義政党「クメール・ルージュ(Khmer Rouge:赤いクメール)」の政治的指導者。
本名は「サロット・サル(Saloth Sar)」ですが、公の場で同一人物であることをポル・ポトは認めたことは無いとされます(※ただし、兄弟が認めている)。
また、ポル・ポトがカンボジアを支配した期間のうち、1976年1月5日から同国は「民主カンプチア(ポルポト政権とも表現出来る)」と改名されたため、1976年からクメール・ルージュの支配が終焉する1979年1月7日までは民主カンプチアの指導者といった方が正確かもしれません。
(出典:wikipedia)
一方、カンボジアを支配した期間、ポル・ポトは独裁者としてカンボジア全土に恐怖政治を敷き、推定150万人~200万人ものカンボジア人が飢餓、処刑、病気そして過労により命を落としたと言われます。
中でも政治犯収容所の「S21(トゥール・スレン)」はあまりに悪名高く、収容された約2万人のうち、生還したのはわずか8人のみであったとされるほどでした。
特に、階級差のない共産主義社会を目指したクメール・ルージュは、とりわけ知識人階級、大都市住民、ベトナム系住民、公務員、宗教指導者らを標的にしていたのです。
歴史家のなかには近年の歴史において、ポル・ポト政権ほどが野蛮かつ残忍な政権は他になかったとの見解をもつ学者も多くいます。
(注釈)クメール・ルージュがカンボジアの首都プノンペンを占領したのは1975年4月17日のことであるため、民主カンプチアと改名されるのが1976年だが、事実上、ポル・ポトがカンボジアを支配したのは1975年4月17日からポルポト政権が倒されるまでの1979年1月7日までだと言える。
ポル・ポトと彼が引き起こしたカンボジア大虐殺に関して知るために、ポルポトの生い立ちから晩年までをダイジェストで見ていこう
ポル・ポトの人生初期
サロット・サル(仮名であるポル・ポトのほうがよく知られているので以降は「ポル・ポト」と表記します)は、1925年、カンボジアの首都プノンペンから北へ約160km行ったところにあるプレク・スバウヴの小さな村で生まれました。
生家は比較的裕福で、約20ヘクタールの水田を所有し、これは当時のカンボジア平均の約10倍の広さだったと言います。
1934年、ポル・ポトはプノンペンへ移り、仏教寺院で1年間を過ごした後、カトリック系の小学校に入学しました。
(出典:wikipedia)
1949年までカンボジアで教育を受け、その後は奨学金を得てパリに留学(※当時はフランスの保護国として半植民地化された状態だった)。パリでは放射線工学を学ぶと同時に共産主義グループに参加して積極的な活動を開始していきます。
1951年にポル・ポトは、北ベトナムの支援を受けて創立された原始共産主義を掲げる「クメール人民革命党(KPRP:後のカンプチア共産党またはカンボジア共産党として知られる)」に入党している。
その共産主義グループでの活動に時間を費やしてしまったためか、ポルポトは大学での試験に3年連続で失敗。
奨学金を打ち切られたのを機に、1952年にはフランスを後にして1953年にカンボジアへ帰国しました。
1953年1月、ポル・ポトがカンボジアに帰国した時、カンボジア全土はフランスの植民地支配に対する活動の最中にあり、同年末にカンボジアは、正式にフランスから独立を果たすことになります。
クメール・ルージュの結成から指導者としての台頭
1956年から1963年の間、ポル・ポトは私立学校にて歴史、地理、フランス文学を教える傍ら、革命を企てていました。
1960年、ポル・ポトは、KPRPをマルクス・レーニン主義に特化した政党へと再編する動きに関わり支援。
その3年後、共産主義活動に対する弾圧を受けて、ポル・ポトとKPRPの他の指導者らはカンボジア北部の奥深い田舎に移り、当初は南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)と共に野営していました。
そして1966年にKPRPは、その名前をカンプチア共産党(カンボジア共産党)と改名しています。
このような流れの中で政党の指導者としてポル・ポトが台頭してくると、ポル・ポトの影響下にあったポル・ポト派が力を増してくるようになり、このポル・ポト派は共産党内で「クメール・ルージュ」の俗称で呼ばれるようになっていきます。
そして、1968年にはクメール・ルージュ勢力主導の武装組織が現れ、革命の名の下に武装蜂起を起こしたのです。
このクメール・ルージュの革命活動は始め、ゆっくりとしたものでしたが、その中で人口がまばらなカンボジア北西部を中心に活動の地盤を固めていきました。
クメール・ルージュが支配権を掌握
1970年3月、世襲のカンボジア王家出身の国家元首「ノロドム・シハヌーク」がカンボジア国外にいる間をついて、軍人の「ロン・ノル」が首謀者として軍事クーデターを起こし、シハヌークの政権を倒します(王政の廃止)。
そして、このクーデターに続いて勃発した内戦では、元国王シハヌークはクメール・ルージュと手を組み、ロン・ノルはアメリカを後ろ盾に戦い合うことになります。
※元々、シハヌークとクメール・ルージュの仲は悪かったが、元国王であるシハヌークを支持することで自らの正当性を主張出来ると考えたポル・ポトは共闘関係を結んだ。
内戦による大混乱とクメール・ルージュの勢力拡大
この内戦は国内を大混乱に導きました。
まず、クメール・ルージュ軍とロン・ノル軍は共に、大量虐殺を行ったと言われています。
(出典:Fadomduck2)
それと同時に、カンボジアに逃げ込んでいた北ベトナム軍およびベトコン軍を攻撃するため、約7万人のアメリカ軍と南ベトナム軍兵士が「ベトナム・カンボジア国境」を越え、カンボジアに乗り込んできました(※当時のアメリカはベトナム戦争中であった)。
また、アメリカのリチャード・M・ニクソン大統領は、ベトナム戦争の一環として、極秘の爆撃作戦を指示。
4年の間にアメリカ軍機は、太平洋戦争中に日本へ投下した爆弾の3倍以上の、50万トンもの爆弾をカンボジアに落としていったと言われ、米軍の爆撃開始わずか1年半の間に、およそ200万人が国内避難民となったと推定されるほどです。
このカンボジアの一般市民へ対するアメリカ軍による甚大な被害に加えて、
- ロン・ノル政権は汚職が蔓延していた
- ロン・ノル政権は都市部しか制圧出来なかった
- シハヌーク元国王は一定の人気があった
といった理由が重なり、1973年8月にアメリカ軍による爆撃作戦が終了する頃には、クメール・ルージュ軍の数は急増し、カンボジア全土のおよそ4分の3にあたる領土を支配するに至っていたのです。
ついに首都プノンペンを制圧してカンボジアを掌握
その後ほどなくして、クメール・ルージュは、プノンペンにロケット攻撃や砲撃をしかけ始めました。
難民で溢れかえる首都プノンペンに対する最終攻撃は1975年1月に始まり、クメール・ルージュが、空港を爆撃し、川の渡河地点を封鎖。
アメリカは支援物資を空輸できなくなり、多くの子供たちが餓死するのを防ぐことが出来なくなったのです。
そして1975年4月17日、最終的にクメール・ルージュがプノンペンに入り、内戦に勝利、戦いは終結しました。
この内戦の最中に、約50万人ものカンボジア国民が死亡しましたが、ポル・ポト政権が樹立して以降、さらに最悪な事態が待っていたのです。
ポル・ポトによるカンボジア大虐殺
政権を掌握してすぐにクメール・ルージュは、250万人のプノンペン市民を強制移住させました。
公務員、医師、教師などの職歴がある者は財産を没収され、再教育の名目で農業に従事させられ、過酷な労働を強いられました。
仕事について不満を述べた者、食糧を隠した者、規則を破った者は、悪名高いS-21などの強制収容所に入れられ、拷問を受けた後に処刑されたのです。
また、カンボジアの大虐殺が行われていた時代、カンボジア国内の集団墓地は、栄養失調や過労、不適切な医療行為によって死亡した何百万人もの遺骨で溢れかえっていました。
加えて、ポル・ポト政権下では、
- 金銭、私有財産、宝飾類、ギャンブル、ほとんどの書物と宗教は禁止
- ほとんどの宗教は謀反とされて禁止された
- 私服は贅沢とされ、全てのカンボジア人は黒い制服を着なければならなかった
- 割り当てられた共同農園から移動することは許されなかった
- 冷蔵庫や音楽機器などは路上で燃やされた
- 本は見せしめに焼かれた
- 農業は政府管理下で集産化された
- 子どもたちは家族の元から引き離されて強制的に軍隊に入れられた
- 男女関係や言論の自由、衣服についても厳しい規則が定められた
- 恋愛は呪いとされ、結婚は国から成約された
- クメール・ルージュの特定の許可なくカップルが性的関係を持ったと分かれば、囚人収容所に入れられることもあった
- 情感を表すのも難しかった
- 人々は状況に対して表情や身体言語の感情的反応を完全に無くすスキルを修得しなければならなかった
といった様に、個人の生活は全ての面で国による規制を受けるようになります。
そして、カンボジアの国名が民主カンプチアに改名されてから、ポル・ポトは当初、政治の表舞台にはあまり出てきませんでしたが、1976年、シハヌークが国家元首を辞任させられると、ポル・ポトが首相の座につきました。
ポル・ポト政権の崩壊
一方、この頃までに、カンボジアとベトナムの国境地帯では、頻繁に小競り合いが起こるようになっていき、1977年にはその小競り合いが激化。
同年12月31日には、ベトナムとカンボジア(民主カンプチア)は国交を断絶。
1978年12月、ベトナムは爆撃機を含む6万もの軍隊を国境沿いに派遣し、同時に反ポル・ポト派の政治的・軍事的組織「カンプチア救国民族統一戦線(カンボジア難民を中心に組織された)」と一緒にカンボジアへ侵攻していきます。
(出典:wikipedia)
そして翌1979年の1月7日、ベトナム軍の支援を受けたカンプチア救国民族統一戦線がプノンペンに入り、ポル・ポトは止む無くジャングルへ逃げこみ、ここに民主カンプチア(ポル・ポト政権)は崩壊することになります。
その後、カンボジアはベトナムの支援(実質的な支配)によって、カンプチア人民共和国と名を改めました。
ポル・ポト晩年の日々
カンプチア救国民族統一戦線がプノンペンに攻め入ったため、ジャングルへ逃げ込んだポル・ポトはゲリラ活動を再開。
1980年代を通してクメール・ルージュは中国から武器を、アメリカから政治的支援を受け、ベトナムの十年近い支配に抵抗を続けていました(※1989年のベトナム軍の撤退と合わせてカンプチア人民共和国はカンボジアと国名を改称した)。
しかし、1991年の停戦協定を機に、クメール・ルージュの影響力は低下し始め、1990年代末、クメール・ルージュの抵抗活動は完全に崩壊することになったのです。
一方のポル・ポトは、1997年にクメール・ルージュの分派によって逮捕され、自宅監禁とされました。
そして1998年4月15日、ポル・ポトは睡眠中に心不全を起こして72歳で死去し、ここに人生を閉じたのです。
ポルポト派「クメール・ルージュ」によるカンボジア大虐殺を残虐性を表す3つの事実
ポルポトとカンボジア大虐殺が起きた流れを理解するために、彼の人生をダイジェストで見てきましたが、最後にポル・ポト派として知られるクメール・ルージュによって引き起こされたカンボジア大虐殺が、どれほど醜かったかを3つの事実から見ていきたいと思います。
ほとんどの人が「腐ったものは排除しなければならない」標的だった
ポル・ポト派が推し進める共産体制においては、完璧な農業社会が理想とされ、農民は「皆が熱心に真似るべき伝統的な田舎生活を導く人間像」として示されました。
その結果、街から来た如何なる教育レベルの者達、例えば医者や歯医者などの本来は社会に大きく貢献するスキル(しかし農業関連ではない)を持った者までもが疑いの目で見られました。
また例えば、
- 事業や工場を所有している
- メガネをかけている
- メガネは西洋かぶれとされ、またメガネをかけている人は知識人を示すとされていた
- 外国語を話せる
- フランス植民地時代、多くのカンボジア人はフランス語を話した
といったことは、殺す理由には十分だったのです。
他にも、宗教団体や民族少数派集団は疑惑の目で見られてポル・ポト政権の標的となり、
- 病気を持っている人
- 身体的に弱い人
- 障害者
- 年寄り
などは、理想とする社会にとっては不必要と考えられ、たびたび排除されたのです。
さらに、理想とされた「農民」の地位も身の安全を確保する保証はありませんでした。
クメール・ルージュはカンボジアエリートの大量殺戮だけでは飽き足らず、後には「幸福な言葉」を使ったという理由だけで殺される農民も現れ始めました。
このクメール・ルージュの残忍性を表す言葉として、ポル・ポトは以下の様なことを1978年に発しています。
学校や教員、大学はいりません。なぜなら全ての過去の名残を捨てたいからです。
お金もいりません。なぜなら、国が市民に全てを供給するからです。
都会から撤退し、田舎が我らの革命の中心となるべきです。そして人々が都市の運命を決めるようになるでしょう。
ちなみに、カンボジア大虐殺は近代史で起こったナチスによるホロコーストやルワンダ大虐殺よりも残虐であると言えるかもしれません。
それは、他の虐殺が一つの特定集団を狙っていたのに対して、カンボジア大虐殺では国民のほぼ全員が対象となっており、いつでも殺害される可能性があったからです。
カンボジア大虐殺の実態
ほとんどのカンボジアの村と刑務所には、死罪を宣告された者を処刑する処刑場がありました。
宣告された者は自ら掘った墓まで歩かせられ、その道中で倒れた者は放置され腐るだけ。
そして、処刑された者のほとんどは、弾の節約のために棒かクワで頭を思い切り叩かれて殺されたと言います。
さらに、幼い子供までも働かなければ殺され、多くの人々が過労や栄養失調で亡くなりました。
また、ポルポト政権下で利用された悪名高い収容所「S21」では、
- 収容される際には下着など全てを脱がされた
- 赤ちゃんを抱えていた場合、赤ちゃんは木に叩きつけられて殺された
- 抱えていた親はその光景を見なくてはいけなかった
- 独房の中では看守の許可が無くては動くことさえ難しかった
- 人によっては生きたまま外科手術のモデルとして使われた
といった、信じられないような残虐行為が行われていました。
このカンボジア大虐殺の結果、今日でもなお、カンボジアの土地に埋められた地雷撤去をし、その後に農地として再利用される過程で、当時の犠牲者の遺骨が掘り出されることは良くあります。
ポルポト政権下では国民の1/5から1/4が殺されたと推定される
ポルポト政権下のカンボジアで、一体何人の人々が殺されたのかは、正確な記録が残っていないため非常に困難です。
そのため、虐殺された人の推定数は「75万人から300万人」と大きな幅がありますが、現在最も正しいと言われる推計では、167万から187万人の人々が1975年から1979年までに殺されたと考えられています。
この数字は、当時のカンボジア全体の人口のおよそ21%から24%とされ、カンボジア大虐殺のスケールの大きさを表しています。
また、ポル・ポト政権前後に起きた内乱による死者数も含めた場合は、200万人を超えると想定出来、人類の現代史において、稀に見る大虐殺であったと言えるのです。
合わせて読みたい世界雑学記事
- サッダーム・フセイン元イラク大統領|独裁政権誕生から死刑までと5つの話
- マンハッタン計画とは?第二次世界大戦中に原子爆弾を製造&投下したプロジェクト
- ロヒンギャ問題とは?わかりやすく原因などをまとめて解説
- ルワンダ虐殺|わかりやすく事件の原因や内戦から続く経過を解説
- クメール人とは?その特徴や世界史に残る不運な出来事までを確認
- カンボジアの宗教と割合|上座部仏教など宗教構成を確認!
- →こちらから国際情勢や世界史に関する情報をさらに確認出来ます
ポルポト政権とカンボジア大虐殺|クメールルージュによる残忍な過去のまとめ
見てきた通り、ポルポト政権かで行われたカンボジア大虐殺は、史上稀に見る残忍で恐怖が渦巻く出来事でした。
しかし、この信じられないほど悲惨な茶番劇に関する国連の支援を受けた特別法廷へ、ポル・ポトが出席させられたことは一度もなく、また、他のクメール・ルージュ幹部に関しても、たった数名が人道に対する罪で有罪となったに過ぎません。
ポルポト政権とカンボジア大虐殺は、人類全体が人に命の価値を見つめ直す教訓として今後も残っていくはずです。