ロシア革命とは?簡単に原因やレーニンによる主導など世界史に与えた影響を解説

ロシア革命とはなんだったのか?ロシア革命を出来る限り簡単にわかりやすく解説していきます。原因やその後の世界史に与えた影響などを確認していきましょう。

ロシア革命とは一体どのような革命だったのか?」

この質問に対して答えられますか?

ロシア革命は、国の主導を「ツァーリ(皇帝)が国家を支配する帝政ロシア」から「民衆の手に委ねた」という点や、その後の国際情勢においてアメリカと世界の主導権を掛けて争った「ソ連」の建国に繋がったという点で、ロシアの歴史のみならず世界史において非常に重要な出来事です。

この記事ではそのロシア革命について、出来る限り簡単にわかりやすく、原因や影響、有名なレーニンとの関係などを見ていきたいと思います。

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ロシア革命とは?原因からその後の影響まで

ロシア革命とは通常、1917年にロシアで起こった2つの革命を総称する言葉

この2つの革命の結果、当時ロシアを支配していた当時のツァーリ(皇帝)、ニコライ2世が倒されてロシア帝国(帝政ロシア)が崩壊し、史上初の社会主義国家である「ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)」の誕生につながりました。

一方で、この2つのロシア革命は一晩で成し遂げられたわけではなく、その流れは1905年に発生した革命「ロシア第一革命」に遡り、何年間も社会的な混乱が続いたため、広義の意味では、このロシア第一革命まで含めた一連の革命を意味することもあります。

以下では、1905年から1917年にかけて起こった、この3つの革命の流れと舞台の裏側や原因、さらにはその後の影響などを見ていきましょう。

1905年の革命(ロシア第一革命)

1905年当時、ロシア帝国の皇帝にはニコライ2世が就ていました。

ニコライ2世は1894年以降、皇帝としてロシア帝国を主導していましたが、ロシア国民からの人気は高いとは言えませんでした。

皇帝の暮らしはあまりにも高慢で浮世離れし、その他大多数の民衆が暮らす世界からあまりにもかけ離れていたため、特に農民や中間層は不満を抱え、皇帝に対する支持は日に日に悪化していたのです。

こういった状況にあったため、ニコライ2世体制は非常に不安定でした。

さらに皇帝自身の不人気に加えて、ロシア帝国は1904年から1905年にかけて行われた日露戦争に敗北

これらの事実に農業の不作や階級間闘争などが重なった結果、当時のロシア国民の多くは、帝政の政治に強い不満を抱くようになっていったのです。

ロシア第一革命勃発

1905年初頭、ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)を始めとするロシアの様々な都市で暴動が発生。

農民や工業労働者は国中でストライキやデモ行進を行い、ついに皇帝の住む冬宮殿にも人の波が押し寄せました。

血の日曜日事件

1905年1月22日、参加者11万人にも上る人々が大規模な平和的デモ行進を行っていた際、政府が動員した軍隊が民衆のデモ隊に向けて発泡。

1000人前後もの民衆が亡くなったと言われ、この日は血の日曜日と呼ばれるようになりました。

そして、それまでの皇帝側の強圧な態度と血の日曜日事件は、国民の反感をさらに高めて暴動は加速。

革命の炎にさらに油をさすことになったのです。

国民の不満へ向き合わざるを得なくなったロシア皇帝

その結果、ニコライ2世は自分の皇帝としての立場が危ないと考え始め、社会改革を実行して不満を持った国民との関係を改善しようとします。

政治的な圧力に屈したニコライ2世は、ドゥーマ」と呼ばれる行政組織(ロシア初の選挙によって選出される議会)の設立を認可

1906年には最初のドゥーマが開催されたのです。

さらに皇帝は、基本的な市民の自由を認め、今までの絶対君主制を立憲君主制に改める憲法の制定を容認しました。

もちろん、ニコライ2世はこれらの改革を実行したかったわけではありません。

しかし、当時の国民や政治家たちの態度を考えると、求心力の弱まった皇帝に他の選択肢は全くなかったのです。

二月革命(三月革命)

ロシア第一革命のおかげで、社会革命の嵐はいったん収まったように見えました。

皇帝の実施した改革は国民の支持を集め、デモや抗議運動の数が一旦は大幅に減ったのです。

しかし、1914年に第一次世界大戦が始まり、ロシア帝国もこの戦争に参加。

大量の死者と負傷者、食糧不足、そしてその他数多くの悲惨な状況をもたらすこととなります。

さらに戦争は何年も続き、人々は次第に「得るものに対して失うものが多すぎる」と、戦争に対する不満を抱くようになっていきました。

その結果、当初はツァーリ(皇帝)に対する支持は変わらなかったものの、ロシア帝国を内側から蝕んでいたグリゴリー・ラスプーチンに影響されたアレクサンドラ皇后(ニコライ2世の妃)への誹謗・抽象が堂々と行われるようになり始め、その後にはツァーリの政治のあり方が再び疑問視されるようになっていったのです。

二月革命の勃発

そして1917年2月、ついに首都のペトログラードで大規模なデモが発生します。

農民、労働者、さらには軍隊までもが帝政に反対する声を挙げるために集まったのです。

このデモにおいて、抗議者は武装していました。

ペトログラードは秩序のない無政府状態に陥り、その結果、ニコライ2世は退任を余儀なくされ、ここにロシア帝国は崩壊したのです。

その後、この出来事は「二月革命」と呼ばれ、国民が帝政を倒し、そして新しい左派の暫定政府を打ち立てたことに意義がある、ロシア史上で非常に重要な出来事として歴史に刻まれることになりました。

二月革命は三月革命とも呼ばれる

一般的に二月革命と呼ばれるこの出来事はまた、三月革命とも呼ばれます。

これは、当時ロシアで使用されていた旧ユリウス暦では2月の出来事である一方、現在使われるグレゴリオ暦では3月になるというのがその理由です。

十月革命(十一月革命)

二月革命以降、ロシアに誕生した新しい暫定政府は、穏健派と急進派の間で大きく対立していました。

中でも急進的なグループはボリシェヴィキと呼ばる左派の急進派。

メンバーの多くは労働者階級で、ウラジーミル・レーニンの共産主義イデオロギーの信奉者でした。

1917年10月初旬(これもまた現在のグレゴリオ暦では11月のこと)急進的なボリシェヴィキがクーデタによって暫定政府を倒して権力を掌握

この事件は十月革命と名付けられましたボリシェヴィキ革命と呼ばれることもある)

こうしてボリシェヴィキは権力を集中していき、また、設立した共産主義体制は、その後のソビエト連邦の基礎を形作っていったのです。

一方で、革命に成功すると、ボリシェヴィキのリーダーであるウラジーミル・レーニンは、ロシアの大戦参加を止めるために奔走します。

ボリシェヴィキを含めロシア国民の大多数にとって、第一次世界大戦は無駄な戦争だったのです

1917年末頃には、ロシア軍のほとんどが戦闘を停止し、戦いを継続したのは軍隊のほんの一部の隊のみでした。

政府は何ヵ月も協議を重ね、1918年3月3日、中央同盟国との間にブレスト=リトフスク条約を結び、これによりロシアは第一次世界大戦から離脱することに成功します。

十月革命のその後と影響

十月革命によって世界初のマルクス主義を基盤とした体制が樹立し、ウラジミール・レーニンは実質的なロシアの独裁者となっていました。

レーニン政権はドイツと平和公約を結び、産業を国有化して土地を分配。

革命発生までロシアを統治していたニコライ2世とその妻と5人の子供たちは、1918年にレーニン率いるボルシェヴィキによって処刑されました。

ロシア革命による最も大きな影響は、ボルシェヴィキが目指した社会主義を支える赤軍と、王政、資本主義、異なる社会主義のあり方を支持したより保守派に近い白軍によるロシア内戦でしょう。

この内戦は十月革命以降数年間続き、革命勃発からわずか数年間の間で死傷者は700-1200万人にも上ったと推定され、「ロシア史上最大の惨事」とも言われるほどです。

そしてついに、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)と呼ばれる世界初の共産主義国家が誕生し、1991年に崩壊するまでソ連は世界有数の大国であり続けたのです。

ロシア革命に関する興味深い3つの事実

ロシア革命の最大の社会要因である小作農や工場従事者の悲惨な状況

ロシア革命が勃発した最大の社会的要因は、当時のロシア帝国下で暮らしていた非常に多くの小作農や工場従事者が立ち上がったことに起因するわけですが、彼らの生活は「搾取されていた」という言葉が相応しいものだったのです。

まず、ロシアの小作農は時代遅れの農業手法を使い、ほとんどが読み書きが出来ず、国に償還金(いわゆる税金)を支払わなくてはならないなど、搾取された非常に貧しい生活を強いられていました。

さらに、19世紀、20世紀のロシアの急速な工業化は、都市部の超過密を引き起こします。

しかし、労働者の生活の質や権利、公平な機会といった点では、ヨーロッパに大きく遅れを取っており、工場労働者は劣悪な衛生環境で働かされ、長時間労働とそれに見合わない賃金を余儀なくされ、狭い家に大人数で暮らす悲惨な生活を送っていました。

一方で、労働者層は非常に厚く、自らの環境を改善するためにも高い政治意識が芽生えていたため、彼らの不満が大きなうねりとなり、ロシア革命に繋がっていったのです。

革命を決定的にしたニコライ2世による民主主義への裏切りと第一世界大戦

1905年の革命を受けて皇帝ニコライ2世は憲法改正を命じ、ロシア初の選挙によって選出される議会の発足を含めた改革を宣言。

1906年にはロシア憲法を施行し、初めて独裁権力を返上して議会にも権力を与えたわけですが、議会が協力しなかったことを理由に、初めの2つの議会を解散して実質的に改革をなきものにします

このことは「民主主義への希望を踏みにじられた」と民衆には映り、革命思想と帝政に対する暴動が加熱してしまったのです。

さらに、第一次世界大戦は、ロシア国内の経済および政治危機をより深刻なものにしました。

ノートテキスト

  • 兵士達は飢える
  • 物資は無くなる
  • 食糧不足は深刻になる
    • 特に都市部は常に食料が不足し、首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルグ)では食べ物を巡って暴動が起きていた
  • 経済はインフレになる
    • 戦費の調達のため、政府が大量に紙幣を発行したことでインフレが起きた
    • 1917年には物価は1914年当時の4倍にもなっていた
  • 工場労働者達によるストライキがあちこちで起きた
    • 価格上昇によって工場労働者たちが賃金引き上げを求めた

などといった状況にあったため、ロシア帝国の第一世界大戦参加は、すでに不安定だった社会をさらに不安定にし、また、国益にならない戦争にロシアを関与させたニコライ2世の統治能力の無さを露呈し、革命に対する動きを強く後押したのです。

二月革命は二重権力状態を生み出した

二月革命によるニコライ2世の退位を受け、ドゥーマ(ロシア議会)は1917年3月16日に、ゲオルギー・リヴォフ公爵を初代の大臣会議議長(首相)とした臨時政権を樹立します。

一方で、その4日前にペトログラードの労働者や兵士の代表からなる「ペトログラード・ソビエト」が組織されていたため、10月革命が起こる同年の10月まで、ロシア国内は二重権力の状態となっていたのです。

両者の対立は最終的にペトログラード・ソビエト側が勝利したと言って良いでしょう。

臨時政府は、第1次世界大戦に引き続き参戦することを目指しましたが、これは多くの民衆から不評を買います。

一方で、ペトログラード・ソビエト側はロシアは戦争から手を引くべきだと主張し、この民衆に寄り添った態度は、ペトログラード・ソビエト側の影響力を強化していくことになりました。

そして、ペトログラード・ソビエトではレーニン率いるポリシェビキが台頭してくるようになり、十月革命ではポリシェビキの急進的で過激とも言える手法によって、臨時政府の閣僚達の多くは逮捕・監禁されるなどされ、臨時政府は解体されたのです。

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ロシア革命とは?簡単に原因やレーニンによる主導など世界史に与えた影響を解説のまとめ

ロシア革命に関して、その原因や影響などを出来る限り簡単にわかりやすく見てきました。

このロシア革命の成功はまた、世界的な政治不安とドイツやハンガリーにおける革命といった反乱としても現れました。

そして、こういった革命活動のほとんどは、社会主義的あるいは反植民地主義的なものでした。

そして、ロシアはこの後、ソ連を構成する中心的な共和国となり、20世紀後半まで世界の覇権を争う社会主義側の指導国として君臨することになったのです。

世界のことって面白いよね!By 世界雑学ノート!

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