ソクラテスは無知の知や問答法で知られる古代ギリシャの哲学者で、現代の西洋科学や学問の発展にさえ影響を与えている歴史的な人物です。
古代ギリシャで発展した神話や文化は、その後のヨーロッパの宗教や文化、そして社会機構へ大きく影響を与えてきました。
そして、古代ギリシャに生まれて哲学もまた、ヨーロッパにおけるその後の哲学のみならず、科学や学問の発展に影響を与えてきました。
この古代ギリシャ哲学の礎となったと言われるのが、西洋哲学の父とさえ言われる「ソクラテス」の哲学。
有名なプラトン、そしてプラトンの弟子であるアリストテレスなど、著名な哲学者に繋がる系譜の始祖であり、ソクラテスが生み出した「無知の知」や「ソクラテス式問答法」の影響は、現代でさえ確認することが出来ます。
この記事では、ソクラテスに関する基本的な知識からその生涯と、重要な「無知の知」に関する詳しい説明をしていきたいと思います。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスとは?
ソクラテス(Socrates)とは、紀元前469年頃から紀元前399年まで生きた、古代ギリシャにおける哲学者。
現在にまで続く「西洋哲学の父」と考えられている人物で、古代ギリシャの哲学者として最も典型的であると同時に異端の存在でもありました。
古代ギリシャのアテナイ(現在のアテナ)において、政治家「ペリクレス」が大きな力を持った「アテナイの黄金時代」に生まれ育ち、元々は兵士として功績をあげますが、最終的にはすべての事物に対して疑問を提示する哲学者として知られるようになりました。
「ソクラテス式問答法」として知られる彼の探求スタイルまたは議論方式は、単に教師が生徒に知識を伝達するというものではなく、「質問を繰り返すことで生徒が自ら理解に至る」ことを目指す方法として、現在でも欧米の大学などでは広く採用されています。
このように、今日に至るまで大きな影響を与えているソクラテスですが、最終的には死刑を宣告されました。
そして、逃亡することも出来ましたが、そうする代わりにソクラテスは最期の日々を友たちと過ごし、執行人から毒薬の入ったカップを手渡されると抵抗することなく飲み干し、この世を去ったのです。
ちなみに、ソクラテス自身は著作を残すことはしていません。
そのため、現在得られるソクラテスの情報は、当時の人々の記録や弟子(中には有名なプラトンもいた)の目を通したものとなっています。
彼の弟子のうち最も若い二人は、有名な歴史家のクセノフォンと哲学者のプラトンであり、この二人こそが、ソクラテスの人生とその思想の最も重要な部分を書き残したのです。
しかし、両者とも自らの性格を反映させたソクラテス像を描いていると考えられ、
- クセノフォンの著作に登場するソクラテスは
- → 次々と直球で質問を投げかけるというよりは、簡潔なアドバイスをする存在として描かれている
- プラトンの後期の著作に登場するソクラテスは
- → 多くの場合、プラトン自身の思想を語っている
というように、どちらも正確なソクラテスの描写をしているとは考えにくいのです。
そのため、現在、実際のソクラテスに最も近い描写と考えられているのは、プラトンの思想がまだ完全に固まっていない、若かりし頃に書かれた著作で、そこでのソクラテスは滅多に自分の意見を口にすることなく、巧みに対話相手の思想や考えを分析する存在として描かれています。
古代ギリシャの大哲学者ソクラテスの生涯
ソクラテスの生い立ち
ソクラテスは古代ギリシャのポリス(都市国家)であった「アテナイ」で、紀元前469年頃に生まれ、人生のほとんどをこの街で過ごしました。
父のソプロニスコスは石工で、母のパイナレテは助産婦という身分でした。
若きソクラテスは学問に対して人一倍の意欲を見せたといわれ、弟子のプラトン曰く、
ソクラテスは当時のもっとも有名な哲学者アナクサゴラスの著書を熱心に集め、またアテネの指導者ペリクレスの才能あふれる妻アスパシアから弁論を学んだ
ようなのです。
兵士から哲学者への変貌
成長したソクラテスは、古代ギリシャにおいて自由市民の義務とされていたホプリテス(重装歩兵)として、ペロポネソス戦争従軍します。
そして、兵士としてソクラテスは、見事な活躍をしたのです。
(出典:wikipedia)
例えば、紀元前432年のポティダイアの戦いでは、将来アテナイの指導者となるアルキビアデスを救出することに成功。
紀元前420年代には、ペロポネソス戦争(紀元前431〜紀元前404年:アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した戦争)における数々の会戦に派遣され、勇気ある行動を見せたと言われます。
一方で、戦いのない時はアテナイで過ごし、徐々に哲学者としての顔を見せ始めるようになっていました。
例えば紀元前423年、喜劇作家アリストファネスが『雲』という作品に、ソクラテスを風刺するキャラクターを登場させ、この作品でのソクラテスは、
- 哲学と称して「借金から逃れる弁論術」を説いて回る、ぼさぼさの髪をした道化師
として描かれています。
ちなみに、哲学者としてのソクラテスは、アテナイの若者の間で人気者になっていったようです。
哲学者としての生き方
アリストファネスの風刺は少し行き過ぎているかもしれませんが、確かにアテネにおいてソクラテスは変人として知られていました。
「常に裸足で、何日も洗っていない長髪」といったソクラテスの姿は、美しさをとても重要視する当時のアテナイにおいては、非常に衝撃的なことだったのです。
また不幸なことに、上向きの鼻とギョロ目のソクラテスはもともと醜い容貌でした。
さらに、ソクラテスは頭が良くて人脈も広いにもかかわらず、アテネの人が称賛するような富と名声を手に入れようとしないところも非常に変わっていた点でした。
とにかく、ソクラテスは当時のアテナイの民衆が抱く「善く生きること」についての思い込みに対して疑ってかかり、その姿勢が、日頃の姿や生き方に象徴されていたのです。
無知の知の発見
ソクラテスはまた、人間の知識の限界を知ることにも深い関心を抱いていました。
そこである日、デルフォイの神託(注)へ、「自分よりも知識豊富で賢明な者がいるかどうか」を尋ねます。
すると、神託からは「ソラクテス以上の者はいない」という答えが返され、自分は無知であると思っていたソクラテスは驚きます。
彼はこの神託を反証するために、当時、世間的に評判の高かった賢者達に次々と会い、質問を繰り返す問答法を用いて彼らの知識や理解を測り、自分自身よりも優れた人間がいることを証明しようと試みました。
しかし、問答法によって質問を重ねていくと、賢者と言われた人々は自ら語っていることをよく理解しておらず、結局は、そのこと(理解していないこと)をソクラテスが彼らに対して説明することが続きました。
これによってソクラテスは「自分は全く何も知らないけれど、他の人に比べたら自分の無知をずっと深く理解している」ということに気が付くと同時に、
- 実際には知らないことを「知らないと理解している」という点で、他者より自分のほうが賢い
という結論へ達し、ソクラテスの有名な教えの一つ「無知の知(詳しくは後述)」の発見につながったのです。
(注釈)デルフォイの神託とは、古代ギリシャ中部のデルフォイにあったアポロン神殿による神託(予言)のこと。当時、多くのポリス(都市国家)の要人達がデルフォイのアポロン神殿を訪れ、政治や外交の指針を神託に求めた
ソクラテスの政治と死に対する姿勢
ソクラテスはできる限り政治に関わることを避け、またペロポネソス戦争においては、立場に関わらず多くの友人を持っており、これがソクラテスの政治に対する姿勢を現していると言えるでしょう。
紀元前406年、ソクラテスは抽選によってアテナイ議会のメンバーに選ばれます。
議員となったソクラテスは、対スパルタ戦を戦った将軍10名に対する有罪宣告に対し、たった一人、その宣告は違法だとして反対の声を挙げたのです(この努力は実らず、議会が解散となった後に将軍たちは処刑された)。
またこの3年後、独裁化(寡頭化)していたアテナイの政府「三十人政権」はソクラテスに、サラミス人レオンを逮捕し処刑するように命じると、ソクラテスはこの逮捕を不当だとして拒否し、家に帰りました。
このようにソクラテスは一貫して正義を貫く一方で、政治の場で正義を貫き通すことは身を滅ぼすことだと分かっていたため、あえて積極的に政治へ関わることは控えていたのです。
ちなみに、三十人政権による独裁または寡頭政権は間もなく崩壊したため、ソクラテスが彼らによって処刑されることはありませんでした。
ソクラテスの最期
一方で、無知の知を確かめる過程においてソクラテスは、自らが無知を指摘した人々やその関係者の多くから憎まれ、それによってアテナイには多くの敵を抱えることにもなりました。
さらに、ペロポネソス戦争でアテナイを敗北に導いてその後に敵国スパルタへ亡命したアルキビアデスや、三十人政権のメンバーの一部がソクラテスの弟子だと見なされた結果、紀元前399年、ソクラテスは「アテネの神々を冒涜し、若者を堕落させている」との罪で起訴されます。
これについては後年、何らかの陰謀が働いた結果だと言われることもありますが、兎にも角にもソクラテスは有罪判決を受けてしまったのです。
ちなみにプラトンの記述によると、ソクラテスは陪審員の前で全力で自らを擁護する演説「ソクラテスの弁明」を行い、それでも判決が出された時には平然としてそれを受け入れたそうです。
死刑の執行は、宗教的な祭日を理由に30日間延期されます。
この間、取り乱したソクラテスの友人たちは彼をアテネから逃亡させようとしますが、ソクラテスは「単に生きるのではなく、善く生きる」という意志を貫いてこれを断固拒否。
死刑執行の当日、ソクラテスは執行人から手渡されたドクニンジンの煮液を飲み干し、足の感覚を失うまで歩き回り、そして横になりました。
友人たちに囲まれたソクラテスは、平穏な心で毒が心臓に達するのを待ち、ついにはこの世を去ったのです。
当時の様子をプラトンは、「ソクラテスの言動は実に幸せそうで、全く恐れることなく死を受け入れた」と伝えています。
ソクラテスの「無知の知」について
ソクラテスの人となりや思想、そして後世に与えた影響力を理解する上で、ソクラテス哲学を特徴付ける「無知の知」を知ることはとても重要です。
そのため、ここからは「無知の知」についてもう少し掘り下げていきたいと思います。
無知の知とは?
ソクラテスの「無知の知」とは、逆説的ではあるものの、知らないことを率直に認める知恵のようなものと言えるでしょう。
それは、
私はただ一つのことを知っている、それは私が何も知らないということだ
というソクラテスの有名な名言に表現されています。
そして、無知の知を理解する意義として、
無知であるということを知っているという時点で、相手より優れている。また同時に、真の知への探求は、まず自分が無知であることを知ることから始まる。
(参照:Hatena Keyword)
と考えたのです。
西洋哲学・学問・科学の発展につながった無知の知
ソクラテスの無知の知は、西洋哲学及び、そこから派生した多くの学問や科学において、歴史的に重要であったと言えます。
というのも、西洋の学問は基本的に、与えられた知識やそれまでの常識を疑ってみる(批判的に考える)ことが重要であり、それによって初めて前進すると考えるからです。
そのため、欧米の教育においては、「どんなことについても確かなことは分からないという前提に立ち、まずは懐疑的な態度で臨む」というアプローチを教えられます。
このように、歴史的に西洋の哲学のみならず、科学や学問を発展させてきた「無知の知」は、「ソクラテスの知恵」と呼ばれるのです。
無知の知を実践したソクラテス
ちなみに、 この「無知の知」という知恵を、実際の問答の中でソクラテスが実践している描写が残っています。
その描写としてプラトンによる次の二つの対話篇を紹介しておきましょう。
エウテュプロン
プラトンの初期対話篇の一つ『エウテュプロン』では、ソクラテスとアテナイの神学者であったエウテュプロンの対話が描かれています。
この中でソクラテスはエウテュプロンに対し、「敬虔(けいけん)」とは何であるかの定義を尋ねます。
これに対してエウテュプロンは、5通りの回答を試みますが、ソクラテスに一つずつ論破されてしまいました。
しかし、エウテュプロンはソクラテスと同じように、自分が無知であるとは認めようとしません。
結局、エウテュプロンはソクラテスによる問答の挙句、敬虔の定義を答えられないまま、ソクラテスを残して逃げ去ってしまったのです。
メノン
これまたプラントの初期対話篇の一つ『メノン』では、弁言家ゴルギアスの弟子で貴族だったメノンがソクラテスに、
徳は人に教えることができるか?
と尋ねます。
ソクラテスは、
徳が何であるかを知らないためにその答えがわからない
と答え、これに対してメノンはひどく驚きましたが、メノンは徳を満足に定義することが出来ないことに気づきます。
三通りの回答が失敗に終わった後でメノンは、、ソクラテスのせいで頭の働きが鈍ったとして不満を述べます。
メノンはかつて徳について雄弁に語ることが出来たのに、今や、「徳が何であるか」さえ、上手く答えることが出来ません。
これに対してソクラテスは、
たとえそれが「自らの無知の告白」になったとしても、誤った考えを捨てることは「どんなことを学ぼうとするときでも価値ある必要な一歩である」
と説明したのです。
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ソクラテス|無知の知や問答法で有名な古代ギリシャの哲学者のまとめ
古代ギリシャの哲学者「ソクラテス」について見てきました。
ソクラテスが他の思想家や哲学者と異なる点は、聖人、もしくは聖職者のような存在として描かれ、記憶されている点。
これは、ギリシャ哲学のほとんど全ての学派が、ソクラテスの流れを汲んでいると主張したことからも分かるでしょう(唯一ソクラテスを「アテネの大馬鹿者」と呼んで批判したのはエピクロス派だった)。
ソクラテスとその弟子は、哲学を単に自分の周囲の世界を理解するための道具から、自分を取り巻く常識や価値観に疑問を呈するための道具に広げたのです。
そんなソクラテスは、事物の定義を探ること、そして些細な疑問を提することを非常に好み、この姿勢は、後にアリストテレスからルネサンス時代、そして現代に至るまで脈々と受け継がれ、西洋の哲学、科学、学問を発展させてきたのです。