ロシアは民主主義国家なのでしょうか?歴史的な視点からロシアの民主化を見ていき、また、プーチン政権下での現状も確認していきます。
ヨーロッパの国の中で、ロシアほど民主主義化に苦労した国はほとんどありません。
1917年にツァーリ支配による帝政が崩壊した後も、改善は限定的なものにとどまり、また、ソビエト連邦の崩壊後に現在のロシア連邦となってからも、制度上は民主主義国家の体裁を持ちながら、実際には未だに真の民主主義は達成出来ていないと考えられます。
今のロシアは真に民主主義的と言えるのかどうか?
これは非常に難しい質問で、考える価値があります。
当記事では、民主化の動きを歴史的な観点で追っていきながら、ロシアと民主主義の関係を把握していき、最後に、長期政権を敷くプーチン政権下での民主主義の現状について見ていこうと思います。
歴史的な観点でロシアの民主化と民主主義を見つめてみよう
民主化の点ではソ連はロシア帝国よりましであった
20世紀初頭のソビエト連邦のプロパガンダは「労働者の天国」を謳っていましたが、現実はその正反対とも言えるもの。
秘密警察は不満のある者を暴力で鎮圧し、ソビエト連邦共産党の幹部らは社会の関心などは完全に無視して、秘密裏に物事を進めていました。
しかし、食料や物の不足、生活上での不自由があったのにも関わらず、一般的な人々の暮らしはそんなにひどいものではありませんでした。
特に、帝政ロシア時代と比べるとずっとマシだったと言えるのです。
帝政ロシア時代における人民の権利
1917年にロシア帝国(帝政ロシア)が崩壊するまで、ロシアは何世紀(1721〜1917)にも渡ってツァーリ(皇帝)の支配下に置かれていました。
ツァーリは独裁的な君主で、政治に関わることができたのはツァーリと少数の貴族のみという状況だったため、そこに人民が関与する余地は全くなかったのです。
そんな帝政ロシア時代において、初めて民主化に向かっての動きが見られたのは後期になってから。
帝国政府側と国民との交渉が始まりました。
20世紀の初めには、ヨーロッパのほとんどの国が何らかの形で代表民主制を取り入れていましたが、ロシアはその波には乗れず遅れたままだったのです。
具体的な例を見てみましょう。
1905年に「ドゥーマ(Duma)」と呼ばれる、シンプルな議会が設立されます。
これは、日露戦争(1904〜1905年)においてロシア帝国が日本に敗北したことで、当時の特に農奴(大多数の市民は農奴階級であった)の間で高まっていた政府に対する不満が爆発し、ロシア第一革命(1905年)が起きた結果、当時のロシア皇帝ニコライ2世は国民への譲歩を余儀なくされ、人民の権利拡大を約束した「十月詔書(じゅうがつしょうしょ)」に署名したのが理由です。
当時の農奴達は、
法律上わずかばかりしか認められない人民の自由により、危うく不完全なものであった。人民の権利は、依然として階級ごとに厳格に規定された義務と規則に縛られていた。
(引用:wikipedia)
といった状況で生活しており、帝国政府に対する不満は増大していたのです。
しかし、このドゥーマの成立において投票できたのは25歳以上の男性のみで、また、選挙は財産ごとの制限選挙(注)であったことから、議員となったのは資本家や地主など、当時の社会で権力を持っていた人間であり、大多数の国民の声を反映するようなものではありませでした。
さらに、法律上では議会を制定して立憲君主制となったものの、あくまでも皇帝権が国会に優越したものであったため、皇帝のニコライ2世はことあるごとに自分が絶対君主であり、最終決定権は自分にあることを明言しました。
このように、1721年に始まり1917年に2月革命が起こって崩壊したロシア帝国時代において、民主主義の主役である人民の権利や生活は、ほとんど無視されていた状況が長年に渡って続いていたのです。
そのため、社会民主主義(マルクス主義)の理念の下で「人民のための政府」を謳った(真実かどうかは別として)社会民主党が中心となったソビエト時代の民衆の生活は、帝政ロシア時代よりはマシな状況でした。
(注釈)制限選挙方式は所有財産によって別けられた地主、ブルジョワジー、農民、労働者の4つのグループからなる複雑な間接選挙方式で、地主やブルジョワジーに極めて有利な制度であった。
ソビエト後期に打ち出された民主化へつながる二つの改革政策
1980年代に入ると、ソビエト連邦が行ってきた社会主義の実験は失敗であったと、多くの人が考えるようになりました。
物資の不足はより深刻になり、幹部の腐敗もひどいものになっていたのです。
結果、ソビエト政府は今まで長いこと暴力を使って人々を押さえつけてきましたが、秘密警察も戒厳令も、もう効力を発揮することが出来なくなっていきます。
こうした状況に、当時指導者であったミハイル・ゴルバチョフは、できるだけ早く手を打たなければ国が崩壊してしまうことを悟り、人々の生活を改善させるために、以下の2つの改革政策を打ち出します。
中でも、民主化への道を切り開くことになったのは、2つ目の政策「グラスノスチ」で、ソビエト連邦を構成する各地域の民主化を大幅に促進しました。
しかし、言論の自由化が進んだことで、ソビエト連邦への不満を公言する人も増えます。
特に、それまで何十年にもわたってソビエトの中心を成していたロシア人から差別の対象とされ、独自の言語、宗教、そして他の文化を捨てることを強制されてきた連邦内の少数民族は、ここに来てソビエトに暮らし続けることを拒否する意思を示したのです。
結果、ソビエト連邦はついに限界に達して崩壊していくこととなり、現在のロシア連邦が生まれることになるのです。
ロシア連邦における民主主義への挑戦
初代大統領ボリス・エリツィンの下で、ロシア連邦の最初の数年は苦難に満ちたものでした。
強硬派の社会主義者らが企てたクーデターを鎮圧した後、エリツィン大統領が目の当たりにしたのは、70年以上も続いた体制の崩壊を目の前に混乱した多くの国民達。
また、体制が崩壊したことで汚職と腐敗も広がっていきます。
ロシアの汚職は、石油や天然ガスの採掘権を巡る取引にまで不正が横行していたのです。
ここで民主化を考える上で大切な点が、
原則として社会の腐敗や汚職は、健全な民主主義の成長を妨げる
ということ。
このような状況から、多くの人がエリツィン大統領の指導力を疑問視するようになり、このままでは、ロシアが将来的に成長し、強国として復活することは出来ないだろうと考えたのです。
たくさんの問題を抱えていながらも今までずっと、ロシアは世界で最も強い国の一つであり続けてきました。
ソビエト連邦はまぎれもなく世界の超大国であり、ソビエトの国民はパンを求めて長い列を作っている時でも「自分はこの強大な国家を支えているんだ」との意識を保ち続けていたのです。
ウラジーミル・プーチンの登場
ロシア国内がこうした状況にある時に登場したのが、エリツィン大統領の下で首相としての任務を遂行していたウラジーミル・プーチンです。
エリツィンが統制力に欠け、自身も汚職にまみれているのではないかと批判されてイメージが低下していく中で、口を堅く結んだプーチンは人気を博し力を伸ばしていきました。
特に、プーチンのKGB出身というキャリアは、一種の畏怖の念と尊敬を集めることになります。
プーチンは、ロシアを再び栄光の地位に立たせることを約束し、これがまた、国民からの指示を集めます。
そして、2000年ロシア大統領選挙において68.6%の票を獲得し、プーチンはロシア連邦第2代の大統領になったのです。
ちなみに、ロシア連邦の大統領は国民による直接選挙で選ばれるため、制度上は民主主義の形を取っていますが、毎回非常に高いプーチンの獲得支持率には疑問が投げかけられており、不正や圧力、メディアコントロールなどにより、本来の国民の声を反映していないのではないかという主張もあります。
そのため、現在のロシアは制度上、民主主義の形を取っているのに対して、事実上は完全な民主主義に移行出来ていないという見方が一般的なのです。
プーチンと民主主義の困難な関係
今後も2024年まではロシア連邦の大統領として君臨するであろうプーチンと民主主義に関して、もう少しだけ深堀しておきたいと思います。
政権の安定に必要だった民主主義の抑圧
前任者が直面してきた様々な政治的圧力や腐敗から自由になり、不安定だった政権を立て直してロシアを発展させるため、プーチンはロシアの民主主義を三つの点で抑圧してきました。
それは、以下のようなものです。
- オリガルヒ(新興財閥)を排除してその財産を国有化すること
- 公共の場やプライベートでの言論の自由を抑圧すること
- 市民社会の取り締まりを厳しくすること
結果として、プーチン政権は安定し、原油価格の高騰などもあり、プーチンが大統領に就任してからしばらくの間、ロシアは目覚ましい経済成長を見せて国民の生活も改善していきます。
また、上記の3つのうち、2と3は国民に対して表だって示された方針ではないため、ロシアの民衆の多くは、1の「オルガルヒ排除」を掲げて実際に抑圧に成功したことを支持し、プーチンは圧倒的に高い人気を得ることに成功します。
ですが、「人気=民主主義」ではありません。
なぜなら、為政者による権力の乱用を防止するための、実行と予測が可能で拘束力のある合理的なルールが、世論調査によって作られるわけではないから。
つまり、オリガルヒの力を抑圧することが、オルガルヒ達の権力の蓄積を防止する一方で、プーチンの手法は政権自身による権力の乱用と規則の悪用によるものだったとも言え、真の民主主義を抱える国家運営ではまずありえないことだったのです。
メディアのコントロールと民主主義の仮面
現在のロシア連邦における民主主義は、メディアがコントロールされることで真の民主主義でないという見方も出来ます。
独立テレビ(NTV)のオーダーでありオリガルヒのウラジミール・グシンスキーは、何度も逮捕されて裁判所命令によって役人から攻撃され、これはグシンスキーが所有するメディア・モスト・ホールディングカンパニーを国家への売却するまで続きました(最終的には政府系企業のガスプロムに2001年に買収された)。
このようにして、プーチンは法制度を乱用し、巧みにメディアを国有化しオリガルヒの権力を奪いました。
「国家の情報源のトップには、愛国心のある人が就くべきだ」とプーチンは2013年にレポーターに語りましたが、それは主流のメディアのほとんどを国有化したことへの言い訳であったとともに、その後に情報が検閲されるようになることの予告だったとも言えます。
そして、政府系メディア(政府所有となったメディア)に関して、ロシアの独立系ジャーナリストNataliya Rostovaがカリフォルニアバークレー大学で語ったところによると、プーチン政権は、次のようなメディアコントロールを行っているとされています。
(政府所有メディアの)エディターやディレクターは、政権とのいわゆるミーティングを毎週行い、近く行われるイベントや翌週の重要事項、政権は何を報道してほしいかなどを話し合います。
加えて、メディア支局は国家からの資金に頼っており、テレビの広告市場もほとんど独占状態です。
(参照:New Eastern Europe)
政府に影響されないメディアは、民主主義から外れた政府の勝手な行動をチェックし、合理的な規則を作ることに民衆が参加するための必要不可欠な手段です。
それに対して、政府の意向が反映されたメディアは、国民の多くの考えに影響し、反対意見を唱える者の声を小さくし、国民を意のままに操りやすくする道具となります。
つまり、メディアをコントロールすることで、現ロシアのプーチン政権は、間接的に民衆を操っていると言え、真の民主主義と言えない状況になっていると考えられるのです。
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ロシアは民主主義国家か?歴史やプーチン政権の現状から見つめていくのまとめ
ロシアの民主化の流れを見てきました。
ロシアにとって近代から現代までの時間は、ツァーリによる帝政が打倒された後にソビエト連邦の形で社会主義が台頭し、ソビエト崩壊後の現ロシア連邦に続く波乱万丈の世紀でした。
その中で、残念ながらロシアにおける民主化のプロセスはまだ完成したとは言えません。
これからどのようにしてロシア国内で民主主義が醸成されていくのか、これからも注目していく必要があります。